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読書メモ:貞包英之『消費社会を問いなおす』、筑摩書房、2023年

※著者名の読みは「さだかね ひでゆき」ですって。カッケー名前だなあ。


まえがき

この本を手に取ったとき、私、こう思ったんです。読まずにこんなこと思っていいのかしらって、あまり大きな声では申し上げづらいのですけれど……

フン、説教くせータイトル

って。

どうせアレでしょ? 資本主義に踊らされて消費し続けてもアナタは幸せになれないし、おまけに消費のしすぎで地球の持続可能性がウンタラで気候変動リスクもカンタラだから我々は消費社会から「おりて」、お金や消費に依存しない、ていねいな暮らしをしましょうね、みたいなキレイゴトの結論、実現可能性ほぼゼロの解決策が恥ずかし気もなく書かれている駄本でしょ? って。

全然ちがいました。

本書が注目したいのは、消費社会のそうした〔大量のモノや記号を作り出して消費させることで、格差や気候変動が生み出されるといった〕否定的なシステムとしての顔ではない。本書が知りたいのは、多様な選択肢をつくりだし、それを選択することを「私」に促す消費社会のより積極的な、そして歴史的な場としての消費社会である。金を支払うかぎりにおいて、私たちは大抵の選択が可能で、自分の意志や欲望を押し通すことが許されている。人びとがそうして国家や共同体の利害と一定の距離を置き、自由に生きていくことを後押する力を消費社会は担ってきたのである。

『消費社会を問いなおす』の別の序文(新海誠作品と消費社会)|貞包英之 (note.com)
強調と〔〕内は引用者による

意外や意外、消費社会を真正面から擁護する著者。「お金さえ払えば自分の好きなモノ・サービスが手に入る社会、サイコーじゃね?」とか言い出す社会学者、初めて見た。

消費社会に対する批判は、人びとが同じような道徳的関心を持ち、平等に暮らしている未来を描いてみせる。しかしそうした社会が消費社会以上に本当に望ましいものであるのかどうかについては、慎重に吟味しておかなければならないのである。

13頁

学者センセイなので控えめな表現になってますけど、私だったらもっと直截に、「消費社会は最悪の社会形態といわれてきた。他に試みられたあらゆる形態を除けば」とか言っちゃいますけどね。

ああ、じゃあ「キャリア築いて資産形成してFIREして、この資本主義社会を謳歌しろ」系ライフハックを説くのね、言外に「世の中に不満があるなら自分を変えろ」と言わんばかりのマッチョ言説ふりまわし系なのね、というのも早合点。そういう右派的ポジションも著者は拒否します。

ある種の人びとには国を超えグローバルに活躍する力が与えられ、別の人びとには定まった職や充分な財産を持たないという「自由」が許される。そうした社会のなかで、消費の持つ意義を強調することはある種の「誤解」を招くだろうと予測されます。わたしが擁護したいのは、ドラマの『わたしのおじさん』でイ・ジアンにも与えられるような社会を生きるささやかな尊厳なのですが、そうではなく『梨泰院クラス』のチョ・イソが享受するような特権的自由を拡大すべきという主張だと受け止められてしまうかもしれません。

『消費社会を問いなおす』韓国版への序文|貞包英之 (note.com)

「韓国版への序文」なので、私含む韓国ドラマ興味ない民からすればピンと来ないたとえですが、「職場とボロアパートを往復するだけの低賃金労働者を尻目に、金満オッサンと港区女子が消費を楽しむ社会」を著者が擁護したい訳ではないのは分かるでしょう?

では本文をかいつまんで見ていきましょう。つっても2万6千字あるけどね、この記事(おや、タブをそっ閉じする音が聞こえてきますぞ)。

本論

第1章 消費社会はいかにして生まれたのか

学術論文だったら先行研究の紹介とその批判にあたる部分でしょうか。「消費社会」の4文字にビビっときて本書を読んじゃう向きにはおなじみの人名がズラズラと綺羅星のごとく並びます。「お品書き」は例えば、マルクス、ガルブレイス、ボードリヤールなど。

ああアレね、ってなりますでしょ。資本主義の爛熟形態こそ消費社会の正体であり、延命された資本主義=消費主義によって生み出されるモノと記号のタワムレに閉じこめられた我々は自身から疎外されウンヌン、みたいなおなじみの図式が続きます。

50ページあたりまでは。

「消費社会=資本主義社会が産んだ鬼子」という図式を著者は大胆にもひっくり返すのです。

こうした見方〔=「消費社会はたんに資本主義を補う20世紀的な補完項にはおさまらない。むしろ消費社会はそれ自体、時間と空間を横断しつつ、さまざまな場で特有のかたちをとりながら積み上げられてきた固有の歴史、または歴史の残骸とみえてくる(49頁)」見方〕に戸惑う人もいるかもしれない。だが筆者だけがそう主張しているわけではない。

50頁
〔〕内は引用者注

そして、「『資本主義→消費社会』じゃなくて『消費社会→資本主義』じゃねーの?」という主張をしている近年の研究がつらつらと紹介されます。ここは単純に「へえー」と思いました。「たとえばジョオン・サースクは16世紀にはイギリスで靴下やピンといった日常的な生活雑貨への需要の高まりがみられ、それを前提に多くの企業が勃興したと論じている(50頁)」とかね。

(脱線:新書で紙幅に限りがあるので言及がなかったのでしょうが、同趣旨の本として私だったら以下も引用していたでしょう)

閑話休題。「やっぱ消費主義が先で資本主義が後」という流れが正解なのねー、という感想を読者に抱かせたところで、著者はこの図式も土台ごとひっくり返します。

マルクス主義は生産が消費を支えると主張し、最近の歴史的研究は逆に消費が生産を刺激すると論じている。しかし生産との関係のなかでしか消費は本当に捉えられないものなのだろうか。(中略)むしろ生産と独立して営まれてきた消費の固有の論理と歴史、そしてそれが社会にもたらした影響について考えてみなければならないのである。

52頁

「消費が先か生産が先か」という問いより、「そもそも消費とは何か」という問いがここでは大事なのだ、ということですね。

それらを「考えてみ」る上で著者が提出する消費の例が、江戸期日本の遊郭と園芸です。すごい取り合わせですね。

遊郭が消費だったというのは分かりますよね。近世の厳格な家制度でワリを食っていた「部屋住みの子弟や、あるいは現実に家長として暮らしていながらもそれに満足していない武士や商人(54頁)」が、たとえば吉原の大門の中では遊女を買って堅苦しい世俗の秩序から解放され(ついでに下半身も解放し)たり、はたまた士農工商的な身分秩序さえ一時的に転倒できたり(「遊郭では金さえ持てばたとえ商人であれ武士を押しのけ、憧れの遊女を独占することができた(54頁)」)。金を払って快楽を、ついでにウサバラシもできるという意味では消費の典型例でしょう。

しかし園芸が消費? はて? と思われる向きは多いのでは。じつは江戸期には園芸が庶民まで巻き込んだ一大ブームだったそうな。

18世紀には、小さな庭、または路地や狭い室内でさえ育てられる鉢物の小さな植物が、下層の庶民にまで流行していった。縁日で鉢植えを売る園芸屋や、朝顔を担ぎ売る朝顔売が都市の風俗として定着するなど、庶民にも気軽に買える商品として園芸植物はブームになっていくのである。

ただし手軽に買えたという理由からだけで、園芸植物は庶民の日常生活へと根を下ろしたわけではない。重要なことは市場を通してのみならず、採取し、手持ちの植物を繁殖させるなどして愛好家が多様な植物を手に入れていくことである。そのおかげでさほどの金をかけることなく、愛好家は他の誰も持っていない鑑賞物を自分だけのものにすることができた。そうした「私有」の魅力こそ、園芸ブームの根底にあったと考えられる。

