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神と無謬性――日本を蝕む病の正体

記事作成日 2023年2月15日

 当アカウントでは市民記者の記事というスタンスを取っている為、テーマにそぐわず出すのをやめようかと思い、書き途中で放置していたのですが、やはり気が変わったので出す事にしました。

第一章 日本が間違いを認められない理由

 警察はミスをしても、不正を働いても、認めない、謝罪しない。

 証拠が外に漏れて否定できなくなった時に、初めてミスや不正を認めて申し訳程度の謝罪をする。

 ただし限界まで非は認めず、極力、処分を回避しようとする。

 こうした日本の体質に関して、よくお役所だから仕方がない、という事を言われるわけですが、本当にそう思いますか?

 実はこうした体質は日本に特有のものだと言ったら、信じますか。

 公権力が間違いを認めて謝罪する事には責任が伴い、権威や信用も大きく損われる為、そう簡単には認めないという点では、どこの国でも似たような点があるのでしょう。

 しかし、日本の場合は、それ以外の原因があります。

 日本では行政の事を「お上(おかみ)」と呼びます。

 この「お上(おかみ)」は昔の国の守護職(時代劇で御馴染みの越前守、播磨守といった官職名)の「かみ」と同じ意味で、髪の毛の「かみ」も元は同じ意味合いだとされて、文字通り「上(うえ)」を意味します。

 上「うえ」の事を「かみ」と呼ぶのにも意味があって、「かみ」は「神」を意味していると言われています。

 つまり、私たちの頭の上にある、空に広がる雲の上にある、天界で暮らす神々の事を指しているわけです。

 あくまでも架空の話ですが、日本は、日本神話が語るように、神様の子孫が人間界に降臨して民を統治している「神の国」で、国を統治する為政者(支配者)達は、全て、神様の子孫です。

 例えば、先程出した越前守は、元々は、越前国を支配する国司が与えられたものですが、神々が支配する国ですので、その国を支配する国司は当然、神だという事になります。

 だから「守」を「かみ=神」と呼ぶのです。

 従って「お上(おかみ)」というのは、単に行政を指している言葉ではなくて、元々の意味合いは、この国を統治している神様、という意味になるわけです。

 このあたりの関係は、古代の中国も同じだったようで、司馬遼太郎の『項羽と劉邦』の中でも、さらりと触れられています。

 国の王と貴族は神であり、その地に暮らす民(人間)を支配する立場であり、王侯と民との間には、越えられない壁がある、このような話です。

 戦が起こり土地の民が異民族に支配されると、支配者となった異民族達は神話を作り、自分達を神の子と規定し、その事で土地の民と自分達とを峻別し、異民族による民の支配を正当化する、といった事が古い時代には世界中で行われていたようです。

 日本がそれに該当するのかどうかはわかりませんが、支配者を神とする事で、人たる民を統治・支配する事を正当化するロジックがあったのだというように理解して頂けたら十分です。

 またこのような人が神になる事の出来る宗教を神人同格教といい、人が神になる事の出来ない宗教を神人懸隔教と言います。

 前者は神道や仏教が該当し、後者はキリスト教やイスラム教が該当すると言われています。

 欧米と日本は、単に主要宗教が異なるというだけでなく、宗教観自体が根本から異なっていて、全く別の文化圏なのだという事です。

 多分、ここまで言ってしまえば、何が問題なのか見えてきたと思いますが、日本では、為政者は神、支配される民は民として峻別され、決して交わる事のない存在であった、という事になります。

 実際にはこの辺の境界が相当曖昧で、いい加減だったのは指摘するまでもないのですが(戦国時代は家下克上の世の中でしたし、江戸時代でも旗本や御家人の身分が金で売買され、金持ちであれば支配階級にのし上がる事が出来たからです)、線引き自体は厳然として存在していました。

 行政を担う者が神だと、色々と不都合が生じます。

 神様はミスをしません。

 これを無謬性と言います。

 ミスをしてしまえば、それはもう神様とは呼べません。

 権威が非常に傷つきます。

 ではどうなるか。

 ミスを簡単には認めなくなります。

 ミスを隠蔽する為なら、人間である民の命を奪ってでも、隠してしまえという話になります。

 神が、自分が支配する民を手にかけても、問題ないからです。

 江戸時代の民はかなり力を持っていた為、時代劇で描かれるようなか弱い存在ではなかったそうですが、そうだとしても、代官や奉行所が自分達の失態を認めたくない為に、あるいは、責任を取りたくないという理由で、領民をかなりえげつなく弾圧したケース等も、あったそうです。

