【映画評】ゴジラvs生権力 「ゴジラ-1.0」(2023)

「ゴジラ-1.0」(山崎貴、2023)

評価:☆☆★★★

 原作レイプの常習犯、山崎貴監督が、ドラえもんに続いて今度はゴジラをレイプした。

 国産の実写映画としては「シン・ゴジラ」以来7年ぶりとなる、ゴジラシリーズの最新作「ゴジラ-1.0」。敗戦直後の日本にゴジラが上陸し、焼け野原と化した東京を「ゼロ」から「マイナス」へと叩き落とす――というあらすじだけ読んだ時、私は一瞬、面白そうな映画だと思った。
 そしてその直後、監督が山崎貴であることに気づいて、たとえ一瞬だとしてもこの映画に期待してしまったことを深く後悔した。「ALWAYS 三丁目の夕日」、「永遠の0」、「STAND BY ME ドラえもん」と、毎度毎度、むせ返りそうになる昭和ノスタルジーで現代人を慰撫する「歴史修正」の常習犯が、今度はゴジラをノスタルジーのだしにするだって?
 やめてくれ!
 と、心の中で叫びつつ、私は、義理堅く映画館へと足を運んだ。もちろん、山崎ではなくゴジラへの義理だ。
 そして、当然のごとく、後悔しながら私は映画館をあとにした。
 とはいえ、そもそも、平成以降のゴジラシリーズ自体が、いくつかの例外を除いて「原作レイプ」の積み重ねのようなものなのだから、今回の惨状も、いつもどおりの内容だったとも言える。山崎による「レイプ」に独自性があるとすれば、やはり、現代人にとって都合の良すぎる敗戦後の日本の描き方ということになるだろう。つまり最大の「原作レイプ」の被害者は、ゴジラではなく、あの時代の日本だ。