56~57頁
強調は引用者

また脱線させていただくと、私はこの箇所を読んでいて「あっこれnoteの連載で見たやつだ!」と進研ゼミが送り付けて来る宣伝マンガの主人公のような感想を抱きました(以下が「noteの連載」ね。絵がカワイイ&キレイなのでぜひ一読されたい)。

閑話休題。著者は上記の消費が「道徳的に正しいものだったとは当然いえない。遊郭で女性を商品として扱ったことはいうまでもなく、繁殖のために大量の植物を育て、選別し、廃棄していくというふるまいにも命をもてあそぶという意味で『残酷』さが含まれていた(58頁)」という当然の留保をつけつつも、「それでもなおそうした追求が消費の可能性を拡大していったことの積極的な意義は認める必要がある」として結論を述べます。

先に引用した「消費の固有の論理と歴史、そしてそれが社会にもたらした影響(52頁)とは何か」という問いの答えですね。また引用が長くなっちゃって申し訳ないんですけども。

初めて庶民の水準にまで浸透した貨幣がいかなる力をもっているのかを確かめるように人びとは「性愛」や奇異な姿の植物を自由に消費していく。そうした集団的な経験こそ産業機構の発展の呼び水になっただけではなく、私たちがいまなお多様な消費を続けることを可能にし、そそのかす具体的な根拠になっているのではあるまいか。

たとえば現在の社会では、家庭生活や教育システム、政治システムにおいて個々人の私的な感性や好みを完全に否定することはむずかしい。好きな衣装を身に着け、好きなものを食べ、快適に暮らすことは「消費者」の自由として少なくとも一般的に受け入れられているのである。その背後にあるのは、後ろ指を差されながらも多様な消費をくりかえしてきた無数の人びとの営みの集列である。場合によっては国家や共同体の道徳に逆らい、それゆえ名誉や命さえも危険にさらしながらも、多くの消費がくりかえされてきた。それを直接・間接の前提として、偏りのある欲望を生きることが私たちにはまがりなりにも許容されているのである

59頁
強調は引用者

オーソドックスな思想史では、権利章典がどーの、フランス革命がどーので人権としての自由は広がってきたのですよ、と教えられますが、本書のここで説かれているのは「消費もそれに負けず劣らず、人びとの自由を拡げてきたんじゃねーの?」という歴史観。斬新ですね。

第2章 消費社会のしなやかさ、コミュニケーションとしての消費

前章は総論にして理論編ですので、ぶっちゃけ難しいと感じる向きもいらっしゃるかもしれません。そういう方々は具体例がいっぱいの2章から読み始めてもいいかもしれませんね。

「バブルのイケイケな時代ならともかく、デフレの現代に消費社会を論じる意味(笑)」という(当然の)疑問に対して「いや、失われた30年にこそ消費はある種、隆盛を見せたんですよー」という意外な膝カックンを食らわす鮮やかな分析から始まる本章。著者は「消費」を軸にして旬のアレやコレに対して分析のメスをバッサバッサ入れております。この章はサラっとキーワードだけあげますね。あんまり引用すると「営業妨害」になりそうだし。

「賢い」消費ブーム、サブスク、フリーミアム、推し、NFT、こんまり、ミニマリスト、監視資本主義

いかにも「流行はやりのバズワードはお嫌いですか?」感があるラインナップですが、私の目にはちゃんと「消費」というテーマに関係があるからとりあげているように見えました。それぞれのキーワードに加える著者の分析の鋭さは、まるで時代劇の主人公がモブキャラ達を流れるように斬る剣筋のそれのよう。

100均とブランド品の購買層は割とカブるんですよー、という意外なデータの紹介も。マジか。お金持ちも意外とダイソーでお買い物しているらしい。

第3章 私的消費の展開――私が棲まう場所/身体という幻影

前章に引き続き、具体的な例を引いて「消費」を論じる本章。ただしその筆致は少々「カタめ」。そもそも章のタイトルからしてカタいもんね。住居論や身体論も援用しての論述がおおく、なんか、いかにも現代文の試験で出されそうな文章ってカンジ。だって「消費がコミュニケーションの一種であるとしたら、それはSNS上でのそれとはいかなる異同があるのか」なんて分析から始まるんだぜ? 私が高校の国語教師だったら、ぜったいにテストに出すね、この文章。

それ以降は具体例もまじえつつの記述が始まるので、いうて思ったほどは難しくないよ? 「タワマン住まいは何故、あんなにも羨望とやっかみを集めるのか」とか「90年代以降のドラッグストアの興隆の要因」とか、はては「プロスポーツが人気と熱狂を集めるワケ」とかね。ビジネスパーソンの皆様におかれましても、飲み会の雑談とか、職場の朝礼スピーチにトッピングするネタとして、ここだけ読んでも面白いんじゃないかな。個人的に「ほーん」と思った所は、「大谷旋風」の分析。「イチローとは持ち上げ方(カタい言い方が許されるなら「消費のモード」)が違うけど、なんでだろうなー」と思っていた個人的な疑問に、一定の答えが与えられたというか(ただし著者の分析が全面的に納得できるものだった訳ではない)。

あと印象に残ったのは「『盛り』のゲーム」という頁。「1990年代以降、年少の女子たちに拡がっていった特有の化粧や服装のブーム」のことね。「盛り」といっても「TikTokにインスタ、アプリ加工に韓国コスメ」みたいな令和のそれじゃなくて(それも射程には入っていると思うけど)、「原宿に渋谷、109にプリクラにガングロメイク、(本文に挙げられてないけど、ついでにサン宝石とか携帯にジャラジャラストラップとか)」みたいな90年代末のそれ、『GALS!』的なアレがここで分析されております。読んでいて「うわ~! なつ~!」となるとともに、当時わたしは鼻たれ小僧をやっていたので肉体感覚では記述の正確性が分からないもどかしさがありました。当時ティーン~20代だった女性がここの箇所を読むと面白いかもしれない。

あとは「消費における暴走族とオタクの意外な共通点」とかね。

「オウフwwwwたしかに現象的には共通点を探ればそう言えるのでござろうがwww拙者のようなオタクとヤンキーを十把一絡げにされても困るのでwww(コポォ」とフォカヌポっちゃったそこの君! ぜひ自分の目で確かめてみよう!

(番組中盤に差し挟まれるCMとしてのAmazonリンク。ちなみに該当箇所は132~136頁ね)

第4章 さまざまな限界

以上3章にわたって、いろいろ批判されながらも人々が消費を支持してきたワケ、そして(私の紹介のしかたが悪いので伝わってないかもしれませんが)消費が「人が人として生きる自由と尊厳を支える欠かせない機会になっている(172頁)」ありさまを詳述してきた著者は、「消費社会は端的には否定できない(同頁)」とあくまで消費という営みを擁護します。しかし消費社会に問題があるのも否定できない事実。本章はその問題を論ずる章となっております。

第一の問題はおなじみ、「格差」。ゼロ年代中盤から指摘されていた、おなじみの問題ですね。平たく言えば、「消費、サイコーとか言われてもさあ、手取り十ウン万で可処分所得がねーんだわ、こちとら」というやつ。

なんであれモノを買うことは、消費社会では、その人の尊厳を支えるほかに代えがたい契機になる。自分で好きに選択することは、その人の独自性や固有のライフスタイルを具体的に守るとりでになるからである。

資本主義のなかで自由な選択を許されていなかったり、またそもそも消費のゲームに参加さえできない人がいることは、それゆえ「公平(fair)」とはいえない。消費がますます重要な役割を担う社会で、自分の欲望や望みに対して配慮を受けず、そのため自分の居場所が充分に与えられないことをそれは意味しているためである。

