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意味分節理論とは(2) -ピエール・クラストル著『グアヤキ年代記』×レヴィ=ストロース『仮面の道』を手がかりに二、四、八項関係の意味分節システムの発生を考える

(本記事は有料に設定していますが、最後まで立ち読みできます!)

ピエール・クラストル氏の『グアヤキ年代記』などを読みつつ、人間にとっての意味ある世界、即ち自分達が生きる世界の意味ということを発生させる”意味分節”の技術について考えてみる。

ところで意味が発生するとは、いったい何を言っているのだろうか。

意味は「発生」するコトではなくて、固まってあるモノではないのか?
そう思われるかもしれないが、そこは我慢して読んでいただきたい。

ここで問題にしたいのは、次のようなことである。

する / ある
コト / モノ
動 / 静
発生 / 所与

こういう区別をすること、分節をすることを、どのように為すのかという話なのであります。

固まった意味と、変容する意味

人間は変化する。

十年以上来る日も来る日も学食でカレーを食べ続けると、その人の存在は学食のカレー以上に学食のカレー的な存在へと変成する、という話ではない

自分自身を含め、あらゆる事柄についての意味が違って見えるようになることがある、という話である

彼はカレーである。

このひどい駄洒落にも意味するということの深秘が見事に顔をのぞかせている。

○は●である。

私たちにとっての意味ある世界はすべて、ほんとうにすべて、○は●であるの連鎖から作られている。「○は●である」には、かっこよくみえるものもあれば、カッコ悪く見えるようなものもある。自分が中学生の頃にかっこいいと信じて止むことのなかった「○は●である」が、大人になって思い出すと顔が真っ赤になるような「○は●である」だったということもあったりなかったりする。

意味するとは、ある一連の区別の連鎖の中にある言葉を、別の一連の連鎖の中にある言葉へと言い換えることである。クロード・レヴィ=ストロース氏がこのように書いている。

つまり、言い換え方を変えることで、人間にとっての自身の存在の意味を含む意味ある世界はがらりと変化しうる。

言い換えなんて彼のカレーレベルの言葉遊びにすぎないじゃないか、と言いたくなる=分節したくなる方もいらっしゃることだろうが、そこも我慢していただきたい。

”すぎない” / ”すぎなくない
||                                   ||
雑な言い換え / 雑な言い換えではないなにか

こういうぐあいに互いに相容れない二項の区別を最小で二つ積み重ねること。この多重に分節して重ね合わせて結合するという営みじたいを問いたいのである。

* *

多重分節&結合システムとしての人間の意味の世界は多様に変化し続ける。

人間は多様であるというと、いろいろな趣味嗜好の人がいます、というニュアンスで解したくなるところである。しかしポイントはこのいろいろな人のひとりひとりが、それ自体多様であり「一」ではない、ということにある。

Aさんはaが好きでその嗜好はいつでもどこでも首尾一貫して安定しており、Bさんは非aが好きでその嗜好はいつでもどこでも首尾一貫している。そういうAさんと Bさんが、逆の嗜好を持ちながらも互いに排除しあうことなく一緒にやっていくこと。これもひとつの多様性の尊重のあり方である。

しかし、いま考えたいのはこの首尾一貫したAさん、いつでもどこでも不変不動のBさんのように、安定的に固まった個物として「ひと」の存在を意味分節するだけでは済まさない、という話である。

もちろん、ひとを安定的に固まった個物として分節することがあるひとつの合理的な世界(I)を開闢することもある。

一方で、逆の分節をすることも可能である。つまり人を、不安定で固まっておらずその輪郭も不分明でドロドロした流れとして分節することによって開かれる別次元の合理的な世界(II)もある。

安定 / ドロドロ
固まった / 動いている
||
合理的I / 非合理的
||
非合理的 / 合理的

ここで二つの二校対立を重ねる「向き」は、くるくると逆転することができる。

世界(I)と世界(II)、どちらもそれぞれ固有の意味分節システムとして合理性と非合理生を分節し続けることができるのであれば、世界(I)と世界(II)、どちらも「合理的」でありうるし、二つの世界が異なる次元で重なり合い、相互の間に変換、写像の関係を維持することもできる。

