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【人間の教科書】 誰もが真犯人に投げたい言葉をお門違いな他者に投げかける

このタイトルを見て、ドキッとされた方、心当たりがありますか?
何を隠そう、僕もあります。

(※この記事は、あらゆる人間関係のトラブル解消、あるいは子育て中で子供が人知れず抱えているトラブルに気づくために役立ちます)

よく芸能人などが問題?を起こすと、SNSなどで総攻撃する人たちいますよね。
僕は、この手の営みはいつも白い目で見ていて「ひまだね。よくやるね」と思っているのですが過去に一度だけ、思わず参加してしまったことがあります。

有名ミュージシャンOさんがオリンピックの音楽ディレクターを辞任した件、ありましたよね。あれです。

確かに、あれは発端の記事を鵜呑みにするなら、ひどい話です。
他の仕事ならまだしも、オリンピックという国際的な場、しかもパラリンピックという身体障害者の関係している場に、あのような過去を自慢気に語った上で禊も不十分な状態で参加していれば、それは黙認することが正しいようにも思えません。

それで「いや、これはさすがに辞退すべきだろう。というか、なんでそもそも引き受けたんや」といった主旨のことを自分のタイムラインに投げました。

僕の場合、誹謗中傷のような下卑たことばを並べることはありませんでした(それは明らかに行き過ぎな犯罪行為ですし、そこに正当性はありません)。

しかしながら今にしてみれば、ただネット上の主張、あるいは問題となった記事が真実なのかどうかも確かめずに非難めいた言葉を表明すること自体が「うーん、どうなんだ」と思えます。

自分の中で、もっと冷静さを保てていたら「まず事実はどうなんだ?」という方に気持ちを持っていけたはずです。
世間に知られていないだけで当事者との間に和解が成立している可能性だってあるでしょう。記事が不正確な可能性も勿論あります。
しかし、そこに対する検証をすっ飛ばして自分の感情浄化の方を優先させてしまったわけです。

実際に数カ月後に釈明記事が出て「実態は記事のとおりではない」ことが語られました。ざっくり言えば「傍観者としてその場に居合わせた。それを露悪的に語ってしまった」そういうことだそうです。

(※これとて事実かどうかは分かりませんが、まずその可能性を考慮すべきではあったでしょう)

この釈明が事実だったとしても、Oさんにも落ち度はあると思いますが、だからこそ、また問題がややこしくなっています。

落ち度があったとしても、あのような集団ヒステリのような状況が引き起こされるのは、健全な社会のあり方とは言えないでしょう。

さて、ようやく本題に入りますが、
当時、Oさんを非難していた人たち、もしかすると罵詈雑言を投げていた人たちの相当数は、Oさんの罪の向こう側に、自分自身が経験した被害(あるいは傍観者や加害者としての)経験を重ねて見ていたのではないでしょうか?

必ずしも「重ねて見る」ことそれ自体が、ただちに罪だとはいいません。
それは人の心の作りとして、どうあがいてもそうなってしまうでしょうから。

しかしながら、ほぼ無意識のうちに、Oさんの加害性に対して、自分が過去に受けた被害感情や不快感を「上乗せして」ぶつけてしまうようなことが生じてきます。
これは実際問題、正当な行為とはいえないでしょう。

Oさんからしてみればお門違いな怒りを、Oさん側が反論できない状況にあるのをいいことに無意識のうちに上乗せし、そこになんの不当性の自覚もないまま自身の感情浄化のためにぶつけてしまっているに過ぎないのです。

また、こういう抑圧されてきた思いは、出どころを求めて胸の中で噴火寸前な状態になっています。だからこそ、よほどの人格者でもない限り、無意識的にぶつけやすいところへぶつけ、吐き出してしまうものなのです。

かくいう僕自身も、過去、幼少期に集団による誹謗中傷の不当な被害、いわゆるいじめを受けたことがあります。
そういった思いというのはどんなに遠い過去のことでも、一生消えない傷のように心のなかに残ります。

そして普段は暗闇の中に眠っていて思い出すことがほとんどなくても、こういった報道があると、まるで昨日の出来事のように持続空間の中でありありと蘇ってきて、自分の心を不安にさせたり、当時の憤りや悲しみを再体験させられてしまうのです。