174頁

「でも福祉国家による再分配があるのでは?」というありがちな反論に、「実際、日本でも国家の介入によって所得格差はかなりの程度、改善されている(176頁)」としつつ、著者は再反論を行います。

まず第一に、「脱商品化」の問題。「え? なんて?」となる人が大半だと思いますが、「金を再配分するのではなくて、その金を財源として福祉サービスを現物給付する動き」とでもいうのでしょうか。

(……)福祉国家は再配分を大きな使命とするが、集めた税金は直接、個人に還元されるわけではない。むしろ福祉国家は税金を学校や図書館、医療施設や福祉施設などの設立や運営のために用い、貨幣の支払いが必要ない脱商品化されたサービスを充実させようとする傾向が強いのである。

177頁

これの何が問題かというと、「『脱商品化』されたサービスの充実は、市場を圧迫し、供給される商品の質と量を縮小してしまう恐れがある。脱商品化サービスが一般化すれば、それがかかわる市場は圧迫され、多様性は収縮してしまう恐れが強い(178頁)」から。

例として著者はコロナ禍における公立学校の対応をあげています。

初期の対応において多くの学校は、生徒・学生を放置したまま休校し続けるか、または危険を顧みず対面授業を再開し子どもたちを大きなリスクにさらし続けた。問題は、にもかかわらず、それ以外の教育サービスを年少者またはその親が選択しがたかったことである。

178頁
強調は引用者

教育に対する再分配がおもに公立学校という現物給付であることにより、「民間の塾やフリースクール、オンラインでの学び(178頁)」というオルタナティブは事実上「金に糸目をつけない一部の人(179頁)」しか利用することができず、言葉選ばずに言うと貧乏人は排除されてしまったという問題ですね。「4人に1人近くが私立中学に進学している東京区部(178頁)」ではとくにこの問題が顕著であるそうな。そんなに「お受験」させてるのね都民って。東京さ怖い所じゃあ~。

「脱商品化」にはまだ問題が。それは「公共サービスには、使用者を受動的な利用者に変えてしまうという問題がある。市場に十分に選択可能な商品がなく、代わりにサービスの提供が公的に独占されている場合、使用者はたとえ不満を持とうとそれを選ぶほかなくなる(179頁)」こと。

例として著者が挙げるのは、ズバリ、介護。また引用が長くなって申し訳ないんだけども。

かつての介護サービスでは、こうした弊害が顕著だった。(……)2000年にそれ〔=介護保険制度〕が導入される以前、介護は家族がおこなう義務、またはそれを補完する行政の一方的なサービスにとどまり、介護を受ける者の声をすくい上げ、それに対応する回路は十分開かれていなかった。家族が介護を担う場合、被介護者が対等な立場から種々の要求をすることはむずかしく、他方、行政が介護を担う場合も、特別養護老人ホームなどへの入所は被介護者の権利としてではなく、あくまで例外的かつ恩恵的な行政処分として実施されていたにすぎなかったのである。

179頁
〔〕内と強調は引用者

「脱商品化」にはまだまだ問題が(どんだけあるねん)。すなわち、「政治的な力を持つ特定のグループに有利なシステムがしばしばつくられてしまう」のです。著者はズバリ言います。

「たとえば国や自治体がおこなうサービスが高齢者層に対してしばしば手厚くなっているのは、突き詰めていえば、投票率が高く、また地方議員に陳情するための時間が豊富だからなのではないか(180頁)」

あーね。シルバー民主主義ってやつね。

あと「脱商品化」の問題として最後に挙げられているのは、「社会的に恵まれたものをより優遇」してしまうこと。「たとえば図書館や芸術施設、大学などの利用者には高所得者が多く、そのため富裕な者をさらに有利にする効果を伴う(同頁)」んですって。まあ言われてみればそうだよね。

著者による「脱商品化」の問題のまとめ。引用が長いぞ!

こうした問題が生じるのは、根本的にいえば、サービスの脱商品化が使用者からみずからが選択し決定する力を奪うという副作用を招いてしまうからである。福祉国家は、個人の選択以上に正しい判断を国家やそれを司る官僚や政治家が下すことができると仮定し、だからこそ購買力を個人からかすめ取り、国家であれ、NPOであれ、別の主体に再配分する。結果として、サービスを選択する権利はむしろ貧困者から奪われる。富裕層が私立の中学高校を選択する一方で、貧困層が公立の学校サービスを受け入れざるをえない教育の現状がよく示すように、多くを払う余裕のある者はなお個人的な消費を選択できる一方で、貧困層は脱商品化されたサービスを否応なく引き受けるしかなくなるからである。

180~181頁

もう「ほんとそれ」な記述。いいねボタンがあったら100回は連打したいよ。「政治家or官僚のボクがかんがえた、さいきょうの福祉」をあてがう暇があったら、自由に使える金よこせって話だよねー!

こうした脱商品化の問題を克服するアプローチとして著者が例を挙げているのが、「準市場」とよばれる一定の市場原理を導入した福祉サービス、何を隠そう先の引用文にもしれっと入っていた、介護保険制度です。

2000年に始まった介護保険制度は、サービス享受者に購買力を保証することで介護市場を拡大することに大きく貢献してきた。介護を受ける可能性のある者として中高齢者を保険に加入させたうえで、その保険料と税金を財源とする給付金が介護費用に補填ほてんされるシステムがつくられる。そのおかげで介護は、かつてのように家族によってなされる義務や行政による恩恵ではなく、「消費者」が選択する商品へと再編されたのである。

結果、被介護者はまがりなりにも「消費者」としてエンパワーメントされたといえる。被介護者もあるサービスに不満があれば、別のサービスへと乗り換えられるようになった(……)

181頁

ですが本邦の介護制度に問題が山積しているのは周知のとおり。本文でも触れられておりますが、特養老人ホームの待機者多すぎ問題とかね。「準市場」の導入も、やはり限界があるのよね。

じゃあ社会的弱者に直接お金を給付する「直接給付」はどうか。これも問題含みというのが著者の意見。まーた引用が長くなるんですが、大事な箇所なので。

年金給付や生活保護を代表とするこうした給付が貧困の解消に役立ってきたことはいうまでもない。とはいえ、資格・条件による限定をつけることで、直接給付が貰える者とそうでない者との間に「不公平」がしばしば生じてしまうことも事実である。たとえば年金の場合、世代間格差や婚姻関係の有無による給付の格差が議論の対象になっている。なぜ先に生まれた者は多く年金を貰い、遅く生まれた者は負担が大きくなるのだろうか。またサラリーマンの主婦だけになぜ年金が優遇されるのかといった問いには、突き詰めれば合理的な答えはなく、ただ政治的な恣意によって決まっているというしかないのである。

他方、生活保護の場合も、給付の資格・条件を問う「資力調査」が求められることで給付の有無はしばしば官僚や政治家によって恣意的に決められてきた。たとえば財政に不安を抱えた自治体が生活保護の給付資格を厳しく運用するせいで生活保護の枠が狭められていると批判されているのである。

財政の問題からだけではない。給付が時に厳格に審査されているのは、給付者に世間から厳しい目が向けられているからでもある。2012年には有名タレントの親が生活保護をもらっていることが判明し、バッシングを受けた。生活保護が一部の人に与えられる特権とみられがちな現状では、誰にどれだけ給付され、さらにはそれが何に使われているかがしばしば厳しく問われてしまうのである。

183~184頁
強調は引用者

誰にお金をあげ、誰にあげないかが国家や政府や官僚の恣意になってしまいよろしくないということですね。本書でも名前があがっていましたが、『隷従への道』を書いたハイエクの問題意識と通じるところがある。

(余計なお世話ですけど、「ハイエクなんて新自由主義者の親玉でしょ。死んでもヤツの本なんか読まんわ」とか思っている人でも、一度は目を通した方がいい「古典」ですよ、以下の本は)

閑話休題。

直接給付は政権に近い者たちの消費の自由を拡大し、そうでない人を放置することで、逆に消費の「不公平」を人為的に拡大する手段にさえなっているのである。

185頁

血気にはやるお若い方ですと、ここで「なるほど! じゃあ自由で民主な党の政治家どもを皆〇しして、お仲間へのバラマキをやめさせれば解決するんだね!」と早とちりするかもしれませんが、そうは問屋がおろさないのは、分別のある皆さんなら分かりますよね?

