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決定的に誤った映画「竜とそばかすの姫」、映画は現実を救済することが出来 るのか? 映画という想像力の崩壊

細田守監督の最新作「竜とそばかすの姫」を観た。きらびやかで壮大な映像と音楽、現代そのものをモチーフにしたような仮想現実と現実の困難の物語。だが、しかし、この映画は決定的に間違っている。この映画は映画という想像力の放棄であり、フィクションが本質的に間違った形で使用された、想像力の自滅的な崩壊を示したものである。

正確に、「この映画は決定的に間違っている」ということ語りたいと思う。
映画という想像力についての原理的な話。映画が想像力であるとするならば、「竜とそばかすの姫」を映画と呼んではいけない。そのことを誤解されることなく丁寧に精密に説明するために、話はとてもとても長いものなってしまった。いやになるくらい。でも、ネタバレ的なことは一切書いてはいない。

また、これは細田守監督と映画「竜とそばかすの姫」が囚われている現実に対する批判であり、それは、結果として、細田守監督への期待とオマージュであることをあらかじめ申し上げることにする。私は細田守監督が好きなんだ。この映画は現代の世界の映画と現実のパラドキシカルな関係性を鮮明に示している。事態は細田守監督だけの話ではない。一人でも多くの人が映画「竜とそばかすの姫」を見るべきだと思うし、映画という想像力が現実を救済することが出来るのかどうか、自分自身の目で確かめてほしいと思う。

(第一章)映画の中の現実性とファンタジー性の戦い

映画の中で、物語というフィクションの中で、現実性とファンタジー性が互いの存在の意味を問いながら戦う。その戦いの結果として映画というフィクションが形成される。

映画作りとは、フィクションとしての物語の中で戦う現実性とファンタジー性の統合作業のことである。映画監督とはその統合の手配師である。そして、その映画を観客として観ることは、戦いの結果として統合された現実性とファンタジー性を受け取るということである。

映画とは、映画作りという地平と映画を観るという地平の二つ地平において、戦う現実性とファンタジー性の統合体である。映画という想像力とはその統合体に宿る新しい世界を生み出す力のことである。映画という想像力は世界を変更し、新しい世界にすることが出来る。

映画「竜とそばかすの姫」の誤りは、その映画作りにおける現実性とファンタジー性の戦いの中に存在し、また、同時に、その戦いの結果を観客として受け取り、映画を観ること語ることの中に存在している。映画を作る人、映画を観る人、映画を語る人、その全部が映画「竜とそばかすの姫」における現実性とファンタジー性の戦いについて、そして映画という想像力について、間違えていると、私は思う。

以下、その誤りについて、映画における現実性とファンタジー性の戦いという切り口で論じたいと思う。この戦いの諸様相を明確にすることによって、映画「竜とそばかすの姫」の「誤りの決定的さ」が浮き彫りになる。議論は少し煩雑になってしまうが本考察を正確に行うためには、避けて通れない。そこで、目次と重なる部分もあるが、本考察の見取り図的なものをあらかじめ提示し、理解の一助にしたいと思う。議論は以下のような手順によって行われる。

第二章から第四章までが映画における現実性とファンタジー性の関係性についての議論であり、第五章から第七章までが細田守監督の映画「竜とそばかすの姫」における現実性とファンタジー性についての議論であり、第八章が、この映画が決定的に間違っている根拠についての議論であり、映画が現実を変更する力を持つことの意味についての話である。

(第二章)映画を観るという地平における、映画の現実性とファンタジー性
     の戦いについて(戦いの二つの様相)
(第三章)映画を作るという地平における、映画の現実性とファンタジー性
     の戦いについて(戦いの二つのケース)
(第四章)現実性とファンタジー性が絡み合う混沌性について
(第五章)細田守監督による映画「竜とそばかすの姫」の製作という地平に
     おける、映画の現実性とファンタジー性の戦いとその統合につい
     て(細田守監督のこの映画作りにおいて目指したもの)
(第六章)映画「竜とそばかすの姫」による現実の救済について(映画の現
     実性とファンタジー性の統合が現実に作用する力)
(第七章)現実が作り出す巨大な罠の中で溺れ潰される映画という想像力
(第八章)普遍性に辿り着くための回路である映画という想像力について

さて、映画「竜とそばかすの姫」を巡る映画という想像力についての、長い長い凄く長い話を始めることにしよう。最終到着地点では映画が現実を本当に変革することが出来るという根拠が示されることになる。

