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「生きる」を楽しくする秘訣。「働く」のあり方から考える。

沖縄の離島のペンションで住み込みの仕事をしていた時、「生きる」ということがとても楽しかった記憶があります。

与えられた仕事は、朝食の準備をし、トイレを掃除し、シーツを回収し、掃除機をかけ、洗濯物を屋上に干し、夕食の準備をして、夕食の片づけをして、最後に厨房を清掃する、というものでした。毎日毎日、基本的にはその繰り返しです。灼熱の沖縄で毎日汗まみれになりながら働いていました。給料は1ヶ月5万円でした。寝る場所は無条件で与えられ、一日三食まかないつきで、休みの日も海に飛び込んだりするだけなので、それでじゅうぶんすぎるほど足りていました。

たった3ヶ月間の経験でしたが、この沖縄での生活が「生きる」そして「働く」ということを考える上で、僕にとって大切な原体験になっています。なぜ、あんなに楽しかったんだろう。おそらくそのヒントは、「生きるということと働くということが一体化していた」、より正確には「生きるということのただ延長上に働くということがあった」というところにあるのではないかと思います。

今回の話は「生きるとは何なのか」という命題を、「働く」ということをテーマに書いてみるものです。個人的な発見なのでどのくらいの人に伝わるかわかりませんが、もしかするとこの世で6人くらいの人にとって何かしらのヒントになるかもしれないと思うので、ここに公開させて頂きます。

僕は大学生時代、「働く」ということにまったく良いイメージがありませんでした。電車で見かける仕事帰りの人々はみんな眉間に皺を寄せていて、まさに限界そのものといった顔つきでうつむいています。「そんなふうになってまで働きたくないな」と心の底から思いました。黒いスーツを着て同じような髪型をしてウソばっかりの言葉を並べ立てる就活生たちを端から眺めながらも「そんなことをしてまで人に雇われたくないな」と思ったので、就職活動やそれに準じたことは一切せず、卒業後は音楽制作の仕事をフリーでやっていくことにしました。しかしたまに来る音楽の仕事だけではとても食べていけず、「仕方なく」「本当はやりたくなかったけど」、アルバイト漬けの生活を送る他ありませんでした。

その時は「生きる」ということが本当にしんどかったです。僕の中で「生きる」と「働く」とが、完全に分離していたからだと思います。働いている間は自分の人生を生きている実感がなく、それどころか「大切な人生の時間を、日々の生活費を稼ぐために無駄にしている」という感覚でした。作曲家として身を立てることを目指すために就職をしなかったはずなのに、生きていくだけでお金がかかるのでアルバイトに割かれる時間が多く、結果的には本来やりたいはずの作曲に使える時間が一日2~3時間ほどに限られてしまうという悪循環に陥っていたのでした。

そんな時に音楽制作用のパソコンが壊れ、データが飛び、電気代が払えなくなり、「お前の家が南にある」という声を聞き、蔵書をすべて売って飛行機代に替えて沖縄に飛ぶことになります。離島に到着して最初の夜にビーチに出かけて、夜空に広がる天の川を見上げてとてもふしぎな気持ちになったのをよく覚えています。なんだこれ。最高じゃん。たしか僕は、東京で挫折的な何かを経験したんじゃなかったっけ。なのにどうして僕はいま、こんなに綺麗な景色を見て笑っているんだろう。これは一体全体どういうことなのだ。

そこから先は冒頭の通り、「生きる」ということが本当に楽しい3ヶ月を経験をすることになるのです。朝早く起きて朝食をお客さんの人数分作り、掃除や洗濯をして、休憩時間に海で遊んで、夕食を作って掃除して寝る。やっていることは食事を作ったり掃除をしたりと、一人暮らしでも最低限必要な作業をただ人数分少し多めにやっているだけでしたが、それをやっていれば他に仕事をしなくても、生きていくことができたのです。これは当時、僕にとって新鮮な発見でした。

食事を作ったり掃除をしたり洗濯をしたりすることを、現代ではまとめて「家事」と呼びます。いまのように生活様式が多様化していなかったその昔は、僕らの生活はまったく家事をすることそのものを差すようなものでした。米を炊くにも風呂に入るにも、水を汲むにも洗濯するにも、ひとつひとつが現代の数倍時間がかかりました。そのため昔は「家事」と「労働」の境界はほとんどなく、生きることと働くことが一体化していたのです。

では家事とは何かというと、「魂を磨く行為」であると僕は捉えています。神道には清浄第一、仏教には精進(常に新品の状態にしておくこと)という考えがあるように、宗教に於ける精神修行の意味に於いても掃除や洗濯は古来から重要視されてきました。例えばシーツを綺麗に畳むと気持ち良い。アイロンで皺を伸ばすと、まるで自分の心までパキッとするような感じがします。これは「シーツを畳む行為」によって自分自身の魂を綺麗に畳み、「シワを伸ばす行為」によって自分自身の魂のシワを伸ばしているのだと捉えます。部屋を掃除することは自分自身の魂を掃除することそのものであり、衣服を洗濯することは自分自身の魂を洗濯することそのものです(これに関してはロジカルではなくフィジカル、頭ではなく身体的な実感として知る必要があります)。

そしてこの「魂を磨く行為」とは、そのまま「生きることそのもの」を差します。なぜなら、僕らがこの世に生きる唯一の目的は、自分自身の魂をより良くするために他ならないからです。つまり掃除、洗濯、食事の準備などという活動は生きていく上で湧き出てくる単なる邪魔な雑事ではなく、むしろ生きる目的(魂の修行)をこなしているのだと捉えること。そして更に重要なことは、たとえそうでなかったとしても、そうであると仮定して生きた方が幸せだということです。

「生活」
「のために」
「働く」

という世界観で生きていた頃は、「生活」と「働く」が完全に別個の概念として分離していました。しかし沖縄で、

「生きる」=「家事をする」=「働く」=「魂を磨く」

という四つの概念が一本の世界観としてつながったのです。それによって「生きる」のが楽しくなった、という仕組みであったのだと思います。これはとても重要なことではないでしょうか。

宿泊業をしようと思った理由もそこにあります。家探しの旅をする過程で、民宿、ホテル、旅館など様々な宿泊施設で住み込みで働きました。掃除をし、洗濯をし、食事を作る。宿泊業とはまさに家事の延長=生きることそのものの延長であることに気付き、「これなら僕にも喜んでできる!」と確信したのです。

もちろん、魂を磨く行為は家事だけではありません。僕らの行うすべての仕事や行為が、包括的には魂を磨くことにつながります。問題は、その喜びを感じられるのかどうかということではないでしょうか。

生きるというのは何かと大変さが付き物です。生老病死という言葉にもある通り、仏教では生まれること=生きることそのものさえも苦しみであると考えます。日々面倒なこともあるし、降りかかってくる大変な問題もあります。しかしそれらを、自分が生きていく上で邪魔な雑事として受け止めるのではなく、「魂を磨く=生きる」上で必要なことであると考えた方が、僕らはきっと幸せです。

最後に死ぬ時に、自分の魂が生まれる以前よりも総括的に良くなっていればそれで良いのです。働くということが生きるということと分離せず一体化していれば、生きること自体が楽しい。これが僕がゲストハウスを始める、「自分自身のための動機」です。

もちろん同時に「世の中に対する動機」もあります。そのお話は、また別の会でお話ししましょう。

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