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意味分節理論とは(10) 分節と無分節を分節する ー意味分節理論・深層意味論のエッセンス 〜人類学/神話論理/理論物理学/人間が記述をするということを記述する

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noteのシステムから当アカウントが「スキ」を7000回いただいているとの通知がありました。みなさま、ありがとうございます!

いったいどの記事が一番「スキ」をいただいているのだろうかと調べてみると下記の「難しい本を読む方法」がスキの数一位でした。

二年ほど前に書いた記事ですが、改めて読むとこの記事自体が難しいような気がしないでもないです。

* *

この記事の趣旨を煎じ詰めれば「分かる」ということにはいくつかの種類がある、ということです。いや、いくつもの種類に”なる”といった方がより適当かもしれません。

何かについて「分かった!」と思った時、その分かり方は、唯一の分かり方ではないのではないか?他の分かり方になりうるのではないか?
仮に複数の分かり方になっていくならば、その複数の分かり方の間の関係はどうなるのか??

* *

私たちはどう言う時に「分かった!」というのか、思い返してみましょう。「分かった!」は、しばしば、謎の何かを、既知の何かに置き換えることができた時に出てきます(もちろん、他の場合にも出てきて良い)。

私たち人類は謎の何か(?)を、自分たちの既知の何かに置き換えて「分かった!」と言う。

初めて聞く外国の言葉のことを考えてみましょう。例えば、

osteoporosis

という英単語があります。ご存知の方も、ご存じでないかたもいらっしゃることでしょう。この英単語を日本語の単語に置き換えると「骨粗鬆症」になります。

ここで「なあんだ、分かった!」という方もいらっしゃることでしょう。

逆に、骨粗鬆症という四字熟語(?)を始めて見た、という方もいらっしゃることでしょう。その場合は次のように置き換えてみよう。

骨粗鬆症」 とは 「”骨が弱くなって、折れやすくなること”」である

ここで「なあんだ、わかった!」という方もいらっしゃるでしょう。もちろん、ここでもまだ「なんのことだか」という方もいらっしゃることでしょう。その場合は、「骨」とは「弱い」とは「折れる」とは…、などなど、知らない言葉がなくなるまで言い換えを繰り返していけば良いのです。

これは学校で教わる「辞書をひく」ということそのものです。

逆に言えば、学校(義務教育)には、未知の言葉の言い換え先となるような既知の言葉のレパートリーをある時代の国民全体に”おおまか”に共有させるる効果が(限定的に)あるということかもしれません。

* * *

私たちは、言葉でもなんでも、謎の何かを、自分たちの既知の何かに置き換えて・言い換えて「分かった!」と言う。

◇◇◇◇

ならば、「分かった!」ではなく「置き換えられた!」と言えばよさそうなものであるが、日本語では不思議なことに「分かった」という。

この分かるという言葉はとてもいい。
未知の何かの意味が”分かる”という現象の謎を解く鍵は、他でもない「分ける」ということにある。分かるという言葉は、置き換え先には複数の候補たちが並んでいること、複数の置き換え先の候補たちが互いに異なる事柄として分かれてあることを告げている。

○ / ○

仮にこのように記号で描いてみる。

」が「分けること」を表している、ということにしよう。

「/」の線が自在に走り回っては、ある○が、他の○とは異なるものとして区切り出される=分節される。「/」は最小で二つの○を互いに相手方ではないものとして区切り出す。

ある「なにか」は、”他のなにかではない-あるなにか”である。
つまり"他のなにか"と区別されないことには「なにか」は始まらない。

この「/」で表した分ける、区切る、分節するには、「主語」にあたるものはない。即ち、「/」は分けるという行為を行う主体を必要としない。主体も主語もなく、好き勝手に「/」の線は走り回るのである。

他でもない、主語と述語、主体と客体、行為の主と行為の結果、といった二項のペアこそ、「/」の動きによって区切り出されてくる○のペアなのである。

この/の線ということについては、人類学者のティム・インゴルド氏の文献が参考になります。

あるいは、龍樹の中論なども、「/」と「○」のダイナミックな関係についてのモデルとして読むこともできるかもしれない。

◇ ◇

さて、/が無数に走るということは、無数の○がそれぞれ他ではないものとして区切り出されるということでもある。

○ / ○ / ○ / ○ / ○ / ○ / ○ …

私たちが、未知の何かを置き換える先にある「○」たちは、一つだけで転がっているわけではなく、無数の「○」たちの中の連鎖の中のひとつである

私たちが未知の何かをある○におきかえて「わかった!」となるとき、その○の周囲には無数の他の○が隠れているのである。

いや、他の○が隠れている、というと、なにやらあれこれの「○」が”自性をもった実体”として存在している(「/」の動きとは無関係にある)というニュアンスによめてしまうかもしれない。あるのは「○」というよりも、どちらかといえば「/」である。「○」はあるようなないような、あるといえばあるしないといえばないような代物である。なにより「ある」と「ない」の対立関係もまた、あるひとつの「/」の動きの賜物なのであるから。

無数の「/」が走り回るところで、他の無数の○とは異なるものとして区切り出されたある○に、私たちは未知の何かを置き換えて、「分かる」。

置き換え先の○は、複数の○たちに「分節」されている!