(第二章)映画を観るという地平における、映画の現実性とファンタジー性の戦い(戦いの二つの様相)

映画を観てそれを語ることの中での、現実性とファンタジー性の戦いについて。人は如何にして映画の現実性とファンタジー性の戦いを受け止めるのか? ここに二つの戦いの様相が現れる。現実性がファンタジー性より優先される様相と、ファンタジー性が現実性を凌駕する様相の二つ。

〈戦いの一つ目の様相:現実性がファンタジー性を否定する戦いの様相〉
映画というフィクションの中に、現実の中の論理と倫理を持ち込み、その論理と倫理で映画の物語の出来事を批判する。

この映画の中で描かれている人物たちの行動や振る舞いやその行為の結果について、多種多様な意見があるのだろう。映画がフィクションでしかないとしても、それは現実の写し絵である限り、現実と同様に論理的で倫理的であらねばならないという考えが存在する。そのフィクションがリアルであるために現実を利用しているにしか過ぎないとしても。だから、そうした人々はこの映画の中の物語を厳しく断罪することになる。まるで、現実の話のように。登場人物たちの行動を発言を振る舞いを非難する。「あんなことは許されない」と。この映画で描かれていることは、「非論理的で非倫理的で非現実的である」と非難する。(注:リンク先のコラムには映画の結末についての記載があります、下記、注を参照のこと)フィクションであろうがなかろうが、表現されるものには、現実の中の論理性と倫理性と現実性が必要であると。物語の現実性が現実と一体化して、フィクションである映画のファンタジー性を攻撃し否定する。現実の問題に立ち向かうための道具である映画というフィクションへの信頼と、その信頼への裏切りに対する批判。映画というフィクションがファンタジー性を退け現実性に支配されてしまう様相。

(注:このコラムは一方的にこの映画の現実性を批判するものではなく、そのことを批判しつつも、この映画の魅力を多面的に肯定的に論じた優れた映画コラムです。ぜひ、全文を読んでみて下さい。本記事の第四章でも詳しく取りあげています。)

〈戦いの二つ目の様相:映画のファンタジー性が優先される戦いの様相〉
映画というフィクションのファンタジーとしての、そのファンタジー性の完成度、及び、エンターテイメントとしての楽しみの与え方を批判する。如何に楽しませてくれたのか、如何に楽しませてくれなかったのか? 映画の現実性は書割となりファンタジー性が肯定される戦いの様相。

映画の中の物語に現実の中の論理と倫理を持ち込んで、その映画の中の登場人物たちの行為を批判する人々が存在する。その一方で、その映画と現実を切り離して捉え、あくまでも、ひとつのファンタジーとして楽しむ人々が存在する。映画は結局のところフィクションであり、ファンタジーでしかないのだから、それをそれとして楽しめばいいのだと。その映画が現実をモデルとし、表面的には現代の社会の課題を映し出しているのかもしれないが、それは一つの演出的な道具立てに過ぎないと。現実の中の論理性と倫理性と現実性で映画というファンタジーを評価しても、それはあまり意味の無いことだと。難しい話は言わないこと。楽しめればそれでよしとすること。映画は創り出されたひとつの儚い夢の物語、ファンタジー(幻想)に過ぎないのだから。

そして、その映画がファンタジー(幻想)として自らの欲望をどれだけ満足させてくれたのか、させてくれなかったのか、その度合いで映画に対する評価を下す。観る者に快楽を与えるエンターテイメントの道具としての、ファンタジーとしての映画に対する批判。フィクションが現実性を退けファンタジー性に支配されてしまう戦いの様相。

映画を観る人によって、さらに、一人の中でもこの二つの戦いの様相が共存しているのかもしれない。映画「竜とそばかすの姫」を観た人の中には、二つの戦いの様相が決着をつけることができなく、迷走した状態に陥ってしまった人も多かったのかもしれない。この映画に対する賛否両論はこの二つの戦い様相の中で混沌としている。

(第三章)映画を作るという地平における、映画の現実性とファンタジー性の戦いについて(戦いの二つのケース)

映画を作るという地平における、映画の現実性とファンタジー性の戦いについて。映画監督は如何にして現実性とファンタジー性を戦わせ、それを統合させるのか? そして、映画にどのようにして力を持たせ、その力を解放させるのか? 映画監督は何を成そうとしているのか?

