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意味分節理論とドーナツの穴 -井筒俊彦「事事無礙・理理無礙」を読む(3)

『ドーナツの穴だけ残して食べる方法』という本がある。

残したり残さなかったり、残”せ”たり残”せ”なかったりするためには、まず「穴」があるということ、存在するということが前提になる。

ドーナツの穴のような空洞状のものというのは、外が内に換入した、外なのだけれども内、という具合に言葉で表現すると中間的にならざるを得ない事柄である。

この内と外という、常識的なかっちりとした言語のシステムの中では真っ向から対立する二項が、どちらでもあってどちらでもないような曖昧な状態になること。

この曖昧さ、中間性は、言語システムのトラブルでも混乱でもなく、取り除くべきエラーでもない。むしろこの曖昧さ、中間性、二項対立関係が未分でありながら分かれようとしつつあるところこそ、あらゆる「意味」ということが発生してくる局面なのである。

この発生段階にある意味の姿を固まった言語のシステムの中に浮かび上がらせ、そうすることで言語システム自体をダイナミックで創造的なものに転換させようというのが意味分節理論である。

ということで、意味分節理論(深層意味論)の世界を探索すべく、井筒俊彦氏の著書『コスモスとアンチコスモス』に収められている「事事無礙・理理無礙」を読む。

(これまでの記事はこちら↓です。)
(前回までを読まなくても、今回だけでお楽しみいただけます。)

意味分節理論(深層意味論)は、意味ということ発生し変容する様子をモデル化しようという理論である。

意味というと、日常素朴には、「赤信号の意味は”止まれ”です」とか、「Aの意味はBです」という具合に、何かと何か、言葉と言葉、何かと言葉との置き換えのルールのようなものとして経験される。

こういった置き換えのルールが複数の人のあいだで部分的にでも共有されている時にこそ、私たちの社会は言葉でもって約束を交わしたり、契約をしたり、目の前に存在しない過去のことや未来のことについて合意形成したりすることができるようになる。

深層意味論とは

ここである人々の間でどのような置き換えのルールが大まかかつ緩やかに共有されているのかを観察するのが意味論である。

意味論の中でも特に”深層”意味論は、この置き換える動きが動き始めたり止まろうとしたりする瞬間を捉えようとする。

置き換え関係がかっちりと固まったルールのような外観を呈しているのが、通常の意味・日常的な意味であるが、このルールや規則のような外観を呈するまでに固まった置き換え関係のパターンが顕れてくるプロセスを問うのが深層意味論である。深層意味論は意味というものがゼロから発生してくる根源の動きを捉えようと試みる。

意味するとは、何かを何かに置き換えることである

ちなみに、意味するとは置き換えるということである、というのは、これを書いている私が勝手に思いついて書いていることではない。

かのクロード・レヴィ=ストロースが『神話と意味』などでそのように書かれているのである。

すなわち、言語において「意味する」ということは、辞書がやっているように、ある語を別の語に置き換えるということに尽きる、と。

(この話は下記の記事で詳しく書いているので、参考になさってください)

置き換えるとは、二を憑けて一にすること

AはBである”といったような日常の意味が可能になるのは、AをBに置き換えることができるからである。何を当たり前のことを、と思われるかもしれないが、この「AをBに置き換える」ということは、簡単なことのようで、実はとてつもなくとんでもないことである。

この「置き換える」ということを、呪術的な「憑依」のバリエーションとして読み解いていったのが、他でもない井筒俊彦氏の『言語と呪術』である。

憑依とは内-外、生者-死者、人-神や精霊といった、互いに異なるものとして区別され対立関係にある二つの事柄を一つつけることである。憑依するものとされるものとは、互いに区別されながらも区別されない関係に入る。

言語呪術、その両方に、互いに異なる二つの事柄を「つける(憑ける)」動きが蠢く。上でAをBに”置き換える”と書いたところだが、これを”AをBに憑ける”と言い換えてもよい。

この憑ける云々という話から直接、深層意味論、意味分節理論の核心に入ることができる。

すなわち、置き換えたり憑けたりすると言うことができるためには、あらかじめ、二つの別々の事柄が存在していなければならない別々だからこそ、憑けたり置き換えたりできるのである。

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