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すみれ文庫
2020年5月30日 11:16
「おばあちゃん。こちら、ちーちゃん」「初めまして。森千尋です」「まあ、千尋さん。どうも」 芽衣の祖母──蓉子(ようこ)は、にっこり笑って小首をかしげた。 千尋は今日、蓉子の家に初めて来ている。芽衣は普段からちょくちょく顔を出しているのだが、先日訪れたとき、蓉子が「組み立て式の椅子を注文した」とふいに言ったのだそうで、あわてて千尋が男手として連れて来られたのだ。あまりそういうことに自信があ
2020年5月6日 00:13
ちーちゃん(千尋) ……レコーディングエンジニア。優しくてのんびり。そろそろおじさん。めいさん(芽衣) ……イラストレーター兼会社員。小さくてぽっちゃり。そろそろ大人。 千尋は、仕事帰りの夜道を歩いていた。もうじき零時を回るところで、自分のほかには深夜運転のタクシーがまばらに行き交うばかりだ。 そのヘッドライトが通り過ぎるせつな、歩いている自分のちょうど真横に、細い脇道がひっそり延び
2020年3月23日 21:21
残されたカレイドスコープを、がらんとした子供部屋の窓から望遠鏡のように差し出し、雪(ゆき)は小さな穴を覗いてみた。 粗製の玩具が作り出す、簡素な偶然。 美しく、圧倒的で、神秘的だったカレイドスコープの魔法は、手の中でひどくちっぽけに見えた。 カレイドスコープが変わったのではない。変わっていくのは、子供たちのほうだ。 「雪が持ってて、」 光(ひかる)はそう言っていたのだと、父はあとに
2020年3月21日 18:26
カレイドスコープは今、雪(ゆき)ひとりの手にある。そのことがまだ、胸の中に落ち切っていない。 幼い時分というのは、なぜエアポケットのように意識のない時間があるのだろう。おかしな夢を見ているときのように、振り向くともう場面が変わっているのだ。 いつの間にか、光(ひかる)は悪くなっていた。 気づいたとき、雪はもう光のベッドに近づけず、病室の窓越しにしか会わせてもらえない状態だった。 透明な
2020年3月18日 20:16
カレイドスコープが作り出す、図像のパターンは無限だ。そして、二度と同じものは見られない。 「兄さん、僕さっき花火みたいな模様を見たよ」 「そうか。今は、孔雀の尾の目玉みたいだ」 「嘘」 「嘘なもんか。そら」 光のほうが面白い図像を見ているらしいのが気になって、雪はすぐさま光の手からカレイドスコープを取り、覗いてみた。しかし、どう見ても兄の言うような模様には見えない。そう訴えると、「
2020年3月17日 22:52
ベッドに寝かされていても、雪(ゆき)から見た光(ひかる)は変わらず輝いていた。兄が病気になり、自分は元気でいるというのに、いつもどおり兄のほうが面白く過ごしているように思えるほど、光の様子は堂々として曇りがなかったからだ。 光は、常の快活さを失わず、病気を恐れも悲観もしていないように見えた。勉強を怠らず、読書をよくし、時折スケッチブックに絵を描き、長い一日を過ごしていた。 ひとりになるとす
2020年3月16日 22:25
家具がみな運び出された子供部屋は、がらんとしてよそよそしく見えた。素に戻った壁と床ばかりが、主(あるじ)を忘れた飼い猫のように知らん顔をしている。 雪(ゆき)は、カーテンのはずされた出窓に歩み寄ると、そこに忘れ物のように置かれていた、ひとつの飾り物を取り上げた。 真鍮製のカレイドスコープ。これは、自分の手で持って行こうと決めていた。 雪の一家は今日、この町から引っ越す。父と、母と、自分。そ
2020年3月12日 12:36
嵐の夜に送電線が切れて、しばらくの間、暗闇の中で過ごしたことがありました。 その時私は、ある人と、偶然に同じ部屋にいたのです。 その人は、同じ学生寮に住む青年でした。当時の私は、或る国の音楽学校に留学したピアノ科の学生で、彼は指揮科に在籍していました。私たちは、その学校に二人しかいない日本人だったのです。 お互いの存在に気づいたのは、入学してしばらく経った或る日でした。 その日は朝から
2020年3月12日 00:07
梔子(くちなし)の香りが、閉めた硝子戸の向こうからなお漂う夜。 寝台に潜り込み、白い襞飾りの上掛けにくるまれながら、濃子(こいこ)はその香りを吸い込んでいた。 濃子は今、減量中である。食事の量を減らし、砂糖や油を断ち続けている濃子の鼻腔に、甘い梔子の香りは魅惑的だった。アイスクリームやババロアの、濃厚でまろやかな舌触りを思い出す。 まだずっと小さかった頃、デパートの食堂では、いつもホット
2020年2月16日 22:28
✯ちょうどあのとき洗濯物を干そうと出て来たカドベヤの主はベランダにいるわたしと彼を見つけて腰を抜かしたのだった「そういうことなら、玄関からいらして下されば」まったく マダムのおっしゃる通りだったわたしをつかまえたとき 彼は絞り出すように言った「ありがとう」そのとき 決めたのわたし受け取りのプロになろうと思う優しさも 慈しみも あなたから向かってくるものすべて
2020年2月16日 22:08
☾「おーい。おーい。どこだ」窓は開いていた誘うように「外になんか出たことなかったのに……」そう初めての外出だっただから と言えばいいのか外というのは予想以上に難所だらけで実はわたし まだ全然近くにいるの「お隣のベランダ!」そう窓から抜け出したわたしはベランダの手すりづたいに境目を飛び移ってお隣へ進んで来たもののここ カドベヤというゆきどまりで続きの手す
2020年2月16日 22:03
☽虹のかかるキャベツ畑春の土の匂いがするその上を ひらひらと舞うモンシロチョウを追っていると遠くにぽつんと 黒い猫が見えたまるで あなたの髪のようなちがうあれはあなただあなた 猫になっても背が高いのねよかったよかった待ってて すぐ そこへ行くから「ただいま」目覚めるとそこは いつものリビングだった「いいよ、寝てなよ」ごめんなさいわたし 最近 すごく眠い
2020年2月16日 21:34
☾あなたは 眠っていても優しいわたしが来ると 必ず目をつぶったまま上掛けの端を持ち上げてくれる甘えていたのは どちらだったのだろうわたしは その温かなすき間に潜り込み暗澹たる心とからだを小さく丸めると暗闇の神様に話しかけた神様わたしは 受け取ってばかりでできることなど 何もないみたい神様わたしは 悲しいなぜ 彼のように優しく笑える顔がない抱きしめられる腕がな
2020年2月16日 21:32
☽なぜかときどきわざと悪さをしたくなる気に入らないことなどないのにむしろ 満ち足り過ぎているほどなのにいいえ、だから愛情 信頼 安全その崖っぷちに立ってみるの試すなんて 贅沢ねそのうち ばちが当たるわね失わないと知っていて 甘えているのねでも今のはわざとじゃなかったの窓辺の額(フレーム)が落ちたのはわたしのしっぽが当たったせいけれど彼は怒らなかった割