〈戦いの一つ目の場合:現実性とファンタジー性が相反するケース〉

物事の現実性が優先され、その現実の困難さをリアルに描こうとすることによって、ファンタジー性が後回しにされファンタジー故の奇跡的現象を物語の中に持ち込むことが禁止される。あるいは、抑制される。その結果、それは豊かな現実性を有しながらもファンタジー性を欠いたものとなってしまい、エンターテイメント的な魅力の乏しいものになってしまう。それを防ぐために強引に物語の中にファンタジー性を持ち込み、ファンタジー故の奇跡的現象を入れ込んでしまうと、その物語は現実性を失い空疎な絵空事となり、単なるファンタジー、文字通りの幻想に堕してしまうことになる。物語の現実性を保ちながら現実性とファンタジー性を相反させたまま、エンターテイメント的魅力を映画に持たせるには、幾つか入り組んだフィクションを構築する必要がある。物語の現実性を侵害することなく、ファンタジー性を爆発させるフィクション構造の構築が映画監督に求められる。

例えば、高畑勲「おもひでぽろぽろ」宮崎吾郎「コクリコ坂から」宮崎駿「風立ちぬ」。それらの映画は夢や記憶を巧みに物語に組み込み、その中でファンタジー性を解き放ちエンターテイメント的魅力を発揮させることに成功した事例だ。

「おもひでぽろぽろ」のエンディングにおける主人公の周りに溢れ出す子供たちの姿、「コクリコ坂から」の夢の中の父との再会、「風立ちぬ」の主人公の前に広がる幻影の草原、そこに吹く風と飛行機と大切な人の姿。それらは映画がその現実性を失うことなく、そのファンタジー性によってその現実性の痛切さを描き出している。

その反対に米林宏昌「思い出のマーニー」原作が持つ現実性とファンタジー性の枠組みに縛られてしまい、映画としてのフィクションの自由さを失ってしまい中途半端な映画となってしまった事例だ。言葉で作られた現実性と夢幻性が交錯する物語を映像として表現することの難しさが表れている。現実性を確保しながら物語にファンタジー性を起動させるようにフィクションを構築することは、誰もが簡単に出来ることではない。

小説などの言語表現とは異なり、映画という表現形式の持つ具象性と具体性が、現実性とファンタジー性の統合(融合性と対立性)をより困難なものしている。映画作りの奥義の中心に、この現実性とファンタジーの統合術が存在していると言ってもいい。(スティーヴン・スピルバーグの映画術アルフレッド・ヒッチコックの映画術、等々)

〈戦いの二つ目の場合:現実性とファンタジー性が融合するケース〉

物語の現実性が強度を持ち、そのこと故に、ありえないような事態が物語の現実性の中で引き起こされファンタジーが生まれる。物語の現実の困難さが生み出す現実性の強度がファンタジー性に堅牢さとリアルさをもたらす。その現実性の強度に支えられたファンタジーが、ファンタジー故の奇跡的現象を物語の中に持ち込み、現実の論理性と倫理性と現実性を凌駕してゆく。物語の現実性とファンタジー性が融合し互いに補完し合う。現実性がファンタジー性によって輝く色彩溢れるものとなり、ファンタジー性が現実性によって具体的な実体と実質を持つものとなる。

細田守監督の映画「時をかける少女」「おおかみこどもの雨と雪」「サマーウォーズ」「バケモノの子」の素晴らしさはそうした現実性とファンタジー性の幸福的な結合によって生み出されている。細田守監督の映画の最大の魅力はその現実性とファンタジー性の相互補完性にある。細田守監督は現実性とファンタジーの融合的統合の名手なのだ。

尚、補足として、ディズニー映画について言及したい。

ディズニー映画は良く出来た上質なエンターテイメント性に満ちた夢物語の映画の典型である。そこでは現実性とファンタジー性の融合ではなく、ファンタジー性に飲み込まれた現実性があるだけだ。良くも悪くも。「アナと雪の女王」があれほど支持されたのは、映画館の内でも外でも現実を忘れて夢を見続けたい人が世界に溢れていること示している。人々は現実を見たくないのだ。いつまでもファンタジーの世界であるディズニーランドの中にいたいのだ。ディズニー映画は世界をディズニーランド化するツールである。

(第四章)絡み合う現実性とファンタジー性の混沌の世界、それらは互いに騙し合い生き残ろうとする(地平を超え様相を超えケースを超えて)

