「何も生まない空」と「生産性を持った空」ー中沢新一著『レンマ学』を精読する(13)
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中沢新一氏の『レンマ学』を精読する連続note。本編に続く「付録」を読んでみる。付録と言っても100ページくらいある。
第一の付録「物と心の統一」に次の一節がある。
「言語学をモデルとしてつくられた構造主義が、そのことによって文化的なものと自然過程に属するものとを分離してしまい、物質過程とこころ過程の統一的理解を、逆に阻んでしまっているように思われた。」(中沢新一『レンマ学』p.340)
言語ということを言い始めた途端に、「言語」と(言語外の)「現実」の関係はどうなっているのか??といった問題が出てくることになる。
言語が先か、現実が先か?
言語と現実の関係は透明なのか、それとも曇っていたり屈折を生じたりするのか、などなどの問いである。
※
レンマ学の観点からいえば、言語と現実という二つの事柄の関係云々が問題になるのは、この二つを異なる別々のものだと分けて考えるからである。
「言葉」と「現実」。この両者を「分ける」のも「分別」
「物」と「心」。この両者を「分ける」のもまた「分別」である。
言語と自然を分けてしまうがゆえに、「分ける」の次の段階で「言語と自然の関係はどうなっているのか?」と問わざるを得なくなる。
ー自然の事物は言語とは無関係にそれ自体として存在しており、言語はそうした自然の事物に貼り付けられるラベルのようなものに過ぎない…
であるとか。
ーあるいは自然の事物もまた言語的に構築された意味的存在であり、言語がなければ、自然の事物もまた私たちが「そのようなもの」として認識しているようには存在しないのだ…
であるとか。
ーしかしそうなると未だ言葉を解さない子どもが手に取って遊んでいる「あれ」は、あの子にとって「何」なのか。子どもが手に持つことができる「事物」が存在していないとは言えないのではないか…
であるとか。
いずれも、まず「言葉」と「自然」が別々に存在していると置いた後で、その上で、その別々だということにしてしまった者の関係や結びつきや影響を問わざるを得ないことになっている。
しかし、そもそも「言葉」と「自然」が別々に別れているというのは、果たしてそうなのだろうか?
というのがレンマ学的、華厳的相即相入の哲学が、私たちの常識的意識に対して最初に問いかけていることである。
分ける、分かる、分節、分別
レンマ学では、この「分ける」ということを、人間という特種な生命体が持つ特異な神経システム(ニューロン系)と、そこから発生する心のシステムの作用(分節作用)であると考える。
ニューロン系は、感覚神経から送られてくる膨大な情報を「縮減する」システムでもある。ニューロン系には「ニューロン発火に現れる同じパターンの反復を無視する」というおもしろい傾向がある(p.366)。
「敏感な部分を突かれたアメフラシは、最初はびっくりしてあわててエラを引っ込める反応をします。しかししだいに同じ刺激パターンに慣れてくると、シナプス間隙に放出される伝達物質のバルブを締めて、ニューロン間の連絡を塞いでしまいます。そうなると、そこから先には情報がまったく伝わらなくなってしまいます。」(中沢新一『レンマ学』p.369)
”ある”けれども、”ない”ことにする。
この場合の「情報がまったく伝わらな」いと言うのは、スイッチがオフになった状態であり、デジタルの1か0かでいえば「0」である。そしてこの0はその内部に何もないゼロである。
この”ある”けれども、”ない”ことにするニューロン系の情報縮減によって、私たちは反復的な事柄と、反復的ではない事柄を区別する。これが「いつもと同じ事柄」と「いつもと同じではない異常な事柄」を区別することにつながる。これを区別することが、異なった事柄の細部を無視して一つにまとめる「生物のおこなう感覚世界の分類やカテゴリー化や記憶化」の基本的なアルゴリズムなのである(中沢新一『レンマ学』p.368)。
※
ニューロン系と言語のようなシンボル体系のシステムがハイブリッドになった形成された人間の心でも、情報を縮減するプロセスが動いている。
言語やイメージににおけるアナロジー(喩)のような、異なるものを同じと置く処理は、まさに異なりを無視する、ゼロとみなすことで、異なるものを結びつけ、一つに圧縮するように動いている。
区別できるにもかかわらず、区別を見ないことにする。
それを中沢氏は「ゼロ空間」が作り出されると表現する。ただし、ここでいう「ゼロ」は、先程のニューロ系のスイッチ・オフの「ゼロ」とは「内部構造」が異なる、と中沢氏は注意を促す。
アナロジー(喩)を引き起こすような動態にある「こころ」のゼロ空間と、ニューロ系のスイッチオフのゼロ空間とでは、その「内部構造」が異なる。後者が「なにも生まない」ゼロ空間であるのに対して、前者は「生産性を持った」ゼロ空間であるという。