消費のゲームにかかわる「不公平」は、この意味で現在に至るまで十分に対処されているとはいいがたい。ただしそれは国家を運営する人びとの能力のなさや政治的姿勢に由来するというよりも、根幹的には格差を是正するために、国家は私的消費の権利を取り上げざるをえないという、より構造的な条件に基づいている。国家は多くの税金を徴収し再配分を強化することで、経済的な平等を少なくとも一定程度は改善する。しかしだからこそ同時にそれは国家の力の拡大と、私的な消費の制限という「逆効果」を生む。

185頁
強調は引用者

だとすれば、直接、間接的な福祉の拡充によってすぐに問題が解決できるわけではないことをまずは率直に認めたほうがよい。そのうえで消費社会にいかなる限界があり、ではそれをどう変えることが出来るのかを根気強く探らなければならない。消費社会をただ敵とみて攻撃しても問題は解決されない。消費社会について充分に深く考えることだけが、現在の袋小路から抜け出すおそらく唯一の道にもなるのである。

185~186頁
強調は引用者

「んな優等生的なこと言われてもさ、じゃあ俺らはどうすればいいのさ」という声が聞こえてきますね? ご安心を。この「袋小路から抜け出す」方法の1つは、次の第5章で紹介されますよ。

以上、「消費における格差の問題と、その解決策としての福祉国家のアポリア」でした。いやー長かった。

じつはここまでが第4章の前半、後半は消費におけるもう一つの問題点が扱われます。すなわち「環境という限界」。そう、人新世でグレタトゥーンベリな、近年ホットなアレですね。アタシ前半で疲れちゃったから、後半は巻きでいかせて頂かせてよろしくって? ぶっちゃけアタシ、おフランス語でいうところの「アプレ・ヌ・ル・デルージュ」な「今だけ・金なし・自分だけ」な刹那主義者なので環境問題に対してはテンションあがらないんですの。

まず気候変動リスクが冗談抜きでやべえレベルにまで進んでいることが強調されますわ。

(……)2021年に出された『気候変動に関する政府間パネル(IPCC)第6次評価報告書』でも、近年の気候変動が人為的なものであることが、これまで以上に強調されている。以前は「可能性が高い」などと警告されていた気候変動への「人間の影響」が、「疑う余地がない」断定的な事実としていまでは主張されているのである。

188頁

ウィリアム・ノードハウスによれば、私たちは「気候カジノ」と呼びうるかなり危険な賭けを続けている。気候変動の確率がたとえ低くとも、起こりうる被害が甚大であれば、リスクは莫大なものになってしまうためである。

189頁

こうした問題に対応する技術革新にもいろいろな問題が山積していて(詳しくは本書をお読みになって?)、さらに消費社会の構造が問題を複雑にしてしまいますの。

「エシカルな消費」、あるいは「エコ消費」と呼ばれるような環境負荷の低い商品の消費は、たとえ個別には効果があったとしても、総和として影響を及ぼすにはしばしば充分ではない。一例としてスーパーで貰っていたビニール袋を10年間、毎日93枚拒否したところで、イギリスから香港への1回のビジネスクラスの旅行で台無しになるといわれている。

194頁

(……)環境負荷の低い商品の消費が総体としての二酸化炭素削減に繋がりにくいのは、ひとつには「グリーンウォッシュ」とときに非難されるように、「環境に優しい」商品と認識されることで、消費に対する抵抗や罪悪感が洗い流されてしまうからである。個々の商品がこれまでよりも環境にもたらす被害が少ないとすれば、なぜ消費を増やしてはいけないのか。それに答えることは、たしかにむずかしい。

195~196頁

じゃあ「政府による規制」で問題が解決するかといえば、それには経済的成長とのトレードオフをどうするのかという問題が新たに出て参りますし、排出権取引という「ソフトな誘導」も「ソフト」すぎて「その遵守はあくまで努力目標にとどめられ(205頁)」てしまったんですって。大変ねえ。

そんな中で著者が期待を込めて取り上げているのが、「炭素税」の導入。次章との絡みもありますから、巻きで行くと申し上げましたけど、ここはちょっと詳しく引用させて頂きますわね。

商品の生産や流通に使われた炭素を計算し税として消費者から徴収するシステムを国ごとに動かすことで、環境により優しい商品が自然に選択されることが期待されているのである。

205頁
強調は原文

炭素税によってこの「〔二酸化炭素排出のコストという〕社会的費用」を内部化し、より「賢明」な選択を個々の消費者に促すことが期待されている。恣意的かつ厳格な規制に頼らずとも、あくまでソフトなかたちで環境負荷の高い商品から低い商品へと、生産または消費が誘導されると想定されているからであり、たとえばガソリン車の販売を禁じなくとも、環境負荷に見合った炭素税を自動車本体やガソリンに負荷すれば、販売台数は減ると期待されている。それでもなおガソリン自動車に固執する人もいるかもしないママ。ただし規制による場合とは異なり、この場合はそうした嗜好そのものは否定されない。代わりにそれに見合うだけの炭素税が支払われ、理想的にはそれが他の環境対策のために使われればよいと考えられているのである。

消費者個々人の自由をこうして維持するというメリットに加え、炭素税には前もってグローバルな調整が必要とされないという利点もある。炭素税はあくまで一国の制度として法制化されるからだが、ただしそれは国内に限定されない影響を及ぼす。炭素税を導入したある国が他国から商品を輸入する場合、公平性の観点から同等の炭素税が輸出国ですでにかけられていることが要求される。さもなければ、税関で同等の税の追加的な支払いが求められるのであり、そのため輸出する側は、その国の住人でなくとも炭素税を支払うか、それが嫌であれば自国に炭素税の導入を要求しなければならないように誘導される。

205~206頁

こうして鳴り物入りで紹介されている炭素税ですけれど、やっぱり問題はありますのよ。ご本ではいくつか問題点があげられていますけれど、アタクシ的に引用したいのは「炭素税には人々の持つ選択の自由をより『不公平』なものにしてしまう恐れが強い(208頁)」から続く箇所かしら。

富裕な人びとは、多少の税金の支払いは気にしなくてよいという意味で、炭素税導入後も比較的自由に選択し続けることができる。たとえば炭素税が飛行機の搭乗にかけられれば、旅行は今以上に高価なものになるだろうが、富裕層はその気があれば価格の上昇を引き受け、変わらず旅行を続けられる。対して貧困層はそれがむずかしく、結果として国内・海外を移動する自由を奪われてしまうことにもなりかねない。

炭素税だけではない。それ以外にも、二酸化炭素排出に懲罰的な税をかける温暖化対策の試み(中略)は、巡り巡って最終的に消費財にコストを転嫁せざるをえないことで、消費にかかわる「不公平」をますます増大してしまう恐れが強い。イギリスの環境保護論者ジョージ・モンビオは、「化石燃料からの贈り物のひとつは「自由」であった」と述べているが、移動し、快適な部屋で暮らし、おいしいものを食べる自由の多くを、炭素税などの対策は貧困層から奪ってしまう危険がある。それらは環境に悪影響を及ぼす商品を買う自由をこれまで以上に高価なものにすることで、大きく見れば貧しい人からより豊かな人に買う自由を譲り渡す仕組みとして働きかねないのである。