映画の現実性とファンタジー性の戦いの二つの様相は、映画を観るという地平と映画作りという地平を超えて、単独で現われることもあれば、互いに絡み合い混在した形でも現れる。現実の論理性と倫理性と現実性の有無とその度合いがファンタジー性の有無と度合いと絡み合い融合し、二つの戦いが繋ぎ合わさり協調し共鳴し合い、分離不能なものとしても現れる。その反対にこの二つの戦いが対立し牽制し合い、互いに足を引っぱり合うことになってしまうこともある。映画の現実性とファンタジー性の戦いは騙し合い、停戦と勃発を混在させる。多くの映画において現実性とファンタジー性の戦いは決着することなく、結果、現実性もファンタジー性も両方とも生き残ることになる。絡み合う現実性とファンタジー性の混沌の世界が誕生する。

映画「竜とそばかすの姫」においても、多くの人々がこの映画における現実性とファンタジー性の関係性について語っている。映画作りの地平という映画の内部における戦いと、映画を観るという映画の外部における戦いとして。

例えば、「CINEMASPLUS(シネマズプラス)」の映画コラム(2021/7/21)ヒナタカさん)の「『竜とそばかすの姫』解説|細田守作品が賛否両論になる理由が改めてわかった」の中では次のように述べられている。

現実性の側からファンタジー性の批判が行われ、現実性とファンタジー性の相反を「ハレーション」という言葉で言い表し、そのことを「細田守監督の今後の課題」と捉えている。細田守作品の賛否両論になる理由が現実性とファンタジー性の統合の在り様として語られることになる。

「それは、ファンタジーをもって「強い意思による決断」がエモーショナルに描かれるのだが、それが現実の深刻な問題とのハレーションを起こしがちなのだ。」

ヒナタカさんのこのコラムはこの映画について、とても丁寧に的確にその核心を語ったものだと思う。しかし、私はこうした認識は映画の本質を取り違えた基本的に間違ったものだと思うし、その間違いをさらに強化するものでしかないとさえ考えている。その理由については第八章で述べることにする。この映画の誤りの本質は現実性とファンタジーの統合の在り様に存在しているのではない。それは別のところにある。

(第五章)「竜とそばかすの姫」は細田守監督自身の過去の作品との決別であり、細田守監督は映画で現実を救済しようとした

今回、細田守監督が映画「竜とそばかすの姫」で目指したことは、これまでの映画の中の現実性とファンタジー性の関係性のその次の段階だ。それは現実性とファンタジー性を融合させながらも、一方で、過去の自分の作品のようにファンタジーが現実の論理性と倫理性と現実性を凌駕してゆくことに留まることではなく、ファンタジーがそのファンタジー故の奇跡的現象を生み出し、そのことによって物語の中の現実をより良きものに変更させる試みだ。細田守監督はこの映画でファンタジーの奇跡的現象を現実への打撃として用いた。

細田守監督は映画で現実を救済しようとした。映画「竜とそばかすの姫」は、自身の過去の作品が結局、現実の論理性と倫理性と現実性を凌駕したファンタジーでしかなかったことに対する反省と悔恨であり、そこからの脱却であり、細田守監督自らの手による自身の過去との決別である。

繰り返すが、細田守監督は映画で現実を救済しようとした。本気で。映画にはそれが可能であり、現代の世界においてそれは試み、実行されるべき価値のあることだと真剣に本当に思ってこの映画は作られた。(と私は思う。)

その方法として、この映画の内部に仮想現実が組み込まれた。現実と、映画というフィクションと、映画というフィクションの中の仮想現実と、の三つの世界から構成される三重構造世界が生み出された。その三重構造世界の力学を用いることによって、映画の中の、現実の論理性と倫理性と現実性を凌駕したファンタジーが現実に対して作用し、現実を変革しようとした。と私は考えている。細田守監督の過去の作品が示してきたような現実性とファンタジー性の融合だけでは、ファンタジーとして人々の心を動かすことはできても、現実を動かすことができないからだ。映画「竜とそばかすの姫」の内部に仮想現実を取り込み、現実性とファンタジー性を一旦そこで融合させ、その融合の力を映画の中の現実に取り出し現実と衝突させ、現実を変更するという作戦なのである。この映画の仮想現実は周到に準備された細田監督の現実攻略の秘密兵器だ。

「サマーウォーズ」においては、仮想現実は現実を破壊する脅威として現れた。仮想現実は脅威という形をしたファンタジーであり、それとの戦いそのものが一つのファンタジーとして物語が形成され、「サマーウォーズ」は現実性を取り込んだ幸福なファンタジーとして人々の心に届く作品となった。同じように見えるかもしれないが、この二つの仮想現実は、「サマーウォーズ」と「竜とそばかすの姫」では相当にその意味が異なったものなのである。

(第六章)細田守監督の試みの結果は? 映画「竜とそばかすの姫」は現実を救済することが出来たのか?