アナロジー(喩)は、差異をゼロとみなす、違いをゼロとして扱うという点で「ゼロ空間」で動き出すが、アナロジーを引き起こすゼロ空間のゼロはなにもないゼロではない。
「こころ系の[…]「ゼロ」に内部構造があり、この構造を持つ「ゼロ空間」を介して、新しい意味の増殖が起こります。[…]こころ系では内部構造を持つ「ゼロ空間」をくぐり抜けるたびに、情報の間に新しいメタファー的結合が生じます。(中沢新一『レンマ学』p.370)
「内部構造」を持ったゼロ空間では、区別されたものたちを「同じ」と置くことで融通無碍にし、結びつけたり、置き換えたり、重ね合わせて圧縮したりする処理が慌ただしく、時に爆発的に進行している。そうして互いに区別される事と事の組み合わせ方、関係の組み方を、変容させ、新たに生み出すのである。これが「生産的」ということである。
分け方を変えつつ、共鳴させる
私たちが分ける以前には、世界は分かれていないのである。
世界は、人間と無関係に最初から予め分かれているのではない。
世界は互いに分かれた別々のもの等が集まって出来上がったものではなく、初めから区別のない一つ、区切りのない一者である。ただしこの一つであるということは均質で透明、静止したゼロの状態ということではない。
この区切りのない一者には、区別を新たに生み、変容させ、破壊し、また新たに生もうとする傾向が充満している。
この一者における区別を生じる傾向が止まることなく動き続け、その動きが多様なパターンで反復されることによって、物質が、生命が、人間という種が、個々人の神経システムが、言語が、知性が、ある一定の構造(分節体系)として浮かび上がるようになる。そしてまた、表層意識の惰性化した分節体系が引き起こす「煩悩」もまたこうして出来上がっている。
※
人間に限らずあらゆる生命は、個体として動き続け束の間生存し続けるために、自己と他者、自他を「区別する」ことを根源的な営みとする。皮膚などの膜で自他の物質的境界を区切り続け、外部から内部へ自己の材料となる資源を取り込み、内部から外部へ自己を構成するものではなくなったものを排出する。しかしこの食べたり食べられたりという関係(物質が循環し、エネルギーが移動する関係)は生物個体間を超えて繋がっているのである。
全てが繋がっているところで、自他を区別する動きを反復することこそが、生命の本質的なあり方である。
※
人間の神経系が言語によって行う区別もまた、この根源的な一者における区別を生じる傾向から迸り出た動きの軌跡である。
このように分けざるを得ないのが生命ではあるのだが、本来ひとつである蠢きを分けて捉えてしまうがゆえに、区別された二者の関係のどちらが先か、どちらが原因か、などと問わなくても良いことを問い続けては意識(ロゴスの分節作用)を暴走させてしまう「迷い」あるいは「煩悩」に陥る。
区別された事々の対立からなる表層=煩悩の世界に対して、この区別を生じる傾向のざわめきこそが「実相」である。
※
ここで弘法大師空海による『即身成仏義』を読んでみよう。
『即身成仏義』については、加藤精一氏が現代語訳をされた角川ソフィア文庫版を手軽に読むことができる。
弘法大師空海が書いているところは、レンマ学=華厳哲学の考えを徹底して突き詰めたようなところがある。
現代のレンマ学が、ロゴス的知性によって分けられてしまったものたちを繋げていくレンマ的知性の働きを浮かび上がらせる筋になっているのに対して、弘法大師の方は「分ける」ことと「つなぐ」ことさえもがひとつのことであるというところを強調していると読める。
つまりロゴスとレンマの区別さえもまた一つの区別する操作(はからい)であり、そこに区別はない、と言うかのようである。
「心と肉体とは別のもののようですが、常に一具のものとして考える密教では、決して離れたものではないのです。」(角川ソフィア文庫版 加藤精一訳空海『空海「即身成仏義」「声字実相義」「吽字義」』p.28)
弘法大師もまた、一見、別々に分かれたものに見える二つの事柄が、実は一つにつながっているのだ、という話を書かれている。
「色(肉体)と心(織大)は一体であり、色心不二」
身体と心、この根源的な二元性のように思われるものの関係もまた、不二である、つまりふたつではなく、ひとつなのである。
「認識の対象である境(きょう)と、認識する主体である智も、一見すると主客の異なりがあるように思われますが、実は一体であり平等である。
認識の対象と、認識の主体という、世界の出発点のように思われる二元性さえもが「一体」である。
「道理としての理とそれを悟る主体としての智についても、智即理、理即智と言えるのです。こうして、より広い視点に立ってみれば、主体客体の対立はなくなりまったく同一のものと見ることができるのです」