ここで多様というのは安定的な個物としての個人と個人の間にいろいろな種類があるというだけではない。

ひとりの個人からして、その中身をすべて見透すことができる透明な不動のものではなく、不透明でドロドロと流動し続けて止まない、その輪郭を画する面もまた常に溶けつつ再生され続けている流動体である。このことを多様、一様に対する多様の側に分節する。

前置きが長くて恐縮ながら、さっそくピエール・クラストル氏の『グアヤキ年代記』を紐解いてみよう。

前にこちらの記事に次のように書いたことがある。

グアヤキ年代記』では社会関係の網の目の「目」に相当する「大人」だとか「子ども」だとか「人間」だとかを、何かそれ自体として自ずからあるもの(自性をもって存在するもの)として持ち出すことはない。

https://note.com/way_finding/n/n0bcda5627d67

社会関係の網の目の「目」は、例えば”生きた人間”ということならば、”生きた人間でないモノ”との対立関係にある生きた人間でないモノ”-ではないものとして分かれ出てくる動きが問題になる。

https://note.com/way_finding/n/n0bcda5627d67

ここで特に注目していただきたいのは、ウェブ・網の結び目を「自性をもって予めそれ自体として存在する実体」とみるのではなく、結び目が結び目ではない「線」から「分かれ出てくる動きが問題になる」という点である。

線と結び目の分節。これもまた予め分かれている、予め線があり、予め結び目がある、と考えるのではなく、線と結び目を”分節する”こと=動き=分けることにフォーカスする。

人類の個々人における主観的な意味の世界が多重に生成消滅する様子という、それ自体としては隠れており見ることも聞くこともできない、その姿をいかなる言語や記号でも直接記述することはできない”動き(仮)”観測したい。

そこで観測の方法として、言葉をはじめとする諸々の象徴という目に見え、音に聞こえ、手に触れることができる象徴物のあいだに、象徴物と象徴物の間の分かれ方とつながり方に、その”動き(仮)”の蠢く影のようなものを写像させる。

『グアヤキ年代記』には、そうした観察可能な象徴のペアたちが続々と登場し、人々の主観的な意味の世界が網目状の意味分節システムとして紡ぎ出されていく様を記述へともたらす。

子どもの誕生の場面に、人類誕生神話の中に、以下のような幾つもの対立関係がある。

沈黙 / 物音
森の夜の住人たち / 人間社会の新メンバーとしての新生児
食べる者 / 食べられるもの
液体が漏れる籠 / 液体が漏れない容器
地面に横たわっていること / 地面から持ち上げられていること
落ちる / 持ち上げる
下で静止していること / 上へと動いていること
人間としては未だ存在しないこと / 人間として存在するようになること
動物性 / 人間性
結合するもの / 分離するもの
水で洗うこと / 持ち上げること

いくつもの二項対立関係を重ね合わせながら、人間であることの意味が、人間ではないものではないことの意味が紡ぎ出されていく。

https://note.com/way_finding/n/n0bcda5627d67

こうして観察される以前=観察されない状態と分節される限りでの、観察され記述た対象としての意味分節システムを、言葉や数式といった記号の体系のなかに構想する。

忘れてはいけない。この観測すること記述すること自体、ひとつの分節することである。即ち、紐を結び目の部分と非-結び目の部分(いわゆる線)に分節するという意味での分節することも、あくまでも分節である。

結び目の部分 / 結び目でない部分

線と結び目といえば、「ひも理論」を研究する理論物理学者のミチオ・カク氏による『神の方程式』を読んでいると、次のような一節があった。

「量子論では、完全な無というものは存在しない完全な黒存在しないことはすでに見たとおりで、ブラックホールは実はグレーであり、蒸発するはずだ。それと同じように、量子論からは、最低のエネルギーがゼロではないことがわかる。たとえば、原子は量子論的なエネルギー状態が最低であっても振動しているため、その温度は絶対零度には到達できない(「零点エネルギー」という、量子がとりうる最低の振動状態をまだ持っているためだ。振動がゼロの状態は、不確定性原理に反する[…])。

ミチオ・カク『神の方程式』pp.203-204

完全な「無」は想定できない。

「無」というのは「有」に対する無である。

無と有を分けるから、分節するからこそ、無が有に対する無として、「有る」ことになる。しかし「有る」ことになっている無はホントウの無ではないだろうと言いたくなる。これは無と有を分け(分別し)た上で、有に執着するのと同じように無に執着するのでは戯論が寂滅しないから涅槃にならないよという龍樹の話にも通じる。

