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一項・二項・三項・四項関係を発生・増殖させる -安藤礼二著『列島祝祭論』を読んで考える

安藤礼二氏の『列島祝祭論を読む。

日本列島各地で繰り広げられたさまざまな祝祭。そこに時空を超えて繰り返し登場するモチーフの根底にある思考について、安藤礼二氏は次のように書く。

「人々は、二つの世界聖なる山と俗なる平地無限の神と有限の人間、あるいは死と生ーが一つに交わる境界の地に、二つの世界を一つに結び合わせる「何か」を建てる。それは巨大な樹木であり、巨大な石である。[…]その場所に神聖なる力が満ち溢れたとき、それまで二つに分裂していて交流のなかった神と人、無限と有限、死と生が一つに入り混じる。ある場合には、森羅万象あらゆるものが一つに融け合う。それが列島に住みついた人々が、そのはじまりに持っていた信仰であり、その状態をあらわすことこそが芸術表現の究極とも考えられていたものだった。」(『列島祝祭論』p.27)

始まりは「」である。

聖と俗
山と平地
無限と有限
人間と神
死と生

これらのペアは、互いに他方とは相容れず、反発しあい、分離しようとする対立関係にある。

人間が生きている限り、日常の至る所にこうした互いに相容れない二項の対立関係を見出すことになる。子供と大人、昼と夜、太陽と月、女と男、夏と冬、雨と晴、水と火、海と陸地、食べられるものと食べられないもの、甘いと苦い、動物と人間、などなどいくらでも挙げることができる。

一から二へ、未分からの分化

こうした対立関係にある二項を、既に予めはっきりと区別され、その区別は揺るぎなく安定的に固定しているものだと考えるのではなく、これらの二項対立が「一つに交わ」り「融け合う」、一と一が接する「境界」に強い関心を寄せたのが、他ならぬ「列島に住みついた人々が、そのはじまりに持っていた信仰」の論理であったという。

それは「二」が「二」へと分化する前の未分の「一」、未分でありながら分化しつつあるがまだ分かれてはいない”二でもなく一でもない””二でもあり一でもある"ような「一」に強い関心を寄せる思考でもある。

これはクロード・レヴィ=ストロース氏が『神話論理』で明らかにした「神話的思考」の動き方でもある。

神話的思考では、日常の現実の秩序を織りなしている二項対立関係たちを、最初から固まっていて動かないようなものとは考えない。二項対立関係はうまく切り分け分化させ、付かず離れずの関係を保つように配慮しておかないと、あっという間に失われてしまう危ういものである、と考える。

自然と文化の区別も、人間と動物の区別も、食べるもの(捕食者)と食べられるもの(獲物)との区別も、生者と死者の区別も、揺るぎなく確立されたものとは考えられず、常に一方が他方へ入り込み、入り混じる「危うさ」の下にある。

この神話的思考は、数少ない人間が未だ人工環境に作り替えられていない野生の自然の片隅で、捕食者や毒性の植物や昆虫に苛まれつつ、小さく集まって衣食住を営む時代にあっては極めて「現実主義」的な思考の仕方であったと思われる。

一から二へ、二から第三項へ

神話的思考は二項対立関係がそこから発生する未分の「一」を、日常的に観察し触れることができる二項対立の向こうに二項対立関係にある二つの項が一つに重なり合った姿、合一した姿として言語化しようとする。それが神話の物語である。

神話では、はじめに何らかの二項対立関係が建てられた上で、その対立する二項のどちらでもあってどちらでもないような「両義的」な中間項が登場し、物語を展開していく。

これについては中沢新一氏の『アースダイバー神社編も参考になる。

アースダイバー神社編』のはじめのに「環太平洋の三元論」という論考が収められており、そこには次のようにある。

まず二項対立関係についてである。

現代人には三元論の思考はあまりなじみがない。現代人の思考にもっとも大きな影響を及ぼしている科学的思考は「二元論」でできている。どんな命題も「正しい」か「偽である」かのどちらかでなければならず、「正であり、かつ偽である」や「正でもないし偽でもない」は、そこでは受け入れられない。」(『アースダイバー神社編』p.35)