さて、その細田監督の試みは結果としてどのようなものであったのか?

この映画の世界の三重構造は細田守監督の試みとして必然である。しかし、見る者は少なからず混乱してしまうことになる。現実の論理と倫理のことを言っているのか、それとも映画というフィクションの中のファンタジーの出来栄えのことを言っているのか、それとも、映画の中の物語とリンクした仮想現実の中の論理と倫理の話をしているのか。細田守監督の入念な作戦が空回りしてしまい話が判然としなくなり、論理と倫理が浮遊し彷徨い拡散してしまい、何処か捉えどころの欠いた朦朧とした印象を、映画を見る人に与えることになる。

再び、問う、映画「竜とそばかすの姫」は現実を救済することが出来たのか?

この問いに対する答えはこの映画を見た人が、自らの判断で答えるべきものだと思う。賛否両論、異論反論、多々あるのだろう。いや、そもそも、この問い自体が私の勝手な妄想でしかないのかもしれない。問いの存在そのもの、それもまた疑わしいのかもしれない。

では、その私の妄想にそろそろ決着をつける時が来たようだ。本考察の冒頭に戻り、「この映画は決定的に間違っている」その根拠を明確にしたいと思う。その根拠はこれまで述べてきた映画の現実性とファンタジー性の関係性と本物の現実との原理的な関係を、明らかにすることから始めなければならない。そして、映画という想像力が如何なるものであるのか、その真の力を明示することになる。

(第七章)何もかもが間違っている罠に嵌まった細田守監督。誰もが現実が作り出す巨大な罠の中に溺れている。潰される映画という想像力。

何もかもが間違っている、と私は思う。細田守監督がこの映画で目指したもの、そのものが映画という想像力を決定的に損ねていると思う。これは映画という想像力ではない。細田守監督は映画という想像力を本質的に決定的に捉え間違えている。そして、フィクションの意味も。現実とファンタジーとフィクションの関係性の全部を勘違いしていると、私は思う。

しかし、その間違いは細田守監督の中にあるものではない。細田守監督は全力でその才能を出し惜しむことなくこの映画を作った。それでも、そうでありながら、この映画は間違いだらけだ。それは現代の世界が映画という想像力を無力化するために張り巡らした巨大な罠の中に、わたしたち全員が溺れているからだ。わたしたちは細田守監督といっしょになって間違えている。作る人、見る人、語る人、その全員がその罠の中で溺れている。

事態は細田守監督だけの話ではない。例えば、新海誠監督「天気の子」も細田守監督と全く同じ間違いを犯していると、私は思う。「竜とそばかすの姫」と「天気の子」はその方向性と構造は大きく異なるが、そのどちらもが映画が現実に対して何を行うことができ、何を行うことができないかと、問う作品であると言える。その両方に映画の現実性とファンタジー性の相克によって現実を変えようとする意志が刻まれている。だが、しかし、細田守監督も新海誠監督も二人とも、現実の巨大な罠の中に溺れていると私は思う。

その罠が存在する理由は、現実が映画という想像力によって変更されることを怖れているからだ。現実は何一つ変わりたくないのだ。このままがいいのだ。このままそのまま変わることなく、じっとこの姿のままでいたいのだ。

だから、現実はあらゆる手立てを尽して映画という想像力を潰す。潰されたことさえ気が付かず、潰される。

(第八章)映画という想像力は人が普遍性に辿り着くための回路である。現実は普遍性(根源的なるもの)によってでしか救済することはできない。

映画という想像力は人が普遍性に辿り着くための回路であり通路であり、それに直接、触れることを可能とするツールでありヴィークルだ。普遍性を根源的なるものと言い換えてもよいのかもしれない。そうした人間の行為、そうした人間の営みに対して、人は〈芸術(アート)〉という呼び名を与えてきた。映画は〈芸術(アート)〉なのである。映画という想像力は〈芸術(アート)〉なのである。そして、映画が〈芸術(アート)〉であることによってのみ、映画は現実を救済することができるのである。