そして次に、その件とはなんら無関係であるOさんを、当時の犯人たちと同一視あるいは類似視してしまう、という現象が起きてきます。
(Oさんの件に関して言えば僕自身は完全に無関係の立場です。かつ事実関係も実際は不明であるにも関わらず、あたかも自分がOさんから被害を受けた当事者であるかのような温度感で関わりを持ってしまうわけです)

これは一歩引いて考えてみれば、まったく正当性を欠いた行為です。
にもかかわらず、そういう歯止めがかかりづらい状態になってしまいます。

いわゆる世界が、自己が他者化してしまう状態です。
自己が他者被害に飲まれてしまって、お門違いな第三者を、自身に被害をもたらした当時の犯人のように見たたてしまうのです。

そんな呪詛のような怨念のような感情を世間中から向けられたら、その本人はどうなるでしょうか。

「いや、これは事実とは異なって実際はこうだ。確かにそうだとしても僕にも落ち度はあるのだけど、あなた方の思っているようなことではない」

などという釈明は封じざるを得ないでしょう。
そんなことをすれば世間の燃え上がっている炎に余計に燃料を投下して、いっそうひどく袋叩きにされることが目に見えているからです。

だからこそ、もうそこで世間が求めているとおりの自分で「私が諸悪の根源でした。申し訳ありません」とただ頭を下げざるを得なくなるのです。

つまり、Oさんを実際以上の化け物、悪人に仕立て上げたのは、実は私たちが個々に持っている私怨、ルサンチマンの方だったのです。

これは魔女狩りの構図です。
魔女という仮想敵を諸悪の根源とみなして、自身たちの感情浄化の道具としてしまう、そういう人間心理の落とし穴なのです。

僕もこのことにあとから気づいて「あー、これはまったく冷静ではなかったな」と深く反省しました。

そして、おそらくこういったことは僕に限らず、ほとんどの人間関係の中にあるのではないでしょうか。

みんな、なんらかの過去の囚われを持って生きていますし、それを目の前の関係性の中に投影しがちです。

人と接していて「なんでこの人は、こんなことでここまで怒るんだろう」などと違和感を覚える瞬間があると思いますが、その人は過去の許せないような出来事をあなたの向こう側に見てしまっているのかもしれません。

例えば自分の子供や家族が、ちょっとしたことでやたらと怒りを示すようだったら学校あるいは過去の生い立ちの中で何か辛いことや理不尽な目にあって、それが今なお暗い影響を及ぼしている恐れがあります。
その現場では抑圧せざるを得なかった悔しさを、こちらにむけて吐き出して解毒している可能性があるためです。

だから相手が家族であれば「なんでそんなことで怒るんだ! お前どうかしてるんじゃないか!」などと叱りつけるのではなく、「何かあったの?」と気にしてあげてください。

ただ相手が家族などよほど親しい関係ではない場合は、そのことを相手に指摘するのは避けるべきでしょう。

たいてい、そういった事柄というのは無意識的な働きで、かつ本人も容易には向き合えない過去とつながっている可能性が高いのです。
指摘するだけ火に油を注ぎ、関係性をより悪化させる結果になるだけです。

僕の上司でも、やたらと怒りっぽい人がいましたが、きっとあの感情の向こう側には何か人には語れない過去、満たされない思いがあるに違いありません。
(例えば厳しい親に否定ばかりされて育てられたとか、そういったこと)

なすべきことは自分がそのような誤った行いをしないことだけです。

そして、また自分がそのような行いをしないためには、過去と向き合い、何らかの処理をして、負の感情を手放すなり昇華するなりの必要がありますが、これ自体が、そもそも容易ではないことが多いでしょう。

ことによれば、かなりの辛さと向き合うことになるかもしれません。
なので、ただちに気軽にお勧めできるものでもありません。

ただし、人にはこういった心の流れがあるのだと自覚しておくだけでも、第三者に対して同じ過ちを繰り返さずに済むばかりか、それらの気づきが、これまで知らぬ間に自分を蝕んでいた心の特性を自覚し、やがて改善していく営みへつなげていくことができるでしょう。

幸せをつかむ鍵は外にはありません。つねに自分の心の中にあるのです。

『人間の教科書』目次

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