カク氏は次のように続ける。

「ビッグバンはどこから生じたのだろう? 最もありそうなのは、「無」における量子ゆらぎだ。「無」すなわち純粋な真空であっても、物質と反物質の粒子が泡立ち、真空から絶えず現れては消えている。こうした無から何かが生じるのだ。[…]ホーキングはこれを「時空の泡」と呼んだ。[…]時として、そうした泡のひとつが真空に消えていかずにふくらみつづけ、ついにはインフレーションを起こしてまるごとひとつの宇宙を作り出してしまうことがある。」

ミチオ・カク『神の方程式』p.204

量子ゆらぎ、物質と反物質の区別、泡が現れることと泡が消えること。

宇宙の始まり、即ち、宇宙的無と有の区別の始まりを、このような対立する二項でもって人類の知性が記述すること。これもまた分節することのひとつの姿にも見える。

ここでカク氏は「宇宙には始まりも終わりもない。あるのはただ、永遠の涅槃だけだ。」という仏教の言葉を記す(ミチオ・カク『神の方程式』p.205)。

涅槃。

龍樹によれば涅槃とはあらゆる戯論(言語的意味分節)が寂滅した(黙った)状態である。戯論が寂滅しないと涅槃にならない。

涅槃、即ち絶対的無分節状態から、有/無、三次元/十一次元、などなど、諸々の分節(としてひとの知性が記述する事柄)が分かれてくる。という筋書きで宇宙があるということを意味分節システムの中に記述することができるようになる。

* *

有と無の分節と同じくらい根が深く、絶対無分節が分節する最初のステップに振り分けても良さそうな分節が、さきほどの紐を結び目の部分と非-結び目の部分(いわゆる線)に分節することである。

レヴィ=ストロース氏4項関係の図も、この紐の絡まりにおいて結び目と非-結び目(いわゆる線)とが分節される動きをライブ感満載で記述へともたらそうとしたものだと読みたい(読むなと言われてもそう読みたい)。ここに示しているのはレヴィ=ストロース氏による一連の神話の構造分析のクライマックスに位置する『仮面の道』という本に登場するものである。

レヴィ=ストロース『仮面の道』より

『仮面の道』は広大な『神話論理』の世界への入り口とするのに適した一冊だと思います。

レヴィ=ストロースの神話論理を読み解く上で、四項関係の図をいつでもどこでも自在に発生させ動かせるようになっておくとよい。

この図は『仮面の道』だけに登場するものではなく、レヴィ=ストロース氏による思考の至る所に登場する

神話論理』全巻はもちろん『大山猫の物語』や『やきもち焼きの土器作り』、初期の『今日のトーテミズム』などもこの図式の上に人間にとっての意味ある世界の発生(意味分節システムの発生)の動きを浮かび上がらせ、その影を記述しようという構想と読める。

レヴィ=ストロース氏の膨大な神話分析の仕事はすべて、世界各地の神話(あるいは「野生の思考」)の語りの中で四項関係が発生し変容していく様を描き出したものだとも読める。

* * *

それではこの四項関係の図式は、一体何を記述し、思考できるようにしようとしているのか。

最初のポイントは「項」の方をながめる前に、まず先に「線」の方を眺めよう、ということである。

「項」よりも「線」である。

もちろん、後々メインの問題になるのは「項」の方であって、「項」がどうでもいいという話ではない。

しかし、いきなり「項」から始めてしまうと色々と微妙に面倒なことになる。

即ち、項から項への変容・変成が止まってしまうような記述をしてしまうリスクが高まる。ある特定「項」への執着・こだわり・妄執によって思考し心が苛まれてしまうことである。特に、あるひとつの「項」が、わたしたち一人一人をゾッとさせるようなモノであったりコトバであったりした場合、わたしたちの心はその「項」に釘付けになり、そこに吸い込まれて/覆い尽くされてしまう。

そうなるともう、他のどういう「項」を見ても、他にどういう「線」が走るのを見ても、結局全部その恐ろしい「項」へと置き換えられてしまうという大変に苦しい状況、戯論が寂滅せず、多様な意味分節システムの発生の余地を削り取ってしまう状況に陥る。

「項」よりも「線」

「項」よりも「線」である。

男?奴隷?女?犬?肉?魚?

