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意味分節理論とは(8) 意味分節システムを発生させる神話の「論理」を記述する -レヴィ=ストロース著『神話論理』を読みつつ考える

(今回のお話は上記の記事の続きですが、前回を読まなくても大丈夫です)

レヴィ=ストロース氏の「神話論理」を読む上で、個人的に非常に重要だと思っているところは「半-媒介者」の話である。

半-媒介。媒介ではなく、半-媒介。それはどういうことかといえば、媒介が「一方向においてのみ成功する」ということである。

媒介者(半、ではない媒介者)は、例えば天と地、地上と樹上、人界と地下世界などなどといった対立する二極の間で、一方から他方へ、他方から一方へ、行ったり来たりする。この二極の間であちらに行ったりこちらに戻ったりする動きは双方向である。行ったきり帰ってこない、ということはない。

これに対して半-媒介者は「一方向」にしか動けない

例えば天から地に降りることはできても、地から天へ登ることはできないという具合である。これは双方向ではなく、一方向、片方だけの動きであり、「不可逆的な媒介行為」とも書かれる。

この半-媒介者の位置を、具体的な経験的事物のうちどのようなものが占めることができるかといえば、例えば「冬の終わりの暖かい雨」のようなものである。

[…]このグループに属する神話が、冬と夏そのものを対立させるというより、半-媒介者としての役割を担っている気象学的出来事である冬の終わりの暖かい雨と、夏のあいだの涼しさをもたらす気象学的出来事である雷雨とを対立させるということを忘れてはならない。言うなれば、一方は冬における夏であり、もういっぽうは夏における冬である。M742の魚卵娘たちが離ればなれになり、たがいに対立する季節を体現するときも、同じように雨をもたらす二種類の雲になるのである。

クロード・レヴィ=ストロース 『神話論理4-2 裸の人2』p.617

上の引用に登場する半-媒介者は、「冬の終わりの暖かい雨」と「夏のあいだの涼しさをもたらす雷雨」である。レヴィ=ストロース氏はこれを「冬における夏」と「夏における冬」とも言い換える。どちらも、

冬 / 夏

の二項対立という経験的にあまりにも明確な、はっきりとした区別をめぐって、この区別をいわば横から串刺しにする。そうして夏=冬、というか、夏でもなく冬でもない「半」の何かを作り出す。そしてこの「半」は”冬から春へ”、”夏から冬へ”という不可逆な二項間の移行・交代の中にある。

冬における夏」と「夏における冬」と、言葉で以って言ったり書いたりする。そうすることで夏でもなく冬でもない何かを作り出す。

冬と夏の対立寒さと暑さの対立といえば感覚器官で識別される区別であって、それはコトバとは無関係にそれ自体としてあらかじめ区別されているという感じがする。言葉を喋らない熊のような動物が冬になれば冬眠するという具合に、冬と夏は、言語外の、言語とは無関係にそれぞれ即自的に存在する何かのように思われるほどの強さをもっている。

ただし、いま問われているのは神話である。人間の言葉であり、人間が自分達にとって意味のある世界を分節しようとするところで発生するシンボルたちからなる体系のあり方が問われている。

冬と夏の対立は、感覚的、身体的、動物的、地球的、宇宙的な「差」としても理解することができるわけだけれども、いまここの神話では冬も夏もシンボルとして、意味分節システムを構成する項たちの網の目の結び目としてあるなにかである。

この意味分節システムを構成する項=シンボルたちの関係発生変容を考えようという場合に、さきほどの「夏における冬」のような「半-媒介」者たちが大きな役割を演じることになる。

”媒介する”ということは、極aと極非-aが先にあらかじめそれとして自性をもって存在しているところを、後からつなぐことではない。

二項対立 / 媒介
||   ||
先 / 後

話は、強いていえば、逆である。

(「強いていえば」というのは、”二項対立”と媒介二項対立関係を、前/後の二項対立関係に重ねて、そうして媒介ということの意味を分節したいのであれば、という話である。)

媒介 / 二項対立
||   ||
先 / 後

"媒介する"ということが、"媒介される"一方の極と他方の極を、極aと極非-aを、それぞれ他方ではないものとして区切り出し=分節する=(こういってよければ)”作り出す”

媒介する >>>>> 二項を対立させる

ただしこの関係を、媒介が「先」で、二項対立が「後」、という前後の二項対立に重ねて理解する=分かることは、もちろんそれはそれでありなのだけれども、なんというか少し妄語的すぎるかもしれない。妄語的にすぎるというのは即ち、「媒介なるもの」「二項対立なるもの」がそれ自体として確固として他とは無関係に存在するかのような思いこみ=執われを引き起こしがちだという意味でのことである。

前/後、後/先の対立関係も、あるいは原因と結果の対立関係のようなものも、これまたそのように区別され=区切られ=対立させられた”あと”で-"うえ”で、はじめて言える話である。

媒介することと二項対立との関係は、前後関係ではなく(前後関係として理解=分かることもありだとは思うけれども)、どちらかと言えば、同時というか、同じというか、重なっている。ひとつのことのふたつの見え方のような関係であり、どちらが先でどちらが後ということでもない。

わかりやすく言えば(かえってわかりにくいかもしれないが)、「媒介する」というのは、実は(実も虚もないのだが)、”○ / ●” の中でいえば、○でもなく、 ●でもなく、「/」にフォーカスした言い方なのである。そして二項の対立関係というのは、”○ / ●” の中で○と●にフォーカスした言い方である。

○ / ●

というひとつのことについて、
/にフォーカスすれば「媒介」が見え、○と●にフォーカスすれば対立が見える。

そしてどちらにフォーカスしても良いのだけれども、わたしたち人類は日常言葉を喋って生きていると、ついつい○と●の方にばかり目が行ってしまい、/のことを忘れてしまうらしいのである。

そして神話は、そういう日常の○●な意識に対して、「/」の働きを考えないと、○や●が弱って消えてしまいますよ、という話をしたいらしいのである。

夏における冬」のような半-媒介者の話をすることで、冬のことでもなく、夏のことでもなく 「/」のことを考えたいのである。

しかし、この「/」のことを、ことばでどう言おうかというのが大変なのである。通常の意味での言葉は、○や●と一対一で対応してあったり、○や●それ自体としてあったりするので、そのままでは○や●の話はできても「/」のことは言葉にならない

そこであえて、「夏における冬」のような言い方をすることで、○と●をひとつに重ねてつぶすような、どら焼きを伸す(のす)ようなことをして、私たちを日常素朴な○たちだけでなる表層の意味分節システムを吃驚させる。

「媒介する」は、二項対立関係を区切り出すのではあるけれども、それはシンボルのペアの中で、ことばとことばの関係の網の目を編むような動きをする。

言葉という体系を織りなすシンボルたちには、冬といったら夏ではないし、夏といったら冬ではない、という無茶なところがある

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