コロナ禍に見る《抜け殻のゴジラ》――「ゴジラ キングオブモンスターズ」評

 私の初めての映画体験は《ゴジラ》であったと言って差し支えない。2001年公開の「ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃」との衝撃的な出会いは、小学校三年の頃だった。後に白目ゴジラと呼ばれる造形の強烈なインパクトは今でも鮮明に思い出されてならない。

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 昨年、異国の地・アメリカからゴジラの最新リメイク「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」が公開された。公開当時、Twitterを中心に賛辞の声が多く、私も期待して劇場に足を運んだのだが、しかし結論を言うと、私には本作のゴジラがとても「ゴジラ」には見えなかったのだった。ネットでの賛辞とは裏腹に、本作に否定的な印象をおぼえた私の感覚には、いったい何があったのだろうか。
 ここでは、最新ゴジラの物語構造を精読しつつ、本作とこれまでの「ゴジラ」との明らかなニュアンスの違いにじっくりと目を凝らしていきたい。ネタバレを多分に含む内容になるため、どうかご注意いただければと思う。

1.初代「ゴジラ」はなぜウケたのか

 本作について語る前に、まずは最初期のゴジラについて、そのあらすじと設定、そしてそこにある寓意性を紐解いていこう。

 海底で生き永らえていた《200万年前のジュラ紀の生物》が、水爆実験によって住処を奪われながらも怪獣「ゴジラ」として生き延びていた。体長は50メートルほどもあろうかというそれは、時に船を沈め、時に東京湾沖合の離島家屋を踏みつぶす。人びとの反撃も一切通用せず、東京に上陸したゴジラは、放射能の熱線で都市を焼け野原にしてしまう。しかし、最終的には水中酸素破壊剤・オキシジェン=デストロイヤーによって海中を無酸素状態にされて駆逐される。これが、初代「ゴジラ」のあらすじである。
 何らかの怪物の襲撃を受けているようだが、映画はその正体をすぐには明かしてくれない。ミステリアスに忍び寄ってくる恐怖感は、現代映画に通じるものがある。また、ゴジラの巨大すぎる攻撃力を前に、為す術なく焼け野原にされていってしまう絶望感は、いまを生きる私たちの芯にまで伝わってくるものがある。
 「ゴジラ」は1954年11月3日に公開されて以降、瞬く間に大入りし、観客動員数は961万人に及ぶ、文字通りの怪物作品となった。今日では「ゴジラ」は、日本映画史に残る不朽の名作のひとつだとさえ言われる。不朽の名作と言えば、多くの映画ファンや監督たちが小津安二郎の「東京物語」を推すところだが、配給収入を単純比較すると2,000万円ほどゴジラの方に軍配が上がっている。この二作品の公開時期は、戦後映画史で言えばほとんど同時期で、僅かに1年しか違わない。
 この大ヒットを機に、翌年1955年には続編となる「ゴジラの逆襲」がすぐさま公開される。怪獣映画に味を占めた東宝は、更に2年後の1956年に「空の大怪獣ラドン」で自社初のフルカラー怪獣映画へと乗り出し、そこから、1958年「大怪獣バラン」、1962年3月「妖星ゴラス」と続く。さらには同年の8月、「キングコング対ゴジラ」で、ゴジラは鮮烈なハリウッドコラボを飾った。その誕生からわずか8年の出来事である。

 これほどまでのブームの起点となった初代「ゴジラ」に、当時の人びとは何を観たのか。
 初代「ゴジラ」本編では、巨大怪獣はなかなか全貌を現さない。ただただ、謎の巨大生物によるものとしか思えないような不気味な痕跡と、低い地鳴りが響き渡るばかりだ。正体の分からない轟音が日に日に近づいてくる。けれども至って何でもない日がしばらくは続く。そして不意に奪われる命がある。それはまるで、開戦から徐々に忍び寄ってきた本土への空襲進攻のようでもある。
 ゴジラがフィクションで焼け野原にしたルートが、現実のB29による東京大空襲とまったく同じだという点は、しばしばその論拠として挙げられる。初代「ゴジラ」を目の当たりにした人びとが仮にそのことに気が付かなかった、あるいは地方在住のため東京大空襲に詳しくなかったとしても、夜の遠景を夕焼けのように染め上げる火災の記憶は生々しい。路地裏に逃げ込んで逃げ遅れてしまった人たち、諦観から幼子を抱きかかえ路傍にうずくまり逃げようともしない母親、次々と怪我人が運び込まれる詰所、誰かのすすり泣く声。映画はまさに戦争の追憶そのものだった。
 しかしながら、当時の人びとの戦争の記憶とリンクする初代「ゴジラ」は、どのようにして人びとを熱狂に駆り立てたのか。私には、忌まわしき戦争の記憶や破壊を想起させる作品など、かえって人びとから目を背けられてしまうように思われる。果たして、ゴジラがB-29と同じルートで街を破壊したからと言って何がそんなに面白いのか、その面白さは何によって担保されているのか。そんな疑問が生じてならないのだ。
 初代ゴジラはなぜウケたのかという問いに対し、「東京大空襲のルートが云々」とか、マニアックな知識をひけらかすだけに留まってしまえば、本質的な部分には辿りつけまい。そんな程度の切り返しでは質問の回答にすらなっていない。ゴジラに描かれる戦時中の寓意と、歴史的な大ヒットとを直結するには、しかしながら二者間の距離はまだまだ埋めきられておらず、論理的に無理がある。戦争のメタファーを積極的に取り入れたことで、戦争中の悲惨な記憶を呼び起こしてしまい、結果として人びとから非難の的となるケースだって、ロジカルな推論の上には成り立つ話である。
 ならば私は「初代ゴジラはなぜウケたのか」という問いを、「初代ゴジラによって駆り立てられた面白さとは何だったのか」と変形することで、その本質的な謎に挑んでみたい。この問いに対して、「やはり東京大空襲のルートが云々」という解答はもう通じない。私が突き詰めたいのは「ゴジラ」ではなく、むしろ怪獣と対峙したことで揺り動かされた当時の《エモーション》そのものである。それも、ただ映画についてばかり語るのではなく、かと言って、人びとの文化や当時のイデオロギーに偏った回答をするでもなく、映画と人々の相互関係、相乗効果の中に「映画の面白さ」を見出せればと思う。

 さて、文芸評論の山城むつみは、テレビというスクリーンで目の当たりにした湾岸戦争の映像を率直に美しかったと感想し、また、実際に戦火の中にある人びとが何を感じているか、次のように推し量っている。

 緑色に烟る都市上空、夜空に、大小、無数の交代がちりばめられている。幾筋かひかりが走る。光体は明滅している。閃光が広がる。夥しい数の花火はチカチカと点滅している。
 湾岸戦争は​、テレビの画面をつうじ、美しいスペクタクルとして眼に焼きついている。この深刻な政治的事件は、あまりにも美的にすぎる印象として記憶に残っている。
 (中略)
 なるほど、この美的なスペクタクルのむこうでは無数の人々が焦熱地獄に巻き込まれていたにちがいない。しかし、地獄は、その外部で想像されるようなものであるとはかぎらない。破壊、炎上、瀕死の負傷、死体、略奪、暴行、狼藉。おぞましい惨状をかいくぐりつつ萎縮し迷走する人々の眼は、むしろ冴えきってはいなかっただろうか。彼らは、われわれがテレビの映像をつうじて見る以上に美しく崇高な夜空を見上げていたかもしれない。
 (中略)
 その(=東京大空襲の:筆者注)爆撃下、坂口安吾がまのあたりにするになった光景を、戦争の美と崇高を確認する証言としてあげることができるかもしれない。
 安吾は爆撃を銀座の日本映画社の屋上で迎えた。焼夷弾の雨がふる。編隊が頭上を通過する。足の力が抜け去ることを意識しながらそれを目撃した安吾は書いている。

 山城がこの後に引いた安吾の言葉と視点を借りて、大空襲によって破壊された東京の街にフォーカスしてみよう。

 けれども私は偉大な破壊を愛していた。運命に従順な人間の姿は奇妙に美しいものである。麹町のあらゆる大豪邸が嘘のように消え失せて余燼をたてており、上品な父と娘がたった一つの赤皮のトランクをはさんで濠端の緑草の上に坐っている。片隅に余燼を上げる茫々たる廃墟がなければ、平和なピクニックとまったく変わるところがない。ここも消え失せて茫々ただ余燼をたてている道玄坂では、坂の中途にどうやら爆撃のものではなく自動車にひき殺されたと思われる死体が倒れており、一枚のトタンがかぶせてある。かたわらに銃剣の兵隊が立っていた。行く者、帰る者、罹災者達の蜿蜒たる流れがまことにただ無心の流れの如くに死体をすり抜けて行き交い、路上の鮮血にも気づく者すら居らず、たまさか気づく者があっても、捨てられた紙屑を見るほどの関心しか示さない。米人達は終戦直後の日本人は虚脱し放心していると言ったが、爆撃直後の罹災者達の行進は虚脱や放心と種類の違った驚くべき充満と重量を持つ無心であり、素直な運命の子供であった。私は戦きながら、然し、惚れ惚れとその美しさに見とれていたのだ。

 私は考える必要がなかった。そこには美しいものがあるばかりで、人間がなかったからだ。(中略)戦争中の日本は嘘のような理想郷で、ただ虚しい美しさが咲きあふれていた。それは人間の真実の美しさではない。そしてもし我々が考えることを忘れるなら、これほど気楽なそして壮観な見世物はないだろう。たとえ爆弾の絶えざる恐怖があるにしても、考えることがない限り、人は常に気楽であり、ただ惚れ惚れと見とれておれば良かったのだ。私は一人の馬鹿であった。最も無邪気に戦争と遊び戯れていた。

 安吾は東京大空襲を、銀座の日本映画社で罹災した。そこにあったのは「虚脱」でも「放心」でも「恐怖」でもなく、「驚くべき充満と重量を持つ無心」からなる「気楽さ」と「美しさ」だったという。山城はそれを次のように言い換えている。

 戦争の緊迫の直下には、人間のせせこましい心理、小賢しい知恵は凍りつく。偉大な破壊への愛情、偉大な運命への従順、驚くべき充満と重量を持つ無心、素直な運命の子供となった人間、娘たちの鮮やかな笑顔。そこではそうしたもののみが存在を許される。だからこそ、あまりにも純粋な心は戦争を、それが修羅場であるがゆえに美しい理想郷とみなさずにはいられない。

 戦争の光景とは、決して目を背けたくなるような恐怖に満ちたものではない。むしろあまりの美しさによって人びとを惚けさせ、「馬鹿」で「素直な運命の子供」にしてしまう「理想郷」のようなものだという。
 戦争の光景を、映像で、もしくは生で目撃した二人の文人の感覚はここで奇妙に交錯するが、しかしながら、やはり私には、戦争=「美しい」とそう簡単に納得できるものではない。ごく卑近なこの感覚に対し山城は、以下のように留保する。

 一人の馬鹿として、戦争の美しさに惚れ惚れとみとれ、最も無邪気に戦争と遊び戯れながら、安吾はその「美しさ」や「理想郷」から微妙な距離を取っている。ただ虚しい美しさ、嘘のような理想郷と安吾は書いていた(太字は山城による傍点:筆者注)。安吾は、うっとりみとれながらも、その美しさ、その理想郷に空虚や虚偽を見出すことを忘れていない。それは人間の真実の美しさではない、と。
 この場合、空虚とは「人間」がないということである。圧倒的に美しく、懐かしいが、しかし「人間」がそこにないがゆえに、それはただ虚しいのである。また、虚偽とは「考える」という質が欠けているということである。爆撃下の光景は「考える」ことを忘れさせてくれるかぎりにおいて圧倒的に美しく崇高であるにすぎない。たとえ爆弾の絶えざる恐怖に戦いていても、戦争ほど気楽なそして壮観なスペクタクルはないといえるのは、それを考えないでいるかぎりにおいてのことなのである。

 つまり人間は、目の前の破壊が現実の出来事であるにもかかわらず、その破壊規模が圧倒的すぎると、むしろその光景に現実味が無くなっていき、結果、「気楽」で「壮観なスペクタクル」としてしか爆撃下の光景を眺めることができなくなってしまう。
 普段、およそ目にしない光景が想像を絶するかたちで目の前に広がったとき、多くの人はそれをぼけっと見つめたまま呆然としてしまうのではなかろうか。それを「美しい」という語彙で形容すべきかどうかはともかく、まともに思考判断できない状態なのであれば、人びとは目の前の破壊の光景に魅了されていると言っても差し支えないかもしれない。
 更に山城は、批評家の小林秀雄を観察して、こうも述べる。

 たしかに、遠い異国で起きた戦闘の映像は、美的ではあってもせいぜい娯楽的であるにすぎない印象しか残さなかったかもしれない。しかし、われわれの利害=関心に直結するような文脈において同じ映像が眺められれば、その美しさがわれわれに対してもつ説得力にははかりしれないものがあるのではないだろうか。映像の美しさなど外観にすぎぬと反省できる程度の悟性を誇っていた人々こそ真先にそれに魅了されるだろう。
 真珠湾攻撃の写真に見入っていた小林秀雄のことを思い出そう。彼がそこに戦争の肯定につながる「美しさ」を洞察したのは、その写真が驚くべき歴史的な事実を撮っているにもかかわらず、驚くに値する生々しさを致命的に欠いていたからなのである。
 考えることにかけては、周囲の哲学者、思想家たちをも凌いでいたこの文学者すら、こうしてひとたびその美しさにみとれてしまえば、考えることをもはや維持できなかった。(中略)いわんやわれわれをや、という気がする。われわれとておなじである。似た文脈に置かれれば、われわれのほとんどがおなじ結論に行き着いてしまうのではないだろうか。

 私が述べたいのは、当時の作品群と比べ圧倒的にリアルな映像表現を、東京大空襲、すなわち戦争という「利害=関心に直結するような文脈において」人びとは目の当たりにしたことで、「考えること」を忘れ、「驚くべき充満と重量を持つ無心」を持った「馬鹿」で「素直な運命の子供」になってしまったということだ。そしてそれこそが「ゴジラ」なのだ

 初代「ゴジラ」を語る上で忘れてはならないのが、その圧倒的なリアルさであろう。
 映画批評家のアンドレ=バザンによれば、映画を支えているリアルさには3つの色がある。齟齬のないストーリーによって観客を没入させる物語論的側面、被写体の即物的な現実感を担保する存在論的側面、そして映画史的にもそれらの中性・中間に位置する記録的側面である。
 さて、怪獣映画というジャンルは「ゴジラ」というモンスターの誕生によって、それまでとは比べ物にならないほどの存在論的リアリティを獲得したといって過言ではない。それまではアニメーションによって表現されたり、あるいは実写であっても人形によるストップモーション(=コマ撮り。「ターミネーター」などに代表される)が限界で、怪獣たちはあくまで二次元上を滑らかに生息するか、それかカクカクとした不自然さを承知で三次元に飛び出すかに限られていた。
 しかしながら、初代「ゴジラ」は大都市東京だけでなく、この映像表現の常識・限界さえも破壊し尽くした。今日では着ぐるみの怪獣がジオラマ都市を破壊するという手法は誰しもが知るところだが、それによってゴジラは、そして怪獣たちは、滑らかさを保ったまま三次元上を暴れまわるという劇的な進化を遂げたのだ。
 ましてゴジラは無作為に日本を闊歩しているのではない。東京大空襲と同じルートで東京を破壊する、という人びとの「利害=関心に直結するような文脈」を圧倒的なリアルさ、他を凌駕する映像の説得力によって実現させた。戦争なんて二度と思い起こしたくない、という正常な思考が機能しているうちはこれを拒むことも出来たろうが、坂口安吾や小林秀雄といった思慮深い有名な文人たちをもってしても、それがいかに至難の業だったかということはすでに確認した通りだ。人びとは「ゴジラ」という存在論的にリアルすぎる怪獣と、記憶に新しい破壊ルートを前に、「馬鹿」で「素直な運命の子供」にならざるほかなかったと言えよう

 さて、「初代ゴジラはなぜウケたのか」という問いに対して、例えば、「ゴジラという映画を通じて日本人の誇りを取り戻せる」といった解答も成立しなくはない。しかし、そういった感想はあくまで上述のような本質的な未体験の《エモーション》をどうにか言語化しようとした、後付け的なものであるはずだと私は考える。
 というのも、存在論的リアリズムによって映画に価値を見出すという手法は映画史が進むにつれてどんどん脇に追いやられ、代わりに物語論的リアリズムによって映画を作り、鑑賞し、吟味するというスタイルが定着していった。何が言いたいのかと言うと、初代「ゴジラ」が人びとに与えた「驚くべき充満と重量を持つ無心」は存在論的なリアルさがあってこそのものだったにもかかわらず、人びとは自身に走った衝撃の正体にあくまで物語論的なアプローチでもって腹落ちさせようとしていなかったか。存在論的な価値感覚ではなく、あくまで物語論的な「ゴジラ」を再解釈するとすれば、例えば下記のような言説も誤りではない。いや、むしろこうした解釈こそポピュラーだと思われる。
 前述の通り、ゴジラはビキニ諸島での水爆実験によって生み出された怪獣であり、放射能の熱線を吐き散らしていくが、ここに、原水爆への憎悪が寓意的に表されているのは今更指摘するまでもない。大空襲を仕掛け原子力爆弾を落としたB-29は、この点でゴジラと重なっている。オキシジェン・デストロイヤーによってゴジラを海に沈めることで日本人は、本来果たせなかった、戦勝を手にする。しかも、その起動にあたっては、一人の科学者が犠牲となる覚悟を自ら決め、そのテクノロジーごとゴジラを駆逐せねばならなかった。これは戦地で犠牲になった日本兵たちをはじめ、特攻という、叶うことの無かった日本の勝算を――日本人のみが持ちえたにちがいない自己犠牲心による他者愛という誇りを、見事にスクリーンに投映した。一方で、こと被爆国日本においては、テクノロジーの利用には慎重に慎重を期し、科学技術を正しく導いていくと、それを決して人殺しのためには使わないと、そのような理想を高らかに謳いあげているかのようである。
 ――こうした物語論的な気づきを得るとき、「ゴジラ」鑑賞時の衝撃に核心を突いたような納得感が起こる。しかし、山城むつみや坂口安吾、小林秀雄が体験した存在論的なリアルさによる《ちから》については、残念ながらなかなか指摘あるところではない。物語映画絶世の戦後映画史においては、このような物語論的な解釈によって、その後のゴジラ映画の形式美が形づくられていったものと私は推察している。
 冒頭で紹介した「ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃」(以下、「総攻撃」)を見直してみよう。
 ゴジラシリーズは初代「ゴジラ」を皮切りに様々な続編が枝分かれし、必ずしも28作品すべてが同じ時系列上にある訳ではないのだが、「総攻撃」については初代ゴジラ駆逐後50年経った日本が舞台となっている。この「日本」では、これまでゴジラの再上陸や他の怪獣の襲撃を受けることもなく、穏やかな日々が流れている。しかし、平和な日々が長く続いたことがかえって、人びとから戦争の記憶を、その惨たらしさを薄れさせていく。結果、太平洋戦争で犠牲になった人々の怨念が白目ゴジラとなって蘇り、再び日本を襲来することとなってしまう。
 ここにまずゴジラ≒戦争という寓意を持たせようという物語論的な伝統意図が見て取れる。特にこだわらないのであれば、ゴジラは謎の巨大怪獣、ということにしてしまっても問題はなかったはずだが、そこをあえて初代「ゴジラ」に寄せてきているところを見るに、「総攻撃」は初代「ゴジラ」に物語論的なオマージュを捧げていると言える。
 その他にも、日本が世界に誇る深海探査技術、言わばテクノロジーの結晶である「特殊潜航艇『さつま』」によってゴジラを倒す、とか、そのためには乗組員が文字通り決死特攻の覚悟でゴジラに向かわねばならない、といった運び方の物語が展開される。これらは、科学技術の適切な運用や、特攻という自己犠牲心による他者愛といった日本人の誇りを、形式美的に再現していると考えられよう。
 もちろん、白目ゴジラをはじめとする怪獣たちは着ぐるみによるもので、精巧に作られたジオラマを破壊するという存在論的なリアルさ、その魅力は健在である。スタジオにセットを構えて、薙ぎ倒される家屋を屋内から映し出すショットは、初代「ゴジラ」からその系譜を継いでいる。しかし他方、「総攻撃」ではCGによる怪獣や戦闘の表現も見どころの一つとなっている。怪獣映画やゴジラシリーズにおけるCGの活用は、別に「総攻撃」にはじまったことではない。しかしながら、圧倒的なリアリティのジオラマと着ぐるみにあわせて展開されるCGでの映像表現、それらに息を呑んだ記憶は今でも私の脳裏に鮮明に焼きついており、その意味では私もまた「馬鹿」で「素直な運命の子供」だったと言えまいか。
 また、「総攻撃」で描かれるのは、初代によるゴジラ襲撃からちょうど50年が経過した平和ボケした日本だが、奇しくも公開3か月前にはアメリカ同時多発テロがあったばかりであった。まさに、青天の霹靂といった文脈の上に、ゴジラによる「偉大な破壊」が描かれるのだ。

 本章では、初代「ゴジラ」がウケた理由を二人の文人の言葉を借りながら推察した。結論、人びとの「利害=関心に直結するような文脈」において映し出される、着ぐるみやジオラマの破壊といった存在論的に物凄くリアルな映像が、人びとを「馬鹿」で「素直な運命の子供」にしてしまったことを確かめた。しかしながら映画というものは一般に、存在論的な価値よりも物語的な価値が重視されるために、シナリオから導き出される後付け的な読後感想が独り歩きしてしまっていること、そしてそれは物語構成上の形式美として現代の白目ゴジラにまで受け継がれていることも確認した。
 次章では白目ゴジラから更に15年の時を経て誕生した新たなゴジラ、通称・鎌倉くんがどのように初代「ゴジラ」の「文脈」を受け継ぎ、かつどのようにアレンジを加えていったかを考える。

2.「シン・ゴジラ」はなぜウケたのか

 興行が思うように伸びない一方、ジオラマ制作ばかりかCGによる特殊加工のコストも莫大に圧し掛かってくる平成ゴジラシリーズは、2004年公開の「ゴジラ FINAL WARS」によって惜しまれながらも幕を下ろした。「FINAL WARS」では、夥しい量の怪獣たちが登場しては世界中の主要都市を破壊しつくし、これでもかと言わんばかりのCG加工も注ぎ込まれたが、しかし、興行的には平成ゴジラの消沈を裏付けるかのような凡退であった。以降は私は、幼心にもう二度とゴジラを観ることは叶わなくなってしまったという寂しさがあったのを、まるで昨日のことのように思い返す日々が続いた。