 さて、特撮ファンならば、「ゴジラ-1.0」のプロットの参照元が、初代「ゴジラ」(を始めとする同シリーズの諸々の作品)だけではないことにすぐ気づくだろう。敗戦後の社会に居場所を見つけられない日本兵の生き残りが、もう一度自らの戦争を戦い直すかのように、爆弾を抱えて巨大怪獣の口中に特攻する――と、いかにも昭和特撮らしいテーマが織り込まれたこのストーリーは、まるっきり、特撮ドラマ『ウルトラQ』の1エピソード、「東京氷河期」と同じなのである。
 1954年の初代「ゴジラ」や1966年の『ウルトラQ』を比較対象とすると、元兵士による「戦争」のやり直しというテーマを通じて、「ゴジラ-1.0」から浮かび上がる2023年の現代性は明らかだ。
 戦争で傷を負い、唯一信頼していた思い人に裏切られ、人間社会に居場所をなくした芹沢博士がゴジラとともに自決する初代「ゴジラ」。
 かつて零戦の名パイロットとして活躍しながら、敗戦後は飲んだくれの宝石泥棒に落ちぶれた男・沢村が、口先では「東京なんか一回氷詰めになって消毒されたほうが住みよくなるぜ」などと言いつつも、息子のため、冷凍怪獣ペギラへと特攻する「東京氷河期」。
 いずれの作品でも、敗戦を経てなお自らの「戦争」を生き続ける男たちは、平和な社会という虚構の中に居場所を得られないからこそ、同じように居場所を持たない巨大怪獣の声を聞き、向かい合い、葬り去ることのできる者たちだ。「ゴジラ-1.0」でも、表面上、この構図は継承されているように見える。
 ただし、「ゴジラ-1.0」では、最も重要な部分が改変されている。
 「ゴジラ-1.0」では、主人公・敷島浩一は死なないのだ。
 つまり、初代「ゴジラ」や「東京氷河期」と異なり、「ゴジラ-1.0」では、特攻が成し遂げられることも、主人公が生命をかけて「戦争」を戦い切ることもないのである。敷島は、ゴジラの口中に特攻する直前、パラシュートで脱出するのだ。
 それで良いのか!? 私は劇場で映画を観ながら、思わず叫んだ(心の中で)。
 ――別に良いではないか、という意見もあるだろう。というか、そういう意見のほうが圧倒的に多いかもしれない。国の役に立ちたいと思うのは大切なことだし、みんなのために危険をおかすのは立派なことだが、国家の都合で国民の命が軽視されてはならないし、皆が生き延びるのならそれに越したことはないではないか――と。
 これは、国民の大部分がそれなりに納得できそうな、それなりに愛国的で、それなりにリベラルな価値観だ。いや、もう少し左派的な感性の持ち主ならば、「国のため」という価値観を当たり前のように押し付けてくる描写には鼻白むかもしれないが、しかし、それは程度の問題である。何しろ、この映画は国家権力の情報統制や生命軽視を批判しているし、反戦的だし、何より、昭和の特撮作品が否定しきれなかった「特攻精神」を否定しているのだから。
 だが、あえて問おう。本当にそれで良いのか。
 あえて問おう。「特攻」は、本当にそれほど否定されるべきものなのか。「ゴジラ」や『ウルトラQ』など、すべての――と言わないまでも、いくつもの――重要な特撮作品が名作だった理由は、生命至上主義にとらわれることなく、「特攻」を肯定的に描いたからこそではなかったのか?
 といっても私は別に、若者をとっ捕まえて「君たちはどう死ぬか!?」とお説教するような映画でなかったから、という理由で「ゴジラ-1.0」を批判したいわけではない。ただ、かつて、ある種のエンターテインメント作品で、「特攻」を描くことが担っていた肯定的な役割を指摘したいだけである。それは、国民の大部分がそれなりに納得できる価値観、すなわち生命至上主義からは外れる描写だったかもしれないが、だからこそ、作品に苦い余韻を残すことができたのではないか。
 つまり、「戦前の価値観を批判する」という名目で、誰も死なせずに怪獣を倒す映画として「ゴジラ」を作り直したことによって、「ゴジラ」を名作たらしめていた重要な部分もまた、「ゴジラ-1.0」からは抜け落ちてしまったのではないか。
 これは、一般論として、「戦時中」を、「生命が軽視されたのでけしからん」という理由で批判する時に見落としがちな点に関わってくることでもある。すなわち――
 国家の都合で国民を死なせるのはけしからん――全くその通り。だが、国家の都合で国民を生かすということもまた、ある意味では、同じように残酷なことではないのか?
 「死ね」と命令する権力に背いて死ななかった特攻兵は、立派かもしれない。しかし、「生きよ」と命令する権力のもとで同じことをするのは、本当にそれほど立派なことなのか?
 ある条件のもとで「国のために死ね」と命じることも、なんの希望もない世界で死んだように生き続けよと命じることも、権力が持つ残酷さの現れという意味では、同じことなのだ。確かに、生き延びることが抵抗であるような局面もあるかもしれない。だが、別の局面では、むしろ死こそが、自分自身を「この世界」から独立させる最後の希望ですらあるだろう。「命を大切に」というのは、一見すると、死を思うほど追い詰められた者に対して優しいメッセージである。しかし、それは同時に、社会に順応できない者から最後の希望すら奪う、残酷な命令でもあるだろう。
 「ゴジラ」の芹沢も、「東京氷河期」の沢村も、生きることを強要する平和な「戦後」社会に居場所を持てない者だった。周囲が止めるのを押し切って、怪獣とともに生命を散らした彼らは、自らの意志で自らの「戦争」を戦い切ることで、最後には、ある種の「独立」を勝ち取ったとも言える。平和な社会の外部としての「戦争」において、そして、人々の生を全域的に管理しようとする社会の外部としての「死」において、彼らは抵抗を遂げるのだ。
 すなわち、自らの意志で「外部」を生き、死ぬ者たちを肯定するためにこそ、かつて、ある種のエンターテインメント作品では、「特攻」が描かれなければならなかったのだ。
 このことを踏まえれば、「ゴジラ-1.0」がとらえられなかったものは歴然としているだろう。主人公・敷島を始め、作品に登場する元日本兵たちは全員、平和主義、生命至上主義へと見事に「意識のアップデート」を遂げており、戦後的価値観に順応しきっている。かつて自分のミスで部隊を壊滅させた敷島が戦争から得た教訓は、要するに、「命を大切に」ということだ。せっかく新しい社会で生きる目処がついてきたところで、最愛の女性の命を奪ったゴジラ、許すまじ! ゴジラ打倒作戦を確実に成功させるには特攻の必要があるが、大丈夫、きちんと脱出用のパラシュートはついている。俺は生きるぜ!
 初代「ゴジラ」と異なり、「ゴジラ-1.0」に描かれるのは、管理からこぼれ落ちる「外部」が存在することが絶対に許されない社会である。つまり、誰も勝手に死んではならないのだ。かつて芹沢博士には与えられていた、大義に殉じる自由は、「ゴジラ-1.0」の敷島には縁がない。戦争末期に「死ね」という命令に背いた敷島は、敗戦後、今度は、「生きよ」と命令する隠微な権力にどこまでも追いかけられ、絡め取られていく。敷島は、「誰も死なせない」という組織の方針に、自分の意志でそうしていると信じながら、従わされるのだ。「民営化」された軍事組織が国民の生の管理を下請けする、という構図もまた、初代「ゴジラ」と比べて、いかにも現代的と言えるだろう。
 どこにも「外部」の存在しない、(新自由主義的な?)生権力の支配する管理社会――要するに、「ゴジラ-1.0」の舞台は、敗戦直後の日本どころか、紛れもなく現代社会なのである。だが、それにもかかわらず、映画の舞台は「あの時代」だということになっている。山崎貴的な歴史修正主義の効能とは、要するに、昔からこの社会はこうだったのだと観客に信じさせることだ。とはいえこれは、初代「ゴジラ」を観れば一発で見破れる嘘ではあるが。
 そしてまた、「ゴジラ-1.0」は、特攻精神を否定するにもかかわらず、表面上、主人公が特攻をやり直す映画に見えるように作られている。形だけ「特攻」を描き、中身を「生命尊重」へと入れ替え、「特攻」のカタルシスで「生命尊重」の肯定性を底上げするというわけである。「外部」ではないものが「外部」を演じることで、「内部」を拡張する構図がここにある。つまり、死という「外部」の抹消だ。

