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難しい本を読む方法

本を読んでいると、知らない言葉、意味がわからない言葉によく出会う。

意味がわからない言葉が多く出てくれば出てくるほど、その本は「難しい」「難解」ということになる。

例として、井筒俊彦氏の『意識の形而上学』の目次を見てみよう。

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井筒俊彦著『意識の形而上学』目次より

存在論、双面的、思惟形態、真如、假名、意味、存在、分節、真如の二重構造、存在論と意識論、唯心論、存在論、唯心論的存在論。

いかがだろうか?

いずれも人類文化が立ち上ってくる底の底の前言語的な意味の萌芽をロゴスの言葉に翻訳する宝剣や宝珠のような言葉たちなのだけれど、一般にこれは「難しい」と言われる言葉に属するものだろう。そういう言葉ばかりが並ぶこの本は極めて難解だ。

知らない言葉に遭遇した場合、どうしたらよいのだろうか?

知らない言葉が目に飛び込んできたならば、どうしたらよいのだろうか。

ひとつの方法として「気が付かなかったことにして読み飛ばす」という手がある。

トンデモナイことを言うと思われるかもしれないけれども、例えば、仕事上でなにかの話題に関する大量の文献にざっと目を通して、大きくどういう方向性のことが論じられているのかを大雑把に掴むということであれば、一つ二つの謎の言葉は読み飛ばしても良い。

しかし、知らない言葉の出現頻度が増加してくると、読み飛ばしてばかりもいられない

下手に読み飛ばし続けると、謎はどんどん積み重なって、最後はどこのページをめくっても「謎な謎が謎をするので、謎になるのである」という具合になって、読んでいるのかインクのシミを眺めているのか、よくわからなくなる。そんな読書は苦行だ。

そこで知らない言葉の意味を「知ろう」ということになる。

知らない言葉で辞書を引く、と…

知らない言葉の意味を知るための、もっとも近道だと思われている方法は「辞書を引く」ことである。

Aという言葉の意味がわからなければ、辞書で「A」を探す。

そうすると「AとはBのことである」という具合に「意味」が書いてある。

辞書は、言葉Aを言葉Bに変換する。

このときもし、言葉Bが自分のもともと知っている言葉であるなら、「ああ、なんだAはBのことだったのか!」となる。

中には「BならBと最初から書いてくれればいいのに。この筆者はわざわざ難しくAという言葉を使って読者を困らせているのだ」などと感想を述べるひとも居る。

この感想は「読む」という営みの精髄を捉えそこねているのだけれども、その話は後ほど。

ここでもし、辞書が置き換えてくれた言葉Bもまた、自分の知らない言葉だったならどうなるだろうか?

その時は今度は、Bの意味を辞書で引くことになる。

BはCのことである。

もしCが知っている言葉なら、そこで謎解きは終了である。

しかし、Cがまた未知の言葉だったなら、CはD、更にDはE、EはF…と、自分の知っている言葉に行き当たるまで、辞書を何度も何度も引くことになる。

さらに辞書では「AはBである」「BはAである」といった「循環」が起きる場合もある。AもBもどちらも謎の言葉だった場合、謎は謎である、という話で蟻地獄状態である。

どこかで知っている言葉に出会えることを願うばかりである、が、しかしである。

知っている言葉に置き換えたところで。

ほんとうに考えなければならないのは、辞書で速やかに「知っている言葉」に出会えてしまった場合の方である。

謎な言葉の奥で知っている言葉に出会えて、ほっと一安心することが、意味がわかる(分かる、判る)ということなのだろうか?

この問いに対する答えは、その通り。知っている言葉に出会えることが「意味がわかる」ということなのだよ、というのが正解だ。

分かる、というのは「分けること」である。

私たちは日常、慣れ親しんだ意味のわかる言葉たちを並べて重ねて、日常の現実世界を自分にも「わかる」ものとして構成している。

世界を「わかる」ものとして構成している、と言うとすぐに次の様な疑問があがる。

現実の世界は、それ自体としてガッチリ存在していて、私たちが言葉をつかって作ったり変えたりできるものではないでしょう?