 12年後、2016年・夏、「新世紀エヴァンゲリオン」の庵野秀明監督によるゴジラのリメイク作品、「シン・ゴジラ」が公開される。それは瞬く間に興行収入82億円突破のメガヒットを記録した。ヒットには、エヴァの庵野がメガホンを取るという話題性もあったろうが、しかしそれだけでこの興行に繋がるかと言われれば、何か疑問が残る。「シン・ゴジラ」がエヴァのファン、往年のゴジラファンによってのみ鑑賞されたとして、82億円という興行収入には到達しえまい。だとすればエヴァを知らない層、もっと言えば、アニメも映画も普段まったく見ない層にまで「シン・ゴジラ」は浸透していったことになろう。これほどまでに大衆を惹きつけてやまなかった「シン・ゴジラ」とは、人びとにとっていったい何だったのだろうか。

 数あるゴジラ映画の中にあって、とりわけ「シン・ゴジラ」は企画の枠組みからして斬新である。まず、「シン・ゴジラ」は初代「ゴジラ」の続編ではない。この物語は時系列的にも世界観的にも、完全に独立した作品として設計されている。そして、それまでの平成ゴジラ、いや、もっと言えば「ゴジラの逆襲」以降脈々と続いていた、家族向け、子ども向け路線を一切排している。子どもと怪獣の交流を描いた「ゴジラの息子」や「ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS」、「FINAL WARS」、平成モスラシリーズの影をまったく感じさせない。怪獣との意思疎通を試み、その破壊に情状酌量の余地を残したり、メッセージ性を持たせたりする手法はこれまで度々取られてきたが、ここではそういったやり方は採用されない。むしろ「シン・ゴジラ」では「巨大不明生物」の上陸以降は徹頭徹尾、駆除対象としてのゴジラが描かれ、その絶望的なまでの生命力を前に奔走させられる登場人物たちの群像劇に仕上がっている。さながらその世界観は初代「ゴジラ」へのオマージュのようにも思われる。ある日突然ゴジラの襲撃を受け対応に右往左往する人々の姿が、初代「ゴジラ」公開から約60年の時を経て、スクリーンに蘇ってくるかのようである。

 ――舞台となっているのは2016年の日本、11月3日の朝のこと(ちょうど初代ゴジラの公開日)で、悪夢の始まりは東京湾アクアラインの崩落事故の発生だった。
 主人公で官僚の矢口は現場からSNSにアップされたスマホ映像からいち早く「巨大不明生物」の可能性を示唆するが、しかし首脳陣はあくまで自然災害によるものだと事故原因を決め打ちし、初期対応が後手に回る。直後に東京湾浮島沖に巨大な尻尾が確認されて、ようやく「巨大不明生物」の存在を認め、対応に乗り出す。いや、厳密には対応策を検討するのではなくて、そもそもこの「巨大不明生物」は何なのか、人畜無害であるのか、対応にあたっては省庁官庁の管轄下であるのか、その現状把握にどんどん時間が割かれる。
 そうこうしているうちに「巨大不明生物」は呑川を這うように遡上しだす。政府見解としては、水の浮力が無ければ移動できず上陸はありえないというものだったが、しかし「巨大不明生物」は蒲田に上陸、鉄筋コンクリート製のマンションですらどんどん薙ぎ倒していき、多数の死傷者が出る。この事態に政府はようやく陸上自衛隊の対戦車ヘリを出動させる。ところが、匍匐前進していた「巨大不明生物」が突然、直立二足歩行へと成長したことで攻撃を躊躇しているうちに、射線上に逃げ遅れた民間人が発見される。自衛隊という組織の建前上、民間人を巻き添えにする訳に行かず、政府は駆逐作戦の仕切り直しを余儀なくされた――ちなみに、蒲田から品川にかけてを這いずり回って破壊した「巨大不明生物」には作品ファンのあいだで愛称が付けられており、これを通称「蒲田くん」という。

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 駆除作戦仕切り直しの最中、物凄い勢いで海に帰った巨大不明生物は、そのまま海中へと姿を消した。「ゴジラ」と名付けられた「巨大不明生物」は、蒲田の破壊から4日後、今度は鎌倉に再上陸する。しかし、品川で消息を絶った時から倍以上の大きさに――ファンからは「鎌倉くん」と呼ばれる姿に――までなっていた(過去のゴジラシリーズに比べても最大のサイズで、体長は118.5メートル。初代ゴジラの倍以上の大きさである)。都心部に向けて進攻するゴジラに対し自衛隊は、多摩川を絶対防衛ラインと想定する駆除作戦を実施する。だが、文字通り傷ひとつつけることも叶わず、実にあっさりと都内への侵入を許してしまうのであった。
 ここまでであれば、対応が後手後手に回っている日本政府へのシニカルな笑いもあっただろう。しかし、続く米軍による駆除作戦に切り替わると同時に、口のみならず背びれからも放射線流を照射し、ピンポイントで米軍機を撃ち落としまくるという、私たちがこれまでに見たこともない、まさに想定外の守備力・生命力を有する絶望的なゴジラの姿が明かされる。

 興行収入80億円を超えるメガヒット作のあらすじを今更ながら振り返っているのには理由がある。やはり本章においても、この映画が生み出されるに至った「文脈」について探っていきたく思うからだ。初代「ゴジラ」では、東京大空襲とルートを同じくする「文脈」を忍ばせ、空襲経験者であれば誰しも戦争の記憶を想起した。「総攻撃」においては、平和な「日本」で忘れ去られた戦争犠牲者たちの怨念が白目ゴジラに憑依しているのだと、作中ではっきりと明言される。
 しかしながら「シン・ゴジラ」では戦争にまつわるような「文脈」は明示されない。初代「ゴジラ」のように、戦争の「文脈」を暗示的にかつ大衆的に織り込むといったようなこともない。だとすればゴジラ≒戦争という「文脈」を失ったゴジラは、まるで宙に浮いてしまったような、何か空虚な存在になってはしまわないだろうか。
 これについては、「シン・ゴジラ」から戦争の「文脈」を絞り出すこともあるいは不可能ではないという見解を示さねばなるまい。海底にいた何らかの生物(庵野は蒲田くんデザイン時、深海ザメのラブカのような造形を要望したとされる)が、「諸外国」による放射性廃棄物を食べ、異常進化を遂げたのが「巨大不明生物」の出生だと作中では推測される。海洋に投棄されるような放射性廃棄物とは、これまでのゴジラ映画に織り込まれてきた「文脈」を辿れば、秘密裏に行われた原水爆兵器実験の残骸などが容易に想起される。兵器とは当然、それは外交にあたっての軍事的な対抗力として、つまり極論を言えば戦争の備えとして開発されているに違いあるまい。
 現に、鎌倉くんを駆除する手立てとして最終候補に挙げられたのは、国連安保理の多国籍軍による熱核攻撃である。ゴジラの度重なる進化の次のプロセスは、群体化し世界中に飛翔するというもので、国際社会はその脅威が発動する前に原子力爆弾によってゴジラを東京ごと焼き払うプランを立てた。しかしながらその作戦には、千葉・神奈川も含む住民360万人が地方への集団疎開を迫られ、放射能により死の街と化した東京が再び生活を取り戻すまで数十年以上を要するという絶望が待っている。そこで、主人公・矢口率いる「巨大不明生物災害対策本部」、通称・「巨災対」は、この熱核攻撃とゴジラによる破壊、両方を阻止すべく「矢口プラン」というゴジラ凍結作戦を打ち出すのだった。
 ゴジラの駆除方法について国際世論は「焼却」一色の中、「米国」の特使で日系人のカヨコ・アン・パタースンは「祖母を不幸にした原爆を、この国に3度も落とす行為を、私の祖国にさせたくないから」と水面下での協力を惜しまない。焦熱による駆逐か凍結か――国連と日本とでスタンスは真っ二つに分かれ、日本が世界の完全包囲網の中にあるという政治的緊張感はさながら、ABCD包囲網から第二次世界大戦に至る歴史を彷彿とさせてならない。
 このように「シン・ゴジラ」から戦争の「文脈」を読み取ることも、あるいは不可能ではない。戦争のために、あるいは戦争に発展せぬよう緊張状態を維持するために開発された核兵器が、むしろゴジラVS人類による放射能戦争に発展する根本原因とは、これは皮肉である。しかしながら、以上の読解から、ではやはり「シン・ゴジラ」の「文脈」は戦争にあったのだと結論づけるには、私にはどうも性急と思われる。山城の言葉をもう一度引きたい。

 たしかに、遠い異国で起きた戦闘の映像は、美的ではあってもせいぜい娯楽的であるにすぎない印象しか残さなかったかもしれない。しかし、われわれの利害=関心に直結するような文脈において同じ映像が眺められれば、その美しさがわれわれに対してもつ説得力にははかりしれないものがあるのではないだろうか。映像の美しさなど外観にすぎぬと反省できる程度の悟性を誇っていた人々こそ真先にそれに魅了されるだろう。

 前章での引用とは太字部分が異なる。つまり何が言いたいのかというと、例えばアメリカ同時多発テロ直後でもない限り、戦争という「文脈」を含ませたくらいでは、平和を生きる「われわれの利害=関心に直結」することなどなく、戦闘の美しさは「せいぜい娯楽的」なレベルに留まってしまうはずではないか、ということだ。「シン・ゴジラ」は興行収入80億円超のメガヒット大作だが、たかが娯楽的映像がその域にまで達するだろうか。「シン・ゴジラ」には、戦争という初代「ゴジラ」から継承した「文脈」以外にも、現代の「われわれの利害=関心に直結する」ような「文脈」が間違いなくあったはずなのだ。
 逆に言えば、これまでゴジラが受け継いできた「文脈」においては描かれなかったもの、つまり、「シン・ゴジラ」によって初めて描かれた映像・シーンというのが「われわれの利害=関心」の正体に辿り着く突破口になりうるだろう。これまでどおりの形式美的なゴジラでは満足できない人びとを動かすには、これまでに無かった新要素を加える必要があろう。すなわち、形式美から逸脱した「シン・ゴジラ」オリジナルの振る舞いこそが、現代の人びとの「利害=関心」へと繋がる道しるべになっていて、私たちがここで括目すべきはまさにその点であると思われるのだ。

 さて、ゴジラシリーズは数あれど特筆して「シン・ゴジラ」にしかないような非常に珍しいカットに着目しよう。自衛隊が特殊車両に除染を施している場面だ。これまでのゴジラシリーズにおける自衛隊(≒「防衛軍」)は主に戦闘シーンが描かれ、こうした、言わば事後処理はまったく描写されてこなかったと言っていい。

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 除染が必要とされるのは、裏を返せば、この映画の世界観でも放射能はちゃんと人体に悪影響を及ぼすということである。そんなことは当然と思われるが、しかし、興味深いことに初代「ゴジラ」から放射能を吐く怪獣を扱ってきたゴジラシリーズにあって、なぜか放射線の影響を科学的に検証するようなSF的側面はこれまでずいぶん希薄であったように思う。
 現に「総攻撃」の主人公である女性ジャーナリストは、ゴジラと怪獣たちの闘いを目の当たりにし、彼女のすぐそばを何度もゴジラの熱線がかすめていくが、しかし急性被曝の症状などは一切なく、終始ピンピンとしている。バラゴン、モスラ、キングギドラという3怪獣を立て続けに葬り去るような熱線なのだから、ぎりぎり直撃をまぬかれたとしても周囲の放射線量は急激に高まっているはずである。致死量の放射線を一度に浴びていてもおかしくはないだろう。
 一方「シン・ゴジラ」の矢口は、白い防護服に身を固めた自衛隊員らを前に「今回のヤシオリ作戦(ゴジラの凍結作戦:筆者注)遂行に際し、放射線流の直撃や急性被爆の危険性があります。ここにいる者の生命の保証はできません」とはっきり明言している。さらに「シン・ゴジラ」では、ゴジラならびに一帯の放射線量をサーモグラフィーで表現し、放射線濃度の脅威をビジュアル的にも描写している。

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 このサーモグラフィーによれば、丸の内のオフィスビル立ち並ぶ中央区、ベッドタウンである江東区・江戸川区の線量は凄まじく、果たしてこれほどまでに放射能汚染された土地で再び生活を築けるのか、絶望に苛まれる。しかしながら、多くの犠牲を払いつつもどうにかゴジラ凍結が叶った後、その放射性物質を構成する新元素が半減期20日程度だと判明し「これで都内の除染に光明が見えます。……よかった」と、約2年~3年の復興メドに安堵するシーンが挿入されている。
 以上からも覗えるように、他のゴジラ作品と比べてもとりわけ「シン・ゴジラ」という作品は、核や放射能への科学的な興味関心が非常に高い。初代「ゴジラ」然り「総攻撃」然り、過去これまでの作品で、破壊された土地の放射能汚染にまでスポットを当てたものはまず無かった。かろうじて「総攻撃」のラストシーンに、残留放射能の恐れがあるためそれ以上自分に近づいてはならない、と父が主人公に諭す台詞こそ申し訳程度にあるが、超高線量に違いない戦場を駆け回って平気でいられる人間であれば、父親の身体に付着した残留放射能などはさして問題にならなかったはずだ。その意味で「総攻撃」は「シン・ゴジラ」ほど、科学的な考証を突き詰めるつもりはなかったのだと推測される。
 以上のことからゴジラシリーズにおける「文脈」は、「シン・ゴジラ」によって「戦争」だけでなく「放射能の脅威」が新たに付け加えられたのだと言えまいか。

 しかし、ここでそう結論付けてしまうと、多くの初代「ゴジラ」ファンからとある指摘が入るだろう。それは初代「ゴジラ」が公開された1954年3月、ビキニ環礁での水爆実験で被曝した第五福竜丸や第十三光栄丸の事件があり、国内に反核運動が沸き起こる社会現象に発展していたことだ。
 当時、急遽企画を捻り出さねばならない窮地に陥ったプロデューサー・田中友幸は、確かにこの被曝事件から着想を得て、ビキニ環礁海底に眠っていた恐竜が水爆で目を覚まし日本を襲うという特撮企画を上げた。しかし一方で、この制作に深く携わった円谷英二は、この事件よりも以前、戦争の恐ろしさを書いてみたいという創作意欲から、海から上がってきた化け物クジラが日本を襲う、インド洋で巨大タコが捕鯨船を襲う、といったプロットを上げている。そしてこれらのプロットは円谷が、まさに空襲中、防空壕の中で思いついたものであった。
 そうして出来上がった初代「ゴジラ」をもう一度眺めてみると、そこには前述した「戦争」の「文脈」の他に、「放射能への憎しみ」という「文脈」を読み取ることも不可能ではない。しかし、ここで注意しなければならないのは、反核運動にせよ初代「ゴジラ」にせよ、あくまで関心が向けられているのは「放射能の脅威」の科学的詳細ではなく、テクノロジーそのものや、テクノロジーを悪用した者たちへの「憎しみ」であるということだ
 すなわち、放射能が具体的にどういったものであるのか、どういった状態で放射能の影響が及ぶのか、といった科学的考証を当時の人びとは、作り手側も受け手側も、さほど求めていなかった。被曝事件という社会的ムーブメントに沸き立つ当時ですら映画においては科学的な考証がなされなかったために、それ以降、人びとから「原水爆」の記憶が薄れれば薄れるほど、ゴジラシリーズがサイエンス・フィクションとして放射能を扱うことは無かった。そうしていつしか、ゴジラシリーズから放射能という「文脈」じたいが透けて無くなっていったように思われる。
 1995年公開の「ゴジラVSデストロイア」でこそゴジラの炉心融解の危機が描かれるが、それはどちらかと言えば原子力機構の致命的欠点を題材にしたものであって、放射能そのものへの「憎しみ」や「脅威」に駆られたものではない。そして、本論冒頭で取り上げた2001年の「総攻撃」では、いよいよ「文脈」が「戦争」のみに絞られ、1954年の人びとが抱いていた反核のエモーションは見る影も無くなってしまった。

 前述の通り、2004年の「FINAL WARS」をもって、ミレニアムシリーズとも呼ばれるゴジラ映画の製作は終了となったが、結局最後までゴジラは放射能の「文脈」に立ち返ることは無かった。しかしながら、12年後の2016年、ゴジラは突如「放射能の脅威」という「文脈」の上に復活を遂げ、大ヒットを遂げることとなる。つまり、この空白の12年間のあいだに、人びとに放射能の恐怖を刷り込ませる想定外の出来事が現実に発生し、「われわれの利害=関心に直結する」ようになったと考えるのが自然である。では、このあいだに一体何が起こったのか。
 デイリー新潮によれば、福山哲郎参議院議員の「シン・ゴジラ」鑑賞後の感想は次の通りだ。

 信頼する複数の人から観るように勧められたのですが、日本政府の意思決定機関の近くにスタッフを常駐させてほしい、というアメリカ政府の申し出を断ったり、凝固剤注入のためにコンクリートポンプ車が活躍したり、副長官を中心に対策チームができたり、驚きとともに当時の記憶が蘇りました。エンディングで都心のど真ん中に佇む凍結したゴジラの姿に、福島第一原発を感じたのは、私だけではない気がします

 福山氏と言えば、民主党政権時代、矢口と同じ内閣官房副長官のポストを担っていた人物である。そんな彼が、「シン・ゴジラ」に福島第一原発を感じ、「驚きとともに当時の記憶が蘇りました」と述べている。彼の記憶を呼び覚ました要因としては、「巨大不明生物」に対する行政判断の道筋が、2011年に発生した福島第一原発事故の際のそれと酷似していたという、まさに災害対策チームの最前線に立っていた者のみぞ知りえる、政治家ならではの経験則であろう。
 しかしながら、彼一人が「シン・ゴジラ」に強く共感したからと言って、80億円以上の興行収入を叩き出せるはずがない。記事では続けて、東京工業大学先導原子力研究所の放射線生物学者である松本義久准教授の感想を以下のように記す。

 映画を観てつくづく思ったのは、福島第一原発事故の影響を受けているな、ということ。ゴジラが放出する放射能はもちろんですが、最初に川を遡って東京へ向かう場面など、横転した船や押しつぶされた家屋が津波を想起させます。

 ではここで、もう一度、蒲田くんが呑川を遡上して上陸するシーンを振り返ってみよう。

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 上の図は呑川の旭橋の様子で、画面奥の河口から小型船舶を押しやりながら蒲田くんが這いずってきている。蒲田くんが上流方向に向かうことによって、川の水も完全に逆流しているが、その大量の水はどうなろうか。それが次の画像だ。

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 これは旭橋よりさらに上った呑川新橋の様子で、画面手前側が上流、画面左の白い靄の中にうっすらと見える背びれが蒲田くんだ。右手前側に逃げ惑う人々があるが、この人々の奥側に川から溢れ出た水や船舶が見えよう。

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 氾濫した川から押し寄せる大量の水と船舶に追いつかれまいと必死に逃げる男性が映し出される。この男性が逃げ延びたかどうかは明示されない。しかし、後々のカットでは、逆さまにひっくり返った自動車の下に生き埋めになった脚だけ見えるのが映し出される。

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 最初の駆逐作戦を仕切り直しているうちに、蒲田くんすぐさま海へと帰っていってしまう訳だが、被災地の惨状たるや実に凄まじい。

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 もう私があえて指摘するまでもなかろうが、這い寄ってくる巨大なちからによって人びとの生活が根こそぎ持っていかれるという映像を、2011年3月11日、実際に私たちは東日本大震災で経験している。あの日、東北太平洋岸は想定外の巨大津波に飲み込まれ、ことごとく破壊された。

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 川沿いに築いた堤防は、河口から次々に押し寄せてくる大量の海水を前に、数分持ち堪えるのが限界だった。海水は私たちの想像を絶する大きなちからで、人びとの暮らしを破壊していった。後に残った瓦礫の山は、それこそ、映画でも見ているかのような光景だったのを、テレビ越しに私もはっきりと記憶している。

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 ここで、坂口安吾をもう一度引こう。語弊を恐れず言えば、テレビの映像にただただ圧倒されていた私たちはあのとき、誰一人の例外もなく「素直な運命の子供」でしかなかったのではないか。

 米人達は終戦直後の日本人は虚脱し放心していると言ったが、爆撃直後の罹災者達の行進は虚脱や放心と種類の違った驚くべき充満と重量を持つ無心であり、素直な運命の子供であった。私は戦きながら、然し、惚れ惚れとその美しさに見とれていたのだ。

 もちろん、私たちは爆撃を受けたのではない。しかしながら、どうしようもなく強大なちからによって日常の生活を瞬く間に失い、代わりに、すべてが破壊された非日常的な実存の光景を前に、私たちは「驚くべき充満と無心」を持つ「素直な運命の子供」に成り果てていたように思われるのだ。
 「シン・ゴジラ」の「文脈」はたしかに東日本大震災であろう。しかしその趣旨の指摘自体はやはり公開当初からあり、いま私がここで持論として言いはじめたものでは断じてない。しかしながら、私がここで語弊を恐れず告白しておきたいのは、私たちは東日本大震災のあの惨状を、ある種の「壮観な見世物」として「ただ惚れ惚れと見とれて」「遊び戯れて」はいなかったかという自戒である。もう一度、安吾の予言めいた一節を引き直そう。

 もし我々が考えることを忘れるなら、これほど気楽なそして壮観な見世物はないだろう。たとえ爆弾の絶えざる恐怖があるにしても、考えることがない限り、人は常に気楽であり、ただ惚れ惚れと見とれておれば良かったのだ。私は一人の馬鹿であった。最も無邪気に戦争と遊び戯れていた。

 「東日本大震災の光景を《壮観な見世物》などというのは不届きだ」という反論やお咎めもあろう。私も一方ではそう思う。しかしながらこの告白と告発はここになさねばならない。そのように思う。山城のテクストをもう一度、引いておく。