映画はエンターテイメントではないかという反論もあると思うが、他の全ての表現形式と同様に、エンターテイメントに現実を変える力は無い。そこにあるものは現実を忘れさせることだけだ。それが無意味であるということではない。人が生きてゆくためには、「現実を忘れる時間」が必要だ。少しの間だけでも。エンターテイメントは「人生になくてはならないもの」だ。しかし、残念ながらそれには現実を変更する根源的なるものが欠けている。エンターテイメントに現実を変更する力を求めることは、取り返しのつかない致命的で完璧な誤りだ。そして、もうひとつ。芸術(アート)はエンターテイメントではないが、時としてエンターテイメント性を備えそれと相反する存在ではないということだ。偉大なる映画たちのことを思い起こせば、それが解る。

映画が現実を救済することができるのは、その映画が現実を救い出す手順を示す手引書を映像として示すからでもなければ、示唆を与えることでもない。そうした映像としての手引書や示唆が現実に対する無残な無知によって作り出されてきた、表面的な見せ掛けのものでしかないことを、わたしたちは肝に銘じるべきである。映画が現実を救済することができるのは、それが示す普遍性(根源的なるもの)によって、現実という袋小路から脱出することが出来るからだ。映画の現実性が現実を変更するのではない。映画の普遍性が現実を変更するのだ。

言うまでもないことだが、現実とは言葉のように現在という時間の中で人々の中で共有されている遍在するファンタジー(幻想)のことであり、共有される前の個別性の中に散在していたファンタジー(幻想)が形を変えた現在進行形のファンタジー(幻想)のことである。また、ファンタジー(幻想)とは個別性の中にしか宿っていない散在することしかできない現実のことあり、未来の不定形の現実であり、壊れてしまった失われてしまった過去の現実の残骸のことである。現実とファンタジー(幻想)は見た目が異なるだけの異なった形状をした現実にしか過ぎない。そのどちらもが現実でしかない。わたしたち人間はファンタジーという夢の中で現実に耽溺している存在だ。

先に私が述べた現実性とファンタジーの戦いは、何処までも現実(ファンタジー)の中に自閉した閉ざされた世界の出来事である。現実性とファンタジー性は戦う仕草を見せて結託し人々を現実の中に封じ込める。あらゆる地平において。そして、当然、仮想現実もまた現実の亜種でしかない。その三つの現実(ファンタジー)の中をどれだけ行ったり来たりしても、その間で如何なる戦いを繰り広げたところで、わたしたちは何処にも辿り着くことはできない。映画「竜とそばかすの姫」を巡る語る言葉の多くも、またその多重の現実の中で漂うものでしかない。その現実性を批判してもファンタジー性を批判しても、わたしたちは現実という閉鎖された空間の中で自滅してゆくしかない。そこには本当の未来の新しい現実は到来しない。

人間はそうした現実から超越するために〈芸術(アート)〉という方法を手に入れた。〈芸術(アート)〉は人類が現実の中に脱出口を見つけ出し、そこから這い出し生き延びるために作り出した想像力である。わたしたちに必要なものは普遍性(根源的なるもの)である。それ以外に現実と戦う術は存在しない。そして、フィクションとは人が普遍性(根源的なるもの)に至るための〈芸術(アート)〉の技法なのである。フィクションはファンタジーの別名ではない。(アートの技法としてのフィクション論は少し話が長くなるので別の機会に)

細田守監督の犯した決定的な間違いは、普遍性(根源的なるもの)だけが現実を変更する力を持つことを忘れ、映画という想像力を〈芸術(アート)〉として、世界の普遍性を湧出させる秘儀として行使しなかったことにある。だから、映画「竜とそばかすの姫」は現実を変更するという使命を背負いながらも、現実と仮想現実とファンタジーという多重の巨大な現実性の中で自壊してしまった。行わなければならないことは、映画という想像力によって普遍性(根源的なるもの)を掴み出しその力を解放し、その力によって現実を変更することである。現実が張り巡らした巨大な罠を破壊しなければならない。

映画という想像力を、再び、呼び覚ますこと、そのことによってでしか現実は変更できない。

追伸
映画「竜とそばかすの姫」にはひとつだけ信じられないことが存在する。細田守監督の最新作の情報の公開において、誰一人としてその重大さを指摘する人はいなかったが。しかし、それでも、ここにそれを記録することにする。それは細田守監督の映画に佐々木昭一郎さんの女神、中尾幸世さんが出演されていることだ。それは現実の中で起きた実際の奇跡としか言いようのないものだ。

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