208~209頁
強調は引用者

以上、消費における環境の問題とその対策でした(お嬢様コトバに疲れたので通常営業に戻る)。

消費における格差と環境破壊という問題。これらを乗り越えるにも八方ふさがりに見える袋小路をどう脱するか。その解決策は次の第5章で論じられます。

第5章 消費社会(へ)の権利

はじめに、著者による「ここまでのおさらい」が行われます。

1 この社会は今でも消費社会か
 →その通り。消費社会は平成のデフレ下でも健在だったし(詳しくは本書第2章を見よ)、これからも続いていくと考えられる。
2 消費社会を私たちは受け入れるべきか
 →受け入れるべき。理由は著者の言葉を引用しますね。

〔消費社会を受け入れるべきなのは〕消費社会がたんに「豊かな」社会を実現するからではない。豊かさは消費社会の専売特許ではない。共産主義国家であれ、あるいは近世日本でのような封建制を基盤とした社会であれ、時代の技術水準の範囲で一定の豊かさを多くの人に許容してきた。消費社会のむしろ利点は、それが私的な選択を許し、個々の好みを尊重し、結果としての多様性を促進していくことにある。人が何を好み、選択すべきかについて、国家や共同体の決定や指導に任すべきではない。すべきことと、すべきではないことの判断に対して誰かの恣意的な選択がどうしても入り込み、結果的に少数者の自由が奪われかねないためである。

212~213頁
強調は引用者

3 消費社会を受け入れたときの問題は何か
 →格差により、消費への参加が困難になる不公平。および社会の存続じたいを危険にさらすほどの気候変動リスク。

「なるほどね。消費社会は受け入れるべきだけど、問題もあると。じゃあ国の福祉/規制で対処すればオッケーだね」という発想が問題含みであることは、第4章で詳述されていましたね。

福祉国家にしろ新自由主義的国家にしろ、「暴力の独占機構」としてある国家は、人びとの私的自由を多かれ少なかれ掣肘せいちゅうすることで成り立つ。脱商品化されたサービスを増やしたり、規制を強化したりすることによって、国家は消費に対する恣意的な制約を強化してきたのである。

消費社会を補正するために国家の力が必要になるが、その力の増大は同時に危険をはらむ。ではどうすればよいのだろうか。重要なことは、国家の力を制限する原理やシステムをつくりだすことである。より具体的には国家の「収奪」と「配分」の機能を切り離し、それぞれ別の原理によって動かす仕組みが要求される。富者から税金を徴収しそれを社会に還元する装置としての国家はたしかに必要である。ただしそれが人びとの消費の自由をできるだけ奪わないように監督し制限する、何らかのシステムや制度をつくりだしていかなければならないのである。

217~218頁

ミステリ小説だったら「名探偵/みなを集めて/”さて”と言い」といった所でしょうか。これだけ根の深い社会の問題を解決する、「何らかのシステムや制度」って、いったい何よ。もったいぶらないで教えなさいよ。

まあそう慌てずに、ご婦人。それはですね……

そうした制度として本書が注目するのが、ベーシックインカムである。

218頁

待って! 「な~んだ、さんざん引っ張っておいて結局それぇ? 俺、帰るわ。お疲れ様でした~」ってならんといて! 話せばわかる! わからないかもしれない。

ぶっちゃけ私は「BIね、あーハイハイ」と食傷気味なキモチだったんですけど、読み進めて感銘を受けたのが、著者がBI導入を唱える理由、すなわち、あくまで「消費社会の持続可能性(222頁)」のため、という独自性です。

〔今の消費社会で、低所得者や貧困層が消費の果実を十分に享受できず、環境対策のワリを食うのは〕この社会で消費する権利が充分に与えられていないからである。現代社会では、事実上、消費こそが人びとが尊厳を持って生きられるかどうかを左右している。にもかかわらず、消費の権利そのものは万人に保障されていない。たしかに現行でも、「健康で文化的に生きる権利」は国家によって認められている。だがそれは形式的な保障にとどまり、消費社会の中で生きることに具体的に配慮したものではない。たとえば先にみたように脱商品化された公共サービスでは消費者の自由は充分に保障されず、また生活保護受給者に対して何を保有し、何に消費しているかが公式、非公式に問われるように、国家は消費の自由そのものを端的に認めている訳ではないのである。

223頁
強調と〔〕内は引用者

言葉遣いこそおカタイですけど、「消費こそ尊厳」とまで言い切っちゃうの、素晴らしくない? ロックミュージシャンの分際で”England is mine, it owes me a living(イギリスは僕のもの、僕の生活を保障しろ)”と開き直っちゃうフテブテしさみたいな。そういうの大好きよ。引用文末尾も、読んでて「我が国では私的なものが端的に私的なものとして承認されたことがいまかつてないのである」という丸山眞男まさお啖呵たんかを思い出しちゃったよあたしゃ。学者先生なのにここまでハッキリものを言って下さるお人は、そういないのでな……。

低所得者だけではない。子ども、主婦、労働から排除された移民、学生あるいは障害などで働けない者など、たとえ物質的には豊かであったとしても、他者に依存して生活しているために消費を自由にはおこなえない人びとがこの社会には数多く暮らしている。そもそも2021年の日本の労働人口は6860万人であり、そこに含まれる206万人の休業者、193万人の完全失業者を差し引けば、この社会ではほぼ半数が自分の稼ぎを持たず、それゆえ誰かに依存して暮らしているといえる。

224頁
強調は引用者

社会学者のジグムンド・バウマンは、現代社会では「貧しい人々は何よりもまず「非消費者」」として現れると指摘している(……)

224頁
バウマンの引用は、本書脚注によると
Z・バウマン(伊藤茂訳)『新しい貧困――労働、消費主義、ニュープア』
青土社、2008年、212頁より

(……)親子や妻の関係がそうであるように、消費社会における優位・劣位が、この社会では支配・被支配の関係を定める基本的な枠組みになってしまっているのである。

224頁

(……)問題は、そもそも消費のゲームへ参加さえ許されず、そのため親や夫などの他者に従属するか、または脱商品化されたサービスに依存するなどして、消費社会で満足に尊厳を与えられてこなかった人びとの存在である。ベーシックインカムは、そうした人びとの「権利」をまがりなりにも回復する。ベーシックインカムはこれまで消費のゲームから排除され、消費社会で「二級市民」として生きなければならなかった主婦、年少者、高齢者などに選択の自由を最低限であれ保障する。そうすることで消費社会に生まれながら、消費のゲームに参加さえできない者たちの「不公平(unfair)」を少なくとも緩和するのである。

225頁

名文が続くので引用4連チャンで失礼。ここら辺の問題意識はフェミニズムのそれともオーバーラップしていますね。自分の稼ぎがないからDV夫と離婚したくてもできない妻、あるいは夫のモラハラが辛すぎて子供に「お前のためを思ってママはモラ夫と別れてないんだよ」とついこぼしちゃうお母さん、子供は結果アダルトチルドレンに、みたいな問題ね。

そういう(あえてこの言葉を使わせていただくが)「女こども」以外にも、自分の稼ぎがあって消費に問題なく参加できている人(典型的には正社員の成人健常者男性)にもベーシックインカムの導入はメリットがあります。

これまで消費社会は、働かなければ消費を続けられないと脅すことで、私たちを賃労働に縛りつけてきた。職を失い、それゆえ消費者としての自由と尊厳をなくすことを恐れ、多くの人びとは場合によってはその「必要」さえ超えて、労働にいそしんできたのである。