 さて、それでは、「死」と並ぶもう一つの外部、「戦争」はどうだろうか。
 初代ゴジラを打倒するオキシジェン・デストロイヤーは、原水爆に匹敵する破壊力を持つ装置――つまり、実質的には、核エネルギーによって形作られた冷戦構造を塗り替える力を持つ新兵器である。芹沢博士がそのような兵器を発明できたのは、戦争の影を背負う天才科学者、すなわち、平和な「この社会」の外部にとらわれ続ける者だったからこそだろう。かつて、「ゴジラ」というフィクションの世界では、アウトサイダーには、自らの意志で世界を根底から変えうる力が与えられていたわけだ。
 もちろん、現実にはそれはありえないことではある。米ソが際限なく核開発を競ったのは、科学者や政治家が個人的な意志でそうしようと思ったからではなく、そこに技術的・戦略的な必然性があったからなのだ。客観的には無意味で好戦的に思える開発競争は、それに携わる当事者が反省して、自らの意志で終わらせれば済むようなものではなかったはずである。芹沢博士に開発できた新兵器は、いずれにせよどちらかの陣営が手にすることになるに決まっているのだから、芹沢博士が個人的な意志で新兵器を葬ったところで、せいぜい、他の科学者が同じ技術にたどり着くまでの時間稼ぎにしかならなかっただろう。
 しかし、重要なのはそのような冷静な分析ではない。アウトサイダーの主体的意志が、「ゴジラ」という映画の中で、現実にはありえないほど強い、肯定的な力を持っていたことが重要なのだ。乱暴にまとめれば、そこには、意志の力で社会は変えられるのだという希望が投影されていたとも言えるだろう。
 「ゴジラ-1.0」が取りこぼしたのはそのような希望である、という言い方もできなくはない。
 「ゴジラ-1.0」では、アメリカ軍は、ソ連を刺激することを避けるため、直接ゴジラを倒すための軍事行動をとらない。いうなれば日本は、核エネルギーに支えられた秩序のエアポケットのような領域だ。そのような領域で、旧日本兵たちが、いくら主観的には「戦争のやり直し」のつもりで核を使わずゴジラを打倒しても、それは所詮、アメリカ軍の下請け以上のものではない。原水爆もオキシジェン・デストロイヤーも持たない日本人の「戦争」は、かつての芹沢博士の個人的な「戦争」と異なり、国際秩序を揺るがすことのできないものとして、あらかじめ無力化されている。
 芹沢博士がオキシジェン・デストロイヤーを発明した上で「あえて」それを葬ったのと異なり、十分な武力を持たない元兵士たちは、主体的意志などとはなんの関係もなく、そもそもはじめから構造的に、「平和」以外の答えを選ぶ自由を持っていないのだ。

