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意味分節システムの発生に立ち会う術を、レヴィ=ストロースに習う

先日の記事に引き続き、レヴィ=ストロース氏の『やきもち焼きの土器つくり』の一節を見てみよう。

 * * * 

「神話はその本性からして、重ね合わされることによって翻訳可能性の諸規則を浮き立たせる複数のコードを常に並用する。神話の意味作用はつねに総体的なものであり、特定の一コードから引き出せる意味に還元されえない。」

クロード・レヴィ=ストロース『やきもち焼きの土器つくり』p.259

これはいったいどういうことだろうか?

神話が”複数”の”コード”を並用する、というところから見てみよう。

まずコードとは何のことか。

コード-とは

コードというのは、ある何かの記号と他の記号との置き換えの規則である。

例えば、モールス信号のコードでは「A」という文字は「・ー(トン ツー)」という短い電気信号と長い電気信号の組み合わせに置き換えて表現すると決められている。

置き換えとは、ある何かと、まったく別の何かという二つの物事があるところで、一方と他方を、双方を、両者を、互いに異なった「二」のまま同じ一つの事柄という関係に置くことである。置き換えにより、二が二のまま一になる。

置き換えということであれば、何を何に置き換えても構わないのではないかと思われるが、世の中には、宇宙には、人間において現象する世界には、置き換えの規則があるように(わたしたち人間には)見える。

なぜそのように見えるのか(見えてしまうのか)はさしあたり謎であるが、人間の存在そのものが生命、細胞、神経、身体、どのスケールをとってもそれ自体が”置き換えの規則”として観察される”傾向”のようなものに従って発生し、構造を構成している。特に、人間生命体のその目覚めた意識が言語という象徴同士の置き換えの規則(ここに神話も主に関わる)によって構造化されている。このことがおそらく人間にとってその世界を何か置き換えの規則の束のようなものとして現象させ、経験させるのではなかろうか、とも思う。

重ね合わせ・翻訳-とは

そして、このコードが複数あるとレヴィ=ストロース氏は書いている。複数のコードは「重ね合わさ」れ、「翻訳」される。

この場合の「翻訳」とは文字通り翻訳として理解しておこう。英語を日本語に、日本語を英語に、という場合の翻訳である。

🍎 =りんご  :コード(置き換えの規則)その1
 ||    ||
🍎 = Apple  :コード(置き換えの規則)その2
   ↓
  コード(置き換えの規則)その3

🍎を「りんご」と置き換える第一のコードと、🍎を"Apple"と置き換える第二のコードとがある。そしてこの二つのコードを「重ね合わせる」ことで、「りんご」←→「Apple」という置き換え(コード3)ができる。この第三の置き換えのことを”翻訳”と呼ぶ。

意味作用-とは

そして意味作用(意味するということ)とは、「”りんご”という言葉の意味は🍎です」とか、「Appleという英単語の日本語の意味は”りんご”です」などという具合に”Aの意味はBである”という組み立て方をする言葉の置き換えである。レヴィ=ストロース氏は『神話と意味』という本で、意味するとは、辞書がそうしているように、ある言葉を別の言葉に置き換えることであるという趣旨のことを書いている。

ところで、より踏み込んでいうと、「🍎」も「りんご」も「Apple」も、それぞれそれ自体として孤立して自ずから”ある”もの”ではない”と考えることもできる。というか、そう考えた方がいい。

すなわち🍎とは、例えば、🍊/🍓/🍑[…]、というぐあいに一連の”果物的なもの”の配列の中に位置を占めるもので、”🍊でもなく”、”🍑でもなく”、その他全ての果物的なもの”ではないもの”という資格でのみ🍎である。🍎は🍎だから🍎なのではなく”🍎ではないもの-ではないもの"である限りで🍎なのである、と考える。つまり、”🍊/🍓/🍑”の中で重要なのは””たちであるという話になる。この複数の””たちは分節・分節すること・区別すること・差異化などと呼ばれることがある。