226頁

(……)ベーシックインカムは消費と働くことのむすびつきを一定程度切り離す(デカップリングする)。「労働」が人の尊厳を保障する根拠となってきたことは、消費社会でもこれまでの多くの社会と同じである。自由に消費するためには、労働し金を稼ぐか、またはそうする人の言うことを聞かなくてはならないからだが、ベーシックインカムはこうした構造を揺さぶる。ベーシックインカムはとたえ充分に金を稼げる労働に従事していなくても消費社会で生きていく権利を保障することで「労働」から「消費」へと人の尊厳の根拠を実質的に切り替えるのである。

226~227頁
強調は引用者

うーむ素晴らしい。「人の尊厳は消費にあり」と言い切れる勇気をもったインテリがこれまでにいたでしょうか。いや、いない管見の限りでは

ひとつツッコミというかトーシロの素朴なお気持ちを述べさせていただければ、「労働から解放されて消費をしましょう」という掛け声が、一般ピーポーに対して魅力的なアピールになるのかな? という危惧はある。「働かざるもの食うべからず(これがレーニン経由で聖書から孫引きされたフレーズだと知っている人が我が国にどれだけいるでしょう)」が不文律になっている本邦で、むしろパンピーのアレルギー反応をひきおこしてしまうのではないの、と思っちゃうんですが、どうでしょう。

「なんだかんだ言って、人間は働くのが一番だよ」、とはいかにも昭和のオッサンが飲み屋で言いそうなヨタではありますが、人文学書でも同じようことを述べている本はあるのですよね。いま手元にないので引用はちょっとできないんですけども。

↓これの「第12章 仕事は禍いの根源なのか、それとも幸福の源泉なのか?」とか。

あとは「凡庸な悪」で有名なアレントおばさんも、「労働」を褒めている箇所が1箇所だけだけど下の本にありましたぞ。意外でしょ? 「労働? あれは人間のやることではないから(笑)」とかぜってー言ってそうじゃん、あのオバサン(個人の偏見です)。

まあ、本書の著者が言いたいのは「だから現状の労働がそういうdecentなものになってないから問題なんだろうが!」ということでしょうが。以上つまらないツッコミでござんした。

あとはー、なんだっけ。そうそう、消費社会によって不可避に引き起こされる環境破壊、気候変動が問題なんでしたね。これもベーシックインカムでなんとかなるんじゃね? という書きぶりになっているのですが、ぶっちゃけ説得力は感じませんでした。本での小見出しも「環境保護への期待(強調は引用者)」となっておりますし。

ただし、本書の特色を一つあげておくと、環境保護に資するという理由でベーシックインカムの導入を主張しているだけでなく、むしろ当為論(べき論のことね)からベーシックインカムの正当性を導き出している所でしょうか。

気候変動の対策が多かれ少なかれ引き起こす経済停滞が貧しい者にとくに厳しくなることに加え、気候変動に対する市場的な対応としての炭素税を代表とした罰金的な税の賦課は貧しい者からまずはじめに選択の自由を奪っていく(……)

だからこそ気候変動対策をおこなうのであれば、それによって被害を受ける可能性が高い者に代償を支払う必要がある。この意味ではベーシックインカムは望ましいというより、当然なければならない政策といえる。

227~228頁
強調は引用者

再生可能エネルギーへの転換が進めば、価値を失ういわゆる「座礁資産」や膨大な失業者が特定の分野に出ると予想されている。それはリスクヘッジが可能な富裕な者以上に、中間層、下層の人びとの生活に深刻な影響を及ぼす恐れがある。たとえば自動車産業に関連した膨大な数の労働者は、カーボンニュートラル政策によってその生活基盤を揺さぶられる危険性が強い。だからこそ大胆な変革もむずかしくなっているのだが、ベーシックインカムはこうした危険を代償する。

229頁

結論

過去の人びとのためらいがちの、または決然とした消費のくりかえしを不可欠の奥行として、現代社会では多様な選択が可能になっている。身体を好きに変形することや、私的な快楽を得ることなど、場合によっては「愚行」にすらみえる消費さえ許す市場の歴史的厚みに支えられ、私たちは国家を掣肘せいちゅうさえできる力をいまベーシックインカムというかたちでまがりなりにも想像できるようになっているのである。

ならば恐れることはないのだろう。自分にとって、または他者にとって何が「正しい」選択なのかに悩み、失敗を恐れ怖気おじけづく前に、先人たちがそうしてきたように、自分とは何であるのかを市場のなかで探り、またさらなる快楽を探し求める勇気を持てばよい。

248頁

感想

新書相手にここまで長文を書き連ねちゃうところから、賢明な読者諸氏はうすうす気づいていると思いますけど、この消費社会≒資本主義社会で日の当たる大通りを歩けていないのね、私。そんな人間が消費社会≒資本主義社会アンチになるのは理の当然。しかしこれまで読んだ資本主義アンチ本にはどれも飽き足らなくって。

↓これとか

↓これ(ごめん全然読んでないんだけど)とか

”資本主義社会から『おり』よう、お金から解放されよう”とか言ってるけどさあ、おたくらははそういう言説を商品として売りつけて小金を稼ぐことで、資本主義から『おり』るどころか取り込まれてるじゃん、という感想を禁じえなかったのね。そうやって文章を換金できる立場の方々はいいわね、羨ましいわ、って。

他にも↓の本とか。

「”消費”ではなく”浪費”を!」という結論にずっこけました。「😅」となった未読の方は該当書を読んでいただくとして、既読の方むけに私の読後の感想をお伝えすると「それができるのはアナタが教育と教養を持ち、悪くない収入を保障されている大学教授サマだからでしょ? アタシら貧民は”消費”をするしかないんですけど?」というもの。

あとはサンデル教授の↓の本。

「ほぼなんでもお金で買える今の社会はおかしい」という論旨の本で、それ自体に異論はないんだけど、それに対する処方箋が「共通善」「共同体」って……。アメリカ東海岸にお住まいであろう白人のハーバード大教授サマの脳内では古代ギリシャのポリスあたりが浮かぶのでしょうが、極東の島国に生息するザパニーズの私には、窮屈な日本のムラ社会の映像しか浮かびませんのよ。お盆には親族一同つどって、広間ではオッサンどもがビール片手にどんちゃん騒ぎ、お勝手で息子の嫁どもが無償で炊事やお給仕に従事させられ、枝豆出しに行ったら「おう○○チャン、子供はまだかい? 旦那と夜のほうはうまくいってる? ガハハ」みたいな。

あと個人的なお気持ちを爆発させてもらっていい? 上記のような批判言説を上梓している人たちも、不本意ながらも便利な現代文明を享受しているでしょ(特に大学教授であらせられるお二方)? 買おうと思えばスタバのナントカフラペチーノ、いつでも気軽に買える程度の収入はあるんでしょ? ていうか、GAFAのサービスを使ったことぐらい、あるんでしょ? (なかったらゴメン)

それなのに……それなのに……!

そういう分際でいっちょまえに資本主義を「おりる」方法を指南したり、文明批判したりして、あまつさえそれを飯のタネにしているとかさぁ、ムカつくんだよ~~~~~!!! 何様のつもりだぁ~~~!!!