 初代「ゴジラ」では「特攻精神」や「原水爆に匹敵する新兵器」が描かれていたので希望があったが、「ゴジラ-1.0」ではそれらが描かれていないので希望がない――という言い方は、とはいえ、あまりに逆説めいているかもしれない。何しろ「ゴジラ」のメッセージは、反戦・反原水爆である。ある意味、「ゴジラ-1.0」は、「ゴジラ」以上に正しく「ゴジラ」の精神を描いた映画といえるはずである。
 しかし、より正しいメッセージを伝えれば、「ゴジラ」がより良い映画になるということはない。「ゴジラ」が表面上のメッセージの当否を超えて名作でありえたとすれば、平和主義のイデオロギーではすくい上げきれないはずの残余を、おそらく作り手の意図すら超えて、とらえていたからだろう。「この社会」で生き続けることができずに死を選ぶ男の苦悩を、そして、ゴジラを倒し平和を取り戻すためには強力な新兵器を使わなければならない矛盾を、ありのままに描くことによってである。
 はっきりと言ってしまえば、「ゴジラ」シリーズは、すでに初代からして欺瞞に満ちていた。実際には芹沢博士のようには世界を変える力など持たない日本人に、そうした力があるかのような前提で、「世界を変えない」という決断をさせる――つまり現状肯定を自分の意志だと錯覚させる――というのは、平和主義を利用した、陰湿で効率の良い統治である。「ゴジラ」がそのような統治を補完するプロパガンダだったこと自体は否定できない。だが、繰り返すが、そのようなプロパガンダの枠に収まりきらない部分にこそ、初代「ゴジラ」の価値はあった。
 「ゴジラ-1.0」は、「ゴジラ」が抹消しきれなかったものを、より徹底して抹消したプロパガンダ映画だとも言える。
 「ゴジラ-1.0」の元兵士たちは、無力化された「戦争のようなもの」を、主観的には自らの意志で戦い、平和の大切さを再確認する。敷島は、「特攻のようなもの」を、やはり主観的には自らの意志でやり直し、命の大切さを再確認する。登場人物たちは、どれだけ「主体的意志のようなもの」を行使しても、あらかじめ許された答え以外のものにはたどり着かないよう、徹底的に管理されている。社会は意志の力では絶対に変わらないが、それにもかかわらず、人々は、この社会を自分の意志で肯定したのだと信じなければならない――現代社会のそんな真実が、「ゴジラ-1.0」には、「ゴジラ」よりも遥かに身も蓋もなく、投影されている。この作品の物語には、あらかじめ許されたイデオロギーの「外部」から評価されるべき余地はどこにもない。
 「平和主義」や「生命至上主義」という、誰にも否定できないイデオロギーによる評価基準の独占。
 2023年、すでに管理体制が完成したことを反映するかのように、「ゴジラ」という未完成だったプロパガンダも、「ゴジラ-1.0」として完成した。「ゴジラ-1.0」は、紛れもなく現代社会を映した作品である。

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