改めて、先ほどの図を見てみよう。この図で「男」「女」「犬」「奴隷」「魚」「肉」などと書かれているのが、ここでいう「項」である。

レヴィ=ストロース氏の神話論理の世界にはじめてふれるとき、困惑し、訳が分からなくなってしまうのはこの項たちである。

「魚」とはなにか?!

ここで、「魚とは○●である」式の答えを求める必要はない。魚をどのような○●に言い換えられるかは、まずは問題ではない。魚が読み手にとって既知のどの○●であるのかは、さしあたり「分からない」のがちょうどいい。分からないままでいい。

もちろん、各「項(男とか犬とか書かれているもの)」が何のことであるか、気になって仕方がないところである。

ここで「男」というのは一体何のことか?
ここで「魚」というのは一体何のことか??

こういう問いに対して、「実は、ここでいう”魚”の隠された意味はですね、●●●なんですわ」という類の「答え」が与えられてしまうと、なるほどそうか!と思ってしまうのが人情である。が、これをやってしまうと思い切り薄氷を踏み抜いてしまうことになる。つまり、これより先に進めなくなる。

なぜなら、ここでレヴィ=ストロース氏が目論んでいるのは、”分る”の前に”分る”が隠れ動いていることを露わにしてやろうということである。私たちは未知のなにかが何であるかを分かろうとするとき、必ず無意識のうちに四項関係を分節している。

魚 ー 非-魚
 |                  | 
○● ー 非-○●

という具合である。

この4項関係は、予め用意されている”もの”ではなく、あくまでもそのように分ける”こと”によって発生している。「分からない」の困惑は、”分ける分け方”どうするのか、分ける分け方を日曜大工(ブリコラージュ)的で手仕事でどのように動かすのか、という無分節からの分節の発生点にわたしたちを赴かせる、その最初に一撃になる。

ここで項と項の関係を前提としない思考が動き始める。「線」の思考である。ひもの思考といってもいいかもしれない。ひも-線の思考こそが、無分節からの分節の発生を、ある特別な4項関係の中で記述可能にする。

「線」は二つの項を分ける。
「線」は第一の項と第二の項を互いに異なったものとして、区別する。
「線」は二つの項を対立させる。
「線」は対立する二項を、対立したまま結びつけ、二のまま一にする。
「線」は二つの項を対立させつつペアにする。

「線」があって、はじめて「項」がある。

「線」がないところに「項」だけがある、ということはない

「線」のことを忘れて、「項」のことだけを考えるわけにはいかない。

中間的で両義的な項たちからなる四項関係

ピエール・クラストル氏が『グアヤキ年代記』で詳述する通過儀礼とそれにまつわる神話の話などは、まさにこの線が走りつつ振動し、結び目が結ばれ、「項」になる、その瞬間を浮かび上がらせている。

世界が今日あるような姿になったのは、アチェが火のなかにチョア[蜜蝋]を投げ入れたからである。それは太陽が移動せずに、大地を黒焦げにしていた時代のことだった。そのときには[…][いたるところに太陽の光線があった]。

ピエール・クラストル『グアヤキ年代記』pp.167-168

太陽が動かず大地を黒焦げにしている。昼と夜の区別という、地球という惑星の上にある人類にとっての意味の世界を織りなす最も基本的な二項の区別がまだないところが出発点である。項はまだない。結び目はまだ結ばれていない。

そこに二つの線が走る。火と蜜である。火と蜜は項であるが項ではなく線でもある。項でありながら線であるものを、レヴィ=ストロースは両義的媒介項と呼ぶ。両義的媒介項は例えば昼と夜のようなはっきりと分けられたがいに混じり合うことのない二項の間を分けつつ結びつける、ひも、線として分節される。

火と蜜が登場するまでに、いくつもの二項対立関係の重ね合わせによる四項関係の発生と変換が重ねられ、捻じ曲げられた四校関係から両義的媒介項が発生する。

ある日、一人の男がまだ加入儀礼を済ませていない息子と歩いていた。彼らはでバイオンの大きなと出会った。
「それに触れるな!バイオンの大きな鍋に触れるな!」
父親が警告した。だが息子はそれに従わずに、棍棒の一撃でその陶器を割ってしまった