 映像の美しさなど外観にすぎぬと反省できる程度の悟性を誇っていた人々こそ真先にそれに魅了されるだろう。
 真珠湾攻撃の写真に見入っていた小林秀雄のことを思い出そう。彼がそこに戦争の肯定につながる「美しさ」を洞察したのは、その写真が驚くべき歴史的な事実を撮っているにもかかわらず、驚くに値する生々しさを致命的に欠いていたからなのである。
 考えることにかけては、周囲の哲学者、思想家たちをも凌いでいたこの文学者すら、こうしてひとたびその美しさにみとれてしまえば、考えることをもはや維持できなかった。(中略)いわんやわれわれをや、という気がする。われわれとておなじである。似た文脈に置かれれば、われわれのほとんどがおなじ結論に行き着いてしまうのではないだろうか。

 前章でも述べた通り、人びとの「利害=関心に直結する」ような「文脈」によって、存在論的にリアルな映像が眺められたとき、人びとは「馬鹿」で「素直な運命の子供」となる。その結果として初代「ゴジラ」は大ヒットを遂げたのだった。
 今度はその《結果》から逆算してみたい。「シン・ゴジラ」は間違いなくメガヒットしている大作だ。では「シン・ゴジラ」に描かれている、私たちを「馬鹿」で「素直な運命の子供」にしてしまう「利害=関心に直結する」「文脈」とは何か――それは、東日本大震災と福島第一原発事故であろう。「馬鹿」で「素直な運命の子供」である私たちにとっては、元の映像にせよ「シン・ゴジラ」の映像にせよ、それらはきっと「壮観な見世物」なのである。いや、この言い方ではまだ語弊があり不適切であるから次のように言い換えよう。

 それらの映像を「壮観な見世物」にしてしまっているのは、「考えること」を手放した私たちが「馬鹿」で「素直な運命の子供」に成り下がってしまったために他ならない、ということを私は強く述べたいのだ。

 さらに言えば、私たちが「無邪気」な「馬鹿」でいることによって、よもやファシズムの時代は二度と繰り返されまいという確証など、最初から幻影だったのではないかとすら苛まれる。山城は言う。

 湾岸戦争という政治的事件は、最も現代的な、そして最もポピュラーな複製機械であるテレビをつうじて非現実的な、しかし美的なスペクタクルとして眺められた。そのことに、私はファシズムを予感する。いや、感じるというより、ファシズムとは本来こうしたものではなかったかと疑う。ファシズムは行進する軍靴の不吉な音とともにわれわれのもとに忍び寄るものでは決してない。むしろ、テレビ画面上のこうしたたわいもない浅薄な美しさをつうじて入ってくる(きている)のではないだろうか。
 その量がいかに過剰であろうと、またいかに鮮烈な印象を与えるものであろうと、メディアをつうじての情報しか与えられていない以上、湾岸戦争がほんとうに起こっていたのかどうかが疑われるとしても無理はない。じっさい、その気になれば、マス・メディアはおなじような事件をでっちあげることすらできるだろう。だが、重要なのは、ファシズムの現実は、事件がほんとうに起こっているかどうかにはかかわらず、複製技術に媒介された非現実的な、しかし大衆的な映像によってもたらされるということである。

 ファシズムの中でもとりわけドイツ・ファシズムと呼ばれるナチズムを遂行した国家社会主義ドイツ労働者党「ナチ党」も、その成り立ちは民主的選挙による急速な支持拡大だったという史実から、私たちは目を逸らしてはなるまい。今でこそ忌み語にも分類されるナチ党であるが、時代も背景も異なるとある社会においては、大ヒットを記録したとも言える。
 ナチ党は、1928年5月の国会選挙では得票率2.6%に留まるも、それからわずか5年もしない内に第一党にまで上り詰め、他党による政治活動を禁止するなどし、議会から排斥した。「NHKテキストビュー」によれば、第一次世界大戦敗戦後、多額の賠償を課された当時のドイツのムーブメントは以下の通りだ。

 大衆に対して全体主義的な政党が提示したのは、現実的な利益ではなく、そもそも我々の民族は世界を支配すべき選民であるとか、それを他民族が妨げているといった架空の物語でした。
 全体主義運動は自らの教義というプロクルステスのベッドに世界を縛りつける権力を握る以前から、一貫性を具えた嘘の世界をつくり出す。この嘘の世界は現実そのものよりも、人間的心情の要求にはるかに適っている。ここにおいて初めて根無し草の大衆は人間的想像力の助けで自己を確立する。そして、現実の生活が人間とその期待にもたらす、あの絶え間ない動揺を免れるようになる。
 「現実世界」の不安や緊張感に耐えられなくなった大衆は、全体主義が構築した、文字通りトータル(全体的)な「空想世界」に逃げ込みました。それは、自分たちが見たいように現実を見させてくれる、ある種のユートピアでした。
 空想世界といっても、現実世界から完全に切り離されたものではなく、現実を(かなり歪曲した形で)加工したものが基盤となっています。大衆が想像力を働かせやすいエピソードをちりばめながら、分かりやすく、全体として破綻のない物語を構築するためにナチスが利用したのは「反ユダヤ主義」と、ユダヤ人による「世界征服陰謀説」でした。

 ナチ党が物語によって満たした大衆の「人間的心情の要求」とは、山城の言う「われわれの利害=関心に直結するような文脈」に何ら違いない。ふたつのテキストから容易に想像されるに、大衆の「人間的心情」に基づく「利害=関心に直結するような」「大衆的な映像」であれば、たとえそれが「架空の」「空想世界」であったとしても、人びとをたやすく扇動できてしまうという映像社会の現実がある

 これは決して戦前ドイツに限った話ではない。戦争を忘れ去ってしまうことへの戒めを青天の霹靂のごとく描いた「総攻撃」だが、前述の通り、現実世界で青天の霹靂といった「文脈」を醸成した大事件と言えば9.11同時多発テロだった。超高層ビルに旅客機が突っ込み、その後ビルが崩れ落ちる光景を、私自身、テレビで何度も目に焼きつけた。ほんとうに、あれはまるで映画のワンシーンのようであった。

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 その後、民主主義大国アメリカはアフガニスタンに侵攻してタリバン政権を転覆する。さらにはそこから《大量破壊兵器を隠し持つ悪の枢軸たるイラク》に戦争を仕掛けるまで、大した時間はかからなかった。この戦争によってアメリカはイラクの事実上の独裁者・サダム=フセインを倒すものの、はたしていつ大量破壊兵器が発見されただろうか。戦争前の査察ではそんな代物、一向に見つからなかったにもかかわらず、テロ組織アルカイダとサダム=フセインの水面下での関連が疑われるというだけで攻撃が開始されたこの戦争に、本当に大義名分があったのか、今日であれば疑問視する声も少なくない。
 しかし、当時の「大衆」は違った。みな、この戦争を歓迎した。言ってしまえば、世界貿易センタービル倒壊という存在論的に圧倒的な「大衆的な映像」に、「現実そのものよりも、人間的心情の要求にはるかに適っている」「架空の物語」が付け加えられていた、そして「大衆」がそれに迎合したかたちと言える。当時のブッシュ大統領の支持率の遷移は非常に興味深く、9.11の前後で約55%→90%以上に、イラク戦争の勝利宣言で約55%→約75%に、一瞬にして跳ね上がっている。そしてその後、ブッシュ大統領は二度目の大統領選挙に、もちろん民主主義的なシステムによって再選すら果たした。語弊を恐れず声を大にして言えば、アメリカ合衆国民のなんと「馬鹿」で「素直」なことだろうか。しかしながら、私のこの発言はもちろん、自戒の意味も多分に込めてのものである。

 日本でもつい最近、政権の交代を、それも短期間に二度も経験したばかりだ。
 一度目は2009年の夏のこと。5年半、政権を担った小泉元首相退任の後、自民党の擁立する総裁――すなわち総理大臣は次々退陣に追いやられ、3年も経たない内に3回の首長交代劇があった。結果、2007年の参議院選挙では民主党が議席数を伸ばし、いわゆる衆参ねじれの状態に至った。その後、私の記憶が正しければ、麻生内閣の最期には《消えた年金問題》と《漢字の読み間違い》をマス・メディアが過熱報道して著しくその印象を落とした。
 衆議院解散後の総選挙は当時の鳩山民主党総裁によって「政権交代選挙」と名付けられ、あたかも選挙の前提が政権交代にあるかのように、劇場的かつ妙に情熱的に選挙期間が経過し、終わってみれば衆議院で戦後最多となる308議席(それまでは113議席)を民主党は獲得することとなった。衆議院の議席数の3分の2は310であるから、たとえ衆参ねじれの状態としても、だいたいの法案を通せるだけの勢力にまでのし上がった訳だ。
 しかしながら、民主党政権はきわめて短命だった。約3年半で3人を首相に擁立した自民党だったが、民主党はさらに短い、約3年4カ月で首相3名を擁立している。マス・メディアによる宣伝機能を上手く利用して政権交代を成し遂げた鳩山首相だったが、そのマス・メディアから《政治とカネ》問題を大々的に報じられ、バッシングの嵐の中1年もたず撤退。続く菅内閣を襲ったのが、あの東日本大震災と福島第一原発事故、つまり3.11であった。
 3.11から2年も経たないうちに、日本の政権は再び交代となる。福島第一原発事故時の初動ミスをはじめ、被災地を視察する政治家たちの失態・失言の数々、避難所の慰問を早々に切り上げようとした総理に怒号が飛ばされる映像が、きわめてセンシティブに取り上げられていたのをおぼえている。

 しかし、私が思うに、あれだけの巨大災害に対して完璧に対応できる政治家など後にも先にもはたして存在するだろうか。テレビから入ってくる「大衆的な映像」によって、この状況を打開してくれる「ユートピア」のような政党を人びとは夢に見ただろう。その結果、政権の交代に繋がっていった訳だが、しかしながら、それは巨大災害への完璧な危機管理の実現を意味するものではない。別に旧民主党を擁護する気は更々ないが、しかし、あのレベルの大災害はまさに《想定外》という他なく、誰がトップダウンの頂上にいても間違いなく混乱に陥っていたはずで、どうにも回避不可能だったと思われる。文字通り人智を越えた超巨大災害に対し、人智でもってどのようにいなし、封じ込めればよいというのか。
 ――立ち止まって冷静に考えればこうした結論に至るはずが、しかしながら、選挙での人びとの選択はトップをすげ替えるというものだった。もちろん、民主党の不徹底のすべてが3.11に起因しているのではない。その他の政策や外交の面も総合的に判断されての結果であろう。しかし、あれだけの巨大災害に遭って政策や外交がその影響を受けないはずもなく、政治家に課された諸問題はすべて3.11や復興と地続きだったはずだ。
 そうして、それまでの民主党と自民党の衆議院議席数がそっくり入れ替わってしまったことは、後世、現代社会においてなお、忘れてはならない重要な記憶であると、私にはそう思われてならないのである。

 かくして日本は、マス・メディアによる過熱報道の影響も多大に受けつつ、わずか6年のうちにのべ7名の首相交代と2度の政権交代を成し遂げた。なるほど、こうして振り返ってみれば、私たちはナチス・ドイツや9.11以降のアメリカをとやかく言える立場になかろう。私たちもそれなりに「馬鹿」で「素直な運命の子供」でしかあるまい。では、その「馬鹿」で「素直な運命の子供」たちは、「シン・ゴジラ」に何を希求したのだろうか。
 「シン・ゴジラ」では、蒲田くんという大災害に対して、対応が完全に後手後手にまわってしまう政府の様子がありありと描かれる。自衛隊は隊内のトップダウンが明確であり組織立って連携するも、いかんせん、そのピラミッドの頂点で攻撃許可などの政治判断がなされなかったばかりに蒲田くんを取り逃がしたのだった。もちろん、射線上に逃げ遅れた民間人がいるために銃を下ろした判断自体は、このタイミングにおいて批判されるべきものではない。自衛隊、ひいては政府による銃火器使用は軽はずみなものであってはなるまいし、軍隊が市民の生命を脅かすなど恐怖政治の引き金にもなりうるから、その危うさを前もって拒絶し回避したことに評価すら出来よう。
 しかしながらその後、鎌倉くんは想定外の進化を遂げ、都心を文字通り火の海と化す。その絶望的な進化を目の当たりにし、多くの観衆は、あのとき政府が民間人もろとも蒲田くんに銃を向け蜂の巣にしてさえいれば、こんな放射能の大惨劇は避けられたのではないか、という極めて全体主義的な《たられば》に駆られはしなかっただろうか
 作中ではこのシーンを最期に総理以下、矢口の上長である官房長官、防衛大臣など閣僚11名を乗せたヘリコプターが鎌倉くんの放射線流によって撃墜される。この放射線流はSNS界隈では「内閣総辞職ビーム」とも呼ばれるが、これによって作中の日本は事実上、政治的空白の危機に陥る。いや、正確には政治的空白などはなかった。あれだけ蒲田くんへの対策が後手後手にまわった日本政府にあって、しかしながら閣僚7名が死亡するという緊急事態には驚くほど迅速に後継者があてがわれた。翌日には新内閣の組閣に向けた調整が始まっており、これには矢口も「次のリーダーがすぐに決まるのがこの国の長所だということがよく分かった」と皮肉っている。
 しかし翻って、元々後手後手の政治判断システムだった上に、その構成メンバーが昨日今日の付け焼き刃、それも有能な人材ほど要職に就きたがらない大災害のタイミングというのは、むしろ矢口の非凡なリーダーシップを発揮させる絶好機になりえたのではないか。
 作中、内閣総辞職ビームの前と後とでは、物事が決まっていくスピードが飛躍的に向上する。蒲田くんに対し「駆除」、「捕獲」、「排除」という目標地点を設定するところからモタモタやっていた前内閣とは異なり、巨災対メンバーは全員、矢口プランの確度向上およびその実行というひとつの目的に向かってブレずに突き進む。そして、その過程に生じる細々とした問題や課題を常に互いに共有しつつ次々に解決を図っていく。このようなチームワークをマネジメントした裁量こそ、矢口その人のものである。組織の処理能力を最大限に効率化させたこと、そして、ときに狡猾な外交交渉に踏み切って時間稼ぎをする思い切りの良さで、矢口はヤシオリ作戦の準備を熱核攻撃前に何とか間に合わせた。
 更に矢口は、ヤシオリ作戦遂行中に政治的判断を速やかに下せるよう、前線部隊参加のうえで陣頭指揮を執り、ゴジラによる放射能汚染が想定の倍以上となった際も、また、血液凝固剤をゴジラに経口投与していた特殊建機第一小隊が全滅した際も、迷わず作戦を続行させ続ける。その結果、ヤシオリ作戦は成功を収め、日本は危機を脱したのだった。
 ――このように物語論的に「シン・ゴジラ」を振り返ってみると、それは既存の政治判断システムの破壊と一新であり、また、日本を危機から救う理想のリーダーによる改革の英雄譚である。少々乱暴な換言をすれば、それはつまり、民主主義的合議制の放棄およびナチス・ドイツ的な独裁体制への回帰に他なるまい。さらに言えば「シン・ゴジラ」とは、全体的・相対的な意味での「日本」のためなら多少の「日本人」の犠牲は仕方ないと謳いあげる、聖典にすらなりうる。にわかには信じがたくとも、私たち日本人は「シン・ゴジラ」によって全体主義的な「理想郷」への回帰を果たしていたと言わざるを得ない。

 良いだろうか。立ち止まって、冷静に考えてみたい。
 矢口はヤシオリ作戦前に「僕が10年後に総理になるより、10年先にもこの国を残す方が重要だ」と、あたかもこの作戦が日本すべての命運を握っているかのような決意を表明するが、私たちはこの描写にうっかり騙され、美しい夢を見てはいなかっただろうか。たとえば熱核攻撃による駆除作戦を受け入れ東京ごとゴジラを焼失させたとして、しかし日本のすべてがそこで滅亡する訳ではなかったはずだ。
 作中、矢口と、核攻撃容認派として立ち振る舞わねばならない赤坂とのやり取りにそう解釈できる。赤坂の主張としては、たとえ東京が焼き払われ放射能で汚染されても、「国際社会からの同情と融資」によって国そのものは存続可能だというものだった。それに対し矢口は「国の復興が最優先ですか」と食い下がるが、赤坂は「夢ではなく現実を見て考えろ」と切り捨てる。前述のように、カヨコ・アン・パタースン特使は祖母を不幸にした原爆をまた米国に使わせたくない《情》によって行動しているが、矢口もそうした日本人独特の《情》に突き動かされ、それを捨てることができなかったのではないか。
 先程挙げた赤坂との対峙のシーンで矢口は「戦後は続くよ、どこまでも……日本はいつまでもかの国の属国ですか?」と投げかけているが、ここには国家を日本人の手で自立させたいという強い信念が読み取れよう。言い換えれば、ヤシオリ作戦とは矢口にとって、日本を日本人の手に取り戻すための偉大な戦いだったのではなかろうか。逃げ遅れた民間人のために攻撃を中止した前首相と違い、矢口は逃げ遅れの報告を受けながらも作戦の決行を指示している。作戦のためであれば矢口は、多少の犠牲を厭わない。
 以上より、「シン・ゴジラ」は、揺るぎない情熱と信念に浮かされた才覚あるリーダーが、国家や日本人のプライドと命運に訴えかけ、熱核攻撃よりも遥かに多くの犠牲を払うであろう(実際払った)特攻作戦を推し進める狂気の沙汰を描き切った作品だとも言えよう。逆説的に言えば、作戦の遂行にあたって尊い生命の犠牲を払ってこそ、この作戦そのものの意義や重み、そして日本人が手中に収める《誇り》は輝きを増していく。
 何度でも言うが、この作品は興行収入80億円超のメガヒット大作だ。日本人の3.11の記憶や放射能の脅威を「文脈」とし、それを彷彿とさせる「偉大な破壊」をもって私たち日本人の「利害=関心に直結する」ことに成功した「シン・ゴジラ」は、「寝なし草でしかなかった大衆」を「現実そのものよりも、人間的心情の要求にはるかに適っている」「理想郷」へと誘い、民主主義による合議的な政治判断システムの破棄と才覚あるリーダーによる変革をドラスティックかつダイナミックに実現し、多少の犠牲をはらないがらも――いや、犠牲を払ったことで日本人を日本人たらしめていった。そして、そんな「架空の物語」に「無邪気」で「馬鹿」で「素直な運命の子供」たちは見事に熱狂したのだった。
 戦前ドイツのムーブメントを思い返してみてほしい。これをファシズムと呼ばずして、何がファシズムか

 ヴァルター・ベンヤミンがいうように、ファシズムが「政治の美学化」を運営するものであり、しかもその美学化が結晶を析出するのが、ほかならぬ戦争においてであるのだとすれば、坂口安吾が戦争中、とりわけ爆撃下の日本に目撃した「理想郷」や「美しさ」は、その結晶にほかならない。それは、軍部とも軍国主義とも無関係である。しかし、だからこそファシズムの精華なのである。

 この山城の言葉を借りれば、日本人が「シン・ゴジラ」に、とりわけヤシオリ作戦下の東京に目撃した「理想郷」や「美しさ」はほかならない「政治の美学化」の結晶であり、それはつまりファシズムの「精華」=真髄なのだ。「シン・ゴジラ」はなぜウケたのか――その答えはここに示された。日本人にとって「シン・ゴジラ」とは、全体主義的な意味での「理想郷」であり、国民性そのものだったのである。

 しかしながら「シン・ゴジラ」をファシズム扇動作品であるとして謗るのは勇み足だ。たしかに「シン・ゴジラ」は全体主義的な一大ムーブメントを巻き起こしはしたが、しかし、1から10までがすべてファシズムに傾倒しているという訳でもない。1から10、ではなく、せいぜいが1から9程度のものだ。
 つまり《1から9》に至るまでは全体主義的なムーブメントを描いていた「シン・ゴジラ」だが、《10》になった途端、つまりはラストシーンになった途端、「シン・ゴジラ」はファシズムへの同化と帰郷から、僅かながらも、しかし決定的な《ズレ》を喫するのだ。また、ファシズムとの完全な同化から《ズレ》が生じ、僅かながらも決定的な分断に至る構成は、なにも現代ゴジラにはじまった話でもない。初代「ゴジラ」からそのような潮流は読解可能である。「ゴジラ」がファシズムへと同化しつつも、しかし同化しきることはなかったその僅かな《ズレ》とは何なのか、次章に続けていこう。

3.伊福部 昭と「シン・ゴジラ」の尻尾――郷愁と《うしろめたさ》からの芸術

 1948年公開「社長と女店員」という映画作品は初耳であっても、オープニングのこの特徴的な旋律は誰しもが一度は耳にしていよう。著作権すら完全に切れている、かれこれ70年以上前の映画である。しかしながらこの音楽は今もなお、決して色褪せることはない。
 いまや国民的アニメとなった「クレヨンしんちゃん」の劇場版作品、「爆発! 温泉わくわく大決戦」においても、なぜかゴジラの楽曲が用いられる。無論、「温泉わくわく」にゴジラは一切登場しない。だが、ゴジラのような耐久性能を誇る敵・巨大ロボットが街を破壊する展開となっており、それに対して自衛隊が必死に立ち向かうも歯が立たず「12億円の戦車」も一瞬で踏みつぶされるという、どこかで聞いたプロットが挿入されている。ゴジラのテーマが使用されるのはまさにそのシーンで、ひとつは「社長と女店員」でも用いられているあの有名な旋律で、もうひとつは『怪獣大戦争マーチ』である。
 本稿において非常に重要な旋律となるため、下記サイトにてぜひ視聴していただきたい。

 「怪獣大戦争マーチ」は初代「ゴジラ」の作中、太平洋上で海中のゴジラに爆雷攻撃を仕掛ける「フリゲート艦隊」にちなんだ「フリゲートマーチ」という楽曲からの援用である。

 これらは元々あった楽曲を別の作曲家が引いた、というものではない。戦中・戦後日本を代表する作曲家であり、ゴジラ音楽の父と言って差し支えなかろう伊福部 昭は、このように楽曲を自身でリメイクする手法を何度も重ねることがあった。
 「フリゲートマーチ」はやがて「怪獣大戦争マーチ」、「宇宙大戦争マーチ」などに派生するが、しかしメインとなる冒頭のフレーズ自体は繰り返し援用されているのがわかる。

 初代「ゴジラ」においてこの旋律は他にも、東京湾沖合の離島へと向かう調査団の船出のシーン、オキシジェンデストロイヤーを炸裂させるために海洋上に繰り出すシーンでも使用されている。一方、「温泉わくわく」では、「ロボット退治」のため戦車を走らせる自衛隊が「お前ら、自衛隊に入った甲斐があったな!」と「景気づけ」に爆音で流すミュージックとして用いられた。ギャグシーンにアレンジされているとはいえ、戦意を高ぶらせるべき場面で楽曲が挿入されるのは実に似通っている。
 映画研究家の小林淳(以下、フルネーム呼称。文人・小林秀雄との混同を避けるため)は、「怪獣大戦争マーチ」に魅了された若手映画作家たちの心情を次のように推し量る。