現実は言葉とは無関係に定まっていて、どういう呼び方をするかは趣味の問題だ、という考え方である。

こうした考えを哲学では「素朴実在論」と呼ぶ。

これについては冒頭の井筒俊彦氏による『意味の構造』という本の一節を借りて説明してみよう。

常識的世界に生きる常識的人間は、…事物と言葉との間には直接の関係があると、彼らは信じている。先ず最初にものがある、それに別々の名前がレッテル式にはりつけられるのだ、と」井筒俊彦『意味の構造』p.14

井筒俊彦『意味の構造』p.14

「先ず最初にものがある、それに別々の名前がレッテル式にはりつけられる」と、このように考えるのが素朴実在論である。

しかし、その考えは間違っている。

「よく考えれば、言葉と物のとの間には、いわゆる現実の世界を主体的に構造化する独自のプロセスが介在していることが判る。人間の精神(こころ)は、出来合いの世界構造を、受動的に写すわけではない。それは積極的に現実世界を、独自の仕方で、独特の視確から構築するのだ。」井筒俊彦『意味の構造』 p.15

井筒俊彦『意味の構造』 p.15

人間のこころは、出来合いの世界構造(互いに他とは異なるものとして分節済みの事物の順序構造)を受動的に写すしているわけではない

むしろ人間のこころは、現実世界を構築し、構造化するのだ、と。

例えば、これを書いている私は、生まれたときから東京郊外の雑然とした人工空間で育っているので、植物や花をほとんど区別できない。

分かるのは「木が生えている」「花が咲いている」というところまでで、その先には何も区別もできない(たいへん申し訳ない)

花の名前をしらないのはもちろん、どういう香りがするのかとか、どういう場所に咲くのかとか、どういう気候を好むのかとか、食べられるのかとか、まったくなにも「わからない」、分別できない。

これが森で生きる狩猟採集民だったり、動物たちだったり、あるいは蟻や蜂のような虫たちであれば、もっと細かく「木」を区別し、「花」を区別していることだろう。

私の網膜には、目の前に広がる現実の「木が沢山生えているところ」が低解像度で写っている。その写り方はおそらく自然光の当たり方が同じという条件下にいる私と同じ程度の視力の人の目に映るものと概ね同じだろう。私が「見方」や「名前の付け方」を変えたところで、その見えている木が急に大きく成長したりはしない。

意味分節の無数の可能性

しかし、問題はそこではない。その先である。

問題は、その木々のなかに細かな違いを識別=区別することができるかどうかである。

ここに知識が、言葉が関わってくる。

私が知っている言葉がどれほど繊細に区切られているかにかによって、私にとってのリアルな一本一本の木の意味がまったく変わってくる。

井筒俊彦氏はこれを「意味分節」と呼ぶ。

「実在の世界と…言語との間には、与えられた素材を一定の方向に作り上げてゆく精神の創造行為が介在しており、それこそが意味の領域なのである。この事態を私は現実の世界の「分節」化と呼ぶ。」井筒俊彦『意味の構造』 p.15

井筒俊彦『意味の構造』 p.15

私にとって意味のある世界私が自分の知っている言葉で「分節化」できている限りのものなのだ。私によって意味が分かる世界というのは、まさに私がそのように「分けることができたもの」である。

世界は意味分節によって現起する。あらゆる事物事象は人間の主体的な意味分節の具体的現われである井筒俊彦『意味の構造』p.17

井筒俊彦『意味の構造』p.17

世界は、いつでもどこでも誰にとっても同じように予め分けられた領域の組み合わせとしてはじめから存在しているわけではない

世界がどう存在するか、世界の存在の「意味」は、私たちひとりひとりがどのような分節体系で生きているかによって変わる。

だからこそ、生きていく上で言葉は大切で、大問題なのである。

どういう言葉たちによって世界を分節し構築するかによって、生きられる現実世界の意味が大きく変わる

一番大切なことは、言葉は「ひとつではない」ということである。

たった一つの、唯一の現実、唯一の実在である客観的な自然界というものがあって、それにピッタリと対応した唯一の正解の言葉がある…のではない

問題は分け方、言葉と言葉の対立関係の組み方なのである。

このことを実感する一つの方法は、ある言葉の「意味はひとつではない」ことを身をもって痛感することかもしれない。

別の「分け方」の可能性を知ること

井筒俊彦氏は『意味の構造』の冒頭に次のように書かれている。

「言語コミューニティごとの人間生活の具体的現実の只中においてこそ、個々の倫理的または道徳的キータームの意味は形成される、ということだ。もし善をなすということの具体的意味が、言語コミューニティごとに違うとすれば、「善」という語の意味構造そのものが、それぞれの場合で、どうしても異ならなければならない。」井筒俊彦『意味の構造』 p.13

井筒俊彦『意味の構造』 p.13

「善」という言葉の意味、という話である。

善という言葉の意味はなにか?