ピエール・クラストル『グアヤキ年代記』p.168

加入儀礼を済ませていない息子、道、大鍋

加入儀礼を済ませていない息子、道、大鍋。これらはいずれも項であるが、これでもかというほど中間的である。加入儀礼を済ませていない息子は子供/大人の二項、母親に庇護されている男の子/狩人の二項のどちらでもあってどちらでもない宙ぶらりんの状態である。

そして道もまた、出発点/到達点の中間であり、大鍋は、食べられないもの/食べられるものの中間状態を作り出すものである。

この中間的なところでの棍棒の一振り。

棍棒による大鍋の破壊は、中間状態を破壊し、対立する二項を、四項関係を織りなす項たちを発生させる。

そのときできたひび割れの隙間から、大量の灰が吹き出した。同じようにバイオンの飼っていた森の動物や鳥たちもそこから外に出た。そして最後に恐ろしいことに[…]暗闇が外に出て、絶えざる昼と陽光に代わって夜が一切を満たした。もう太陽は照らなかった!ただ夜ばかりが続いた。少年の不作法な行為のために、永遠の夜が生じてしまったのである。

ピエール・クラストル『グアヤキ年代記』p.168
森の鳥

灰と動物と鳥、暗闇、夜

灰は両義的媒介項である。灰は、森の動物という”食べられるが未調理のもの”に対する、”調理済み(加熱済み)だが食べられないもの”の位置を占める項である。灰は、加熱調理済みであるが食べられないという矛盾した存在であることによって両義的媒介項の役割を演じる。

未調理の食材たちと調理済みの食べられない「灰」との二両義的媒介項の対立が、食べられるもの/たべられないもの、調理済みのもの/未調理のものの四項関係をねじれた未展開の状態で発生させ、開かせる。

調理すれば食べられるもの / 食べられないもの
||
未調理 / 調理済み

ここに人間にとっての日常の意味分節システムがの起点が設定される。

ちなみに「ハチミツ」もまた「未調理なのにたべられるもの」という矛盾した両義的媒介項である。灰とハチミツの話はレヴィ=ストロース氏の『神話論理II 蜜から灰へ』が詳しいのでご興味あればどうぞ。

さて、この未分化の大鍋から、両義的な媒介項のペアが登場した段階では、まだ4項関係の安定した分節システムは出来上がっていない。夜のない昼だけの世界が、昼のない夜だけの世界に逆転したまでである。ともあれ、昼に対する夜は登場している。未分の「一」が、棍棒の一撃で「二」になった。

あとはこの昼と夜の二項対立のうち、どちらか一方だけが「有」と結びつき続けるのではなく、両項が交代し「あったりなかったりする」ようにすることが必要である。

昼 / 夜
ある/ない

ここで第二ステップの両義的媒介項の二項関係が登場する。

蜜蝋と、良い香りの煙のペアである。

蜜蝋と良い香りの煙

そのとき蜜蝋が火の中に投げ入れられ、そこから心地よい匂いの煙宙に舞い上がり、日の光がふたたび出現した。そしてアチェは世界の決定的な顔を知ったのである。それは昼と夜が規則的に交代していく中で太陽の動きが描いている顔である。それ以来物事は変わっていない

ピエール・クラストル『グアヤキ年代記』p.168

蜜蝋は「未調理だが食べられるもの」であるハチミツの中の「食べられないもの」である。”未調理で食べられるもののはずが食べられないもの”である。これを火の中に放り込む。つまり未調理のものを調理するわけである!

