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善良な人間を求める社会の罪について、ロバート・L・スティーヴンソン「ジキルとハイド」を読んで考える

涙を流したのはいつ以来だろうか。意図せず流した涙にそんなことを思った。それも束の間、悠長に物思いに耽っている場合ではないと思い直した。痛みらしき感覚と息苦しさでどうにかなってしまいそうな状況である。胸が張り裂けそう、という言葉はこの時のためにある言葉でないかと感じた。

だがどうすることもできない。なすすべがない。抜け出せない苦しさと書いて絶望と読むのだろう。人間とは何と無力なものか。神を信じない筆者もこの時ばかりは神に祈りたくなった。もっとも神に祈ったところで状況が改善するわけでない。まさに地獄。この世の苦しさを煮詰めた鍋で茹でられている気分だった。

一年振りの人間ドックの話である。人生で初めて経験した内視鏡検査の感想だ。コンビニで麦茶を手に取るような気軽さで受診した内視鏡検査だったが、地獄のような時間だった。まさか自分の人生で、軽はずみに苦悶に身を委ねる時間を過ごす日が来ようなどと思いもしなかった。年初に罹患したインフルエンザよりも苦痛な時間だと断言できる。

岩手県予防協会 Big Waffle

よもやBig Waffleを冠した美しい建物の中で、これほどの痛苦を味わうだなどとは夢にも思わなかった。内視鏡検査は辛い。確かに予め聞いていた。一方で、昨今は麻酔を使うから何ら苦しむことはない。そうとも聞いていた。とんだミスリードもあったものである。麻酔自体が苦しさを生むではないか。感覚を失った喉のなんと苦しいものか。

歯医者での麻酔体験に近いといった話を見たが、こんな苦しい歯医者があってたまるものか。歯医者でこれほど苦しい思いをしたら、トラウマになりかねない。ウィーンなんて研磨音が小鳥のさえずりに思えるようになるだろうし、麻酔のための注射が歯肉に刺さる痛みも蚊に刺されたくらいに思うようになるだろう。初めての内視鏡検査は、信じられないほどに辛い時間だった。

内視鏡検査に比べたら、他の検査のなんと優しく穏やかなものか。おもてなしと拷問くらいの差があった。もっともこの拷問は口の奥にカメラが割って入り込んでいるのだから、口の割りようがないわけだが。嗚咽は出せても言葉を出せない。拷問としてさえ不完全なのだ。虐待あるいは暴力と表現した方が良いかもしれない。しかしれっきとした検査である。それも大切な検査だ。だから恐らく来年も受診する。今から戦慄せざるを得ない。


ロバート・L・スティーヴンソン「ジキルとハイド」で考える『善良な人間を求める社会の罪』

話は打って変わり、読書記録を書こうと思う。前回から1ヶ月ほど期間が空いてしまった。忘れていたわけではない。時間を取れなかった。読書の時間を取らなくなったから読書記録を始めたのに、時間を理由に読書も読書記録もやれずにいたのは複雑な心境である。一方で仕方ない面もあるかなと思いもする。もっとも本を読んでいなかったわけではないが。

内視鏡検査によって感じるジキル博士の苦しみ

ジキルとハイドとコーヒー
コーヒーは丸完珈琲店のものです

今回読んだのは、ロバート・L・スティーヴンソンの「ジキルとハイド」である(上記URLは広告)。作品だけではなく、タイトルも有名な一冊である。読んだ経験のない人々でも「ジキルとハイド」のタイトルは知っているケースは多いと思われる。また、未読であっても「ジキルとハイド」で描かれている内容を知っているケースも多いだろう。

敢えて内容を詳しく説明することはしない。また従前通り本作に関する考察を行うつもりもない。本作は、いわゆる二重人格を材料として、ジキル博士とハイドを巡る怪奇な物語が綴られている。誰からも好まれ、尊敬されすらしているジキル博士と残虐非道なハイドの相反する人物、そして二人を巡って奇怪な状況に直面する周囲の人々の問答が繊細かつ絶妙な描写で書かれている。

