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自分を取り戻すための日記 40

2022.8.6 決別

父親が自殺未遂した。
入院していた病院の窓から飛び降りようとしたのだ。

弟からの電話でそれを聞いたとき、私は何故か驚きもせず、一瞬ですべてを理解した。
私が縁を切る前に、父親がすべてを自分から断ち切ったのだと。

半世紀以上、親との関係に悩み続けてきた。
親からの虐待の数々は前のnote「午前3時」にも書いた。
私は紛れもない被虐待児だし、重度のACである。
いまもその後遺症に悩まされ続け、苦しみ続けている。
長い間、自分の価値を否定し続け、役に立たない自分は死んだほうがいいと思って来た。

先日、奈良で「親に人生を台無しにされた」と言って、他者を殺した30代の男性のニュースが世間を騒がせた。
他人事と思えなかった。
彼は親から受けた苦しみと怒りを他者を殺すことに向けた。
私はそれを自分に向けた。
半世紀以上の長い間、自分を殺し続けた。
私の摂食障害も自傷行為も躁鬱も希死願望も自分を殺し続けた結果だ。
親から殺されずに育ててもらったことは感謝しているが、それ以上に親から受けた被害は半端ない。

でも、親を恨んでも憎んでも自分の人生は取り戻せない。
私の壊れた体はもう元には戻らないし、自分を苛め続けた時間は戻らない。

40歳で親も生まれ育った故郷も安定した仕事もすべて捨てて、東京に来た。
やりたいことをやるための大きな飛躍だったことは間違いないが、半分以上は親から距離的にも遠く離れたかったことが大きな理由だ。

私のやりたいことを親が理解できるはずがなかった。
説明しても聞かないし、話しても罵倒されるだけだった。
元々自分の聞きたいことしか聞かないし、自分の見たいことしか見ない親だった。
私の話をまともに聞いてくれたこともないし、私の真実を見ようとしてくれたこともない。

私が10代の頃、摂食障害で死にかけた時も私の痩せ細った体を見ようともせず、起き上がれないほど弱って「病院に連れて行ってほしい」という私の最後の望みを無視した親だ。
自分の娘が摂食障害という病気だということを最後まで認めなかった。
私のことを「恥ずかしい」と言い続けた親だ。
たぶん私がそのまま死んでしまっても、認めなかっただろう。

40歳までずっと故郷にいて、親の希望通りの地元の固い会社に就職し、そこに22年間も務め、親の希望どおりに結婚をし(7年で離婚したが)、ずっと親の近くに住んでいた。
十分親孝行をしたと思う。
40歳までずっと我慢し忍耐し自分を殺して、「親の期待に応える良い娘、良い子」を演じてきたのだ。
これを親孝行と言わずになんと言おう。

それなのに自分をずっと責めて生きて来た。
親の期待に応えられない自分をずっと恥じて来た。深い罪悪感を感じて来た。
親の顔色を常に窺い、親を傷つけないように、親の自慢の娘であるように、自分自身にずっと無理を強いて頑張って来た。
でも、もう限界をとうに越し、体も心もボロボロになって、やっと40歳で親から逃げることが出来た。

東京に来て16年。
1年に1回、正月に3泊実家に帰るだけでいいなら、我慢できる耐えられるとずっと思って来た。
でも、それでもダメだった。
16年たっても父親は私の演劇制作の仕事をまったく認めず、「なに遊んでるんだ」「いい加減にフラフラすするのは止めろ」「仕事していないなら、早く帰ってこい」と言い続けた。
電話が来るたびに、「親をほったらかしにするなんて、なんて親不孝な冷たい娘だ」と罵倒された。
電話に出ないでいると分厚い手紙が来た。「俺は不幸だ。子どもに恵まれなかった」と書いてあった。

自分は18歳で実家を出て、二度と故郷に帰らず、親の死に目にもあっていない父親が、40年も親の近くにいて、親の期待に応え続けた私を罵倒する。

何度も「私はもう故郷には帰らない」「お父さんとも住まない」「私を解放してくれ」と言い続けた。
でも、父は一度も真面目に私の話を聞いてくれなかった。
「お前はバカだから」「お前は冷たい娘」「俺は親不孝な子どもを持って本当に不幸だ」と言い続けた。

