「好きなことをして暮らしていきたい」とはどういうことなのだろう。~お金について①~
「好きなことをして暮らしていきたい」とはどういうことなのだろう。好きなことで生計を立てたいとはあまり思わない。それほどの熱量が無いからかもうそれなりに暮らしているからか、好きなことで生計を立てた経験がなくてうまくイメージできないからか。
ベーシックインカムが整備されて生活費の心配が無くなったら「好きなこと」を思いきりやるだろうか。そうかもしれないし、そればかりだと飽きるから色々やるかもしれない。であれば今とそれほど変わらない。
「これさえやっていれば満足」という一つのものthe oneは自分には無いし、それを求めて色々やってあれこれ考えてみる道のりこそが好きなのかもしれない。
「好きなことをして暮らしていく」とは、お金が必要な暮らし方をしている以上、好きなことをお金に換えるということだ。
資本主義の社会では暮らしとお金は密接だから、好きなことをして暮らしていくには、好きをお金に換えるか別のところでお金を得るか、いずれかになる。
(あるいはお金が必要ない暮らしに変えるか)
この「自分の好きなことをお金に換える」という飛躍に違和感を覚えるのだと思う。飛躍があると無理が生まれる。
好きって「やっていて自分が楽しい」ということ。
お金を受け取るって「助かったとか応援したいとかの気持ちを、言葉だけじゃなく金銭の支払いという形で相手が表す」ということ。
だから「好きなことでお金を得る」とは
①「自分がやっていて楽しい」ことで、
②「相手が喜んでくれて」
③「その人がお金によってその喜びを表す」ことであって、それによって
④「自分の暮らしに必要な金額を得る」ということだ。
なんだか条件が多い。飛躍がこんなにたくさんある。
自分が楽しいことで相手が喜び、相手がお金を払うという主語のズレがある。
「自分が楽しい」はできる。「相手が喜ぶ」もできる。
「自分が楽しいことで相手が喜ぶ」「相手が喜ぶことを自分が楽しむ」もできるだろう。
でもそれを「お金の支払いに換える」段階でやっぱり飛躍を感じる。お金って一体なんだという話になる。それが分からない。
分からない中で、飛躍がある中で「好きなことで暮らしていこう」とするから、好きが苦しみに変わることすら起こるのではないか。
生活に必要なお金のほんの一部なら得られるかもしれない。でも生活費の全体、たとえば20万とか30万とかを全て好きをお金に換えてまかなうとしたら、自分ならかなり無理を感じる。
その無理を乗り越えるため、飛躍を埋めるために実際以上に言葉を大きくする必要が出るのだと思う。それは僕にとって心に嘘をつくのと同じことだから、そうしなくていい形が僕は良いなあ。何度考えてもこう思う。
自分はそもそも生活費を下げる暮らし方に変えはじめている。必要な金額も下がるから「好きなことで暮らしていく」も可能かもしれない。
でもこの暮らし方をしているのは「お金」から距離をとるためだから、やっぱり「好きなことをお金に換えて暮らしていく」必要はない。
好きなことをする時間が多い暮らし方は単純に良いなと思う。でもそれは自分の場合「どうしても絵を描きたい!描かずにはいられない!」というような強烈なものではない気がする。
そういう情熱もひょっとしたら自分のどこかにあるのかもしれない。少なくとも今は無い。
ゆっくりお茶を飲むとかアラームをかけずに起きるとか、毎朝掃除をするとかギターがちょっと上手くなったとか良いおしゃべりをしたとか、そういう穏やかなものが好きで、それが日々の中に多くある形で暮らしてはいたい。
でも「この好きな暮らしをお金に換えよう」とはやっぱり思わない。
自分がやっているのは「定義をさがすこと」なのだと思う。
お金とは何か辞書を見れば載っている。社会の中でどんなものとして使われているかもフワッとは知っている。
でも辞書の定義じゃなく「自分にとっての定義」を今もまださがしている。
僕にとってお金とは何か。
辞書の定義は実感と遠い。「お金はエネルギー」みたいに人が言うのを聞いたことはあるけれど自分の言葉になりきっていないし、自分が感じていることの30%くらいしか表せていない気がする。
好きなことを「どうしてもそうしてしまうこと」と言い換えてみるなら、定義をさがしてしまうというこれは正に「自分が自然としてしまうこと」だなあ。習性とか癖(へき)とか身体反応とも呼べるかもしれない。
そして定義をさがしてしまうという僕の生命の形をお金に換えたいかと考えてみれば、やっぱりそうは思わない。
「好きなことをして暮らしていく」って良いことみたいだけれど本当にそうだろうか。
この資本主義社会でそれは「好きなことをお金に換える」ということだけれど、本当に良いことだろうか。
飛躍や無理ばかりの世界に、自分の「好き」を放り込みたいだろうか。
「好きなことをして暮らしていく」がフワッと流行っているから自分もそうしたいと感じているだけかもしれない。
だとしたら自分が本当には欲していない形を良いと思いこんでいるのかもしれない。
それは時代の罠みたいなものじゃないかな、とも思う。
「好きなことをして暮らしていく」「好きなことをお金に換える」に飛躍を感じるのは僕だけなのだろうか。他の方はどうなのだろう。
この飛躍を感じるのは、自分がいったい何を渡せるのか分からなくて、それにどんな意味や価値があるのか自信がないからなのだろうか。そんな風に書いてある情報はたくさんある。
いやでもやっぱり「お金とは何か」が僕の中ではっきりしていないから「これはいくらです」とすっきり言えないだけな気がしている。
大きくて根源的なこの部分が見えないと動けないけれど、
この部分が見えたら一気に動くのだろう。
とはいえこれは、自分個人の仕事と暮らし方の話。
また別軸で「自分のためだけじゃない暮らし方やお金」についても考えている。
来月はそのことを書きたいなと、今はそう考えている。
(ちょっと連載っぽくやってみます。お金について考えた記事をまとめるマガジンもつくりました。)
お金について②はこちら
お金について③はこちら
お金について④はこちら
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