ところで、例えば日本に暮らして日々スーパーで買い物をしている人にとっての"一連の果物的なるものの配列”と、バンコクのマーケットで果物の屋台の店番をしている人と、熱帯のリゾート地の近くで果物を栽培している人と、国際金融都市のオフィスでバナナプランテーションへの投資を決済している人とでは、それぞれにとっての"一連の果物的なるものの配列”は、同じではなく、異なっている。もっと言えば、同じ日本列島上に暮らしている人々であっても、みんながみんな全く同じ"一連の果物的なるものの配列”を共有しているわけではない。日々どのように果物的なものと接点を持っているかによって、微妙に異なる配列を生きている。

これと同じ話が、「りんご」という”ことば”についても言える。

りんご/みかん/ぶどう/スイカ/[…]

という具合に、りんごと非-りんごを分節する「/」の動き方のパターンによって、国によって、文化によって、母語によって、個々人によって、互いに異なる果物的なるもののことばの配列を記憶することになる。

* *

意味作用は総体的である-とは

つまり、

🍎 =りんご  :コード(置き換えの規則)その1
 ||   ||
🍎 = Apple  :コード(置き換えの規則)その2

という置き換えの構造があった時、ここに出てくる”🍎”や”りんご”や”Apple”は、そういうものがそれ自体として端的に存在している何か(実体とか、自性によって存在するものとか)ではなくて、それぞれ多数の分節するコト=分節する動き=「/」によって自在に区切り出されつつある事柄=出来事である。

○=●
 ||  ||
□=■

は、

○/非○/…/…/…/… = ●/非●/…/…/…/…
 ||               ||
□/非□/…/…/…/…  = ■/非■/…/…/…/…

なのである。

さらにさらに、たいていの意味作用(意味すること)は、たった二つだけの二項対立関係の組み合わせでは済まない。

○=●
 ||  ||
□=■
 ||  ||
△=▲
 ||  ||
◇=◆
 ||  ||
…=…

という具合に、一番シンプルな二つだけの項同士が置き換えられる関係が、いくつもいくつも重なり合いながら、意味作用を成していく。そしてこの二項対立関係の連鎖は、実は、

○/非○/…/…/…/… = ●/非●/…/…/…/…
 ||               ||
□/非□/…/…/…/…  = ■/非■/…/…/…/…
 ||               ||
△/非△/…/…/…/…  = ▲/非▲/…/…/…/…
 ||               ||
◇/非◇/…/…/…/…  = ◆/非◆/…/…/…/…
 ||               ||
…/非…/…/…/…/…  = …/非…/…/…/…/…

という具合になっている。

「神話の意味作用はつねに総体的なものであ」るという場合の”総体的なもの”というとき、上のような無数の分節する動きのパターンが描き出す置き換え規則の体系のようなもの、構造というか、曼荼羅というか、ウェブ構造というか、メッシュ構造というかなんというか…、をイメージしてみると良いのではないかと思う。

ここで引用の最後の「神話の意味作用は[…]特定の一コードから引き出せる意味に還元されえない」という話が際立つ。

神話の意味作用では○や□といった”項”にあたるものとして「生のもの」や「火をとおしたも」や「蜜」や「灰」や「月」や「太陽」や「男」や「女」や「プレヤデス」や「ナマケモノ」や「ジャガー」や「土器作り」などなどがあるわけであるが、これらの項はいずれも全て、

○/非○/…/…/…/… = ●/非●/…/…/…/…
 ||               ||
□/非□/…/…/…/…  = ■/非■/…/…/…/…
 ||               ||
△/非△/…/…/…/…  = ▲/非▲/…/…/…/…
 ||               ||
◇/非◇/…/…/…/…  = ◆/非◆/…/…/…/…
 ||               ||
…/非…/…/…/…/…  = …/非…/…/…/…/…

の中でいくつもの”/”によって区切り出されたり区切り出されたなかったりする出来事である。個々の○自体や□自体や「月」それ自体「土器作り」それ自体が、他とは無関係に何かそれ自体であるわけではない。

特定の一つのコードの意味に還元されない-とは

そうなると、「ナマケモノは怠惰の象徴です(それ以外ではありません!)」とか「ジャガーは男らしさの象徴です(それ以外ではありません!)」という具合に、ただ二つだけの項からなる置き換え=”特定の一つのコード”で、神話を構成する項の意味なるものを言い切ってしまうことはできない相談ということになる。