折しも内視鏡検査で苦悶の時間を過ごした筆者は、ハイドに関する苦悶の時間を過ごし、懊悩の日々を過ごしたジキル博士の苦しみが痛いほどに察せられた。ジキル博士も筆者同様に食べ物や飲み物が喉を通らず、呼吸さえ上手くできない程の苦しみに苛まれたに違いない。などと書けば、本作が些かコメディ色を帯びるように感じられてくるが、全く以てそんな色はない。

ChatGPT作「ジキルとハイド」の読書感想文

さて、本作について何某かの感想を書こうとしたとき、多くの場合は一人の人間が内に抱える異なる人格、それを敷衍した『人間は二面性を持っている』『人間には複数の顔がある』などといったテーマに基づいてつらつらと感想が書かれるケースが多いのでないかと想像する。確かにそうしたテーマを書くにはうってつけの作品である。

だが、そうした誰もが書いている感想を書いても仕方ない。何せ、Google検索で『ジキルとハイド 感想』『ジキルとハイド 二面性』とでも検索すれば、高品質な感想が少なからず見つかるに違いないのだ。それでなくても、生成AIに『ジキルとハイドについて読書感想文を書いてください』とでも尋ねれば、それっぽい文章を出してくれる筈である。

問い:
ロバート・L・スティーヴンソンの「ジキルとハイド」について、300字以内で読書感想文を書いてください。

ChatGPT回答:
ロバート・L・スティーヴンソンの「ジキルとハイド」は、人間の二面性を描いた傑作です。主人公のジキル博士は、善良な医師でありながらも内に潜む悪を解放する薬を発明し、自らハイドという別人格に変身します。この物語を通じて、スティーヴンソンは人間の内に存在する善と悪の葛藤や、自己制御の難しさを浮き彫りにしています。特に印象的だったのは、ジキルがハイドに支配され、最終的には自らの人生を破壊してしまう点です。これは、自分の欲望や本能に流される危険性を強く示唆しており、現代社会においても通じる普遍的なテーマだと感じました。「ジキルとハイド」は、読者に自己の内面を見つめ直す機会を与える深い作品です。

ChatGPT 4o

試しに書いてもらった。どうだろうか。まさに『人間の二面性』について見事なまでに簡潔な読書感想文を生成してくれる。夏休みの宿題でこれを出せば、宿題をちゃんとやったと思ってもらえるのでなかろうか。本を読まずに1分で読書感想文が出来上がる。素晴らしい時代である。教師はさぞ大変だろう。

「善良なる人間でなければいけない社会」がハイドを生み出す

『人間の二面性』にまつわる「ジキルとハイド」の感想文はChatGPTに書いてもらえたため、筆者は『善良なる人物であることが求められる社会の危険性』をテーマに感想文を書こうと思う。さて、「ジキルとハイド」の物語は、見ようによって”ハイドを生み出すに至ったジキル博士の生きた環境への問題提起”がなされている作品である。

私には、頭を高く保っていたい、人のまえでは重々しい威厳を見せていたいという尊大な欲求があり、そういう欲求と自らの性格との折り合いをつけるというのは簡単なことではない。畢竟、私は快楽主義を隠して生きるようになった

「ジキルとハイド」ヘンリー・ジキルが語る事件の全容

本作の終わりに明かされるジキル博士に纏わる話の冒頭、彼は自身についてこのように語っている。単純に言えば、ジキル博士は好人物として多くの人々に高く評価される人生を送る日々の裏側に、自身の尊大なる欲求を隠していた。つまり、彼は誰もが認めるジキル博士を演じていたのである。

残虐非道なハイドは、謂わばジキル博士が内に閉じ込めていた自身の尊大なる欲求が表出したものであると推察できる。事実、ジキル博士は、当初ハイドとして過ごす時間に心の高揚を抱いていた。ハイドが犯すちょっとした罪について心を痛めつつもある種の受容をしていたのである。