例えば「氷菓子」を日本語を学習し始めたばかりの非漢字圏の方に説明しようと言う場合を考えてみよう。

「つめたい」「やわらかい」「とける」といった感覚に関する言葉(日本語でもいいし、相手の母語でもいい)に置き換えて、分かってもらおうとするのではないか。

ここで「つめたい」や「やわらかい」や「とける」は、それと対立する、逆の言葉とペアになっている。

冷たい / 冷たくない ・・・熱い/常温/感覚が麻痺する低温…
やわらかい / やわらかくない ・・・硬い/弾力ある/高粘度…

謎のxが「冷たい」に言い換えられるとき、私たちはほとんど無意識のうちに、「冷たいなら、熱くはないのだな」と”分かる”。つまり、冷たいと熱いの両極に分かれた項のうちの、どちらか一方の方へ振り分けて、他方へは振り分けないということをしている。

そして「冷たい」は「熱い」とだけではなく、「常温」とか「感覚が麻痺する低温」、「ある範囲の温度」などなどとも分かれ区別される。

言い換えると「冷たい」は、互いに異なる複数の「冷たくない何か」が順番に並んだ系列に属しているとも言える。

私たちは…○○○○○○…の系列のなかから一つの○を選んで塗り潰して●にしては謎の(?)と置き換える。「氷菓子は、”冷たい”」と言い換えて「分かった!」と思うとき、一連の…○○○○○○…の系列をずるずるとひっぱり出したり、その中から一つの珠のような項を(実は一つでなくてもよいのだが)選び出したりするという操作がほぼ無意識のうちに行われている。

*/* = */*

話はまだ終わらない。
この一連の…○○○○○○…の系列というのは一つではなく複数である。
複数というのは二本や三本では済まない。非常にたくさんの、大量の…○○○○○○…の系列が束になっている。

しかも、綺麗に束ねてあるのではない。
幾つも…○○○○○○…の系列同士が互いに絡まっている。

ある○が、同時に複数の系列に連なっている=結ばれている、ということがザラである。

「/」は無数に走り回っており、その走行の残像のようなものとして、○たちの系列が発生する。

ここで図の中に「=」がある。

これは何かというとイコールであるが、算数で1+1=2とやるばあいのイコールとは半分だけ違った意味で使っている。

○と○のあいだの「=」は、まず算数の場合と同じように第一の○と第二の○が「同じ」だということを表している。同時にこの「=」は、第一の○と第二の○が”あくまでも異なっている・区別されている”ことも表す。この図の中の「=」は”異なりながらも同じ”ということを表現している。

ならば、ということで「=」の上に「/」を重ねてみたが、「≠」に見えてしまうので微妙である。

それに実は、あらゆる「/」には、すでに「=」が隠れている。
「/」は最初から「=」と異なるものではない

「/」が走る以前には、”異なるということ”と”同じということ”の区別もまた区切られていない。同一性の問題というのは同じということと異なるということを区別するからこそ問題になる。それでは同じでしょうか?違うでしょうか?と。

○とか/とか=とか≠とか、ごちゃごちゃにしてしまって申し訳ない。

どういう記号を使うにせよ、いいたいことは一つだけである。

「/」の線が走るということは、「分かれていること」と「分かれていないこと」が”分かれつつ分かれていない”ということである。このロゴスに対する”レンマ”的なアルゴリズムから発生する構造体を二次元平面上の線として写像するとかえって分かりにくくなってしまうのだろう。

◇ ◇

いずれにしても、私たちが未知の何かを置き換える先の○は二つの○のペアのうちのどちらか一方の○である。そしてこの置き換え先の○のペアは、必ず他の○のペアとも「=」にして「/」でもつれあっている。

ある未知の何かの置き換え先の○は、最小構成で四つの○からなる”四項関係”のなかの一項である。もちろんあるひとつの四項関係を織りなす四つの項はそれぞれがまた他の無数の○たちと互い異なるものとして区切られつつもつれあっており、その連鎖というか、ネットワークというか、もつれというか、「/」の流れというか、広大無辺のつながりそのものとしてある。

(この話は下記の記事にも書いているので参考にどうぞ)

さて、「/」が自在に走り回るといいつつ、私たちの日常生活の円滑な運行をささえている(ようにみえる)日常の言葉というのは、かっちりと固まった意味をもっている。

日常のコミュニケーションの言葉では、「/」よりも「○」の方が前面に際立ち、「/」の散歩などほとんど忘れられている場合も少なくない。

無数の「/」の線のもつれあいは均質ではなく、固く結び目になっている部分とふわふわと飛んでいるような部分との差がある。

私たちは生まれたばかりの時には、その言葉の意味の世界は、まだ無数の「/」がふわふわと自在に飛び回っているような状態なのかもしれない。

そこからはじめて、他人の声などあれこれを五感で受け止めているうちに、/の線がもつれて固くなる部分がある。

そうして固く結ばれた結び目同士をさらに強く結び合わせていくうちに、日常の言語のような意味するものと意味されるものとの区別と結びつきが安定的にパターン化されたコード・システムが固まってくる。