父は弟にはなにも言わない。
弟が怖いし、男の子だからと自由を許す。
私は女の子だから、女はバカだから自分が保護しないとと真剣に今も思っている。
私はもう10代ではない。
こんなおばさんになってもまだ父は私を支配し、自由を許さず、言うことを聞かせなければと頑なに思っている。

世間は「お父さんもひとりで寂しいのよ」「高齢になってひとりは可哀想」「娘なら同居して父親の世話をするべき」と、私を非難する。
今回の自殺未遂でより一層私への非難や批判が大きくなるだろう。
でも、可哀想なのは私の方だ。

このコロナ禍で、それでなくても病院がひっ迫する時期に、医者が必要ないというのに大騒ぎして、ただの腰痛で入院した父。
検査してもどこも悪くないのに、入院させろと医者を脅して長時間入院していた。
さすがにベッドを開けてほしいと医者が懇願したら、「家に帰っても一人だから淋しい。帰りたくない」と泣き叫んで病院の窓から飛び降りようとした。
医者も看護師さんも呆れ果て、「どうにかしてほしい」と電話がかかって来た。

昔から自分の思い通りに事が進まないと、脅迫してでも他人を振り向かせようとする父だった。
自分の思い通りにならないことに我慢がならない。
いつも自分が中心にいて、注目されないと耐えられない。
特に自分の所有物が勝手に振舞うことが許せない。
妻と子どもは自分の所有物だから、自分の許可なしに自由に考えたり行動したりするなんて許せない。

毒親という言葉が出来たとき、なんてうまいネーミングだろうと感心した。
この言葉が出来る50年以上前から、うちの父親はわかりやすい毒親だった。
この事実を自覚するまでに長い年月がかかった。
私はずっと自分がダメだから、バカだから、私が親の期待に応えられないからこんなに苦しいんだ。全部私が悪くて私の問題なんだと思っていた。
だから私なんて死んだほうがいいと思っていたし、実際に死ぬように生きてきた。

でも、もう私は自分の運命と真正面から向き合い、親と決別する。
産んでくれたこと、育ててくれたこと、殺さなかったことには感謝するが、
「育てたことに感謝しろ!」
「誰のおかげで学校に行けるんだ!」
「誰の稼ぎでご飯が食べられると思ってるんだ!」
と言われ続け、愛や感謝や服従や隷属や従順を強要されて来た。
従わないと罵倒された。
思い通りの結果が出ないと怒り狂い暴力を振るわれた。

愛は強制じゃない。
感謝は強要されてできるもんじゃない。
子育ては支配じゃない。

すべてを諦めて、親に期待しなくなって半世紀以上がたつ。
親を怒らせないようにがっかりさせないように恥をかかせないように、精一杯やってきた。
でも、もう限界だ。
私は途中何度も死にかけているし、自分の残り人生ももう長くない。
あと少しぐらい自由に生きたい。
自分らしく生きたい。

だからお父さん、もうさようなら。
私はもう帰りません。
私はもうあなたと決別します。
あなたが死のうが生きようがもう私には関係ありません。
葬式にも出席しません。

後悔するかもしれません。
親を捨てた罪悪感から自分を責めて、眠れない夜を何日も何年も過ごすことでしょう。

でも、もう私は決めました。
16年前、すべてを捨てて東京に来たと思っていたけれど、本当は捨てていなかった。
距離は離れたけど、心はまったく離れていなかった。
ずっとずっとあなたのことを考えていたし、あなたに支配されていました。
私はずっとあなたの可愛い娘でいたかった。
いい子だと褒めてほしかった。

でも、もう本当に諦めます。
もう無理だと、どんなに努力してもあなたに愛してもらえることはないとわかりました。
あなたは私を守ってくれなかった。
だから、私が私を守ります。

さようなら。本当にさようなら。
永遠にお別れです。
私は今度こそひとりで生きていきます。
さようなら。

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