 ある意味、この曲(怪獣大戦争マーチ:筆者注)は東宝特撮怪獣映画ファン、伊福部ファンにとってシンボル的な楽曲なのである。大森一樹、金子修介といった、伊福部が音楽を付けた特撮怪獣映画を幼い時分から観て育ってきた映画監督がゴジラ映画のメガホンを取ったとき、両者ともにゴジラの主題歌や〔怪獣大戦争マーチ〕を他の音源から用いている。〔怪獣大戦争マーチ〕に絞れば、大森一樹は『ゴジラVSビオランテ』(1989)の劇中で、金子修介は『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』(2001)のエンディング曲で。
 特に金子作品においては、それまで音楽担当者の大谷幸がドラマ内で構築してきた音楽世界を、取り方によってはエンディングロール箇所ですべて否定してしまうような形で伊福部の〔ゴジラのテーマ〕、〔怪獣大戦争マーチ〕が響いてくる。もちろん悪気があるわけではない。念願のゴジラ映画の監督になったのならば、一度は自作で伊福部のゴジラ映画音楽を、〔怪獣大戦争マーチ〕を流してみたい。そういうような誘惑に駆られてしまうのだろう。

 また、小林淳は『怪獣大戦争マーチ』をはじめとする〈伊福部マーチ〉の「シンボル」性、「誘惑」について、次のようにも述べる。

 あらためて思う。〈伊福部マーチ〉は映画にこの上ない臨場感を呼び込んだ。伊福部のマーチ音楽が流れ始めることで映像・ドラマは急激に活気づき、鑑賞者の意識は画面に惹きつけられた。観る側の集中度も確実に増した。音楽が映画と観客をより密接な関係にいざなった。『地球防衛軍』、『大怪獣バラン』、『宇宙大戦争』、『海底軍艦』、『宇宙大怪獣ドゴラ』、『怪獣大戦争』、『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』、『怪獣総進撃』など、マーチ音楽が劇中で複数回使用された作品はおおむね伊福部音楽が映画のドラマトゥルギー表現を背負っていた。このジャンルに限らず、〈伊福部マーチ〉が主張を発する作品は、伊福部映画音楽作品の中でもきわだって光を放っているもののようにも映る。
 (中略)
 東宝の特撮SF映画、ことに本多・円谷の手による〈侵略戦争もの〉に伊福部のマーチ音楽は欠かせなかった。これは疑いようもない。伊福部が音楽を担当しなかった作品でも、ここであのマーチ曲が聞こえてきたら、と思いを寄せてしまう人も少なくないらしい。無意味でエチケットに反することだが、その気持ちは分からなくもない。

 作品名を羅列する小林淳の、なんと饒舌なことか。〈侵略戦争もの〉に〈伊福部マーチ〉が不可欠だとするその断言の、なんと力強く、清々しいことか。無論だが、小林淳自身もゴジラに、そして〈伊福部マーチ〉に「誘惑」された内のひとりであって、参照した『伊福部 昭 音楽と映像の交響〈上〉』(ワイズ出版、2004年)では上下巻約700ページの熱量をもって、ただひたむきにゴジラと伊福部にリスペクトを捧げている。
 かく言う私も〈伊福部マーチ〉の虜のひとりである。恐ろしいことに、冒頭の「大怪獣総攻撃」のエンドロールで流れたに過ぎない『怪獣大戦争マーチ』の金管楽器の音色は、当時9歳の私の脳裏に焼き付いて、今なお時折、自然勝手に流れ出すのである。
 本稿の筆を執るにあたって、映画音楽にまで範疇を拡げるのは蛇足ではなかろうか、とずいぶん葛藤もあったのだが、やはり私も「誘惑」に負けてしまったのだった。これまで数多の映画作家たちが自らの作中に〈伊福部マーチ〉を招き入れてしまったように、私もそうせざるを得なかった。本来ならば第二章に次いで、第三章に「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」への私なりの評価を書き連ねてしまえばそれで終わりだったものを。本稿に〈伊福部マーチ〉を迎えるチャンスを私は、それが蛇足甚だしいと知ってなお、どうしても手放すことができなかった。
 この、何とも言葉には言い現しがたい独特の魅力はいったい何なのだろうか。〈伊福部マーチ〉の誘惑の根源は、いったいどこに湧き出しているのであろうか。辿りつけなくともよい。そこに少しでも近づけたなら――そんな私の勇み足を、小林淳はこう諫める。「平成ゴジラ」シリーズの『ゴジラVSメカゴジラ』や『ゴジラVSデストロイア』では〈伊福部マーチ〉を活かしきるだけの物語世界が築かれていなかったために、伊福部音楽が映画のドラマツルギーを背負っている実感が湧かなかった、と。
 でははたして、私の執筆に〈伊福部マーチ〉を活かしきるだけの世界があろうか。いや、恐らくは無いだろう。この問いは私にとってあまりに惨い。小林淳700ページの迫力を前にして、私のペンは果たしてどれだけ伊福部を捉えられるだろうか。おそらくそのほとんどは私の両手の指の隙間から零れ落ちてしまうに違いない。伊福部を書くにあたり私が微塵も臆していないと言えば、それは嘘になるだろう。
 しかしながら、私は〈伊福部マーチ〉を、伊福部昭を、それでも精一杯書かねばならないとも思う。いや、いまここにある、現状の私でもってそれを書き留めておかねばならない、というような思いがある。小林淳、ならびにかつての文人たちが対象に向けた眼差し、その恐ろしい熱量に比べれば、私の意欲など「誘惑」に浮かされただけの自慰行為に過ぎないのかもしれない。あるいは、いちファンのウンチクに過ぎないのかもしれない。しかし、そうだとしても、私はいま、妙な義務感に、シンパシーにただ突き動かされている。

 それこそがまさに、同郷のよしみ、縁とでもいうべきものなのだろうか。

 ゴジラシリーズをはじめ、数多くの映画音楽も担当した作曲家・伊福部昭は、ちょうど第一次世界大戦が勃発した1914年、北海道は釧路町幣舞(ぬさまい、現在の釧路市)に生を受けた。
 奇しくも私が生まれたのもまさに釧路市は幣舞の近くにある市内最大の病院であった。霧がかった日の実に多く、また空気には独特の磯の香り立ち込める地であるが、晴れた日の日没前には世界三大夕日があまりに見事である。かつてこの地に息づいた石川啄木をして、
「西の空 雲間を染めて赤々と 氷れる海に日は落ちにけり」
と歌わしめた風景は、100年前の啄木や伊福部の瞼にも燦然と焼きついていたに違いない。

 伊福部家は明治維新まで宇部神社の神官を代々務めてきた古代豪族の末裔で、昭少年の代で67代目、たいへん由緒ある家系だった。伊福部が9歳の頃、父親が音更村の官撰村長に就任したのをきっかけに、地元のアイヌとの交流を深め、「シノッチャ」と呼ばれる叙事音楽をはじめとするアイヌの歌や音楽に触れると、その後、父親に買ってもらったヴァイオリンやギターなどの弦楽器を独学で習得する。
 1927年・13歳の頃から作曲をも独学しだし、二十歳にも満たない時期に手掛けた『ピアノ組曲』(1933年)で1938年のヴェネチア国際現代音楽祭・入選を飾った。さらに1935年、北海道帝国大学(現在の北海道大学)農学部林学実科を卒業後は現代で言う国家公務員として厚岸(あっけし:牡蠣で有名)の森林事務所に勤務する傍ら、自身初の管弦楽作品『日本狂詩曲』でチェレプニン作曲コンクールの第一位を審査員の満場一致で獲得する快挙も成し遂げている。その後も林業に携わりながら作曲を続け、日本のコンクールでも第1位入賞の他、文部大臣賞を受賞するレコードも出版した。
 第二次世界大戦終戦後、伊福部は栃木県日光に移り、《林業と作曲》というライフワークは《音楽教育と映画音楽》という次の段階に進んでいった。
 1946年には東京音楽学校(現在の東京藝術大学)にて作曲の教鞭をとる傍ら、1947年の映画「銀嶺の果て」で自身初の映画音楽を手掛けて以来、本章冒頭の「社長と女店員」のほか、実に300本以上の映画に携わっていく。
 1953年で教台から下りた伊福部だったが、ちょうど不惑を迎えた翌1954年、自身生涯の代表作となる楽曲が2本発表された。一つは『タプカーラ交響曲』、後に『シンフォニア・タプカーラ』(「タプカーラ」=アイヌ語で《立って踊る》を意味する)とも改題された、日本作曲史に残る名曲であり、そしてもう一つは、言わずもがな、今なお脳裏に刻まれて色褪せない、初代「ゴジラ」のテーマである。

 東京は尾山台に邸を移した伊福部のもとに、東宝株式会社音楽部長・掛下慶吉が訪ねたのは、この年の初夏のことだった。掛下の置いていった台本を読み込んだ伊福部は、まもなくその映画音楽の仕事に取り組むこととなる。空想科学によって生み出された巨大怪獣は、彼にとって赤の他人とは思われなかった――ちょうど私が伊福部に触れねばならないように、伊福部もまた、ゴジラに触れねばならないと思っただろうか。
 ゴジラはいわば被爆者であるが、戦時中の伊福部もまた、帝室林野局林業試験場で圧縮木材のレントゲン撮影を繰り返すうち、放射線に被曝し大量に喀血していたのだった。

はっきりとした病名不明のまま約一年間の自宅療養生活を強いられた。ビキニ環礁の水爆実験によって安住の地を追われ、その巨軀を所在なげにさらすゴジラの姿に奇妙な親近感がわいた。まるで自分のようだ、とも思った。同時に痛快味も覚えた。防衛隊が繰り出すサイン新鋭の兵器や火力もゴジラにはまるで歯が立たない。戦闘機の攻撃をものともしないゴジラを〈気持ちいい〉と感じた。

 (小林淳より)

 西村(『映画でクラシック!』新潮社、2007年)もこう述べている。

兄の勲も、軍事研究所でレントゲン板を開発して放射能に侵され、四二年に死亡していた。「ゴジラは科学技術で作り上げたものを破壊します。何か敵討ちしてもらっているようで、『ゴジラ』の音楽に力が入ったのは、そのためかもしれません」と伊福部は言う。

 一方で、伊福部はゴジラに携わる前、自身の幼少期をで次のように物語っている。

私達少年の遊びは、窪地に石器を探しに行つたり、魚を採つたり、又、動物を捕えて殺し、これを食べて了うことであつた。特に、私は其の樣な遊びが好きであつた樣に思う。しかし、動物を捕るにはなかなか祕法があつて、これを學ぶには、不思議な一種の聖水を飮んで、餓鬼大將の家來とならねばならなかつた。この聖水はカナンチョ水と呼ばれた。
 トカゲと蚯蚓と蛙を甁に詰め、棒で突ついてから谷川の水を注ぐのであるが、この爬蟲類、兩棲類、蠕蟲類のオヨソ氣味の惡いスープを飮まぬことには、家來として其の日の遊びに參加は出來ぬのである。この聖水を狩の度に相當量飮まねばならぬことは、可成りの苦行であつたが、私の場合、潔癖の治療に大きな效果があつた樣に思う。

(1953年、岩波書店『世界』No.96, p.52-54. 「日常生活の美」より)

 伊福部にはゴジラに通ずる要素が二つあった。
 まず伊福部は、幼いころは都会的なもの・文明的なものから隔離された、開拓後間もない大自然によって育まれ、爬虫類や両生類といった生き物たちとの生々しい触れ合いがあった。さらには、アイヌとの交流からその音楽や舞踊、儀礼や信仰を実体験した。そうして、哺乳類や愛玩動物に限らず、様々な生き物に対する畏敬の念、リスペクトが深められていった。
 しかしながら、30歳を少し過ぎた終戦間際の頃、レントゲン撮影という文明の利器が牙を向き、原因不明の喀血を経験した。当時の助手によればGHQの検査員から、伊福部の研究施設で使用された薬品・木材が一日「何トン」に及んだか質問があったということだが、フラスコと向き合って地道に進めていくような研究に携わっていた伊福部にとっては、もうまったく規模感のちがう世界だった。広島への原爆投下をはじめ、兄と伊福部自身の被爆体験はもちろん、1954年3月・ビキニ島水爆実験による第五福竜丸被曝事故の報など、テクノロジーによる暴力はこれまで何度も見せつけられてきた。
 伊福部にとって「ゴジラ」とは、尊ぶべき生命との同化であり、あるいはこれまで自身と周囲を幾度と苦しめてきたテクノロジーへの復讐だったのかもしれない。
 かくして伊福部は、ゴジラに強い興味を抱いた。しかしながら一方で、彼はいかにして音楽家として「ゴジラ」に携わったのか。彼という人間とゴジラの相性が良いということは理解たり得る。しかし、音楽家としての伊福部の野心や彼の作る音楽それそのものは、はたして「ゴジラ」とどのようにして融和していったのか。

 伊福部の親友に、黒澤明の映画音楽を手掛けた早坂文雄がある。早坂は、『夜想曲(ノクターン)』のドビュッシーやショパンといった、輪郭のぼんやりとした印象派音楽を嗜んだ。いわゆる《王道》音楽家たちである。
 一方の伊福部はどうか。彼は輪郭のはっきりした楽風を好む。『ボレロ』でおなじみのラヴェル、そして、ロシア・アヴァンギャルドの潮流を継いだストラヴィンスキーが伊福部の一押しである。ストラヴィンスキーといえば『春の祭典』の衝撃的な楽風から、かのシャンゼリゼ劇場での初演時、観衆による乱闘騒ぎを巻き起こしたその人だ。
 さらに、早坂の推すドビュッシーと伊福部の推すラヴェルは、過去に友好関係を築きながら破局した経緯がある。価値観に粗暴な面があり女性に奔放だったドビュッシーをラヴェルが咎めたことから収拾がつかなくなり、作風もまるで違う二人の大音楽家の友情は必然の帰結を迎えた。しかし面白いことに、伊福部と早坂は作風も音楽嗜好もまったく異なる方向を向いていながら、二人の交友は生涯に渡ったという。
 過去の大音楽家たちの嗜好はこの二人にもはっきり受け継がれていて、曖昧模糊な感じと評される早坂に対し、伊福部は「ゴジラ」からも分かるように、かなり輪郭のはっきりしたキャッチ―な音楽を書く。早川が女性的と評されるならば、伊福部は男性的と言われる。二人の映画音楽家を対比する際しばしば観察されるのが、その生い立ちの違いである。
 伊福部の音楽体験は、芸術作品によるものではなく、きわめて土着的かつ信仰的なアイヌの儀礼・舞踊文化にあった。早坂も北海道で育ったということだが、しかし生まれは仙台、その後は道内最大市街・札幌に移り、田舎とは無縁の環境下で、西欧文学や美術といった芸術全般の潮流から音楽を見出していった。早坂が入れ込んでいった「印象派」と呼ばれる作法は、フランス革命と写真技術によって実用的に意味をなさなくなった写実主義に取って代わる、芸術全般の大きなうねりである。芸術全般を俯瞰し、音楽分野へ、そしてその中でも「印象派」へ、という風にズームしていく早坂に対し、伊福部は、ある突出した音楽体験、アヴァンギャルドな作風などから徐々に世界を拡げていったと考えられよう。
 当時16歳ごろ、ストラヴィンスキーとの出会いの記憶を、伊福部はこう振り返る。

 ドビュッシーの音楽には最初少しく抵抗を感じましたが、ストラヴィンスキーの場合は、その音楽のすべてがきわめて妥当に思われ、この音楽がどうしてそんなに問題になるのかが理解できませんでした。きわめて強烈だといわれる律動も、私には快いものでしたし、和音も旋律もきわめて美しいと感じました。
 それ以前にも種々な音楽に触れていたのですが、どれも何かいわゆる外国くさく、他人行儀で、ストラヴィンスキーの音楽に接して、初めてこれがひそかに自分が音楽と考えていたもののように感じられました。それでまことに愚かな恥ずかしいことですが、私はストラヴィンスキーのオーケストラを最初に聴いて、無謀なことに音楽にあってこのような観点が許されるのならば自分でもあるいは書けるのではないかと本気で考え、管弦楽法の勉強を始めたような始末なのです。

(1971年、音楽之友社『音楽芸術』 Vol 29, No6. p26-29. 「ロマン主義の否定あるいはこれとの訣別」より)

 早坂の推したドビュッシーだが、伊福部少年にとっては少々抵抗があった。なぜか。「何かいわゆる外国くさく、他人行儀で」あったという。「他人行儀で」あったとはどういうことか。それは伊福部がその音楽に触れたとき、自身が《当事者》だという確信が得られなかった、ということに他なるまい。
 しかし、それではストラヴィンスキーはどうなのか。彼もまた、「外国くさく、他人行儀」なものではなかったのか。ドビュッシーとストラヴィンスキー、二人にどんな違いがあるというのか。伊福部は以下のように語る。

 これはあとになって感ずることなのですが、ロシアという国は、ジンギスカンの孫にあたるバドウという人によって一二四一年に征服され、以後、十五世紀の終わりごろまでキプチャク汗国として蒙古帝国の支配下にあったわけですが、(中略)婦女子をことごとく略奪したということですから、当然かなりの混血があったと考えられ、またそのあとに続く四百年近い支配とあいまって、文化観とか感性の上でぬぐうことのできない蒙古の大きな影響があったことは十分に考えられることなのです。
 また一方、われわれ日本人にも現在目の一画に蒙古皺襞という顕著な特徴が残っておりますし、また赤ん坊の99%に見られるお尻にある青い蒙古斑というのがありますが、これらから推してもわれわれ民族が蒙古とかなり深い関連のあることは明らかです。
 それでストラヴィンスキーの音楽語法が最初から私になんの抵抗も与えなかったというのは、このような点に原因があるのではないかと私は考えております。(中略)さらに旋律にあっても短小な楽句の反復という形がしばしばとられるのですが、これは一般には舞踊音楽の影響といわれておりますが、それもあるでしょうが、私の考えではこれは主としてアジア的な嗜好のしわざであるように思えてなりません。

(上記出典より)

 ロシア人と日本人にはアジア的な嗜好のルーツがあり、そのためストラヴィンスキーの「音楽語法」に抵抗が無かったのではないかと論じている。
 気を付けたいのは、ここで重要なのはテクストの表面上の真偽ではなく、これを記した伊福部が何を語らんとしたか、そのエッセンスである。私は「印象派」にもアヴァンギャルドにもどちらにも肩入れしていない(どちらかに肩入れできるほどの知見がない)が、そんな音楽学的に無学かつニュートラルな私に言わせれば「印象派は外国くさくて他人行儀だが、ストラヴィンスキーはアジアにルーツを発しているので例外たりうる」というのは、なかなか苦し紛れに聞こえる。もし仮にそうだとしても、伊福部が推していたラヴェルはほぼ生粋のフランス人であるから、この話との整合がつかない。字面の解釈だけで言えば、「他人行儀」なものとその例外とを分別する判断基準はかなり作為的で、伊福部のご都合が多分に反映されてしまっている。
 しかしながら、いまの私には、この「リスペクトする対象との共通のルーツを見出し、シンパシーを感じようとする欲求」がまるで他人ごとのようには思えない。つまりこれは、同郷の伊福部を論じるに至った私自身の欲求である。ある種の選民思想とすら言える。対象と自分との関係性に特別な価値を見出そうと模索した結果である。
 だとすれば、上のテクストには真実しか述べられていまい。伊福部はストラヴィンスキーを肯定するにあたって「同じアジアのルーツであること」を挙げた。そしてドビュッシーを否定するにあたっては、その外国くささ、他人行儀さを挙げた。この事実と、そして上述の半生から深読みできることがある。それは、伊福部がルーツの《なか》と《そと》とを線引きし、その《そと》にあると判断されたものには少なからず難色を示す傾向があるということである。
 ルーツの《なか》にあるものとは、言わずもがな、アイヌによる土着的な音楽や生命倫理、そしてストラヴィンスキーの音楽言語である。ルーツの《そと》にあるもの、それは「印象派」音楽、そして欧米による暴力的なまでのテクノロジーである。――余談だが先ほども触れたように「印象派」とは、フランス革命による身分制度の撤廃と写真技術の発明による写実主義(≒肖像画)の実用的価値の瓦解に端を発するものであって、その意味ではテクノロジーの産物と言っても差し支えあるまい。早坂は「十八世紀はオペラの時代、十九世紀がバレエの時代とすれば、やはり二十世紀は映画の時代でしょう」と三浦淳史との対談中に述べ、映画というテクノロジーが音楽にもたらす可能性について大いに示唆していたが、西村曰く伊福部は「純音楽至上」のようなところがあり、早坂と映画音楽の話をすることは最後まで無かったという。
 誤解があってはならないが、伊福部はルーツの《そと》のものに排他的であったわけではない。ルーツの《なか》にあるものを純粋に愛し、尊び、そしてそれらを下手に譲らなかっただけである。そのことが音楽家としてのアイデンティティの形成にとって良い方へはたらいたと河野と片山(『河野保雄対談集 現代音楽を探せ』2005年、芸術現代社)は言う。

片山 伊福部昭は(中略)、アイヌとかの日本人とは違う民族を音楽的にとりあげていたので、(中略)アカデミックなところからも差別され、民族派といわれた人たちからも違うと言われてきたということになります。けれど、伊福部昭という人はそれでめげるような方ではない。少年期にアイヌなどの側に暮らして、アジア的、北方的なものはこれなんだという絶対的原体験を精神の背骨に持っておられる。だから西洋的なものやその代弁者の東京のインテリに接してもひるまないのですね。
 (中略)
片山 そういう子供の頃の感じたものをずっと持ち続ける、それでアイデンティティが保たれているわけで、その意味で非常に幸福な作曲家で(中略)、そこが強さでもあり、異端視された原因の一つでもあるのだろうという気がします。
 (中略)
河野 伊福部はヨーロッパの技法を用いて、アイヌの民族や旋律を素材として一つの作品をつくりあげたということは、当時としては前衛的な音楽であったと思いますね。
片山 その通りで、伊福部昭は日本の民族主義というより、あのような育ちだったから、アイヌとかアジアのいろいろな民族音楽を最初から取り込んでいくという視点を持っていたわけですね。当時の民族主義というのは、ヨーロッパからいろんなものが入ってきて、ただそれに対する反発から純日本的なもの強調されるといった具合でしか考えられていなかったという感じですが、伊福部の場合はもっと広がりのあるアジア的なものをかなり早くから想定していて、その感性が当時の作曲家としては一番先端的というか、別のところに視点がいっていたと言えるでしょう。