そういうわけでさまざまな文化ごとに異なる分節と置換の体系

○/非○/…/…/…/… = ●/非●/…/…/…/…
 ||               ||
□/非□/…/…/…/…  = ■/非■/…/…/…/…
 ||               ||
△/非△/…/…/…/…  = ▲/非▲/…/…/…/…
 ||               ||
◇/非◇/…/…/…/…  = ◆/非◆/…/…/…/…
 ||               ||
…/非…/…/…/…/…  = …/非…/…/…/…/…

が、実際にどういうコトバやイメージやものや、ありとあらゆる五感の現象によって充填され織りなされているのかを知ろうとすることは人間を問い続けることの王道と言えるだろう。

さらに
○/非○/…/…/…/… = ●/非●/…/…/…/…
 ||               ||
□/非□/…/…/…/…  = ■/非■/…/…/…/…
 ||               ||
△/非△/…/…/…/…  = ▲/非▲/…/…/…/…
 ||               ||
◇/非◇/…/…/…/…  = ◆/非◆/…/…/…/…
 ||               ||
…/非…/…/…/…/…  = …/非…/…/…/…/…

は同じ文化的伝統を生きる人でもひとりひとり微妙に異なっている。

誰と何処で、何を見て何を聞いて何を感じどういう言葉を伝承されてきたかによって、私たちひとりひとりの分節と置換の体系は微妙に異なっている。そして昨日と同じような身体をもって現れる「同じ私」においてさえ、日々、あるいは瞬間瞬間、分節と置換の体系は動き、揺らぎ、部分的な生成と消滅を繰り返し、あるいは何かの弾みで天地がひっくり返るような総体的な構造転換を起こすこともある。

この意味作用を成す分節と置き換えの体系はいている。

動きながらも、その動きが似たような動き方を反復することで、なにか安定して固まった構造物のような姿を見せることもあるが、しかしあくまでも動いている。

表向きの構造「物」としての固着した姿を、動きの方へと送り返すには、○や△といったあれこれの「項」たちを異なりながらも一つに圧縮し、相互に包摂させ、中間的で両義的することが有益である。この話は下記の記事に詳しく書いているのでご参考にどうぞ。

例えば、「わたし」たちが人生の先々について、ありとあらゆる「不安」に息が詰まりそうになる時、自分という分節と置換の体系が「不安」と「非-不安」の区別に他のどのような区別たちをどういう向きで連鎖させようとしているのか、自由に連想させ意識の表面に現象させることは、「わたし」たちを冷静に落ち着かせる。そうしていずれはレヴィ=ストロース氏が長大な『神話論理』一番最後に記したような境地に達することができるかもしれない。

人間には、生き、戦い、考え、信じ、とくに勇気をもち続けて行くことが課せられ、しかも彼は以前には地球にいなかったことや、つねに地球上にいつづけるわけではないことを、さらにはそれ自身消滅することの約束されたひとつの惑星の表面から人間が間違いなく消えていくのと同時に、人間の労働、苦しみ、喜び、希望、作品もまたあたかも存在したことがなかったかのようになくなるという確実さを一瞬も見失うことはないのだから。

というのは、それらの束の間の現象に関する記憶を保持しようとする意識もまた、残ることはなく、ただ地球のもはや無感覚となった相貌から遠からず消されてしまうとしても、束の間の現象のいくつかは、かつて何かが生起したというわずかな証拠を残すだろうが、その何かもまた無にほかならない

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理Ⅳ-2 裸の人2』pp.870-871

(ここに引用した最後の一節の読みについては
下記の記事に詳しく書いているので参考になさってください)

ここで特に注目したい言葉は「」である。

「無」がそこから分節されてきた”非-無”たちとは、ひとりひとりのわたしにとって何であるのか

無と非-無の対立関係の無数の可能性が、一体他のどのような対立関係と重なり合って「わたし」にとっての世界の意味を分節しているのか

この問いの仮の答えになりそうなものを模索する上で、読んだり書いたりという営みが欠かせないと思うのであります。

つづく


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