 このように、江戸時代まで、支配者(武家)が不正や誤りを隠す為に、領民に苛烈な弾圧を働いたのは、単に権力者が横暴に振る舞った等といった単純な話ではなくて、支配者は神であり、領民は人であるという違いにも原因があったのだという事です。

 当たり前ですが、現代の行政は、人間が取り仕切っています。

 お上の事を神様だと思っている人も皆無です。

 そもそもお上という言葉の由来が神様にある等という事を知っている人自体が多くないでしょう。

 森元総理の神の国発言の時などは、国民の多くが批判し、日本はそのような国ではないと、ここで書いてきたような事を否定するところまで国民の意識は変わっているわけです。

 ところが行政の体質は、警察や自衛隊も含めて、江戸時代から何にも変わっていないわけです。

 言葉の意味が形骸化し、本来の意味が伝わらなくなっても、思考や行動様式として昔から続くものが定着し、変わらずに残ったという事なのです。

 しかもこの思考や行動様式は民間企業にまで継承されていて、流石にコンプライアンスという言葉が浸透し始めた事で、昔と比べたら変化は生じ始めているのでしょうが、今でもまだまだ残っています。

 内部告発潰し、パワハラやセクハラ被害を訴える従業員がいたら、逆にその従業員を汚い手で潰す事までして隠蔽しようとする体質などは、お上=神に間違いがあってはならないという無謬性神話そのものです。

 少し視点を変えてみましょう。

 内部告発があった、パワハラやセクハラがあった。

 公表されれば企業は叩かれますが、再発防止策を徹底し、二度と起きないように努力して、完璧に発生を防ぐ事は出来なかったとしても、風通しの良い企業風土を作り、経営して行けば、寧ろ、その企業の株は上がると思いませんか?

 何十年経っても「あの企業は~」と言われる事はないと思います。

 少なくとも、危機をチャンスに切り替えて、乗り越える事の出来た企業であれば、評価は必ずついてくるものです。

 何故、それが出来ないのでしょうか。

 冷静に考えたらすぐに答えが出るものなのに、何故、隠そうとするのでしょうか。

「一度レッテルを貼られたら、その企業はもう終わりなんだ」

「失われた信用は二度と戻ってこないんだ」

 こういう言葉もよく聞きますが、これこそが、神だから過ちは犯さないという無謬性神話に縛られている証拠です。

 民間企業でさえ、古くから続く体質を継承してしまっているわけです。

第二章 神の無謬性神話は諸悪の根源

 最近知ったのですが、このニュースはご存知でしょうか。

実験を仕切っていたカトラー医師は、同じく悪名高い「タスキジー実験(Tuskegee experiment)」にも関わっていた医師として知られる。タスキジー実験は米国で1932~72年の40年間にわたり、梅毒患者である数百人の黒人男性に、梅毒であることを告げずに治療しないで経過を観察した実験である。

上記の記事より引用

 この実験、このニュースだけだとおぞましさが伝わりませんが、米国立衛生研究所が資金提供し、故意に性病に罹患させ、投薬治療すれば救えるものを、意図的にそうせず経過を観察し、そんな行為を40年にも渡ってやり続けた結果、大勢の人達を病死させたという、信じ難いものだったようです。

 つまり国絡みの人体実験です。

 オバマ大統領は事実を認めて謝罪したそうですが、純粋に、凄いなと思いました。

 もし日本で同じ事を厚労省がやったとして、その事実を政府が公式に認めて、総理が謝罪するような状況に追い込まれでもしたら、日本という国が持たないだろうと思いました。

 戦時中、日本もかなりおぞましい人体実験をやっていた事は知られていますが、そうした事実を公式に認めていないケースも未だにあるみたいで、日本という国は、悪い事をしても、素直に認めて謝罪できない体質を持っているわけです。

 理由は第一章で書いたとおりです。

 国を支配するのが神で、神である以上、誤りは認められないという無謬性神話が、既に「神が支配する国」という考えが捨て去られた現代でも、思考や行動様式として定着し、人々の行動を縛っているからです。

 アメリカは、MKウルトラ計画なんて、想像を絶する悪質性ですし、その他、考えられないような非人間的な人体実験を戦後に入ってからもこれでもかと行ってきたようですが、それらをきちんと認めていますし、隠してもいません。

 国民もそういった事実をきちんと受け止めているようです。

 国がどれだけ悪辣な事をしようが、した事がわかったら、事実と認めて謝罪する。

 このしなやかさは、本当に、国家としての強みだと思います。

 例えば日本だと、真実を知れば国民が激怒し、眉根を寄せるような出鱈目な悪事、陰湿な行為、卑劣な行為を国がしていたという話になれば、それが表沙汰になったら、国が潰れると多くの国民が思うでしょう。