そう改めて問われると、わたしたちはこのnoteのはじめに書いたように、自分の知っている他の言葉に「善」を置き換えて「わかった」つもりになろうとする。あるいは辞書をひいてみるのも悪くない。 「善」「とは」「Xである」という具合である。

慣れ親しんだ日常を生きる上ではそれで十分なのである。

が、しかしそれはあくまでも、多数ありえるわかり方のひとつ、無数にありえるわかり方のひとつなのである。

そのわかり方のパターンは言語コミュニティの数だけある。

言語コミュニティというのは同じ国語が通じる国というスケールよりもはるかに細かいものである。地方の言葉はもちろん、職場、地域、学校、部活やサークル、家族などなど、人の集まりの数だけ無数の異なる言語コミュニティがあるといってもいい。

細部の差異まで観察して行くならば、私たちひとりひとりがすでに一つ一つの特異な「言語コミュニティ」だと言えるかもしれない。

あるいは一人の人の中に複数の言語コミュニティがあるとさえ言えるかもしれない。しかもその微細な言語コミュニティは、国家の言葉やマスメディアの言葉、SNSの言葉や家族の言葉などの別のスケールで観察される言語コミュニティに直結している。こうなると「言語コミュニティ」の範囲をどう区切るかということさえもまた、分節することの一つなのだということに思い至る。

「何が善であり何が悪であるか、また何が正しく何が不正かということについて、人間の考えは時間により、また場所によって異なるのであって、一元的な人類文化の発展の段階における程度の差として抽象的に説明されるようなものではないと考える。」井筒俊彦『意味の構造』p.13

井筒俊彦『意味の構造』p.13

つまり善という言葉の意味を、時間と場所を超えて、いつでもどこでも誰にとっても永遠不変のものとして要求することは出来ないというのである

ある言葉の意味は、どこかで予め決定されていて、私たちひとりひとりが学校に行ったり、本を読んだりして、その決定済のところにアクセスすれば「処理完了」というものではない。

「善」の意味はBです。以上です。

という具合に、なにかひとつの言葉にポンと置き換えることは、たしかに日常の意味では「わかった」ということになる。

しかしそれは無数にありえるわかり方の中の小さなひとつなのだ。

意味不明な言葉は、「わたし」がそれと気づかずに日常的に用いている意味分節体系を、浮かび上がらせ、変容させるトリガーになる。

難しい本を読んで、知らない言葉に出会うことは、自分が日常的に考えなしにやっている「分け方」を、一度やめて、別の分け方の可能性を探る道の入り口に立つことでもある。

知らない言葉に出会った時に、一刻も早く「わかりたい」と思って辞書を手にとってしまうのは、学校という「正解」が決められている世界で最短で正解にたどり着くようよく訓練された私たちから抜き難い性(さが)なのだけれども、そこでもうしばらく「わからなさ」の中に宙吊りにならないと行けない。

わからなくてよい、ということではない。

そうではなくて、わからないでもなく、わかるでもなく、わかり方を変容させる可能性を探ること。

どうすればそんなことができるのだろうか?

再び、井筒俊彦氏の論に戻ってみよう。

「「分節以前」は、割れ目も裂け目もない、のっぺりした無限大の拡がり、混沌として捉えどころのない「何か」(X)であること。そしてそれの表面に人間の意識が縦横無尽に分割線を引いてゆくということ。Xの表面に引かれた線は、いずれも境界線となって、その左右を独立した領域に分かつ。」井筒俊彦『意味の構造』p.19

井筒俊彦『意味の構造』p.19

意味分節というのは、混沌として捉えどころのない何かの表面に分割線を引いていくこと、「分けて」いくことである。

ここでポイントは「左右の独立した領域」というところである。

さらりと書かれているが、左右というのはとても重要な言葉である。

なぜなら、右は左に対する右であり、左は右に対する左だからである。右がなくて左だけがあるとか、左がなくて右だけがあるということはない。同様に「上下」や「前後」や「内外」もそうである。