ジキル博士として行う善とハイドとして行う悪は、どちらも真面目であり、自身の二面性と幾許か結論づけるに至れていた。それが崩壊に向かったのは、悪事が悪事の言葉で片付けられないほどに巨大で許されざる行為にまで増長してしまったためだ。ジキル博士に訪れた結末は、天網恢々疎にして漏らさずと言おうか、悪因悪果と言おうか、当然の帰結ではあったろう。

しかしながら、幾分かジキル博士に同情を寄せる見方ができないわけでない。ジキル博士を死に追いやるに至ったハイドの存在は、謂わばジキル博士が強いられ続けていた『善良なる人物でなければならない』という外圧が生んだモンスターと言えるためだ。

畢竟、ジキル博士は、自身の内側にあった尊大な欲求を日頃から満たせていれば、ハイドを生まずに済み、ハイドによって破滅することはなかったのである。なんでもかんでも社会のせい、環境のせいにするのは愚かと言えるにせよ、さりとて外圧によって禁欲的な人生を歩みさえしなければ、恐らく発生しなかった結末なのは、誰の目にも明らかであろう。

「ジキルとハイド」において描かれている出来事は、物語が孕む奇怪性によってフィクションであることが強く印象付けられる作品であるが、そうした奇怪性から目を離せば、我々が生きる現実の世界においても頻繁と言わずともまま表出している出来事と相違ない。

つまり、抑圧された人間の発狂がもたらす重大事件がそれにあたる。そこまでの大事でなければ、まさに我々が日々の生活において少なからず見ている景色と言えるだろう。好人物だと思っていた人間が、我慢の限界に達してキレるケースが一例である。

そうしたケースにおいて、我々の多くは、それまで好人物だと認識していた人物の評価を反転、あるいは大きく変化させる。なぜそうするか? 自身が彼彼女に抱いていた善良さに曇りが生じるためだ。それは極々当たり前に思えることだし、誰しもそうすると思う程度には日常的な話である。

一方で、そうした評価が生じるということは、翻せば我々は善良な人間であることを日常的に求められていることを意味する。善良な人間であることを求められているから、そこから僅かでも逸脱した人間に対する評価を下げるのである。その行為に対して疑問を抱くケースは、まずもってないだろう。

ジキル博士は、いわば『善良な人間であることを日常的に求められている』と認識していたから自身の内にあった尊大な欲求をひた隠しにし、ハイドを求め、ハイドの快楽に溺れるに至った。繰り返しになるが、『善良な人間であることを日常的に求められている』そんな認識を抱かずに済む世界であれば、彼は恐らく同じ経過を辿り、結末に至ることはなかった。

ハイド博士は、彼を取り巻く世界による被害者と言えるだろう。そもそもの話、”二面性”といった考え方は、誰もが一面しか見ていない、見ようとしないからこそ成立する考え方と言える。つまり、好い人物、善良なる人間という一面を重んじることで、そこから外れた面が二面側として認定される。逆も然りだ。

一面しか持たない人間など、いやさ生物などこの世界には存在しないにもかかわらず、善良であるべきとする一面的な考え方によって、あたかも善良なる一面以外があってはならないとでも言わんばかりに、善良でない顔が、行為が、僅かでも見えたら、『彼彼女は二面性がある』とのたまうわけである。

そう考えるとハイド博士を取り巻く人物達についての見え方が、いくらか変わって来ないだろうか。何せ彼等彼女等は、善良なるハイド博士しか見ようとしていなかったのだ。善良なるハイド博士という偶像のみを見続け、善良なるハイド博士の偶像を押し付け続けていたのである。

ジキルを表出させたのはハイド博士に外ならないが、ジキルを誕生させたのは、ハイド博士を取り巻く人々でなかろうか。「ジキルとハイド」という作品は、一面的に見ればハイド博士とジキルの二面性に目が向くが。ジキル誕生の要因を辿れば、また違った見え方がしてくる。それこそ二面性のある物語である。

生きとし生けるもの全ては、多面的な存在だ。一面しかない存在など、実際には皆無に等しい。自身の周囲に存在するものを一面的に見ていないだろうか。もしも一面的にしか見ていないのであれば、いつの日かハイドを誕生させてしまうかもしれない。ゆめゆめ忘れないようにしたいものである。


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