「あなた方は現在を軽蔑する権利がない」

『消費社会を問いなおす』韓国版への序文|貞包英之 (note.com)

ひとつ断っておくと、例として挙げた上の4冊のチョイスに他意はなくって、どれも面白かったし勉強になりましたよ(坂口恭平氏の本は読んでないけど)。ここで私が告発したいのは、消費社会≒資本主義社会を批判するのはそれで飯を食える評論家・ライターor食い扶持を保障された大学教授で、そこらのパンピーが彼らの言説を正直に信じて資本主義から「おり」てもバカを見るだけ(飯田氏や坂口氏の提案を、この世の中で実践できる人が何人いるでしょう)、という残酷な構造です。上で主観的なシャウトを吐かせてもらった、舌の根の乾かぬ内になんだけど、誰が悪いとかじゃなくて。

あるいは資本主義の外部、オルタナティブを説く本も、生きづらいこの資本主義社会の外部を人々にチラ見せして息抜きさせ、社畜として明日への英気を養わせる機能しか果たしてないんじゃないの? とかね。「あぁ、人類の可能性も捨てたもんじゃないな。さぁ明日も仕事で5時起きだから寝ようか」みたいな。宮台真司の言葉を借りれば、「週末のシャワー」として消費されているだけで、「体制補完の利敵行為」になってんじゃんって。

(例として↓の本。いや、面白かったですよ? 長かったけど)

そもそも消費社会≒資本主義社会に対する批判こそ、批判対象の体制を駆動させる燃料になるというカラクリがあるのですよね。相手はビルトインスタビライザー搭載型の、全属性(無属性も)吸収持ちのラスボスなのです。生半可な攻撃では敵のHPはむしろ回復してしまうのだ。


そういう訳で、「消費社会がその根本において実現している多様性や自由をあくまで大切なものと考える(13頁)」本書は、大げさな表現で言えば天啓だったというか。アンダー20の若者にはピンとこないであろうquoteで言えば、「あなたが神か」。

消費を批判しつつ、その批判言説で稼いだ金でチャッカリ消費を楽しんでいるであろうカマトト著作家たち(にヘイトが向くように仕向ける現今の社会制度)にウンザリしていた私にとって、この本はまさに干天の慈雨でしたよ。そう、今の社会をなまじっか批判しようが、当の社会は批判者に対して小金を与えて取り込んでしまうのです。ここで相手を倒すには、褒め殺し●●戦略のほうが有効なのです。ただし、いわゆる「加速主義」的なそれではなくてね。

「(……)政治的な権利が守られれば、すぐに具体的な自由が保障されるわけではない。現代社会では貨幣こそが、他者の思惑やこれまでの一貫性さえ気にすることなく、個人の希望を押し通すためのむしろ具体的な根拠になっているのである(33頁)」とかね。うなずきすぎて赤べこになりそうだったわ。たしかにね、政治的な権利、大事。先人たちの血みどろの闘争の末に勝ち取られた果実なのも分かる。

第九十七条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

日本国憲法 | e-Gov法令検索

でもさぁ、ぶっちゃけ現代日本では政治的自由よか経済的自由のほうが幅をきかせていない? 金さえあればなんでもできます、みたいな。清き一票を国会議員に入れるより、清くない金を政治献金したほうが話が早いぜ、みたいな。そういう現状のもとで「現代では人権は保障されているのでぇー。経済的自由の保障? 金よこせってことですかぁー? あー、それは機会平等じゃなくて結果平等という悪平等になっちゃうのでー、ソ連になっちゃうのでー、文句があるなら生活保護があるのでぇー」じゃないんだよ! そういうのを「無知にあらずんば欺瞞である」というんじゃないのォー!? 自分で、自由に、使える、金で、消費、できるのが、現代では「人権」なの!!!!!

ワシらうまいもん食うての、マブいスケ抱く、そのために生まれてきとんじゃないの(仁義なき戦い)」が我が座右の銘なので、本書はよくぞ出版してくれたと拍手したい勢いです。私が犬だったら読んでて確実に嬉ションまき散らかしてたね。ネットじゃあんまり話題になっていないっぽいけど、もっとこういう本こそ話題になって売れてくれよな。


以下は箇条書きでの落穂ひろい。疲れたので。

・「消費社会に対する批判は、人びとが同じような道徳的関心を持ち、平等に暮らしている未来を描いてみせる。しかしそうした社会が消費社会以上に本当に望ましいものであるのかどうかについては、慎重に吟味しておかなければならないのである。(13頁)」

ね。本書でも名前は出てるけど、『人新世の資本論』の「軽自動車乗ろうがベンツ乗ろうが、使用価値としてはどっちでも変わらないでしょ」という箇所を読んで私はインテリの鈍感さ&傲慢さにゾっとした記憶があります。いや、変わるわ! そういうあなたこそ、丸フレームのオシャレ眼鏡かけてますけど、ダサフレームと「使用価値は変わらない」んじゃないの!? なんで幸平クンはその眼鏡かけてるの?!

・「けれども消費社会を乗り越えると吹聴する企ては、こうした〔たとえ愚かなことと他人から判断されようと、自分の望みをこの社会で私たちは押し通すことができ、それをもとに私たちは「私」自身であることが具体的に許されているという〕自由や多様性の大切さについて充分な配慮を払ってこなかった。平等や環境保護を実現するためには、多かれ少なかれ国家による規制や強制が避けられないが、それが消費社会で空気のように享受されている自由や多様性を損なう危険性についてはあまり真剣に考慮されてこなかったのである。(13~14頁 〔〕内は引用者)」

・著者による政権批判が多少ふくまれる本なので、気になる人は気になるかもしれない。他人様ひとさまのツイート引用で失礼させて頂く。

・上記と関連して。本書では「新自由主義」という用語がとくに厳密な定義もなくいたるところで使われていますが、藁人形論法になってないかな? という危惧がぬぐい切れなかった。私は雑に「経団連のおじ様たちとGAFAの経営陣にやさしい社会」と変換して読み進めましたが……。

・「(……)たとえば政治的な権利が保障されていたも、「私」的に消費できない社会のことを想像してみればよい。そうした社会では慣例や慣習から外れて行動することはむずかしく、ときには命がけの行為にさえなってしまう。他方、現代社会にはアルコールの過剰な摂取や性的消費など、他人の目には破滅的にみえ、また道徳に反するとみなされる消費もあるが、その追求すらもある種の「愚行権」として一定程度、許容されているのである(33~34頁)」

・「(……)私的な選択が端的に許されない社会が生きるに値するものとは、筆者には到底信じられない(34頁)」

・「(……)現在「貧困」が取り上げられる際も、生計を維持しがたい絶対的な窮乏ではなく、他の人に比べ充分に消費がおこなえない「相対的貧困」が問題化される場合が多い。消費を楽しみとしておこなえないことが窮状として社会に訴えかけられるという状況は、裏を返せば誰もが奪われるべきではない「権利」として消費が社会にしっかりと根付いていることをむしろ明らかにするのである(68~69頁)」

・「(……)「推し」とは、タダのようにあふれる無数のコンテンツのなかから何かを選択し、それに全身全霊をかけることで、自分が何であるかを表現しようとするコミュニケーションのひとつの戦略なのである(90頁)」

・「(……)日本文学研究者の前田愛も、「貧しさがもの●●の欠乏状態であるという私たちの常識」を否定し、明治の貧民窟にモノがあふれていたことを強調していた。その状況はいまなお変わらない。消費社会の貧者が100円ショップなどでモノを買い込み、貯め、場合によっては家を「ゴミ屋敷」にしているのに対し、スティーブ・ジョブズのような超富裕層は、モノをできるだけ持たず、精選された服だけを着る生活を送っている。豊かな者がモノを最小限にまで減らせるのに対し、豊かでない者は、いつ買えなくなるかわからないために商品を買い込まなければならず、まただからこそこんまりが説くような「片づけの魔法」を必要とするのである(105頁)」

映画「パラサイト」での、半地下の家と地上の家の対比みたいなね。お金持ちの家って、モノがなくてスッキリしているのよね~。

・「「第四の消費」論や「正しい」消費といった議論は、消費に時系列的な変化をみることで、他者とのコミュニケーションを時代遅れの克服すべき消費とみなす傾向がある。だが、そうした見方には無理がある。商品に他の商品との違いを示す示差的な価値が備わっている以上、他者との水平のゲームは多かれ少なかれ、つねにすでに続けられているからである(125頁)」