 神の無謬性思考故です。

 国は清廉潔白であらねばならぬ、間違っていてはならぬ、陰湿な事、卑劣な事をしてはならぬ、そのような行いをする国は、滅びねばならぬ。

 このような考えを意識的に行っているかは別として、多くの日本人は、このような考え方を潜在的にしていると考えられます。

 ですが、国を運営しているのは同じ人間なんですから、ミスはしまくりますし、不正だってしますし、役人や政治家の中に悪党がいれば、悪い事もします。

 卑劣な行いや陰湿な行いを国がしてしまう事だってあるわけです。

 しかし、そういった事が表面化する度に、いちいち、そんな国は許せないと言って潰していたら、国は何回も潰れる事になります。

 ならば、アメリカがそうであるように、国家は犯罪を犯す、倫理や道徳に抵触する問題行動も起こすものだと予め認めた上で、そのような問題が起きた場合には、きちんと国として謝罪して、二度と同じ過ちをしないように、発生した原因を究明し、再発防止策を講じさせる事で、その罪を赦すといった思考に切り替えた方が、遥かに優れているわけです。

 アメリカがこのような思考ができるのは、国の主権者が国民であり、国はあくまでも国民の持ち物に過ぎないので、国というものがなくなる事はない、何か悪い事をしたら、国にそれを認めさせて、悪い事をやった奴らに責任を取らせるだけで十分だという思想、要するに主権在民の思想が浸透しているから、このような対処ができるのだろうなと思います。

 日本はどこかで、未だに、支配者と被支配者に分けて考えて、自分たち国民は被支配者であり、国は支配者の持ち物であり、自分達の持ち物ではないから、だから国が悪い事をしたら潰してしまえ、という発想になっている面も、あるような気がします。

 日本に関してはよく言われる事ですが、国民の意識が、江戸時代で止まってしまっている部分が、実際にあるのだと思います。

 少し話が逸れましたので、神の無謬性神話に話を戻しますが、この考え方は、本当に百害あって一利なしだと思うわけです。

 例えば戦時中、軍部で軍人達が無謀な計画を立て、それを強引に遂行し、大勢の犠牲者を出すという失敗が繰り返されたと言います。

 そして失敗した軍人は責任を取らず、失敗した事実も認めない。

 日本には組織文化として、現代にもこの病が根付いていると言われていますが、これも神の無謬性神話に起因する思考と行動様式が原因の一つになっているとしか思えないんですよね。