/ /

そうして私たちは、新たに出会った未知の言葉を、既知の固まったコード・システムの中のいずれかの項に置き換えて=結びつけて、「分かった!」とやる。

ここで問題になるのが、コード・システムの固まり方にはいろいろあり得るということである。育った国によって、社会によって、階級によって、共同体によって、部族によって、地域によって、家族によって、そして一人一人によって、異なるパターンでコード・システムが固着する。

ここで人々のグループによってこのコード・システムの固まり方にどのような違いがあるかを調べようという試みが文化人類学である。

レヴィ=ストロース『仮面の道』に登場する四項関係の図

コード・システムは、ふわふわと綿毛のようなものが浮かんでは付かず離れずしているような状態から、もつれ、集められ、撚り合わされ、織られ、整然と固まった四項関係の構造体を形成するに至る。

ここで重要なことは、どれほど強固に固着しているように見える構造体であっても、あくまでもそれは無数の自在な「/」のふわふわから成っているということである。

固着した構造体を、そのパーツである四項関係を、「/」の動的な遊びの方へと送り返すことができる。

そしてそこからまた、新たに別のパターンで、安定した構造体としてのコード・システムを発生させることもできる。

そういうことを考えようという時に、人類学者のレヴィ=ストロース氏が注目したのが両義的媒介項である。上の図でいうと、四項関係のあいだを走る「魚」とか「肉」とか書かれた線がそれである。項なのに線なのか?と思われた方は鋭い。項なのに線なのである。いや、線なのに項なのだ、といったほうがよいかもしれないが、どちらでもいい。両義的媒介項が固着した四項関係に斜めに差し込まれることで、そこに付かず離れずのあいまいな状態が束の間開く。この間だけ、四項関係は”動きつつ固まりつつある”状態に入り、”両義的”に圧縮された二つにして一つ、一つにして二つの◯が蠢く「/」にみえてくる

これは二次元ではない

さらにいえば、ありとあらゆる「○」は、実は「/」なのであった

○が/である、しかも蠢く/である、となると、粒子でもあり波でもあり、という量子力学の記述のモデルを思い出す。

あらゆる項○は、両義的媒介項であり、「/」である。
かっちり固まって「/」のことなど忘れて「一義的でございます」という顔をしている○もまた、すべて両義的で高次元の「/」の、次元を減らして、動きをピン留めした残像のようなものである。

量子でも神話でも哲学でも、我々人類が何事かについて記述する可能性の極限について記述しようとすると、似たようなモデルに行き着く。そのモデルはロゴス的知性がその一番底でレンマ的知性と接触するところに浮かび上がるパターン(井筒俊彦風に言えば「言語アーラヤ識」の網目構造)なのかもしれない。

いずれにしても、そういう人間の知性が発生してくる起点がある仄暗い真相意識の底の底まで潜航しては、また表層の安定した構造体を建立するプロセスにまで浮かび上がってくることが、言語の意味ということを、私たちひとりひとりにとって意味ある世界のリアルさを、常に新たに発生しつつある生命体のようなものとして生かしておく鍵になるのだろう。レヴィ=ストロース氏の『神話論理』の仕事はそのようなことを教えてくれているように思う。

まとめ

というわけで「分かる」という場合、通常は未知の何かを、ある何か○に置き換えることになるのであるが、その置き換え先の○は、表向きには固着した四項関係の構造体を構成する部品でありながら、深層的には実は無数の振動する「/」の影なのであった、という話である。

そしていくつかの四項関係からなる構造体を、不変不動に固着したものと想定するのではなく、「/」の蠢きから常に発生しつつ溶け出しつつまた新たに発生しつつあるものとして構想すること。

ここにたがいに異なる”もつれの結び目”に結ばれてしまった多様な人たちが、互いに少しづつ変わりつつ、一のまま多数化しつつ、対立しつつ部分的な共同性を模索する可能性が開いたり閉じたりする。

おそらく人類は、古からそういうことをする力を持っている。

言語も神話も音楽も、もろもろの象徴というか「意味する」ということ全般は、ことごとく、この振動する「/」を”結びつつ解く”ことで「○」の構造体を発生させたり解体したりできることからはじまっているらしいのである。

**

難しい本は「分からない」ものの代表選手のようなものだと言ってもよいかもしれない。後から後から目の前に出現する言葉が、ことごとく何のことだか分からない

そういう何が書いてあるのか皆目分からなかった難しい本を読むことで、ある日「分かる」ようになるとすれば、そこでは知らず知らずのうちに”分かり方”が、多数の「/」の走り方と縺れ方と解れ方が、少し変わったということである。

そういう時、私たちはいつでも、自分の中に人類の最も古くて最も新しい「/」を感じることができたりできなかったりする

ちなみに、かの弘法大師空海による十の「心」についての思想も、この「/」の縺れ方のいくつものパターンとして読むことができるかもしれない。人類史的に興味が尽きることのない話である。くわしくは下記の記事に続きます。


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