二項対立関係からなる秩序として世界、現実、事実を見る頭の使い方は、今日の私たちの科学的思考を支えてもいる。そして今日では二項対立関係からなる秩序は確定的に固まったもの、決して動かないもの、動くはずのないもの、というように思われている場合が多い。

二元論世俗的な事物を思考するのに向いている。[…]日常生活の場面では、身の回りの事物を男-女、右-左、上-下、内部-外部のような二元論的な対立項を組み合わせて、世界を秩序づけている。」(『アースダイバー神社編』p.35)

この白黒はっきり分かれて固まった世界、というビジョンに反して、白でもあって黒でもある、右でもあるし左でもある、などという曖昧で両義的で中間的な物言いをしようものなら、「けしからん」「はっきりしろ」「イエスかノーか」と顔を顰め、眉を顰められるのが今日の常識良識ある社会人の社交の世界である

ところが、現代人が二項対立を区別済みで不動の安定した秩序だと信じることができるのは徹底的に「外部」を排除した人工空間の内部に住み着いているからである。

人工空間の内部は平定済みで消毒済みで、人界のものではない異界の異形のものとして識別判別分別されたものたちは徹底的に「外」へと排除され、見えないようにされる。識別判別分別の動きは人工空間の内部を無数の「記号」たちで埋め尽くし、記号と記号の境界線を固めてしまう。このいわば妄想分別に執着することで、現代人は「外部」の異界から「内部」の人工空間を完全に隔絶することができていると妄信することができる。こうなると中間的で両義的な第三項と対峙する余地、余白、余裕は人工空間の「内部」にはほとんど無くなってしまう。

ところが、野生の自然のすぐ側で、食べつ食べられる中間状態を生き抜いていた古代の人々にとっては、人工空間の内部と外部の境界を、出来合いの綺麗にパッケージされた完成品として受け取ることはできなかった。

人工空間の内部と外部は、常に危うく精妙な「切り分ける」技術を用いて反復的に分節化され続けなければならなかった。分かれていないので、分けなければならない。人工空間の内部と外部の境界線は、あらかじめある出来合いの完成品ではなく、繰り返し繰り返し引き直す必要のある、放っておけば消えてしまうか細い線だった。

それゆえに、曖昧で未分の「一」から、いかにして巧妙に二項対立を分化させるかが大問題だったのである。中沢氏は次のように書く。

「しかし古層文化の人々の心の奥では、人類への「サピエンスのあらわれ」を示すあの流動的知性の発出が生々しく感じ取られていたので、二元論でできる平面的な世界に「垂直に」突き刺さるようにして立ち上がってくる運動がなければ、この世界は生命を持たないと考えられていたようである。そして二元論に垂直的に刺さってくる第三項を組み合わせた三元論によって、この世界を全体的に捉えようとした。(『アースダイバー神社編』pp.35-36)

「二元論に垂直的に刺さってくる第三項」こそが、人間を野生の自然から区切り出し、生を死から区切りし、二項対立関係を分化させる鍵であった。

二項の対立関係は「第三項」によって区切り出され、作られ、支えられていたのである。ここで二項対立関係は、必ず第三項を伴い、三項関係、「三元論」をなす。そして「三元論の思考では、「正でも偽でもない」という中間的存在が認められていて、重要な役割を果たすことになる」のである(『アースダイバー神社編』p.35)。

この三元論、第三項が他の二項を付かず離れず分けつつ結びつける様は、具体的なものに託して実現、実演されたようである。

「環太平洋の古層文化では、その力のあらわれを示す「垂直的な動き」を、蛇、雷、山などで象徴しようとした」(『アースダイバー神社編』p.36)

翁・容器・卵・籠・如来蔵

『列島祝祭論』で安藤氏はこのような第三項が他の二項を付かず離れず分けつつ結びつける様を実演したものが能楽の「翁」であるとする

白と黒[…]二つの対立する要素が、良く似た分身であると同時に正反対の姿を持つ鏡像でもある二体の「翁」によって、激しい反復のうちに一つに統合されていく。[…]人間はそのとき人間ならざるもの、すなわち人間を越え出た「神」へと変貌を遂げる」(『列島祝祭論』p.8)

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