 階級(身分)の高い者が功を焦って無謀な計画を唱える。

 異論を唱えないか、階級(身分)の低い者が論理的に「計画は無謀」と指摘しても圧殺。

 計画を実行し、大勢犠牲者が出ても、失敗を認めない。

 上層部も計画遂行を容認した手前、責任を問われるというので、大勢犠牲者が出ても、計画を中断させない。

 そうして時を徒に経過させ、犠牲者が雪だるま式に増えて行き、どうしようもなくなったところで、ようやく計画を中断する。

 ところが計画を提唱した人物は、失敗を認めない。

 軍部も失敗を認めたら責任を問わせるから不問に付す。

 その人物は他所の部署に移るが、それは左遷ではなく、責任を取る事もなくただ去っただけ。

 計画が無謀だと論理的に反論された時点で実行しなければ、犠牲は出ていません。

 実行後も犠牲が出て上手く行かないと判明した時点で止めていれば、犠牲は最小限度に抑えられています。

 犠牲者大勢出し、計画が失敗だったとわかっても、失敗だったと認めない、その責任を取らない。

 失敗を認めないという事が、どれだけ大きな惨禍を招くのかのいい例です。

 戦時中に関しては、国家(正確には軍部)の体面の為に、平気で国民(人間)の命を切り捨てるような形になったのですから、最悪と言わざるを得ません。

 失敗したら、素直に認める。

 何故失敗したのかの原因を突き止める。

 失敗の責任は取らせるが、再起不能にはせず、再び復活の機会を与える。

 たったこれだけの事が、何故、出来ないのでしょうか。

 しかも大抵の場合、第一章でも書きましたが、失敗した場合、隠蔽しようとして、被害者の口を封じようとしたり、酷い事までやるわけです。

 誤りを認める強さ。

 日本に欠けているものだと思います。

 人がする事だからこそ、誤りがおきるのです。

 日本人には神の無謬性神話が意識せずとも溶け込んでしまっています。

 誤りを認められないから、間違った計画を強行し、失敗と認められず、突き進んでしまう。

 これは日本の深刻な欠陥です。

 日本は実質的に敗者復活を認めない社会で、一度でも敗れたら最底辺に転落し、以後、這い上がってくる事が難しいと言われています。

 だからみんな挑戦しないわけですが、そんな社会は不健全です。

 挑戦して失敗した人に再挑戦の手を差し伸べる社会こそが理想的だ、という意見は、昔からあります。

 また、そういった敗者復活のある社会の方が、活気がありますし、認めない社会よりも強靭であるのは、当然です。

 国家に神の無謬性を認める事は、純潔、純白、潔さと清らかさを求めるという事でもあり、けがれを許さない、けがれを排除しその他と区別する事で完全に分けてしまう、という事でもあります。

 この潔癖症は、本当に問題です。

 失敗を認める事の出来ない神の無謬性神話は、社会を悪くしている諸悪の根源といえるでしょう。

第三章 隣接する問題として

 幕末から明治にかけて、志士達は、キリスト教国ではない日本において、如何にして欧米型の近代国家を建国するので、非常に悩んだと言われています。

 天皇を神聖にして侵すべからずという現人神とし、キリスト教における神と同じ地位に位置付ける事で、欧米型の近代国家を作ろうとした、と言われています。

 この辺の問題は全く詳しくありませんし、記事でこれ以上深く触れるつもりもないのですが、こうした宗教絡みの問題として、このような事も問題点として意識されていた事です。

 それは日本では「神の目が常に人々を見ている」という感覚がない為、倫理や道徳を破り易い、犯罪を起こし易い、という点です。

 神道には守るべき戒律がありませんし、伝統仏教も緩々です。

 その上、神の目による監視もない為、人々が、人の目が届かないところで倫理や道徳を守るか、犯罪を犯さないかは、その人の人格に、完全に委ねられています。

 今騒ぎになっているスシローぺろぺろ問題も、YouTubeに特有の再生回数狙いの過激な行動を取る問題という性質だけでなく、日本人に特有の宗教事情に拠る部分もあるのではないかと見ています。

 こちらは拙著ですが、この中で、このような事を書きました。

 ここから本題に入りますが、現代の嫌がらせの特徴は、『人と何か違う人がいたら、法律に触れない程度で、みんなで総いじめする』という形が取られます。自宅の前でわざわざ車やバイクのエンジンをふかす、玄関前で執拗に突っ立って外に出にくいようにする、中傷する言葉を怒鳴りつける、睨みつける、宅配便が届くとわざわざ寄ってきて中傷してくる。そしてお決まりの事実無根のデマを拡散させる。

上記の記事より引用

 現代人の思考は、法律さえ破らなければ、何をしても問題ない、という方向に、変化が見られるようです。

 本来、法律は、刑法に関しては、倫理や道徳、最低限のマナーを国民が守る事を大前提として、破られると困る必要最小限のものを、刑法と同法の特別法、条例で刑罰として規定し、取り締まるという形を取ります。

 だから、法律さえ破らなければ、何をしても問題ない、という意識が広まり、刑法や特別法、あるいは条例で禁止していない行為は何をしても構わないんだ、嫌がらせを働いても刑法犯でなければ問題ない、というスタンスで過ごす人たちが大勢出るようになると、破綻してしまうのです。

 日本は元々非キリスト教圏で、守るべき戒律がなかったり、あったとしても伝統仏教の緩々のものがあるだけといった国だったので、その上に宗教観が薄まって、倫理や道徳、マナーを守ろうとする力が社会全体で弱まれば、スシローぺろぺろ問題のような出来事が多発するのも、当然の事でしかないわけです。

 古くて新しい「日本人に如何にして倫理や道徳、マナーを守らせるか」という問題が再燃しつつあるのが、現代社会であるとも言えるのでしょう。

 元々、非キリスト教圏で、神道や仏教の力が強い日本では、宗教を利用してそれらを守らせるという手は使えません。

 このまま悪質化の一途を辿るようであれば、刑法や特別法で禁止する行為をどんどん増やし、積極的に取り締まっていく以外にないと考えられますが、そのような社会が良いのかどうか、残念ながらわかりません。

 しかし、信仰を持たない人の割合が全世界的に増えているとも言われていますので、今、日本で起きている問題は、恐らく世界中のあらゆる国で、同様の問題を何れ抱える事になると考えられます。

 日本の対処法が、モデルケースになるかも知れません。

 神の無謬性神話を捨てて、きちんと責任を取れる社会に変えていく事と、倫理や道徳、マナーを守らせる社会に変えていく事、この二つの変化が、今の日本には求められているわけです。