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『消費社会を問いなおす』韓国版への序文


 以下、南旭相氏に翻訳していただいた『消費社会を問いなおす』の韓国版(『현대 일본의 소비 사회』(現代日本の消費社会))に書かせていただいた序文です。(韓国版はおそらくもっとこなれた文章になっているはずです。)


韓国版への序文

この本に書いたこと


この本は、わたしたちの社会の可能性と限界を、もう一度問い直すために書かれました。わたしたちは日々、消費を積み重ねながら生きています。消費がそうしてわたしたちを惹きつけるのは、それがたんに財やサービスを手にいれる経済的な「交換」の手段にとどまらず、他の手段では叶えられない願いや欲望を満たす、万人に開かれた社会的な手段だからです。
 ただしこうした消費にも現代社会では限界がつきまとっています。「格差」や「地球環境破壊」という問題が大きくなっているためです。ではどうすればよいのでしょうか。消費に頼らない社会を目指すという道もありますが、わたしからみるとその試みは、すでにここ100年の歴史のなかで弱点を露呈しています。消費に頼らず財やサービスを配分するためには、それを強制する国家の力を拡大することが必要ですが、それが多くの悲劇や紛争の増大につながってきたことは否定できないことのように思われるのです。
 そうではなく、①消費がこれまで積み重ねてきた達成を慎重に評価しながら、②消費を拡大的に継続していく道を探ることのほうが重要になります。そうした問題関心のもとに、本書は書かれました。
 本書の特徴としてひとつ強調できるとすれば、消費をわたしたちがわたしたちであることを実現し、または拡張する手段(または力=「権力」)として捉えていることです。あらかじめ存在する(と考えられている)個人の人権や権利を消費は守ると言いたいのではありません。むしろわたしたちはお金を媒介として、ばかげたことやひどいことを実行し、それによって場合によっては自分自身としてあったものを変えていくことさえ誘惑されます。けれどもその結果として、あらたな人間のあり方が模索されると同時に多様性が実現されてきたのであり、無数の無名の人びとが消費を積み重ねることで開いてきたこの「歴史の現在」を、さまざまな留保はあれ、本質的には本書は重視したいのです。

鏡としての日本、韓国


 いま「この社会」といいましたが、本書でそれは一義的には近年の日本社会のことを意味しています。日本社会はこの30年あまりの間、不況にあえぎ、ひどい出来事を経験してきました。そのなかでも人びとは着実に購買活動を積み重ね、それが以前より少しは多様な社会をつくりだす力になってきたとわたしは信じます。「あなた方は現在を軽蔑する権利がない」とかつてシャルル・ボードレール(とそれを引用するミッシェル・フーコー)は言っていましたが、わたしもわたし自身が生きてきたこの社会の経験を根本的には軽蔑したくはないのです。
 もちろんそれは、韓国社会の経験とは異なります。少なくともIMF通貨危機以後、韓国社会が経験してきたのは日本とは異なる未曾有の経済成長と国際化であり、またそれに伴う貧富の差の拡大や、人びとによって大きく異なる自由の多様化でしょう。ある種の人びとには国を超えグローバルに活躍する力が与えられ、別の人びとには定まった職や充分な財産を持たないという「自由」が許される。そうした社会のなかで、消費の持つ意義を強調することはある種の「誤解」を招くだろうと予測されます。わたしが擁護したいのは、ドラマの『わたしのおじさん』でイ・ジアンにも与えられるような社会を生きるささやかな尊厳なのですが、そうではなく『梨泰院クラス』のチョ・イソが享受するような特権的自由を拡大すべきという主張だと受け止められてしまうかもしれません。
 かつて日本の作家、中上健次は、日本と韓国の関係を「鏡」の比喩を用いて説明しました。2つの国の境界を超えるとき、まず実感するのは圧倒的な共通性です。ある種の文化的近さのみならず、第二次世界大戦後に国際秩序のなかで置かれた地位の近さから、日本社会と韓国社会はたしかに近しいものと感じられる。しかしだからこそその異質性に戸惑うと中上はいいます。左右反転した鏡の中の世界のように、当然そうであるべき何かが異なることは、あらかじめちがいが想定されている国に対する以上に、幻滅やまたはあこがれを生じさせやすいのです。
 日本と韓国のこうした異質性については、どこまでも注意する必要があります。日本と韓国のあいだには、けっして共約しえない歴史的経験があり、利害関係の対立もある。

国民国家を超えるために


 だからこそ本質的にはよく知らない「韓国社会」に向けてこの著作を差し出すことを、恐ろしく感じます。ただし、わたしの能力からあくまで「日本社会」を対象としながらも、この本であくまで考えたかったのは、わたしたちの「社会」の歴史と未来についてでもあります。国家が恣意的に定める行政機構の枠を超え、コンフリクトや対立をはらみながらもわたしたちが生きているこの「社会」の未来について考えること。そうした「社会」においても、あるいはそうした「社会」においてこそ、わたしはこの本で書いた主張は重要になると考えています。国家はしばしば勝手な道徳や規範を押し付けます。「日本人なら」、「韓国人なら」こうすべきという主張がそうなのですが、それを超えて人びとが自由に振る舞える権利こそ、次の時代にわたしたちが獲得しなければならないものなのではないでしょうか。日本人が韓流ドラマをみて感動し、韓国人が日本のアニメを見て勇気を与えられるような「社会」をより多様に実現していくべきと考えるのです。
 ただし交流を増やしたり、経済的取引をくりかえすだけでは、それはなかなか実現されません。そのために本質的に重要になるのは、国家を超えた消費の権利が、リアルにまた実質的に保障されることではないでしょうか。日本や韓国、あるいは中国やアメリカへ移動しても一定の消費の権利が認められる「社会」。それを支える仕組みとして、たとえば国際的なベーシックインカムの権利が認められる必要があります。どこに居ても一定の消費の自由が保障されているならば、生まれた国にしがみつく必要はなくなり、結果として、近代に生まれた「運命共同体」としての国民国家という仕組みをある程度、脱臼できると思われるのです。
 夢物語と思われるでしょうか。おそらくそれはそうで、わたしはここでこれをいつか実現されてほしいひとつの夢として語っています。とはいえ、異なる国においても基本的な人権は尊重されるという考えも、歴史的にはあきらかに途方もない夢でした。それが現在では(たとえば戦争といった)多くの例外はあるとはいえ、受け入れられつつもあります。その先でそれを実質化し、国家に依存しない経済的な自由と平等をいかに実現していくかこそ、わたしたちの「社会」をつくりだしていくために、これから大きな課題となると思うのです。
 とはいえもちろん、わたしは本書の議論を最終的な解答として提示しているつもりはありません。本書はむしろ、この「社会」の現在と未来を一緒に考えようと求める呼びかけです。言い換えるならば本書は、経済的自由によって将来実現されてほしいものを、あらかじめ思考の自由によっていまここに作成していこうとする試みとして書かれています。年齢、ジェンダー、そして国家に縛られない「社会」を実現することはどこまで可能なのでしょうか。
それをともに考えようという方がいらっしゃいましたら、本書が書かれた意義はあり、まただからこそぜひお声がけいただければと思います。そして今回そのための機会を与えてくださり、けっして読みやすいとはいえないわたしの日本語を翻訳していただいた南旭相氏には心からの感謝をささげます。
                                貞包英之


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