 当時の民族派は西欧から押し寄せてくる芸術文化に対して純日本的な反発を示すのがセオリーだったが、伊福部はそうしたスタンスとは明らかに一線を画していた。伊福部がそのルーツの《なか》に内包するものは、日本――すなわち「本土」的・「内地」的なものだけでなく、アイヌの異文化はもちろん、ひいてはアジア大陸全体をも含んでいた。伊福部の幼少期の「絶対的原体験」がそれを強く裏付けている。だから、西洋的なものの押し売りや東京のインテリの代弁者にひるまずにいられる。

 なるほど、「絶対的原体験」というものについては、私も少しおぼえがある。と言っても、さすがに野生生物の出汁を取って飲んだ憶えはないが、たとえば当時の環境なら下手をすれば命を落としかねない厳冬の極寒は、本州以南で経験することはまずない。実家の家庭菜園畑に丹頂鶴が舞い降りて白い息を吹くのを間近に見たこともあったし、水辺を求めたエゾシカが一両編成の汽車に轢き飛ばされる断末魔も鼓膜にこびりついている。
 夏は夏で、キタキツネかテンなどの肉食動物が小学校の鶏小屋の金網をこじ開けて皆殺しにしてしまったことがあったし、市街地から離れた釧路川中流に巣食う外来種・アメリカザリガニを駆除も兼ねて大量にフライにしてみたものの、これが泥臭くてとても食べられたものでない、なんてこともあった。釧路湿原の遊歩道からネイチャーガイドが身長の倍以上ある長い棒状のものだったかを取り出して、ヤチマナコと呼ばれる底なし沼に突き立ててみせ「開拓民や家畜はこの沼にやられることもしばしばでした」と案内を受けたこともあった。

 1993年、80才近い伊福部は、釧路市からの委嘱を受けて『交響的音画「釧路湿原」』を手掛けた。釧路市でラムサール条約締結国会議が開催されるのを記念して、釧路湿原の記録映像を会場に流すという企画に、伊福部も携わったのだった。当初の手筈は、当時のハイビジョン撮影で四季折々の湿原の在り様を繋いでいき、日本を代表する現代音楽『シンフォニア・タプカーラ』を再構成して映像につけるというものだった。しかしながら、第一回目の粗編集ラッツシュを見た伊福部は、既成曲の援用などではなく新作の書下ろしを自ら申し出たのだった。
 なぜか。一つには、映画音楽とちがい、作曲スケジュールに余裕があったことはもちろん考えられるだろう。伊福部曰く、ちょうど1950年代の映画音楽といえば4日前後で40曲前後の作曲が求められたという。そうしたタイトスケジュールの中では、援用とアレンジで立ち回ることもあったかもしれない。だがスケジュールに余裕があるというだけで伊福部の創作意欲に火がつくとは到底思われない。なにせ映像は30分を越える一大詩篇である。30分超の楽曲を、それも映像の表情に完全にコミットしたものを書き上げるエネルギーは、いったいどこから湧き上がったのか。小林淳は下巻(『伊福部 昭 音楽と映像の交響 下』2005年、ワイズ出版)でこう解釈する。

 地方森林官の仕事をしていたから厚岸に隣接する釧路周辺の野山も伊福部は頻繁に歩き、釧路の大自然、そこに生息する動植物もごく当たり前のように接していた。伊福部はこの湿原の大自然を前にし、またその湿原に独り立つ自分を凝視して、己の小ささを痛感した。人間のはかなさ、あまりに小さな存在を実感したという。同時に、その大自然に対して畏敬の念も覚えた。実際、その地に踏み込んだ者に取り、湿原は恐怖感をともなった厳格で緊張感に満ちる原野だった。人間の介入を畏怖すべき聖地。それが釧路湿原だった。
 
釧路湿原を映し出す映像の数々を第一回ラッシュで見た伊福部は、(中略)自分の歩んできた道が脳裏に浮かび、ノスタルジックな想いが胸に迫ってきたのであろう。映像に現れる湿原の景観やそこに生きる動植物に限りない親近感と慈しみが湧いてきたのであろう。そうした理由により、既成曲の流用ではなく、画に合致した新曲でもってこの映像作品を世に送り出したい、という考えに至ったと推察される。

 伊福部は映像からノスタルジーを感じ、新曲を書き下ろすことを決めたのではないか。小林淳はこのように推察している。気をつけたいのは、これはあくまで推察に過ぎないという点である。『釧路湿原』を書き上げるにあたって、あるいは伊福部本人が動機を語っている原典でもあれば更に伊福部に肉迫もできようが、ここではあくまでも推察に留まってしまっている。しかしだからこそ、ある種の説得力のようなものに満ちた推察とも私には取れる。上に引いた部分で私は、他でもない私自身のルーツの〈なか〉にあるもの、郷愁とでも呼ぶべきそれの正体を、見事に言い当てられてしまっているからだ
 小林淳の奥付けによれば、彼は「東京生まれ」であるという。彼自身の生い立ちやプロフィールについてはネットを用いてもこれ以上調べがつかなかったが、おおよそ「大自然」に彼自身の原体験があるとは考えにくい。だが、伊福部に向けた上記の推察はしかしまったくの無根拠であったわけでもない。小林淳は伊福部本人の協力のもと、尾山台の邸に通い詰めて取材を重ね、本書700ページを下ろした経緯がある。その本の内容の証左を知人の伊福部研究家に依頼したうえで、なお、「内容に関してはすべて、書き手である私一人の責任である。本文中に引用した伊福部氏の発言なども含めて。」とまで注意書きしている。
 私は上の推察を、おそらくは真実であろうと思う。信じるに足る。なぜか。伊福部邸に通い詰め、伊福部の生の言葉を紡いだ男の推察が、まったく見ず知らずであるはずの、この《私》の郷愁を見事に言い当ててしまったからである
 ――釧路湿原とは決して、ただ美しい絵はがきのような幻想風景ばかりではない。それは断じて違う。あるときは広大すぎるがゆえに孤独が襲ってくる場所でもあり、またあるときは自身の死がにじり寄ってくるかのような言い知れない恐怖に苛まれる場所でもある。遊歩道やガイドが整備されたいまでも「この遊歩道から足を踏み外したらそこはヤチマナコで、自分は溺れ死んでしまうのではないか」とか「ガイドからはぐれてしまったら野生動物の餌食になるかもしれない、ヒグマだっていないことはない」とか、そういった強迫観念に駆られる。だから、幼い私は遊歩道の真ん中を歩き、列の先頭、ガイドのすぐ後ろをついていった。
 小林淳が言い当てたのはそうした、湿原に育まれた一人の人間の郷愁であり、ルーツの〈なか〉のものであり、それは恐らくきっと、伊福部にも通じているような気がしてならないのである。ちょうど、伊福部自身がストラヴィンスキーと何かの因果で通じていると直感していたように。「絶対的原体験」というものが、私たちのその後のアイデンティティを、伊福部で言えば作風や芸術観を、それは強固に形づくっていったのだと信じるほかないのである。

 ルーツの《なか》と《そと》という感覚の基盤・根源となっている「絶対的原体験」であるが、では、それが伊福部にもたらした芸術観とは実際どのようなものであったか。彼の作曲にどのような姿勢を貫かせたか。片山によるインタビューに伊福部は、こう答えている。

 日本だって、フェノロサが来て『芸術、芸術』と言うようになってから日本では本当に優れた芸術が逆に生まれ難くなり、芸術という言葉がない頃には立派な仏像などがどんどんできていた。それと同じように、変な意識を持って芸術らしくフワーッと出て来るのでは、もうすでに芸術からはずれているんです。
 ポール・ヴァレリーも、芸術家になるために第一に大切なことは芸術家らしくなくなることだ、と言っています。トマス・マンの『トニオ・クレーゲル』にも、同様な見解が見られます。
 下世話になりますけれど、食べ物でもそうなんです。味噌にしても、いい味噌は味噌臭くないんですよ。昔から、味噌臭いのはいい味噌ではないと決まっている。いい醤油は醤油臭くないし、いい油はあまり油臭くないんです。芸術だって、芸術臭いのはろくな芸術ではありません

 小林淳の上巻からこのようなエピソードも見てみよう。教員時代のエピソード同様、これもゴジラに携わる前の出来事である。

一九四六(昭和二一)年秋、伊福部が東京音楽学校の作曲家講師として着任した最初の講義の中で引用したアンドレ・ジイドの言葉、「定評のある美しか認めぬ人を私は軽蔑する」、加えてその講義を受けていた若き日の黛敏郎(原文で「黛」は旧字体:筆者注)や芥川也寸志らに深い感銘を与えたという言葉、「芸術家たるものは、道ばたの石の地蔵さんの頭にカラスが糞をたれたその跡を美しいと思うような新鮮な感覚と心を持たねばならない」を思い出させる。

 ここまで読み込めば、「ゴジラ」に前のめりになった伊福部の心理の断片に辿りつけるような気がする。伊福部はなぜ音楽家として「ゴジラ」に携わる決心をしたか。それは、ゴジラが伊福部自身と重なって見えただけでなく、そしてテクノロジーへの復讐が果たせるような気がしたからというだけでもない。ゴジラは、映画臭くない、芸術臭くない、そのような「美しい」ものとして伊福部の目に映り、ある種の「新鮮な感覚」によって彼は突き動かされたのではないか。
 当時の「インテリ」にしてみれば、「ゴジラ」は言わば《「カラスの糞」にまみれた「地蔵さん」》のような企画だったにちがいない。そもそも、映画に限らず、一般に大衆芸能はまだまだ いかがわしいものとされていた時代、増して映画の内容はいわゆる芸術・純文学とはかけ離れた、空想娯楽映画ときている。小林淳によれば、伊福部には企画を聞きつけた様々な音楽関係者からの忠告があり、純音楽の仕事に戻れなくなるとか、子供だましの仕事に加担すべきでないと、それはもう とやかくと言われたらしい。
 しかしながら、それがかえって伊福部を後押ししたようにも思われる。小林淳をはじめ伊福部を論じる者たちは皆、彼の性格について口を揃えて「反骨精神」と言う。周囲から「定評のある美」を強いられる場面において、しかし伊福部が信じるものはルーツの《なか》のもの、すなわち「絶対的原体験」である。《「糞」にまみれた「地蔵さん」》と揶揄されれば揶揄されるほどに、伊福部が「ゴジラ」に直感した新鮮な驚きはやがて確信へとかわっていき、ならばそれを自らの手で「美しい」ものに仕立ててみせようという気概を奮起させたのではなかろうか。ここまでの流れから、私にはそのように感じられるのである。

 かくして、音楽家・伊福部昭は「ゴジラ」製作に加わった。とにかく前のめりだった。監督の本多猪四郎に伊福部は、ゴジラの火の噴き方、そもそもなぜ生き物が火を噴くのか、一般に爬虫類は鳴かないがゴジラが鳴くのはなぜか、といった、直接音楽に関係しないことも真剣に訊ねた。実際にゴジラを見たいと円谷に懇願したときには「でたらめ書けばいいんだよ」と断られたのだが、それでも伊福部は「でたらめだって、何も見ないでは書きようがないじゃない」と押し通した。
 なぜ伊福部はこれほどまでの情熱を燃やしたのか。これまでの流れから、それは「ゴジラ」との同化のためと言ってよかろう。前述の通り、伊福部はレントゲン検査による被曝から喀血し、一年間の病床生活を強いられている。ゴジラもまた、放射能汚染によって生み出された、とある爬虫類のなれの果てである。伊福部はゴジラにシンパシーを感じ、同時に、現代の最新兵器を次々に薙ぎ払っていくゴジラを痛快に感じていた。伊福部が「ゴジラ」に音楽を付帯するというのは、憎きテクノロジーへの破壊と滅却の衝動であった。
 翻って、「ゴジラ」音楽は伊福部にとって「絶対的原体験」への回顧であり、かつ、帰郷でもある。伊福部の過去と現在は《芸術臭いのはろくな芸術ではない》という真っ直ぐな信条の道によって貫かれている。それは「絶対的原体験」からはじまって、現在の伊福部自身に繋がっている。しかし逆説的に読み解けば、現在の自身を構成するに欠かせないものが何であるか、選択肢を消去していった先にそれでも残るものだからこそ、「絶対的」な「原体験」であるとも言える。もっと言えば、そのようにして研ぎ澄まされていった先に残るものは、伊福部が思い描く自身の理想像・未来像である。このような音楽家になりたい、という強い願望である。
 つまり伊福部にとって「ゴジラ」音楽を書くということは、書くという行為そのものを通じた、自身のルーツの《なか》の核心たる部分、原点の探究と再確認であり、そして、より鮮明な未来像を見出すための現状と過去の総括である。伊福部は「ゴジラ」音楽を通じてそこに帰っていく。帰る先を故郷に喩えるならば、伊福部にとって音楽とは郷愁であり帰郷そのものである。
 さらに思い切って踏み込めば、伊福部の帰郷とは《革命》にある。もちろんこれは字面通りの意味ではない。上述してきたことを一言にまとめれば、自然とこの結論に至る。伊福部はルーツの《そと》にあるもの、すなわち「芸術臭いもの」や暴力的なテクノロジーを好まない。それら、この世の中を構成する圧倒的大部分への破壊を衝動するというのは《革命》に置き換えても良かろう。いや、《革命》という言葉が分かりにくければ、このように換言してかまわない。

 ――彼もまた「偉大な破壊」を希求してやまない、そんな「素直な運命の子供」だった、と。

 第一章において確かめたことを振り返ってみよう。ひとは、存在論的に現実味のある「偉大な破壊」が、自身の「利害=関心に直結するような文脈」に直結して映し出されるとき、「素直な運命の子供」になってしまう。このことは、第二次世界大戦を駆け抜けた文人たちに、初代「ゴジラ」に、そして「シン・ゴジラ」を観た現代の人びとによって確かめられた。さて、伊福部もまた、その例外ではなかったのではないか。暴力的テクノロジーへの嫌悪という「絶対的原体験」、すなわち「文脈」と、初代「ゴジラ」による「偉大な破壊」は直結している。直結しているからこそ、破壊を「偉大」たらしめる、とも言える。伊福部もまた、ひとりの「素直な運命の子供」にほかならない。
 しかしながら伊福部は同時に音楽家であり、芸術家である。「素直な運命の子供」でありながらにして、楽譜にペンを走らせるのが彼の生業である。芸術臭いのは芸術ではないと、伊福部は言った。つまり伊福部にはとある確信があったのではないか――「絶対的原体験」の只中において「偉大な破壊」に音楽を付すことは、どんな芸術臭いものよりも芸術たりうるはずだと。五線譜はそういったところでのみ《特別なちから》を宿すのだと。

 かつて、保田與重郎は戦時下の最中、「筆はみな非力であるから、学生の角材のように相手の血を流すことは出来ない。しかし私の大東亜戦争は、筆にありと信じてきた」と啖呵を切った。実際の戦場において、「筆」というものがいかほどにも力を持ちえぬものだということを、保田は十分に理解していた。しかし、それでいてなお、保田は「筆」を――その《特別なちから》を信じていた。多くの文筆家が時局に忖度し、戦争と「筆」を切り分け、当たり障りない執筆活動に移行していくなか、文士・保田は大東亜戦争を自らの「筆」にありと、そう言って憚らなかった。際立った思想ゆえ、その後の文壇・論壇ではほぼ村八分の責を背負わされていくが、しかし保田が「筆」を曲げることはなかった。
  このような覚悟と姿勢で、政治や歴史にコミットして「筆」を執るとき、その「筆」には特別のちからが宿るのだと、山城むつみは言う。

 たとえば、銃を取るとか、角材を振りまわすとか、火炎瓶を投げるといった実力行使によってではなく、ただ筆のみによって、すなわち書くことによってのみ政治的、歴史的な現実にコミットしている点で保田の姿勢は正しく評価されるべきである。
 (中略)
 内容はどうあれ、書くことそのものが現実的な文脈にコミットしていることから来るその文体には、無視できない迫力がある。読む者は、彼の言説に訝しさを感じつつも漠然と説得されずにはいられない。彼のいうように筆はみな非力である。書くことは、現実に対していかなる力(power)ももちえない。だが、書くことには力(virtue)が宿りうる。

(※()内は山城による)

 だとすれば、これこそが《伊福部マーチ》のもつ"virtue"ではないか。上述したように私は音楽学的に無学かつニュートラルであるから、《伊福部マーチ》の和音や旋律や律動を学問的に論じることは到底叶わない。しかしながら、どのような立場に立たされた人間が、どのような覚悟で《伊福部マーチ》を書いたか、であれば、その片鱗に触れるくらいのことはしたい。
 私には伊福部の姿が、保田と重なって見える。伊福部もまた、周囲の業界人から何度も忠告を受けていた。楽壇はそういった時局にあった、と言っていい。時に民族派音楽とは何たるかを説かれた。時に純音楽の世界に戻れなくなるから、特撮音楽などはよせと言われた。一辺倒の作曲家であれば、躊躇や撤退もあったかもしれない。
 しかし伊福部は、他ならぬその場所で、音楽を書き続ける。敗戦後10年にも満たない第五福竜丸被曝事故の折、伊福部は「ゴジラ」が時代と歴史にコミットした大作になると確信していた。監督の本多(『本多猪四郎「ゴジラ」とわが映画人生』1994、実業之日本社)によれば、伊福部は脚本を初読して「えらいことですね、こんなでかいものに音楽って、どうしましょう。簡単な音楽をつけたらぶちこわしになりますよ」と興奮したが、それは一辺倒の五線譜では映画音楽としてこの時代と歴史を捉え切れるはずがないという強い覚悟・信念ではなかったか。伊福部の「筆」はまさにそこにあり、その場所で音楽を書き続けることを厭わない限り、彼の五線譜には「力(virtue)」が宿るのである。

 さて、保田與重郎と伊福部は、ともに、土着的に特殊な「絶対的原体験」を経たことがその後の芸術に大きな影響をもたらしたと言われる点においても似通っている。さらに両者は、そうした経験を起点に自らの芸術を醸成させていく一方で、日本の故事や伝説、神話にインスピレーションを得て、戦中日本において作品を生み出していった。たとえば、古都・奈良県に生まれ育った保田は大著『萬葉集の精神』を著わしたが、これは単に萬葉集を精読するものではなく、萬葉集を通じて遥か奈良時代に伝わっていた神話や伝統がいかに現代に通じているか、「優雅な若い人々」に向けて拾い上げていくものである。では伊福部はどうか。伊福部にもまた、そのような仕事の機会があった。それが、大日本帝国海軍からの委託を受けて書き上げた『古典風軍楽「吉志舞」』である。

 小林淳の取材に、伊福部は曲題の由来をこう語る。

 〈吉志舞〉とは、かつて神功皇后(記紀所伝の仲哀天皇の皇后。大帯姫とも)が三韓(馬韓、辰韓、弁韓)征伐のために兵隊を送り、その兵隊が凱旋してきて、そのときに踊らせた儀式舞踊のことです。これは縁起がいい、とそれを題名に拝借したわけです。

(()は原文ママ)

 伊福部は日本海軍に提出する曲題を、『日本書紀』にある約1800年前の神話から「拝借」している。
 神功皇后といえば、一説には天皇不在の約70年間ものあいだ、摂政として治世を行ったといわれる人物である。三韓征伐伝説では、のちの応神天皇を身籠ったまま船で朝鮮に渡って新羅を降伏させ、残りの百済、高句麗も日本の支配下に置いた。神がかり的である。このことから、戦時日本による天皇制 強固維持のためのプロパガンダとの見方もあったが、北九州各地に神功皇后ゆかりの神社が散見されるなど近年では実在説も提唱されている。
 つまり〈吉志舞〉とは長い船旅を終えて日本に凱旋した祝いの舞踊である。なるほど、日本海軍に提出するにはうってつけと言える。伊福部は見たことも聞いたこともない「吉志舞」の風景を自身のルーツの〈なか〉に、「絶対的原体験」の只中に模索し、音を重ねていった。ここにも政治(時局)と歴史にコミットしながら音楽が紡がれていく〈伊福部マーチ〉の"virtue"を見出すことができよう。
 海上を征く船人たちに捧げられた『吉志舞』は、その後〈フリゲートマーチ〉に援用され、初代「ゴジラ」にて海洋上に繰り出す場面にことごとく付されている。

 日本風の笛の音と、今では皆さんが[自衛隊マーチ]という旋律が第二主題で出てきます。

 [自衛隊マーチ]とはすなわち〈フリゲートマーチ〉、〈怪獣大戦争マーチ〉のことを指すが、伊福部自身、それらの旋律の類似性は偶然の一致ではなく援用であった事実を認めている。数多くのゴジラ作品に援用されてきた〈伊福部マーチ〉の深い水底には、敵地への出征とその凱旋という神話が今なお息づいている。〈伊福部マーチ〉は、戦中も、初代「ゴジラ」においても、そして伊福部の死後にあっても、そのルーツの〈なか〉にある私たち日本人の戦意を不思議と高めてきたのである。
 「シン・ゴジラ」では、ゴジラとの最終決戦であるヤシオリ作戦において〈宇宙大戦争マーチ〉が用いられる。この「ヤシオリ」とは何か。これはヤマタノオロチ討伐神話にある「八塩折之酒」のことである。
 ヤマタノオロチは『古事記』、『日本書紀』に記される伝説上の怪物である。スサノオノミコトはヤマタノオロチの八つの首それぞれを門の奥に誘い込み、強い酒を盛って泥酔させ、怪物の眠りこけた隙を見てその命を絶った。ゴジラという強大な敵を討伐するにあたり作中では、立案された作戦内容からこの神話の名前が与えられた。具体的に作戦の工程を追ってみよう。
 ヤシオリ作戦は「血液凝固剤」をゴジラに経口投与するまでに4つのフェイズを踏む。その目的は、静止・沈黙状態にあるゴジラを「kill point 1」に押し倒すことである。「無人新幹線爆弾」によってゴジラを叩き起こす「作戦第一段階」、米軍の無人航空機部隊の陽動によってゴジラの放射線流を吐き尽くさせる「作戦第二段階」、中層ビル群の爆破・倒壊によってゴジラを足止めしつつ放射線量低下までの時間を稼ぐ「作戦第三段階」、そして超高層ビル群への米軍のミサイル爆撃の巻き添えにゴジラを横倒しにする「作戦第四段階」。
 そして「作戦第五段階」では多数のコンクリートポンプ車でゴジラに凝固剤の経口投与を行うが、この「特殊建機小隊」は「アメノハバキリ‐マルヒト了解」というような現場伝達を行う。アメノハバキリとは、スサノオノミコトが怪物に振った剣の名前とされる。第二章では「シン・ゴジラ」の文脈が3.11を経験した私たち日本人の「文脈」に直結していることを述べたが、さらに「ヤシオリ作戦」の作り込みから、この作品が日本人の持つルーツ、歴史にまでコミットしようとしていることが分かる。
 その姿勢はまるで保田や伊福部のようである。ちょうど「ヤシオリ作戦」の第一段階から第四段階までの上映時間にして四分間、『吉志舞』から汲み上げられた〈宇宙大戦争マーチ〉が流れ続ける。月並みな言葉だが「ヤシオリ作戦」は「シン・ゴジラ」にとってまさにクライマックスである。斯様にして政治と歴史にコミットした「シン・ゴジラ」にもまた、初代「ゴジラ」同様、"virtue"を宿した映画であると改めて言えよう。