あるひとつの意味の領域は、他から分けられた領域は、必ず境界線を接するもう一つの領域と密着している

無数の境界線が引かれ、それに伴って大小さまざまな領域が出来、それらはそれぞれに己の「名前」を要求する。そして名前の付いた区画は、それぞれ独立した意味単位として定立され、それらの意味の志向性に従って、いわゆる外界にものが生起する。」 井筒俊彦『意味の構造』p.19

井筒俊彦『意味の構造』p.19

ところが、ひとつひとつの分けられた領域に名前がつけられると、その名前が独り歩きをするようになる。「左」という言葉だけが、「右」の存在を忘れて独り歩きする

言葉はもともとすべてペアの相手をもってるのだけれども、日常の言葉はペアの相手方の存在を忘れたような顔をして独りであるき回っている

私たちが通常、辞書をひいて「分かった」といっているのは、謎の言葉を、この単立して歩き回る日常の言葉のどれかひとつにイコールで置き換えたということである。その時、置き換え先の言葉が、がんらい他のどの言葉と一緒に同時に「分節以前」から区切り出されたものだったかには、お構いなしになる。

謎の言葉Xの意味を決める

さて、そこでそういうやり方で納めしまわないで、謎の言葉Xの意味を探る方法をご紹介しよう。

その手順はこうである。

難しい本で、謎の言葉Xと出会った場合。まず最初にやるべきことは、辞書をそっと本棚に戻して、その難しい本の中で、Xが他のどの言葉α1、α2、α3、α4…αnにイコールで置き換えられているか、言い換えられているかを丁寧に拾っていくことである。この時、αたちの意味がわからなくてもよい

次にこのα1、α2、α3、α4…αnが、それぞれ他のどの言葉とペアになっているのかを、その本の中から拾っていく。「α1はβ1ではない」「α1は反β1である」といった書き方があればしめたものだ。

こうして、α1、α2、α3、α4…αnのそれぞれに対応するβ1、β2、β3、β4…βnが並ぶ。

ここで謎の言葉Xの意味は、「β1ではないもの」、「β2ではないもの」、「β3ではないもの」、「β4ではないもの」…「βnではないもの」である

こうしてXの意味が、辞書を引かなくても「分かる」ことになる。

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更に次のステップがある。

これらのα1、α2、α3、α4…αn、β1、β2、β3、β4…βnの中には、どれかひとつかふたつくらい、私たちが日常分かっているとおもって使っている言葉σが含まれていることが多い

日常分かっていると思って使っている言葉σが、例えばβ1とイコールであったりする。

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ここで謎の言葉Xを取り囲む言葉のペアの体系の中で、β1はα1と対になることが判明している。

このXの分節体系の中のひとつの項に置き換えられることで、日常の言葉σは、いま改めて「α1ではないもの」という、新しい(かもしれない)分け方の中に=ペアの片方として引っ張り込まれる

そうしてσは日常の意味の体系のなかでペアをくんでいた相手(仮にτとしよう)との関係を切られる。τとの関係を切られ、αとの関係に入る。こうしてσの意味が変わるのである。

以上のような手順を踏むことで、私たちは自分が自分にとっての意味ある世界を構成するために使っている意味分節の体系をずらし、組み換え、複数化しうる可能性に開かれる

難しい本を読むことのゾクゾクするようなおもしろさは、なによりここにある。この話はこちら↓のnoteでも続けて書いていますので、ぜひご参考にどうぞ。

ちなみに、自分が自分にとっての意味ある世界を構成するために使っている意味分節の体系をずらし、組み換え、複数化しうる可能性を開くために、なにをどう分節したりしなかったりしているのかを自覚的に振り返っていく技術が必要になる。そういう技術を開発するために、例えばこういうの↓とか…

クロード・レヴィ=ストロースの『神話論理』の続編、『仮面の道』に描かれた四項関係
意味分節とは、このような四項の関係を切り分けつつ結んでいくことである。

こういうの↓が…

弘法大師空海による「曼荼羅」の話を意味分節理論として読む。
全ての項が、他の全ての項に対して両義的媒介項であるという意味分節の深奥が明らかになる。 これについては空海の曼荼羅についての議論と重ねて、改めて考えてみたい。 胎蔵界曼荼羅の中台八葉院、金剛界曼荼羅の羯磨会とそっくりである。分節=論理=智の発生の起点を象徴でもって記述しようとすると、二つの四項関係の交差が出てくる。

ヒントになるはずである。

(これについては下記の記事に詳しく書いているので、続きにご覧ください)

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