その調理の結果、調理済みでさもうまそうな香りがするにもかかわらず食べられない「煙」が発生する。

食べられないもの / 調理したのに食べられないもの
||
未調理 / 調理済み

ここで「未調理 / 調理済み」の対立を軸にして、森の動物たちと灰との対立関係と、蜜蝋と香りの良い煙という対立関係が重なる。そうして「調理すれば可能的に食べられるもの」「調理したのに確定的に食べられないもの」という両義的媒介項どうしの二項対立関係が生じる。

こうして両義的媒介項の四項関係から、たがいにはっきりと分離された(両義的ではない)四項の関係が発生する。

未調理 / 調理済み
食べられない/食べられる

そうしてこのたがいにはっきりと分離された四項の関係こそが、人間にとっての常識的な日常の世界の意味分節システムである。

こういう人間にとっての日常の意味ある世界の発生の秘密を、両義的媒介項を発生させそれを四つ組み合わせるという形で言語化するのがこの神話である。

赤ペンで囲んだ二項対立関係1と2が、第一と第二の両義的媒介項同士の二項対立関係である。この二項対立関係を対立させることで、よすみの四項の関係が「つかずはなれず」に結び付けられる。もし第一と第二の両義的媒介項の二項関係が切れてしまうと、よすみの四項は分離したまま遥か彼方にとおざかってしまい、世界の意味は一つの項だけに閉じ込められる。

振動しつつ揺らぎ続ける四項関係

この神話を語る人々は、こうして意味分節された人間にとっての意味ある世界を、永遠不滅の強固なものとは考えない。人間にとって意味ある世界は絶えず脅かされており、ふとしたことで消えてしまうおぼつかないものだと思っている。二つの四校関係の関係をかろうじて付かず離れずに結びつけている項たちが、もし何かの弾みで食べられて、失われてしまったら、人間にとっての意味ある世界は崩壊する。それこそ恐るべきことである。

にもかかわらず混沌が世界の秩序を脅かすことがある。空に住む恐ろしき者、大いなるジャガーが月に向かって、あるいは太陽に向かって飛びかかり、それを貪り食おうとするとき、人々は永遠の光のなかに、あるいは永遠の暗闇のなかに新たに生きるよう宿命づけられようとしているのである。それは世界の終末であるだろう。そのときアチェたちは恐ろしい恐怖を感じる。

ピエール・クラストル『グアヤキ年代記』p.168

混沌。ひとつの四項関係が壊れるとき、人は永遠の光か永遠の闇か、付かず離れずの関係を失ってしまった二項のどちらかに回収されてしまう。人間の生きる世界の意味が、光か闇か、どちらか一つの項で一色になってしまう。

インディオたちが持っている知がそこにある。過剰、そして絶えざる無節操は物事の運動を変質させてしまうかもしれない。人間の務めは[…]無秩序に抗して集団の生を保証することである。人は子どもであると同時に大人であることはできない。どちらかでなければならず、どちらかの後にどちらかになるのでなければならない。[…]こちらに生者がおり、あちらに死者がいる。[…]不動なる大いなる太陽の下で、彼らは少しの蜜蝋を燃やす。それは空間にあるべき場所を割り当て、あらゆるものにその居所を割り当て、人々のその住処を割り当てる裁定である。その煙は何と言っているのか。人間は死すべきものである、そう言っているのである。

ピエール・クラストル『グアヤキ年代記』pp.168-169

インディオたちの知。無節操を避けることで、あちらとこちら、生きた人間にとっての意味ある世界と、そうでない「死」の世界とを、切り分け続けること。

まとめ

白黒はっきりと永遠不変に分別がついていると想定できる世界は、永遠に幸福の側に分節されるかもしれない(1)

あるいは白黒の意味を入れ替えることができる二項関係の関係(四項関係)をーー面白がりながらでも、苦虫を噛み潰しながらでもーー生きることもまた人間的な意味があることの側に分節できるかもしれない(2)

そして二項関係の関係を発生させる、両義的媒介項の二項関係の関係の発生を切実に引き受けるというのもまた、極めて人間的な意味のあることだと、意味分節できるかもしれない(3)

1、2、3、それぞれにちがった幸福と苦難が分節される。

ここに仮に描いた1〜3であるが、この3にはさらに次のステップのようなものもある。この辺りの話をもっと精密に紐解いていく上で、空海『秘密曼荼羅十住心論』などが参考になりそうである。

いずれにせよ、人間が多様に変化するということを、1のアルゴリズムではなく、3のアルゴリズムで考えてみたいところである。

1の論理でできる記述=観察と、2の論理でできる記述=観察と、3の論理でできる記述=観察を多重にすることで、人が生きる世界の意味を瞬断の連続のような形でバーチャルに寂滅させる。ここに意味分節の奥義のようなものがありそうである。

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