 さて、第二章ではこの「シン・ゴジラ」による「偉大な破壊」にファシズムを見た。「ヤシオリ作戦」とは、美学化された政治の結晶である。すなわち、この国の政治判断システムの破壊と一新があったからこそ遂行される《革命》の「精華」である。多国籍軍の熱核攻撃を受容し「国際社会からの同情と融資」に縋りついて国を存続させていくことを、被爆国・日本は断固拒否した。日本民族の誇りである。ゴジラの放射線流による線量が予想の倍以上に達しようとも、男たちはそこを退こうとせず、人びとのために自己を犠牲にする覚悟すら決めていた。日本民族の美徳である。
 「シン・ゴジラ」という「架空の物語」は、「寝なし草でしかなかった大衆」を「現実そのものよりも、人間的心情の要求にはるかに適っている」「理想郷」へと誘い、「素直な運命の子供」らは知らず知らずファシズムの熱狂と興奮に酔いしれた。ゴジラの放射性新元素の半減期が20日程度だと判明し、2~3年で元の暮らしに戻れる「光明」が差したとき、私たちはそこに、3.11からの復興を遂げゆく現実の日本のすがたを重ねただろう。「ヤシオリ作戦」成功によるゴジラ凍結は、その絶望的な災害を前にそれでも国を捨てなかった日本民族の、偉大な勝利であった。

 ……しかしである。

 ネット上には「シン・ゴジラ」によるこの偉大な勝利を留保する意見が囁かれている。この映画はラストシーンにえげつない《含み》を持たせている。

スクリーンショット (19)

 「シン・ゴジラ」のラストシーンでは、凍結されているゴジラの尻尾を根元から先端に向かってティルトアップしていく。その映像を静止画にして接ぎ合わたものが上である。
 一目見て分かる通り、人のかたちを模した何か禍々しいものが多数、ゴジラの尻尾から飛び立とうとしている。内閣総辞職ビームののちゴジラへの対策を進めるにつれて、ゴジラは無性生殖によって「世界中にねずみ算式に個体が群体化すると予測」されており、「進化的見地から、小型化だけでなく有翼化し、大陸間を飛翔する可能性すらある」と予見されていたが、これがまさにその「第五形態」の姿である。そして、「シン・ゴジラ」において最も重要かつ重大な事実は、この「第五形態」が尻尾から這い出たのがいつなのか、その時間軸が最後まで観客には明かされないことである。
 「素直な運命の子供」として観れば、ああ、ゴジラが最悪の進化を遂げてしまう前に日本民族はヤシオリ作戦を成功せしめた、なんと良かったことか、という感想に至る。実際、こういった旨の解釈はネット上、SNS上に少なからず見受けられる。ゴジラ凍結は連合国軍による熱核攻撃まで残り56分程というギリギリのところだった、もし凍結に失敗していたらこの56分の間に第5形態への進化を完遂していたかもしれない、であれば、逃げ遅れのあるのを承知で作戦を断行し、放射線量増大にも一部部隊壊滅にも怯まず進み続けた矢口の「政治的判断」はここに美化される。「美学化された政治の結晶」――ファシズム的リアリズムとでも名付けようか。
 しかし私はこの、ファシズム的解釈をこそ批判する。すなわち、ゴジラの第五形態への移行が、偉大にして崇高なる「ヤシオリ作戦」の、その後に生じたものだと主張する。私はここに、「ヤシオリ作戦」によるゴジラの完全凍結は失敗だったと断言する。その根拠は大きく二つある。

 根拠のひとつは〈伊福部マーチ〉である。伊福部は『古典的軍楽「吉志舞」』から援用し、初代「ゴジラ」に〈フリゲートマーチ〉を、「宇宙大戦争」に〈宇宙大戦争マーチ〉を付したが、そのドラマツルギーには――すなわち、いざこの音楽が流れるべき物語的なタイミングには、明確な共通項がある。まず、ゴジラや敵対勢力に対する《架空テクノロジーの使用》がある。初代「ゴジラ」ではオキシジェン・デストロイヤー、「宇宙大戦争」では「熱線砲」というレーザー火器である。そして、それらによる《攻撃・交戦》を盛り立てる。最後にマーチが鳴り止んだ後の《犠牲を暗示》している。〈伊福部マーチ〉の後には、自己犠牲心から命を散らすキャラクターがある。初代「ゴジラ」では兵器の設計技術とともに芹沢博士が、「宇宙大戦争」では味方を脱出させるために一人の隊員が、自ら犠牲を買って出ている。
 〈伊福部マーチ〉が伊福部の手を離れた後も、その潮流はある程度の再現がなされる。「ゴジラVSビオランテ」では原発へのゴジラの進攻を食い止めるべく、電子レンジを巨大化したようなテクノロジー(「マイクロウェーブ6000サンダーコントロールシステム」、略称は「M6000TCシステム」)を設置する場面で〈怪獣大戦争マーチ〉が流れる。曲の後のシーンで、現場にいた戦車部隊がゴジラの熱線を受け一部壊滅する。前述した「クレヨンしんちゃん」は子ども向け映画のため死者こそ無いが、巨大ロボットに対して「12億円の戦車」というテクノロジーで攻撃を仕掛けるも、楽曲が切り替わった後に戦車はぺしゃんこに踏みつぶされ犠牲となった。
 「シン・ゴジラ」では〈伊福部マーチ〉のこうした潮流を完全・完璧に蘇らせている。これぞ、まさしく正当にして正解の手つきである。〈宇宙大戦争マーチ〉がこの映画に付されるのは「ヤシオリ作戦」の第一段階、ちょうど「無人新幹線爆弾」というテクノロジーをゴジラに向かって突進させるカットからである。そこから矢継ぎ早、立て続けに攻撃が《盛り立て》られていき、マーチが鳴りやむのは作戦の第五段階、コンクリートポンプ車をゴジラのもとへ進攻させるカットである。なぜこのカットで〈伊福部マーチ〉は鳴りやんだのか。それはコンクリートポンプ車が《架空のテクノロジー》ではないからだ。そして、マーチが鳴り止んだからには、ゴジラの抵抗による「特殊建機第一小隊」の全滅が描かれる――ああ、伊福部が憑依している。「シン・ゴジラ」における〈伊福部マーチ〉の音楽演出は非の打ちどころがなく、もしや〈伊福部マーチ〉を映画化すべくゴジラが企画されたのではないかと邪推すらする。
 さて、しかしながら私は「シン・ゴジラ」の作中で払われるべき犠牲というものが、実はもっと別のものなのではないかと疑う。「特殊建機第一小隊」の全滅はミスリードなのではないか。この映画の〈伊福部マーチ〉が暗示しているのはその先の、全人類の犠牲、滅亡を指し示しているのではないか。私はあくまでゴジラ第五形態への変異は「ヤシオリ作戦」後であったと主張する。その根拠を続けよう。

 もう一つの根拠は「ヤマタノオロチ」である。先ほど私は「シン・ゴジラ」が、ゴジラというモチーフに〈伊福部マーチ〉を付したのではなく、〈伊福部マーチ〉をモチーフにゴジラの作劇を組み立てたのではないかと邪推したが、「神話」についてもまた似たような疑いを抱いている。
 「ヤシオリ作戦」に対して極めて冷ややかな眼差しを向けてしまえば、コンクリートポンプ車で血液凝固剤を飲ませて討伐するというのはゴジラ史上、類を見ないお笑い種とも言える。実際、こういった旨の感想はネット上、SNS上に少なからず見受けられる。ゴジラへの勝利はいつの時代も《架空のテクノロジー》とともにあった。その最たるものこそ、たとえばオキシジェン・デストロイヤーであり、たとえばメカゴジラに代表される未来兵器だろう。それがこの映画ではコンクリートポンプ車と来ているから、それではあまりにチープが過ぎるではないか。ロマンというものがないではないか。
 しかしながら、そんなことは製作陣とて恐らく百も承知であったろう。だとすれば、ゴジラの討伐方法が、ああでなくてはならなかったのには、きっと明確な意図と信念がある。かつて、伊福部は太古の「神話」に思い馳せ、それから二千年が経とうとしている現代に、『吉志舞』を新たなかたちで甦らせた。「シン・ゴジラ」が〈伊福部マーチ〉を、そして伊福部芸術のもつ"virtue"をめざしたのであれば、きっとこの映画は現代版の「ヤマタノオロチ神話」を編み出そうとするはずである。が、しかしである。「シン・ゴジラ」はこの「神話」の完全再現をしようとまではしていない。そこに私は、この映画が成し遂げようとした核心部分を切り拓く突破口があると確信する。すなわち、「神話との齟齬」こそがこの映画の核心である。
 スサノオノミコトは「八塩折之酒」によって怪物を泥酔させ、意識を昏倒させる。そこまではいい、問題はその次だ。神話では、「十拳剣(トロカノツルギ)」、つまり拳十個分の長さの無銘の刀でもって怪物の巨躯を切り刻んでいったとある。そしてその刃が怪物の尻尾に差し掛かったとき、何か硬いものに当たる。切り裂いてみると中から、後の三種の神器となる「天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)」が出て来る。そして怪物を退治した十拳剣は神剣とされ「天羽々斬(アメノハバキリ)」と銘が付けられるのである。
 〈伊福部マーチ〉と「ヤシオリ作戦」には見事な一致が見られたにもかかわらず、「神話」と映画を比較してみると思いの外ちぐはくな部分が幾つも生じている。まず、怪物を絶命させたのは無銘の剣であった。ヤマタノオロチ退治によって神剣として崇められ、そこで「アメノハバキリ」という名を付けられる。だとすれば、コンクリートポンプ車の現場伝達には「トロカノツルギ」というコードネームを用いてやり取りするのが正解だったのではないか。そして何より重大なのは、「シン・ゴジラ」においてゴジラは凍結させただけで、あくまで絶命させていないという事実である。その巨躯を切り刻んで調べるということもなされていない。
 しかしながら私は「神話」との齟齬を指摘して「シン・ゴジラ」の揚げ足取りをしたいのではない。それは断じて違う。むしろ、散りばめられた齟齬の只中に突如として現れる、「尻尾」という不気味すぎる符合にこそ着眼したい。「アメノムラクモ」も「第五形態」も、いずれも怪物の尻尾から出て来るという奇妙な一致が見られるのだ。
 けれども、そこにはまたしても齟齬がある。「アメノムラクモ」はスサノオノミコトが怪物の体内から引っ張り出したものである。対して「第五形態」はゴジラの体内から勝手に湧き出したものである。この微妙なニュアンスの違いこそが「シン・ゴジラ」のラストの意味合いを読み解く最大のカギになる。たとえばファシズム的物語解釈ではこの「神話」との齟齬に、しっかりと筋の通った説明はできまい。いや、より踏み込んで言えば、そこを理詰めで深追いしないことこそが、ファシズムをファシズムたらしめる「架空の物語」として機能させるのである。
 「第五形態」への群体化を「ヤシオリ作戦」の前だったと仮定する。すなわち、偉大にして崇高な「ヤシオリ作戦」が群体化をギリギリのところで食い止めたというファシズム的解釈を検証してみよう。しかしそうすると「ヤシオリ作戦」はさらにチープなものになると思われてならない。いや、たしかに、凝固剤を経口投与し行動不能にするという点で、彼らが「矢口プラン」改め「ヤシオリ作戦」と名付けたところまではリアリズムがある。つまり、物語論的な正当性があり、辻褄が合っている。それはちょうど、伊福部が日本海軍への軍楽を『吉志舞』という凱旋の儀礼舞踊にちなんだように、彼らはもまた、験を担いだものとわかる。
 しかしながら、矢口たち「巨災対」は「第五形態」への群体化こそ予見していたが、それがゴジラの巨躯のどの部分から始まるかまでは知らない。したがって、矢口たちの持ち出した「神話」と「第五形態」の「尻尾」という符合はたまたま偶然の一致に他ならず、それ以上の意味をなさない――これでは実に安っぽいラストカットではないか。作り手側にしても、たまたま「ヤマタノオロチ」っぽくゴジラを凍結させたから最後は「尻尾」でも映しとくか、程度のものでしかない。すなわち、ラストカットに他でもない「尻尾」を映し出さなくてはならない芸術的必然性に欠ける。もしファシズム的リアリズムとして「シン・ゴジラ」を大成させたかったならば、ヌケ(遠景)にゴジラを望む矢口のバックショット→振り返った矢口が決意の表情でカメラ方向に歩き出し暗転、という選択だってできる。むしろ、そちらの方が妥当性があるとすら思われる。ファシズム的リアリズムを極めるにあたって「尻尾」のラストカットはまったくもって無意味である。翻って、無意味なラストカットから逆算されたとも取れる「ヤシオリ作戦」自体も、芸術的な価値と意義を失う。コンクリートポンプ車である必然性も無くなるのだから、そこにこだわる意味も無くなるはずだ。

 では、「第五形態」への群体化が「ヤシオリ作戦」の後だったとすればどうか。いずれにせよ、矢口たちの験担ぎと実際の「神話」に見られる「尻尾」という符合は物語の世界では偶然の一致に他ならない。しかしながら、群体化が「ヤシオリ作戦」の前か後かによって、「尻尾」の持つ芸術的な意義はまったくもって様相を異にする。「尻尾」がラストカットであるからこそ「シン・ゴジラ」は真の芸術たりうるとさえ断言できる。なぜか。群体化が「ヤシオリ作戦」の後であるとすれば、それはつまり作戦の失敗と人類の滅亡を意味する。映画のラストほんの数秒に提示されるその残酷な可能性によって映画は、偉大なる「ヤシオリ作戦」という「政治の美学化」――すなわちファシズム的な結実を、ぎりぎりのところで突き放している。群体化しつつある「尻尾」を映し出すことによって、そして、その群体化の時系列をあえて濁すことによって、「シン・ゴジラ」はファシズムの只中にありながらにして、ファシズムを強烈かつクリティカルに批判しうる。

 安吾は、その美的結晶からのわずかなズレによって、政治の美学化をその魅惑の中心において突き放している。たしかに、そのズレは微細である。だが、このような僅少なズレによる拒絶でないかぎり、私はそれを批判として認めることができない。
 (中略)
安吾は、家に帰ることの「うしろめたさ」(いつも知らず知らずのうちにファシズムに傾倒していることへの自戒:筆者注)から書こうとしていた。そこから書くことのみが「文学」たりうると考えていた。(中略)そこから書くことは、たとえば小林が想像、安吾が目撃し、保田が満喫した戦争の美しさのような、ファシズム的な魅力を、その中心において拒絶することにつながる。そのかぎり、安吾がいう意味での「文学」はファシズムに抗しうる。

(山城より引用。太字は山城の傍点箇所)

 「シン・ゴジラ」の「尻尾」をティルトアップするラストシーンは、主人公・矢口が実際に見た光景ではない。すなわち矢口の心情に寄り添った演出ではない。そればかりかこのシーンは恐らく作中で唯一、どの登場人物の視点も反映されていない、物語的に完全に独立・乖離したカットである。これはいわゆる《神の視点》であり、三人称小説と映画との類似性を説いたアンドレ=バザンの発想をもってすれば、あのシーンは作中で唯一、作り手自身の視点を観客に向けて映し出した演出である。ファシズムそのものに対する、そしてファシズムに熱狂する登場人物たちと観客たちに対する、実にクリティカルでシニカルな冷笑が、そこにはある。
 ――ヤマタノオロチは背中にヒノキやコケまでも生やした八ツ首の怪物だである。まさに、たいへんに恐ろしい化け物である。その恐ろしさゆえ、スサノオノミコトをしても、討伐にはよほどの用心を強いられた、と解釈できまいか。いや正確には、「シン・ゴジラ」において《神の視点》を持つ者がその「神話」をそう解釈しているとすればどうか。スサノオノミコトは昏睡した怪物の巨躯にトロカノツルギを何度も振り下ろした。当然、生き物の命を絶つにはまず首を刎ねたろうが、ヤマタノオロチ伝説において極めて重要なのは、巨躯を切り刻むことによって絶命させたとは一言も記されていない点である。《こうしてスサノオノミコトは怪物を退治したのでした》と記されるのは、あくまでスサノオが「アメノムラクモ」を手にした後のナレーション(≒神の視点)の断言に他ならない。であれば、たとえばもし《神の視点を持つ者》がこの「神話」を――「尻尾」の中にある「アメノムラクモ」こそが「怪物」の生命力の源であり、用心を重ねたスサノオノミコトが頭から「尻尾」まですべて細切れにしたからこそ、図らずもその真実に辿りつくことができたのだ、と解釈したのなら……。
 上述したとおり、「ヤシオリ作戦」は実際の「神話」との相違点が幾つもある。すなわち、矢口たちが「神話」に寄せきっていない、詰めきっていない部分が複数ある。とりわけ、昏睡させたうえ怪物を切り刻んだスサノオとちがい、作中の「日本」では凍結させたままゴジラを放置してしまっている。さて、もし凍結状態にあってもゴジラは進化し続けるとしたらどうだろうか。ゴジラの生命の源が「尻尾」にあるのだとしたらどうだろうか。「尻尾」からゴジラの生命線たる何らかを除去するまで、何も終わってはいなかったのではないか。
 「特殊建機小隊」に「トロカノツルギ」ではなく「アメノハバキリ」というコードネームを与えている時点で、矢口たちはどこか、勝利を確信してしまっているような節は無いだろうか。ゴジラを凍結させたうえでトドメを刺さないのは、楽観からくる慢心ではなかろうか。これが「政治の美学化」の行き着く先なのであれば、こんな皮肉はない。素直に熱核攻撃を容認していれば最悪の事態は免れていたかもしれない。
 「シン・ゴジラ」の序盤、蒲田くんへの自衛隊出動が決まった際、矢口は上官に、本来ならば出過ぎた進言をする。「大臣。先の戦争では、旧日本軍の希望的観測、机上の空論、こうあってほしいという発想などにしがみついたがために、国民に300万人以上もの犠牲者が出ています。根拠の無い楽観は禁物です」というものである。矢口はこの時点ではたしかにファシズムの危険性に身構え、戒め、それと距離をとっていた。しかし直後、ゴジラのあまりにも「偉大な破壊」の前に堪えきれず、「馬鹿」で「素直な子供」と化したのではないか。蒲田くんがゴジラ第三形態である直立二足歩行へと変貌を遂げた際、矢口は、「すごい……まるで進化だ」と見惚れてしまっている。

安吾は、戦争のただなかにあってその破壊がもたらす魅惑的な美しさに恍惚とせざるをえなかった。そのかぎり、そこにあらわれた理想郷、虚しい美しさが咲きあふれた「日本」というふるさと、すなわち「家」に帰りつつあったといってよい。しかし惚れ惚れとみとれながらも、「人間」と「考える」という二点を手放さなかったため、安吾は戦争の美の力をその魅惑の中心において突き放しえた。

(山城より。太字は筆者による)

 安吾は東京大空襲の「偉大な破壊」の只中、その光景に見惚れながら、しかしそこには「人間」らしきものがない、と躊躇している。矢口はそれを成し得なかった。上述の台詞によってファシズムを拒否する矢口が描かれていたはずが、いつしか映画が進むにつれて、あの台詞こそがまさに矢口の台頭を示す政治的福音だったと、そんな熱狂を呼び込んでいく。ゴジラを見据えた矢口のラストシーンは「結果はどうあれ、多くの犠牲者を出した。その責任を取るのが政治家の仕事だ。(中略)だが今は辞める訳にはいかない。事態の収束にはまだほど遠いからな」とまさに国家のリーダーの理想像が描かれる。そこにきて、皮肉は突き立てられる。根拠の無い楽観は禁物だと。お前では「神話」にはなれないのだと。「シン・ゴジラ」はファシズムの只中に、ファシズムを突き放すのである。

 第三章では、歴史と政治にコミットするかたちで生み出された〈伊福部マーチ〉に宿る力――"virtue"を見た。「ゴジラ」や「シン・ゴジラ」もまた、そのような"virtue"を持つ映画であることを確かめた。「シン・ゴジラ」はファシズム映画ではなく、むしろファシズムの中心でファシズムを拒絶する、ある種の「文学」である。では、初代「ゴジラ」の、あるいは伊福部の「文学」はどこにあるのか。それらはファシズムにどう抗うのか。そして、「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」は「文学」たりうるのか。最終章に繋げていこう。