主体と客体の区別、対立もなく、両者は同一のことだ、という。
「六大所成のこの世を全てありのままに受け止めて、これは誰が造ったのだろうかなどと詮索してあれこれ誤った言い争いなどしてはなりません。こうして考えますと、六大法界体性で構成されている法身大日の身体も私たち一切衆生の身体もお互いに礙り無く同体のごとく深く関わり合って実在しているわけで、大日が常住不変であるように私たち衆生も常住不変のたしかな存在として生きているのです。」(空海『空海「即身成仏義」「声字実相義」「吽字義」』pp.28-29)
主体と客体、認識の対象と認識の主体、身体と心、そうした対立しているかに思われることが「分けられる」以前の、ひとつであるところを、弘法大師もまた華厳の用語で「法身」と呼び、これを「大日(如来)」とつなぐ。
法身大日如来は、曼荼羅に描かれるように、さまざまな現れへと分かれていく動き・傾向を持っている。
分けること、区別することの結果として出現したあれやこれやの個物の中に、「分ける前」の「分かれていないが分かれようとする傾向」が直接動いているとみる。
※
実はレンマ学でもロゴスとレンマは一つのことの二つの現れであると論じられている。この一つのことを中沢氏はロゴス的知性と対立する・区別されるレンマ的知性とは異なる「純粋レンマ的知性」と呼ぶ。純粋レンマ的知性は、ひとつでありながらそこに無数の区別を生じ、かつ区別されたもの等を結び続ける傾向に満ちている。
異なるか、それとも同じか?
敵か、味方か? と同じような気配のある問いであるけれど、この二つの区別もまた、そのものズバリ「区別」なのである。
世界は”本当は”多者に分かれておらず、一者なのだ、と言ってしまうのも、分かれていることと分かれていないことを分けているという点で、迷いを生じさせる言い方である。この区別もまた一つなのである。
言葉によって最大限的確に言うならば、異なることこそが同じであると言うことであり、同じであることこそが異なることである、と言うことになる。
異なるか?同じか?
ではなく、異なるが同じ、同じだが異なる。
あるいは、同じではないが、異なってもいない。
区別することと区別しないことが「同じ」なのである。
*
一にあらず異にあらず。
おわりに
人間至上主義(「人間が、良いと感じることが良いことである」)という究極の価値の源泉が通用しなくなりつつある今日、代わりにどう言う価値の源泉を設定できるか、と言うのがユヴァル・ノア・ハラリ氏が『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』の最後で読者に問いかけた問いである。
『レンマ学』で、このハラリ氏の問いかけに一つの応答を試みることができる。即ち、価値と言うのは、「価値がある/価値がない」を区別することから始まる。
「価値がある/価値がない」という区別を行った上で、例えば他の区別も行う。なにとなにの区別でも良いのだが、例えば「人間/動物」あたりもそうである。
「価値がある/価値がない」を区別すること。
そして「人間/動物」を区別すること。
この二つの区別を重ね合わせて、「価値がある」を「人間」と等置し、「価値がない」を「動物」と等置する、といった処理をすることで、人間を助けるために動物を犠牲にすることを是とする価値観が生まれる。
価値は区別と区別を重ね合わせる、意味分節・意味作用の問題なのである。
そうなると、人間至上主義に替わる新しい価値とは何かという問いは、「価値がある/価値がない」という区別に直結し完全に重なり合う他の区別として、「人間」と「人間以外」にのペアに替わるなにとなにの区別を置くか、という問題になる。
※
ところが、レンマ学というか華厳哲学からすると、なんらかの区別に執着することこそが、人の世に差別と対立、反目と嫉妬、憎悪、怒り、争いなどをもたらすということになる。
人間が一生命体として生きる以上、区別を「しない」という選択はない(そもそも生命体とは、自己と自己以外を区別する処理を反復するシステムである)。
しかしその区別が、あくまでも「区別以前」の全てが全てとつながったところに、便宜的に挟まれた仮のもの、それこそハラリ流にいえば「虚構」なのだと知る知性(これを華厳哲学では般若という)を獲得することで、区別はするが、それに執着はしないという境地に達することを、人類にとって最善の価値と置いたのである。
意味分節の動態をイメージとして思い描き、言語によって論理的に語ること。それが出来合いの対立に惑わされるのではなく、多様な意味分節体系の発生、増殖、共鳴、変容、生命の進化のようなプロセスを個々人が自ら引き受けつつ人格として形成し続けることの鍵となるのかもしれない。
おわり
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