文脈は違えど、「自分と他人を比べるのはやめましょう」みたいな自己啓発のインチキさと通ずるものがありますね。「他人との比較なくして自分なし」とは、かのマルクスおじさんの言。

・「いわゆるオタク的趣味は年収上昇に応じ活発になるどころか、落ち込みさえみられるのであり、その意味でそれらは高所得層では一般的ではない、逆にいえばお金がない人でもそれなりに楽しめる趣味としてあったのである(134~135頁)」

「お金がない人でもそれなりに楽しめる趣味」。ギクッ。

・「人びとは既成の市場によってつくられた商品によっては満たすことのできない思いや願いをモノの余白に投影していく。それが場合によってはあらたな市場をつくりだすが、次にはその市場でも叶えられなかった思いや願いが、モノの余白にかかわるさらにマイナーな消費の探求によって引き継がれていくのである(136~137頁)」

著者の意図とはズレるんでしょうが、二次創作、ことにBL(「やおい」と言った方がhistorically accurateかしら?)のそれをほうふつとさせる記述。現段階は「あらたな市場をつくりだ」して幾星霜、といった所でしょうね。

・「〔90年代前半からのタワマンブームの引き金となったのは〕ひとつには法的な改正である。土地を「有効活用」し、それによって地価の高騰を引き起こすことを狙って、地域を限定しつつも容積率が緩和されていく。容積率はその土地に建てることができる建物の形状を実質的に定めるのだが、東京都では2000年の特定容積率適用地区制度の制定や、2003年に東京都が容積率緩和の運用方針を変えたことなどによって、それまでの規制が有名無実化され、超高層マンションが多くの場所で建てられるようになったのである(139頁 〔〕内は引用者)」

・「(……)世帯を縮小しプライベートな空間に暮らすことが現代社会では理想として受け入れられており、それを守るまゆとして超高層マンションが多くの人の欲望の対象になっている(……)(145頁)」

・「騒音や暑さ寒さ、あるいは美的センスなど「私」を乱す感覚的他者に加えて、家族などの具体的な他者の介入を避けた私的な空間はむしろオフィスや商業地などの公共空間にいち早く実装されていったのである。しかし超高層マンションはついに周到に管理され、できるだけ生活感が降り積もらないように計画された居住空間に暮らすことを一部の超富裕層以外の人まで可能にしていく(147~148頁)」

・「適切な貨幣を支払うことで、他の身体を遠ざけた快適な空間を私たちは手にできるようになっている(150頁)」

・「現代のテクノロジーの発達を利用して、身体の制約を超え、それによって何らかの変化や陶酔感を味わおうとするという点では、アスリートとジャンキーの距離はみかけほど遠くない。スポーツは達成に比較的長い時間と金を必要とし、そのためたやすく真似ができるわけではないことで逆説的にも社会的に許容されているのに対し、ドラッグは誰もが容易に経験可能な対象として集団の禁忌タブーになっているにすぎないともいえるのである(157頁)」

・「化粧やファッションが女性たちにおいて特別な消費の対象になっているのは、それが女性たちに許された、数少ない自由な活動の領域だからなのではないか(168頁)」

・「女性だけではない。たとえばスポーツや筋トレに多くの男性が駆り立てられているのは、労働の場や家庭で自律性や男性性(masculinity)が脅かされているためかもしれない(同頁)」

・「誰かが私的な消費を追求している姿を目撃しながら、自分がそうできないことを受け入れることは容易ではない(……)(186頁)」

「下級国民」からする「上級国民」への嫉妬のまなざし。

・「(……)消費社会に代わるコミュニズム的なオルタナティブな社会をつくるという声もときに湧き上がるのだが、ほとんどの場合、それは現実から目をそらし、ユートピア的夢想にひたるだけのものとして終わるか、さもなければかなり悲惨な社会を実現する計画になってしまう(同頁)」

・「(……)本書は、近年流行しつつあるアナーキズムがしばしばしそうみなしているようには、国家そのものをいたずらに否定するものではない。消費社会において消費の公平性を維持するためには再配分がおこなわれなければならず、それができる主体は本質的には国家しか存在しない(217頁)」

はいはーい! 私も最近のアナーキズムブームに乗り切れない人間の一人でーす! つっても栗原康の本ぐらいしか読んでないんですけど。栗原サンはよく「相互扶助」って言うのよね。でもさぁ、「相互扶助」でなんとかなるって彼が思えるのは、彼が「人間的な魅力あふれる」人だからじゃないの?そりゃあれほど話が面白くて、非常勤だろうが大学で授業受け持てるほどの教養もあって、ついでに顔がイケメン(重要)な御仁なら相互扶助のネットワークで人生エンジョイできるのかもしれませんが(それが証拠に、彼の本では「友達」がよく出てきます)、普通の人間は相互扶助の輪が息苦しくなっちゃうか、もしくは単純に「お前イラネ」って輪から外されちゃうんじゃないの? コミュ力が通貨になるので、何も持っていないコミュ障はポイーで、みたいな。

また他人様のツイート引用させていただきますけれども。

そう、弱肉強食の世界になって、おめでとうございます、強者は映画「ソドムの市」みたいに自分の好き勝手にできるよ♡(そうじゃない人はドンマイ)みたいな。(おやくそく:よい子のみんなは映画名でググっちゃダメだぞ。大人になってからググろうね♡)

・「(……)ベーシックインカムの実施の是非や、またいくら給付するのかを最終的に決めるのが、依然として政府であることに変わりはない。ただし下限を一定額に定め、上限は物価や税収、GNPなどに連動して変化するものと法や憲法によってあらかじめ規定しおけば、政治家や官僚がベーシックインカムを安易に操作することはむずかしくなる(242~243頁)」

素人質問で申し訳ないんだけど、そういう細かい規定って「法(国会で制定する「法律」ということ?)や憲法」になじむものでしたっけ。現行の生活保護制度のように、細かい数字は「「省令」や「告示」で定めますね」って議会のコントロールが届かない所で決められちゃって、司法に訴えても「厚生大臣の合目的的な裁量に委されており(朝日訴訟判決)」の決まり文句で「金額の多寡は、テメーらに口出す権利はないから」と一蹴されちゃうのがオチじゃないの?

・「〔「理想の社会とは何か?」という問いを今時の大学生に訊いても〕答えが出にくいのはひとつには、現代が「豊かな」社会であることを理由としていると考えられる。大学に来るような学生であれば、それなりに満足な暮らしを送ってきた階層出身の者が多い。そうした者に消費社会の豊かさや気楽さはもはや空気のように浸透している。だから学生たちは別にあらたな社会の理想について考えなくとも、今もこれからも、それなりに充実した暮らしを送って行けると信じていられるのである(263~264頁 〔〕内は引用者)」

なんだかんだいって、現代人って「満ち足りて」いるのよね。だから現状変革をする理由がない。そういう意味で「歴史の終焉」を迎えているのかも。

・「〔コミュニズムや福祉国家の拡充、あるいはアナーキズムという〕そうした理想は、現在をはっきりと否定するという意味で、たしかに分かりやすいものかもしれない。だが本書からみれば、そこで目指されている社会は問題なしのものとはいえない。それをいかにして実現するのかという具体的な道筋がみえてこないことに加え、そもそもそれが私には魅力的なものとは映らないからである。私が望むのは、個人の可能性の追求を許すとともに促し、端的に私が私としてあることが、たとえ「愚か」とみられても、許される社会である(265頁 〔〕内は引用者)」

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