4.コロナ禍、そして『春と修羅』――「ゴジラ キングオブモンスターズ」の否定的感想

 コロナ禍である。コロナ禍によって街は止まり、経済が止まっている。出口の見えないトンネルは、どこまで先に目を凝らしてもただただ薄暗く、緊張と不安と恐怖がひたすら続くばかりである。冬はまだ続く。春はまだ来ない。
 私たちはこのような感覚を過去に一度味わっている。3.11だ。あのときも今と同じように「自粛ムード」というものがあった。しかし今回は違う。「自粛」である。「自粛」せねば人命にかかわるという。思えば「自粛ムード」というのは、逆説的に言えば、自粛行為そのものにではなく、そのムードを共有することにこそ主眼があった。もの凄く大変な思いをされている方々がいるのだから贅沢や酒宴は控えよう、という道徳的な配慮であった。しかし、ウイルスはどうか。ウイルスはきわめて《非情》であり《非道》である。ムード、すなわち雰囲気では、とうてい人命を救えないと来ている。ならば、ここはどうやら本腰を入れて「自粛」するほかあるまい。さしづめ、ハリウッド映画のワンシーンかのように、”Freeze”という静かでしかしドスの利いた声を背になすすべなく立ち尽くし、突きつけられた見えない銃口とゆっくりと起こされる撃鉄をごくごく身近に感じながら、ゆっくりと両手を挙げて地面に両膝をつくしか、我々には術がないのである。
 日本だけの問題ではない。言わずもがな、世界規模の大災害と言って言い過ぎではない、きわめて深刻な状況である。この問題は文字通り地続きである。いまのところこの世界には、コロナ禍から逃れられる安息の地などというものは存在しない。どこにいようともこの問題と直面させられる。突きつけられた銃口はいまだ下ろされることは無い。そうした、誰しもの生命に突きつけられた共通の問題意識によって、私たちを取り巻く文化や言語といった環境と、本来その外にあったはずのものとを隔てていた境界は取り払われ、私たちはいま世界とのリンクを、コミットを果たそうとしているのかもしれない。
 保田與重郎は太平洋戦争の最中、「優雅な若い人々」にむけて己の「文学」を遂行した。この國の太古の歴史を掬い上げ、当時の人びとが直面した問題に「筆」をもって処した。では私たちはどうか。我々の手中にあるのはもはやペンではなくスマートフォンやパソコンといった電子機器であるが、いまや、それがわれわれの「筆」になりうる。それは、万葉集を徹底的に読み込み、五七〇ページもの文量で迫ってくるかつての文豪に比べれば微小たるものに過ぎないかもしれないが、しかしいま、我々の「筆」には間違いなく力――”virtue"が宿っている。コロナ禍の折、生活苦を嘆くネットへの投稿にはやはり切実さがある。その切実さが撚り合わさって大きな力となって、いま、実際に国による生活保障方針が更新されつつある。和牛の商品券は白紙化し、給付金は条件付き30万円から一律無条件10万円に方針転換された。ネットの声というものが時に政府を強く突き動かしている。それは今日、まぎれもない事実であり、動かざる現実であるように感じる。

 しかし、だからこそ私はそこに、ファシズムの新たな時代の到来を予感する。

 ファシズムは時代の複製技術やメディア媒体の変遷に深くかかわりながら、それは常に私たちの目から入り込んでくる。かつてヒトラーの演説は、激しい身振り手振りによってそれを間近に観た者たちを熱狂させ、その様子は主に映画とラジオによって宣伝された。かつて小林秀雄は太平洋戦争開戦のカラー写真に、山城むつみは湾岸戦争による空爆のカラーテレビ映像に、「偉大な破壊」による「美しさ」を見ていた。存在論的なリアルさをまとった映像が私たちを「馬鹿」で「素直な子供」に仕立て上げることを、私たちは9.11と3.11で身をもって経験している。すなわち、何かしらの風景や光景に「利害=関心に直結するような文脈」が存在論的に結びついたとき、その映像には自ずと凄まじい”virtue"が宿り、たちまちに私たちをファシズム的境地へと追いやってきたのである。
 しかし、コロナ禍はどうか。それは目に映るか。それは存在論的に確かだと言えるか。電子顕微鏡によって映し出されるウイルスの姿かたちに、これが私たちの「利害=関心に直結している」という衝撃的な実感はあるか。……この意味でいま私たちが相手にしているものは「まるで幽霊のようにすら感じられる実体の伴わない何か」だと言える。語弊を恐れず声を大にして言えば、私たちは未だに実感がないはずだ。これは大変なことが起きているという確かな感触がないまま、ただ漠然と時間だけが過ぎているような感覚にあるはずだ。外に出ればいつもと変わりない光景が広がり、無論そこに「偉大な破壊」の痕跡などは欠片もない。実に良い陽気である。
 しかし私たちはいま、こと、外出することを躊躇う。なぜか。一つにはテレビの存在がある。ここはかつてとあまり変わらない。しかしながら先ほど指摘したように「偉大な破壊」の伴わない大災害において、映像それそのものの存在論的”virtue"はたかが知れている。だとすれば今日のテレビは、直結すべき「偉大な破壊」という存在論的・映像的な依代を持たないまま、ただひたすら「利害=関心」の「文脈」だけを垂れ流し、この事態がきわめて深刻な大災害であるという危機感を掻き立てようとしている。無論、初めはそのような実感はあまり感じられなかった。しかし、著名なコメディアンの訃報から一斉に追悼番組が構成され、テレビ朝日のメインアナウンサーの罹患、そしてついにテレワークによるゲスト出演といった事態に至り、私たちの正常性バイアスはようやく揺らぐに至っている。
 しかし、このような外出自粛ムードに一役買っているのは何もテレビだけではない。いま、私たちにとって最も身近な「画面」とは映画でもテレビでもなく、スマートフォンである。この点はこれまでの政変や大災害とも根本から異なる。スマホの国内普及率(https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h29/html/nc111110.html)は2010年で9.7%、翌2011年でさえ29.3%であるから、3.11はぎりぎり「テレビ時代の災害」に括ってよかろう。一方で現在、その普及率は85%を超え、なかでも40代までの約9割の人はスマホを所持している(https://marketing-rc.com/article/20160731.html)。だとすれば私たちはいま、社会に根差した媒体がテレビからスマホに切り替わりつつある中で初めての大災害らしきものを経験しているということになる。
 では、私たちは手中のスマホにどのような風景・光景を見るのか。すぐ思いつくのはYouTubeであるが、忘れてはならないのはTwitterやFacebookといったSNSの存在である。同じく総務省(https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h29/html/nc111130.html)によれば利用者数は2016年時点で人口比にしてそれぞれ30%前後だが、とりわけ10代~20代の若い世代のTwitter利用状況を見るとユーザー数は実にその6割にも及ぶ。4年前のデータでこの数字ということは、現在ではさらにそのユーザー数は増加していよう。また、ユーザーの加齢に伴い、30代のユーザーも大幅に増加していると考えられる。
 私たちはいま、外出することを躊躇う。誰が発したとも分からないコロナウイルスのおぞましさが、不気味な真実味を持ってタイムラインをめぐる。豪華客船の乗客だというユーザーの恐怖を、数万の拡散によって目撃する。全国一斉休校など海外ではどこも着手していないと非難の怒号が飛んだ矢先、海の向こうの感染爆発を目撃する。毎朝ドラッグストアでモラルハラスメントに苛まれる従業員の、悲痛な叫びがつんざいている。飲食店はテイクアウト商品を広報し、見事完売させる。若者はたった一瞬の街頭インタビューで、何度も繰り返し「不要不急」と説き伏せられ人相が割れていく。明日には都市が封鎖されると迫真され、急いで買い物に出るようにと誰かが促す。家族三人を新型ウイルスで失った根も葉もない《実話》が、それでも注意喚起に適うのであればよいのだと、25万人以上に美化される。過去のセクシャルな芸風がコメディアンの死後に批判される、しかしすぐに鳴り止む。どうやら配布されるマスクにはカビが生えているらしい。だがそれは誰かのでっちあげらしい。そしてそれをでっちあげだとする人こそが、政権の用意したっち上げであるらしい。
 ――いま、私たちを支配しているのは、得体の知れないウイルスではない。得体の知れない情報こそが、私たちを牛耳っているのである。いま、私たちを恐怖させているのは、ウイルスの拡散ではない。自分の言動の不届きが拡散され、叩かれることこそを、私たちは恐怖しているのである。「偉大な破壊」という存在論的な根拠も持たずしてただひたすら「文脈」のみを再生産して垂れ流すテレビに対して、情報の発信源が誰かという実在無くして、人びとを「馬鹿」で「素直な運命の子ども」に仕立て上げるのが、SNS、とりわけTwitterであろう。
 私たちはいま、図らずして誰しもが「文脈」に直結している。すなわち、このコロナ禍という大災害にコミットしている。たとえ匿名であっても、この大災害にコミットして書かれる文章には”virtue”が宿り、瞬く間に拡散されていく。このちからは絶大であり、ときにおぞましい。

 いま、私たちが手にしているのは、ただの電子端末ではない。ファシズムの新たな時代の到来である。

 かつて坂口安吾は「偉大な破壊」の「美しさ」の只中にありながら、ファシズムに傾倒しきってしまうことへの「うしろめたさ」という「ズレ」をギリギリのところで保持し続けた。そうしてファシズムをその魅惑の中心において突き放すに至った。「シン・ゴジラ」もまた、美学化された政治の「精華」にほかならない、英雄譚としてリーダーの理想形を描き切るも、「尻尾」によってその熱狂に対してはっきりとNOを突きつけている。そして私たちは、コロナ禍というファシズムの只中にある。では、たとえば音楽家・伊福部昭がどのようにして「偉大な破壊」からの誘惑に絶妙な距離を保ちえたのかを顧みるに、「いま」を生きる私たちの道しるべを見出せるのではないか。
 かつて、伊福部はゴジラだった。伊福部にとってゴジラは自分自身であり、それはテクノロジーの暴力への激しい抵抗であった。兄を死に至らしめ、自身も喀血にまで追い詰めた放射線への、まごうこと無き復讐だった。伊福部が日本海軍に献上した『古典的軍楽「吉志舞」』から〈伊福部マーチ〉へとシフトしていく足取りに、小林淳(上巻)はとある危うさを予感する。

太平洋戦争のために書かれた時局音楽作品の中から、戦闘シークエンスに添い、乗り、盛り立てるマーチ音楽が誕生してきた。〈戦争のための音楽〉という点で明らかな符合がある。
 ここに危うさも潜んでいる。戦争を謳いあげる楽曲。こう短絡的にとらえられる危険性がどうしてもある。極端にいえば、戦争行為を賛美する行進曲と受け取られることだってあろう。(中略)いくら空想科学映画でも戦争は戦争。その部分だけを故意に抜き取られる可能性もある。

 〈伊福部マーチ〉の元を辿れば軍楽であり、それは政治と歴史にコミットされて生み出され、”virtue”を宿す。その点で言えば、かの旋律はファシズム的魅力を有する。伊福部は音楽によって「偉大な破壊」への同化を果たそうとしていたのではないか。伊福部のゴジラに対するモチベーションは間違いなくそういったところにあった。しかし一方で、当の伊福部はこうも述べる。

相手がゴジラなどの怪物が多いですから、どうしても画が重々しくなってしまう。そこで律動で押そうという計算はありました。一種の戦争なのですが、戦争というと我々の世代では太平洋戦争の印象が強い。当時はそういった思い出もなまなましくあったんです。ですから、なるべく軍隊をイメージさせることのないようにしたかったわけです。リズムも旋法も音色もそれを意識していますね。弦楽器を使ったのもそういう理由です。打楽器と金管では、まさに軍楽隊になってしまいますので。モールで旋律を書くのも、あまり勇ましくしたくないからなんです。

 寡作でこそあるが伊福部は、1950年公開の戦争映画3作品(「きけ わだつみの声」1950年/東横映画、「戦火の果て」1950年/近代映画協会、「軍艦すでに煙なし」1950年/新映画社)などでいわゆる〈進軍ラッパ〉調の旋律をつけて《戦争》というテーマを想起させるといった手法も取らないことはない。だからこそ、現実にあった戦争を描く映画と、空想科学の戦争映画とのあいだには、伊福部にとっては非常に重大な線引きがなされる。戦争をしらない私たちの世代の耳には、実際の軍楽と〈伊福部マーチ〉はしばしば似たようなジャンルに類されがちではあろうが、しかしながら伊福部本人にとってそれらは、明確に切り分けられていた。伊福部はゴジラによる「偉大な破壊」、その破壊がもたらすテクノロジーへの復讐にシンパシーを燃やしながら、しかし一方で、「ゴジラ」の音楽に実際の太平洋戦争の雰囲気が混ざり合ってくることに、かなり慎重になっている。
 すなわち、「ゴジラ」との同化、「偉大な破壊」への憧れ、テクノロジーへの復讐心という伊福部の本質的な欲求が、一方で伊福部の理性によって食い止められていることが分かる。ここで強調したいのは、それでも伊福部は音楽を書いた、ということである。理性が勝るならば音楽など書かねばよい。しかし伊福部の人生は、書いた音楽に次々と火矢が放たれ炎上しようとも、音楽を書くことをやめなかった。さらに言えば、伊福部の中には、書くべき音楽や書きたい音楽、対して書かざるべき音楽や書きたくない音楽というものが明確に切り離されており、そのはざまの葛藤と苦悩から書いた。伊福部はそのとき、挫折と閉口を選ばなかった。
 彼が〈伊福部マーチ〉に軍楽的・戦争的手法を用いなかったのは、一面においては観客への配慮であったかもしれないし、それ自体は疑いない。しかし、こういったことを深く深く鑑みるに、むしろ伊福部の欲求の本質は、ゴジラへの同化を果たすことそのものには ないのではないかと勘づく。そうではなくむしろ、ゴジラへの同化や「偉大な破壊」による復讐心を、残された理性によって――すなわち「うしろめたさ」によって突き放すこと、ファシズムの音楽的な誘惑をほかならぬ音楽によって断ち切ること、それこそが伊福部の欲求なのではないだろうか

 私のマーチ曲は軍隊をイメージさせることを避ける意味もあったんですが、金管楽器や打楽器の音はあまり出さないで弦楽器を意識的に多く採り入れ、勇ましく聞こえないモールに近い旋律で書いているんです。だからそれほど勇壮には響かない。勝ち目があるようには聞こえない、と人からいわれたこともありますよ。ある程度は勇ましいんだけれど、決して勝利には結びつかない音楽だ、と。

 小林淳の取材に対してこのように述べる伊福部の言葉は、字面だけ受け取ってしまえば、人から勝利に結びつかない音楽だと揶揄されたとしか言っていないのだが、しかし私には、勝ち目のない五線譜こそがむしろ伊福部のやりたかった音楽なのだという風に聞こえる

 かつて日本海軍に献上された「古典風軍楽『吉志舞』」だが、当初、伊福部はこの仕事に乗り気ではなかった。後に伊福部をも喀血に導く放射線事故で、兄を失った直後の打診であったからだ。

先方からはとにかく急がされた記憶があります。その直前に兄を亡くしたこともあって、なかなか気乗りはしなかったですね。それでも断るわけにはいかないので、まあ書き上げたんですがね。

 引き受けたくないという伊福部の欲求が、立場的にも時勢的にも公務員として引き受けておくべきだという理性によって押し動かされたかたちだろうか。そうして生み出された水軍の凱旋行進曲「吉志舞」であったが、この曲はその後、数奇な運命を辿ることとなる。
 「吉志舞」の献上後、戦中、その楽曲がどのように奏されたのかは当の伊福部も知らなかった。海軍の主力たる大和をはじめ数多くの戦艦に凱旋のときは訪れることもなく、東京が焼き尽くされ、広島と長崎に原子力爆弾が落とされ、ちょうど伊福部も放射線に身体を蝕まれ臥床していた。鉛製の防護服は銃弾製造のため軍に提出しきっており、生身で放射線を扱ったことから、喉奥より血を噴いた。そんな1945年8月末のことだった。
 飛行機から日本の地に降り立ったGHQのマッカーサーを、伊福部の枕元のラジオが中継していた。伊福部は、自身の耳を疑った。戦中、聴く機会などなかった「古典風軍楽『吉志舞』」が、あろうことか、マッカーサーを出迎える祝賀演奏に用いられていたのだった。自身の楽曲との1年半ぶりの再会は、日本海軍の凱旋によってではなく、敵国だったはずの米国軍人の凱旋曲として、ないし平和の訪れを祝う喜びの旋律として演奏されていた。この時のことを伊福部はあまり多く語らない。小林淳によれば伊福部の言葉は、「なんということだ……」という絶句、そしてそれは「いわくいいがたい、強烈な」再会であったという。
 私はちょうどこの刹那に、〈伊福部マーチ〉のファシズムというものに決定的な亀裂が走ったのだと読む。その後の伊福部の人生において、彼をファシズムの魅力からぎりぎりのところで「ズレ」させ続けたのは、他でもないこの事件であったと思う
 伊福部は海軍の嘱託によって「吉志舞」を書いた。戦意高揚の五線譜が求められていると、そうわかったうえで書き上げた。親しい親族を亡くしたばかりであったという憂鬱はあったにせよ、彼は作曲家として、五線譜を書くという仕事に真摯に直面した。その姿勢が真摯であったがために、当時の伊福部は仕事に情を差し挟まなかった。それこそが伊福部の危うさであった。書くという行為自体に、そこに「うしろめたさ」というものが無かった。敗戦によって「吉志舞」が伊福部のもとに帰ってきたとき、これまでの楽曲がどんなに非難され、揶揄されてきたときなどよりも、比較にならないほど大きな衝撃が伊福部に走った。この出来事こそが、ファシズムと伊福部を決定的に離別させた契機であったと、私には思われてならない。
 「吉志舞」の譜面はその演奏後、火災によって失われた。より厳密に言えば、近年ようやく、なぜかNHKの倉庫から焼失を免れた譜面の生き残りが発見されるまでは、伊福部自身にも「吉志舞」は失われたものと信じられていた。初代「ゴジラ」以降、伊福部音楽によるファシズムへの傾倒の痕跡はもうこの世に残されていないにもかかわらず、しかしあえて映画に「吉志舞」を復刻した伊福部の意志の在り様はいかなるものか。「吉志舞」の旋律によって、徹底して「犠牲」を示し続けた伊福部の信念はどうだったろうか。〈伊福部マーチ〉とは伊福部にとって、ファシズムからの「ズレ」そのものであり、「偉大な破壊」によるテクノロジーへの復讐にファシズム的に傾倒しきってしまうことへの自戒、すなわち「うしろめたさ」の結晶なのである。

 では、スマートフォンを手中にした私たちが「うしろめたさ」からSNSをはじめるためにはどうあるべきか。そのヒントは『春と修羅』を書いた宮沢賢治の、暴力と愛情の狭間に燃やした壮絶な人生にあるのかもしれない。

 「シン・ゴジラ」の冒頭では、牧・元教授の小型船舶が東京湾を漂流しているが、乗員は誰も見つからず、きちんと揃えて並べられた革靴と、後にゴジラの細胞内構造を知る手掛かりになる茶封筒と折り鶴、そしてなぜか、賢治の『春と修羅』が置かれていた。「私は好きにした、後は好きにしろ」という遺書にも似た書置きを残し、きちんと靴を揃えて消息を絶った牧・元教授は、過去に最愛の妻を放射性物質によって亡くしており、妻を見殺しにした日本や放射性物質を生み出し続けた人類への恨みを募らせながら、それを無害化するための研究に勤しんでいたが、同時にそれが新たな放射性物質と核兵器に繋がることを予感し、研究データと自らの存在を消していたのだった。
 庵野秀明が仕掛けた牧・元教授のエピソード群について、ネット上では様々な憶測が飛び交う。たとえば無造作に置かれた『春と修羅』から妹・トシを亡くした賢治と牧・元教授を重ね合わせ、それゆえに牧が「修羅」になった≒ゴジラへと変貌したのではないかという説もある。あるいは、初代「ゴジラ」になぞらえて、牧・元教授≒科学者が受水してゴジラに何らかの影響を引き起こしたのではないかという説もある。しかしながら正直、これではただ作中に登場した情報の断片から上手くオハナシを組み立てただけに過ぎない。なぜ、賢治でなくてはならなかったのか、私たちは賢治の何を見つめなくてはならないのか、そういったところに問いを深め、突き詰めるまでには至らないのである(余談だが、この映画にまつわる評論、批評のほとんどは「尻尾」と『春と修羅』によって突きつけられる謎と問題から実に器用に身を躱し、あくまで危険にさらされず安全に語れることだけを小手先で語っているような節を随所に感じ、そういった潮流もまた、筆者が本稿に向かわねばならない原動力の一つとなっていることは疑いない)。
 そこで、物語中盤、この映画とファシズムとを決定的に結びつけている、ある台詞に着目したい。内閣総辞職ビームの後、総理補佐官の泉が矢口プランの実行承認を求め、総理臨時代理となった里見を説得するシーンでのこと、多国籍軍の熱核攻撃を容認せざるを得ない「わが国」の立場上それを渋る里見に泉は「ですが総理、自国の(諸外国が:筆者注)利益のために他国(「わが国」:筆者注)に犠牲を強いるのは覇道です」と投げかける。この力強い言葉はついぞ里見を転向に至らしめ、「わが国では、人徳による王道を征くべきということか」と、矢口プランへと続く《道》へと日本は舵を切っていく。このやりとりは、しばしば「シン・ゴジラ」起源の名台詞、名場面として度々挙げられるのだが、しかし、残念ながらこれらは「シン・ゴジラ」を起源とするものではない。これは、かつての陸軍将校・石原莞爾(いしわらかんじ)によるものである。

今日の世界的形勢に於て、科学文明に立ち遅れた東亜の諸民族が西洋人と太刀打ちしようとするならば、われわれは精神力、道義力によって提携するのが最も重要な点でありますから、聡明な日本民族も漢民族も、もう間もなく大勢を達観して、心から諒解するようになるだろうと思います。
 (中略)
どうも、ぐうたらのような東亜のわれわれの組と、それから成金のようでキザだけれども若々しい米州、この二つが大体、決勝に残るのではないか。この両者が太平洋を挟んだ人類の最後の大決戦、極端な大戦争をやります。(中略)即ち東洋の王道と西洋の覇道の、いずれが世界統一の指導原理たるべきかが決定するのであります。

 「王道」と「覇道」とはもともと儒教に由来するもので、前者を人徳による統治の道、後者を武力による統治の道とするが、石原は1940年の講演をもとに著わした『最終戦争論』において、西洋を「覇道」、東洋を「王道」として対置した。熱核攻撃への圧力と緊張を国際社会が高めていく中、なおそれでも原爆によらない人徳的な道を行かんとする「わが国」との対置構図をして、「覇道」と「王道」と喩えるのはまさに石原がその出自だったと言える。

 さて、今日においては《嫌韓》という言葉があるが、それに倣って言えば、石原は熱心な《嫌米家》であったという。かつ石原には部下たちに国体主義をどう落とし込むかという苦悩があった。そこで出会ったのが国柱会である。大澤信亮(『神的批評』2010年、新潮社)によれば国柱会とは、「大正三年(一九一四:原文ママ)に田中智学が創始した純正日蓮主義を標榜する宗教団体である。教義は法華経を主軸に置く国体思想であり、天皇を中心とした世界の統一というビジョンは戦時下の皇国イデオロギーとして機能した」。

もともと法華経には摂受と折伏(しゃくぶく:筆者注)という布教思想がある。摂受がいたわりによって相手の仏性を喚起させて帰依させる布教姿勢であるのに対し、折伏は相手の邪心を徹底的に法の力で打ち破ることで帰依させる戦闘的な布教姿勢である。(中略)明治に入り、智学が『本化摂折論』で折伏の復活を唱える。人倫の乱れた邪法の世においては、中途半端に相手におもねるより、逆に真理の力によって邪心を徹底的に打ち破らねばならないのだと。賢治はこの本を熟読しており、保坂嘉内に書いた手紙に、「今は摂受を行ずるときではなく折伏を行ずるときだそうです」(大正七年三月四日前後)と書いた。

 すなわち「シン・ゴジラ」は国柱会から、私の知る限り二人の著名人を――それも3.11によって被災した東北の出の両者を、引用している。田中智学の折伏に魅せられた二人の天才の運命が、ここに奇妙な邂逅を遂げるのである。
 石原の折伏の欲求はそのまま《嫌米》と軍隊教育に向けられた一方、賢治のそれは、たとえば中学生でも習うような童話『オツベルと象』において、反・他宗、反・資本主義というかたちで如実に立ち現れる。事業主であるオツベルは、菩薩の乗り物でもある神聖な「白象」を、「けいざい」だとしてこき使った。苦しさに耐えかねた白象は月を見て「苦しいです。サンタマリア。」と助けを乞うが、月は「何だい、なりばかり大きくて、からっきし意気地いくじのないやつだなあ。」と笑っているだけである。そこを実際に助けるのが「赤衣の童子」だが、これは菩薩の従者であるという通説の他、赤色は共産主義の示唆とも取れるらしい。かくして資本主義の権化としてのオツベルは「いなくなった」のであった。
 なるほど、穿った読みをすれば『オツベルと象』は、宗教的・共産的革命の寓話として、すなわち強烈な《折伏》の物語として捉えられる。しかしながら他方、賢治はこの童話を通して折伏に徹しきれていないようにも思われる。『オツベルと象』をもう少し深読みすると、賢治が決して折伏の境地には至っていなかったこと――折伏を推し進める一方、どこかで自身の遂行する折伏への迷いが見え隠れしていたように思われてならない。絶体絶命の白象が清々しい大逆転を遂げる様はさながら「シン・ゴジラ」にも似通っているが、すなわち『オツベルと象』にもまた、政治の美学化による精華を、その只中に身を置きながら突き放し拒絶しようとする「ズレ」の意志を感じるのである。奇しくもそれは両作品ともにちょうどラストシーンで描かれる。
 仲間の象たちによって白象は無事に解放され、物語は大団円を迎えるが、そのときの白象のこぼす笑みにどうも私は含みを感じてならない。駆け寄り、枷などを外してくれる仲間に対して白象は、「『 ああ、ありがとう。ほんとにぼくは助かったよ。』白象はさびしくわらってそう云った」。私にはこの「さびしく」という形容の仕方、その言葉選びがどうも引っかかってならない。一面的には、疲弊した白象には喜ぶ体力すら残されておらず、気丈に振る舞おうにも微かに「わらって」みせるしかできなかったという描写である。しかし、ならば「さびしく」でなくとも、「ぐったりと」、「這うように」、「弱々しく」、「かすかに」などがより自然と思われる。目の前で「いなくなった」オツベルに対して、あたかも白象が寂寞を感じているかのような語彙をあてた作者・賢治にはこの場面で伝えたかった裏の意図があるのではないか。
 さらに、最後の牛飼の語りで私の疑惑は深まる。青空文庫によれば最後の牛飼の台詞は「おや〔一字不明〕、川へはいっちゃいけないったら。」である。俗説のひとつには、この伏字部分に「め」を入れて「おやめ」とし、川へ向かう牛を制している描写だといわれるが、1977年の『校本 宮澤賢治全集』(筑摩書房)までは「君」を入れて校訂したというから、どうも牛以外の誰かに向けられたと取れなくもない。あるいは、語り手である牛飼の前にいるはずの聞き手の誰かが川に向かったため制したとも取れる。それらを踏まえたうえで、私がここで最も気になるのは、「川へはいっちゃいけないったら」のダブルミーニングである。一義的には「川へは行っちゃいけないったら」と、川に向かって陸を歩いている何かを制しているかのようだが、牛にせよ聞き手(しばしば子供と仮定される)にせよ、目の前で不意に歩き出したそれの向かう先が川であると瞬発的に予測して、先回って制止を促せるのはいささか不自然ではなかろうか。しかし、これが「川へ入っちゃいけないったら」となると状況は一変する。私の脳裏にはこの場面で、ある日突然職を失った「十六人の百姓ども」の一人が、まるで入水自殺でも図っているかのような光景が目に浮かんでしまうのである。

 いや、肝心なことはそんな小手先の答え合わせではない。上記されたような誤読の芽を推敲時に完全に潰しきらなかった、賢治の折伏の不徹底さが一体何を意味するかということである。それは私には、《俺は折伏をやめられない。しかしどうか俺の折伏の言う通りにはならないでくれ》という、ある種の呪願のようにすら感じられるのである。
 『オツベルと象』より遡ること4年前、『春と修羅』で賢治は妹・トシの死を真正面から描いた。トシと言えば、元々浄土真宗であった宮沢家のなかから唯一、賢治の折伏を受けて国柱会に改信した人物である。文字通り、賢治の最愛の家族であった。しかし、運命とは残酷なもので、賢治に手を引かれ法華の道に進んだトシを、賢治は救ってやることができなかった。法華経をもってしてもトシのさだめには逆らえなかった。どころか、法華の生き方こそがトシを早死にさせたと言われなくもない。さしずめそれは、まるで白象を見殺しにしたサンタマリアのようでもある。
 トシを亡くした日、賢治は一人押し入れに籠もって、一日中ただただ嗚咽したという。軽蔑しあまり仲の良くなかった父親をはじめ、法華への身勝手な転宗と「折伏」によって実家や親族とはほぼ疎遠常態で、しかしそんな中においても賢治を慕い支えたトシは、彼にとって唯一の身寄りであった。トシは、最期まで賢治を慕った――法華の生き方を貫く賢治の背中を、同じ法華宗に身を置いて、最期の瞬間まで追いかけた。だから、トシの葬儀が実家の浄土真宗式で営まれたとき、賢治は最愛の妹との今生の別れを刻むその式に、どうしても立ち会う心持ちにならなかった。賢治の中のトシはいつまでも永遠に法華とともにある。皮肉にもトシの死は、法華の無力を思い知る出来事であったのと同時に、賢治と法華とを生涯離れがたいものにした。賢治は、折伏によって救えなかったトシの死に対して、自身が行った折伏の無力感と罪悪感に一生苛まれながら、それでもなお更なる折伏を行うことによってしかトシへの再会を果たせないという、まさに「修羅」の道をゆくほかなくなったのである。
 「シン・ゴジラ」の牧・元教授の半生も宮沢賢治にリンクする。牧自身も日本の学界から米国エネルギー省の嘱託機関へ、研究の場を「改宗」している。正確に言えば、妻が放射性物質により何らかの症状を発症したのをきっかけに、牧はそれを救うため、おそらくは突飛で風変りな研究を身勝手に推し進め かつ周囲への「折伏」に勤しんだものと思われる。結果、程なくして日本の学界から孤立し、追放されるようにして渡米している。渡米してなお妻は彼を慕った。研究に勤しむ牧を妻は最期まで慕い、終ぞその研究が妻を救うことはなかった。そのとき、牧にとってはもはや研究はただの研究ではなく、妻そのものであったかもしれない。研究を続ける「修羅」の道をゆくことは、牧にとっては妻との邂逅そのものであったと言えよう。
 しかし、《信仰》と《研究》では決定的な違いが生じることとなる。信仰に終わりはないが、研究はいつか完成してしまうのである。自身の研究が集大成を迎えたとき、それは牧にとってはむしろ絶望だったのではないか。たいてい研究者は自身の寿命が尽きてしまう前に研究の完成を願うものだろうが、牧はちがったかもしれない。牧にとってこの研究は自身の死の瞬間まで永遠に続くべきものだった。決して終わってはならないものだった。研究が完成してしまえば、それ以降、妻との邂逅は果たせなくなる。そうなればいよいよ牧には本当の孤独が降りかかる。あるのは自身の研究が妻を救えなかったという、どこまでも暗い過去ばかりだ。なるほど、だとすれば自身の死を何らかのきっかけにして、研究の集大成としてのゴジラを呼び起こす牧の最期には、哀しいかな納得してしまわざるを得ないのである。

 賢治の折伏というファシズムが迎えた悲劇と、しかしそれでもなお折伏によってしか心のうちにトシを宿しきれないという「修羅」によって、彼自身が「うしろめたさ」を――すなわち、折伏からの「ズレ」を一生保持せざるを得ないことを垣間見た。ファシズムの只中にある私たちは、ではいかにしてこのファシズムの悲劇から逃れられようか。何をすればファシズムからの「ズレ」によってファシズムの魅力をぎりぎり突き放すことが叶おうか。その答えは『銀河鉄道の夜』にある。
 『銀河鉄道の夜』はちょうど『春と修羅』と同時期から執筆されはじめたとされるが、しかし、その原稿が発見されたのは賢治の死後のことであった。すなわち、賢治にとって『銀河鉄道の夜』とはトシとの死別後の生涯に渡った「折伏」の記録であり、その物語には賢治の「折伏」の揺らぎと戸惑いがありありと映し出されるのである。
 天沢退二郎と入沢康夫による調査から、現代では『銀河鉄道の夜』には実は第一稿から第四稿までの4パターンが存在することはすでに明らかだが、さらに大澤は、とりわけ第三稿の「銀河鉄道」は「南無妙法蓮華経」に向かって走っていたことを指摘する。これまでしばしば見られた〈カムパネルラのモデルはトシである〉との主張だが、その論拠として用いられてきた賢治の書面「手紙四」において、「ほんたうの幸福」が「ナムサダルマプフンダリカサスートラ」=「南無妙法蓮華経」だと断言されていること、加えて、「ほんたうの神さま」をめぐる論争の場面が加筆され、「ほんたうの幸福を求めます」というジョバンニの希望が述べられているのは第三稿であることから、大澤は第三稿における「銀河鉄道」の終着駅を示した。
 第三稿では、私たちのよく知っている「河原」のラストシーンはない。代わりに、カムパネルラと別れたジョバンニの前に「セロのような声」をしたブルカニロという博士が登場し、銀河鉄道でジョバンニが経験した事柄、対話した人びと、そして考えさせられた「ほんたうの神さま」についてはすべて博士の実験であったことが告げられる。そこでブルカニロは、化学がどう実験してもひとつの答えに辿りつくのと同様、人びとの信仰もまた、ひとつの答えに辿り着くという説諭をジョバンニに垂れる。すなわち賢治は、この第三稿の段階では、すべて「ほんたうの幸福」は法華経に通じているのだと折伏している。賢治はこの第三稿を通じて、亡きトシとの邂逅を果たしているのかもしれない。
 しかしながら、この第三稿は決して賢治自身の手によって日の目を浴びることは無かった。ここに『オツベルと象』の時と同様、賢治の折伏の揺らぎがある。なぜ賢治はこの第三稿をもって折伏に至ることができなかったのか。そこには賢治の胸を刺すもう一つの「うしろめたさ」がある。
 上で引用した大澤の論稿にある保坂嘉内という人は、賢治の若かりし頃の親友であり、菅原千恵子(『宮澤賢治の青春』1994年、角川文庫)によればカムパネルラのもう一人のモデルはこの保坂である。保坂は賢治にとってトシと同様、生涯に渡って親交を深めていく人物のはず、だった。しかしながら、ちょうど上で引用した手紙を皮切りに、賢治は保坂に対して事あるごとに「折伏」をおこない、しつこく改宗を迫ってしまう。結果、親友は賢治のもとから離れて行ってしまい、その後は一切の音信も断絶してしまうのである。以来、「折伏」は賢治にとって、できれば目を背けてしまいたい苦々しい記憶――保坂との直面でもあった。
 このようなバックボーンを獲得したうえで第四稿、すなわち私たちがよく知る『銀河鉄道の夜』を見てみるとどうだろうか。そこには第三稿に登場した「セロのような声」もブルカニロも登場しない。海難事故に巻き込まれたと思しき「女の子」は「ハレルヤ」を歌いながら、「青年」に連れられて「サウザンクロス」、つまり日本からは決して見ることのできない南十字の駅で下車し、ジョバンニとカムパネルラは川の中にすっと輝く一本の「十字架」とその街に消えていく二人を車窓から見送る。そしてジョバンニは親友に「どこまでもどこまでも一緒に行こう」と、さそり座の輝きのように「ほんとうにみんなの幸(さいわい:筆者注)のためならば僕のからだなんか百ぺん灼(や:筆者注)いてもかまわない」と決意する。しかし、ジョバンニはカムパネルラと一緒に行くことができない。代わりに彼が直面する重い現実は、自分をいじめているザネリが溺れかけたのを親友が救ったということ、そして犠牲になったこと、何より、そうして助かったいじめっ子のザネリの「幸」さえも「からだを百ぺん灼」くように願い続け、そうやってカムパネルラの「自己破壊」を受け継いでいかなくてはならないということである。

 この後ジョバンニが向き合わなくてはならないのは、事故とはいえ愛するカムパネルラを殺した、憎むべきいじめの首謀者ザネリ(中略)である。この結末が何故第四稿で書き加えられたのか。第三稿までのジョバンニ(≒賢治:筆者注)には彼らと向き合う資格がなかったからだ。しかし、彼らを真に愛することが出来なければ、「あらゆるひとの いちばんの幸福」など空言でしかない。(中略)それは善意でも慈悲でも欺瞞でもなく、まさに自分自身を愛するように万人に愛を向けること(中略)ではないだろうか。

 「銀河鉄道」で論争の相手となった「青年」や「女の子」が信仰するイエスはかつて「隣人愛」というものを説いている。

 あなたの隣人をあなた自身を愛するように愛しなさい。(中略)それは生き物を殺す自分を愛するということであり、同時に、生き物を殺す他人を愛するということであり、さらに一歩進めて、自分という生き物を殺す他人を愛せよということ(中略)だ。(中略)キリストはその愛を万人に向けよと言う。たとえ敵であっても、憎むべき相手であっても、愛をもって自ら殺されることを受け入れよと。いや、言うだけではなく、実行した。キリストは自らの意志で十字架に架けられた。この自己破壊こそが最大の難関となる。
 (中略)彼(賢治:筆者注)の自己破壊は自己を憎むことから出発している。彼が開いてみせた「あらゆる生物のほんとうの幸福」という願いは、確かに無限の何かにつかまれた手応えがある。

 賢治の折伏の裏にある「うしろめたさ」の正体は「隣人愛」であり、それは自分自身への憎しみである。それは「僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」という、ある種の「自己破壊」の衝動でもある。そのような「修羅」の境地から「筆」を執るときにのみ、賢治は愛するトシや親友の保坂との邂逅を果たすことができた。
 コロナ禍のいま、SNSに何がしかを書き込む私たちが倣うべきはこの「修羅」の境地ではないだろうか。ここで言う「修羅」とは仮想敵や論敵との戦いに興じる姿勢ではない。失言・失態を徹底的に糾弾する態度でもない。コロナウイルスにまつわる虚偽や利己的行為を行った者の個人情報を晒し上げるのも断じて違う。そうではなく、戦うべき相手、憎むべき相手はいつも自己の中にある。ある種の「自己破壊」によってのみ「隣人愛」は成し遂げられる。そういった「自己破壊」への勇気や「隣人愛」の実践こそが、私たちと「ファシズム」との「ズレ」を担保してくれる。逆に言えば、そういった精神なきところから書いてしまえば、そうして書かれたものが大衆扇動と異端者の排斥に直結していることは一目瞭然である。いかんせん、SNSには私たちの肉体がない。現実の肉体がどんなにちっぽけなものであれ、コロナ禍という共通の文脈とコミットさせられている以上、私たちの書くものには”virtue”が宿る。その扱いを誤れば、誰しもが保田與重郎のように、もっと言えばアドルフ=ヒトラーのようになりうる。いや、誰しもがそうなりつつある。私自身も。そして、あなた自身も。

 さて、だいぶ遠回りにはなってしまったが、「ゴジラ キングオブモンスターズ」への私の懸念の本質はまさにここまで書き連ねてきたことにある。端的に言ってしまえば、「ゴジラ キングオブモンスターズ」はファシズムの映画である。無論、プロパガンダ映画として本作を告発したい訳ではない。しかしながら本作は、歴代の「ゴジラ」が決して手放そうとしなかった「ズレ」、「うしろめたさ」、「自己破壊の希求」をいとも容易く放棄し、ゴジラを”KING”として祭り上げてしまった。本作によって描かれるゴジラはもはやゴジラではなく、ゴジラの抜け殻、まさに亡霊のようなものである。
 本作には初代「ゴジラ」をオマージュした人名、名称などが数多く登場する。ゴジラ、芹沢、オキシジェンデストロイヤーなど、挙げだすときりがないが、そのどれも、初代「ゴジラ」の作中で付きつけられていたはずの「文脈」はきれいさっぱり跡形もなく、見事なまでに《無毒化》されている。すなわち、本作には「戦争」への恐怖がない。核兵器への憎しみもない。前作の「GODZILLA ゴジラ」(2014年)でさえ日本の3.11に取って付けたように、原発事故や津波と思しきシーンを取り入れていたが、本作に至ってはそういったものがまったくない。
 たとえばジェームス=キャメロンの「ターミネーター2」(1991)では、核兵器に灼かれる人びとや主人公・サラ=コナーの姿を露骨に描く。それはかつて日本がアメリカの原爆によって経験した光景である。80年代後半を代表するテレビコメディ「フルハウス」は白人のみのキャスティングによって構成されているが、「ターミネーター2」では敵対者である白人男性が、ヒスパニック系移民のサラの肩を突き刺し、執拗にジョンの居場所を聞き出そうとする。……エンターテイメント大作の続編として企画されたこの作品において、しかしながらジェームス=キャメロンは、観衆の《見たくないもの》を描くことに躊躇しなかった。アーノルド=シュワルツェネッガー演じるT800が科学技術の兵器化を防ぐために溶鉱炉に没していく様は、オキシジェンデストロイヤーとともに海中に身を散らした初代「ゴジラ」の芹沢博士を彷彿とさせてならない。
 映画史に刻まれる二つの大作と「ゴジラ キングオブモンスターズ」と並べるとき、やはりどうしても後者の弱さは際立ってしまう。ゴジラの続編を手掛けるにあたってどうして「戦争」の文脈から外れたのか。ディザスタームービーでないにもかかわらず、「環境問題」だの「自然生命との共存」だのという取って付けたような、当のアメリカ人の利害に一切直結しないようなテーマを掲げたのか。ひとえに商業主義ゆえの大衆ウケ重視路線による《逃げ》の姿勢でしかない。
 映像面においても、それはもうゴジラではない別のもの、何か幽霊のようなものになってしまっている。初代「ゴジラ」の着ぐるみとジオラマによる存在論的なリアルさ=「偉大な破壊」は今更言うまでもなかろうが、「シン・ゴジラ」のフルCGによるゴジラも、じつはかなり即物的な手法を用いて作り込まれている。「トイストーリー」などで知られるピクサー・アニメーション・スタジオも似たような工程を課しているが、「シン・ゴジラ」においてはまずゴジラの模型が作り込まれた。設定画からかなり細やかな立体模型を起こし、それを3Dスキャナで読み込んでCGにし、首の太さなどが調整された。さらに、野村萬斎のモーションキャプチャーを行いそのCGに動きをつけ、生物学的に、かつ日本文化的にリアルなゴジラを誕生させたのである。
 ハリウッドに比べれば低予算の日本映画ですら、初代「ゴジラ」の纏っていた存在論的なちからを直感しここまで突き詰めていたというのにもかかわらず、「ゴジラ キングオブモンスターズ」の怪獣達はあからさまにグラフィカルで、軽い。あからさまにグラフィカルゆえ、ヒトの手によって作られた見世物だという安心感もあって、その破壊は「偉大な美しさ」の域に達しない。初代「ゴジラ」の破壊の方がよほど五臓にずしんと来る重みがあったように思う。
 極めつけは音楽だろう。本作においてもしばしば援用されるモスラのテーマや伊福部音楽だが、主人公を英雄として祭り上げるための音楽を伊福部は書いただろうか。『古典軍楽「吉志舞」』が敗戦によって演奏されて以来、伊福部の心には、たとえ時局のせいであったにせよ一時は戦意高揚の音楽を書いてこの国のファシズムに加担していた「うしろめたさ」が、その後の人生にいつもついて回っていた。伊福部音楽を引用し、援用するならば、伊福部の背負った《業》を無毒化してはならない。子ども向け作品である「クレヨンしんちゃん」のギャグアレンジですら〈伊福部マーチ〉の本質にきちんとオマージュを捧げられている。ここにきてまたしても「戦争」、「テクノロジーへの憎しみ」といった音楽家の「文脈」を無視するのであれば、よほどその音楽など使わなかったほうがよかったのではないかと思われてならないのである。

 しかし、こうした私の思いとは裏腹に、SNSによる評判は決して悪くなかった。むしろ高評価が多かった。もちろん2014年の前作と比べれば興行的には凡退も良いところであるし、往年のゴジラファンからの酷評は激しかった。しかしSNS上での評判は良かった。なぜか。「バトルを繰り広げる怪獣達のすぐ足元を登場人物たちが駆け回るのがエキサイティングである」という。なるほど、そういった映像は現実の何にも即していない、いわば人びとが希求してやまない架空の破壊のイメージとでも言おうか。よもや「戦争」という生々しい「文脈」を「利害=関心に直結する」ように自己に突きつけられなくなったのはゴジラではなく、ほかでもない私たち日本人の方であったのかもしれない。私たちはもう、能動的に「文脈」を自己に突き立てられなくなっているのかもしれない。だからこそ、コロナ禍の折、そんな私たちがSNSを通じて何がしか「筆」を執るときには、自己への憎しみを起点に自らを「修羅」の道へと誘うほかないと、私にはそう思われてならないのである。

〈了〉

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