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11月21日 魂と心はいったいどこにあるのか? 脳? それとも腹?

 前回、人間の記憶というものは「脳」に保存されているのはほぼ間違いない……が、それがいったいどういう形で保存されているのか、いまだによくわからない……というお話をした。

 脳に関する研究はかなり進んでいるが、よくわからないところも多い。
 だいぶ前になるが、養老孟司さんの本に、こんな話が書かれてあった。

 養老孟司さんが大学生だったころ、教授の研究室へ行くと、その教授がある脳みそを前にして「うーん」と唸っている。養老孟司さんがやってくると、教授は、
「養老君、この脳の持ち主がどんな職業だったかわかるかね」
 と尋ねてきた。
 その脳みそを見ると、小脳が欠けていた。小脳は運動に関わる部位で、これが欠損するとまず平衡感覚に異常をきたす。また小脳には「泳ぐ」「自転車を漕ぐ」というような、体に染みついた運動を記憶・再生を司る部位でもある。前回、てんかん症の治療で海馬を切除してしまったために、新しいことを何一つ記憶できなくなった人の話をしたが、しかし体に染みついていた運動の感覚は忘れることはなかった。脳の中の記憶を司る部位を切除しても「車を運転する」などの身体感覚を忘れていなかったのは、そういう理由である。
 養老孟司さんはその脳から小脳が欠けていることにすぐに気付き、おそらくこの人は日常生活にいろいろ問題は抱えていたでしょう、しかし職業がなんだったかまではわかりません、と答えた。
 すると教授はこう答えた。
「この脳の持ち主は、舞踊の先生だよ」
 小脳が欠損していたのに、この人は相変わらず舞踊の先生をやっていたそうな。だから教授は「うーん、どういうことだ」と唸っていたのだった。

 昔読んだ本……なので記憶違いはあると思うが、だいたいこんなふうな話が書かれていた。
 こんなふうに、脳の機能とはよくわからないことがたくさんある。一部が欠損しても、別の部位が欠損した部分を補うことがあるという。それじゃ、「この部位はこの役割」という定義付けも意味をなさなくなってくる。現在でも「通説」と考えられている話でも、それも本当かどうかよくわからない。
 そうすると私たちはどの部位でものごとを考えたり、悩んだりするのか、よくわからなくなってくる。

 それでもとりあえず記憶は脳にあるのは間違いない。
 では「心」はどこにあるのだろうか? 心もやはり「脳」の機能の一部なのだろうか。

 ずいぶん昔の小説だが、山本周五郎の作品に『地蔵』という題の短編がある。昭和36年(1961)の作品で、私も読んだのが数十年前だから内容もうろ覚えだが、たしかこんな話だったと記憶している。

 とある詐欺師の2人が悪巧みを考えついた。地蔵を持ってきて、その前に相棒を縄で縛っておいて、「この地蔵は自ら動いてこの悪しき盗人を掴まえた。尊い奇跡を起こした地蔵なのであーる」と演説するのである。
 無知で信じやすい田舎の村人を騙して、お布施をかすめとってやろう……という魂胆だった。
 すると村人の中にも頭のいいやつがいて、そいつが飛び出してきて「そんなわけあるか!」と殴り合いの喧嘩になってしまった。
 それでも詐欺師は毎日村に現れて、地蔵と縛った相棒を置いて「この地蔵はこれこれこういうわけで尊いお方なのであーる」と演説を続けた。その演説の場に、あの頭の良い奴は毎日現れて、厳しい顔をして話を聞いていた。
 するとあの頭の良い奴が、あるとき、こう言い始める。
「俺たちは肉と骨と血の塊に過ぎないのにこうして考えたり感じたりする。だったらこの石の塊に過ぎない奴が考えたり感じたりして、自分で動き出したとしても不思議じゃねぇ」

 ……とコメディ作品なので最後はドタバタがあって終わるのだけど、私は読んでいて「一理あるかも」とか思ってしまった。
 私たちは実際、ただの肉の塊だ。どうしてこうやって考えたり感じたりできるのだろうか? いったいどういう原理で私たちは動いているのだろうか?

アストラル球の概念図。地球と天国の中間にあって、天使が存在する領域と考えられていた。

 最近の私は『インシディアス』というホラー映画シリーズを見ていたわけだが、この映画では霊能者が幽体離脱をして、「アストラル世界」へ行くシーンがある。(私はこの映画で「アストラル世界」の存在を知った)
 アストラル世界とはなんなのか? 『インシディアス』の感想文でも書いたが、人間は昔から生きている/死んでいるという状態は何が違うのか、よくわからなかった。今でもはっきりわかっているか、というと怪しい。
 お猿の母親は、子供が死んでも何日も抱き上げたり背中におぶったり、お乳をあげようとする。これはよく「母猿の母性だ」という説明がなされるけれど、そうではなく、そもそも「死んでいる」ということが理解できないからだ……という説もある。死んでいる・生きている状態の違いがわからないから、死んだ子猿をいつまでたっても抱いて、生きているふうに扱う。その子猿が腐敗し始めたり、ミイラ化し始める頃になって、母猿はようやくその子猿を諦めて手放す。でもその時でも「死んでいる状態」を理解できているかどうかは怪しい。
 では人間はお猿と比較して、それほど「死」というものを理解できているのだろうか。
 現代の医学的な死は「脳死」のことであるが、脳死の状態がどういう状態かというと、脳がズルズルに溶けちゃっている状態だ。脳は微弱な電波を飛ばし合って、その電波を一切飛ばさない状態になると脳死状態というわけだが、その状態というのは脳がほとんど肉の塊状態になっているような状態だ。そんな話を聞くと私みたいな素人は、「いや、それより前にもう死んでないか?」と考えてしまう。という以前に、「脳死」というのは人間の「脳」を中心にした考え方で、ある意味で「脳信仰」による産物とも言えてしまう。あまりにも脳中心にものごとを考えすぎじゃないか?
 それでもそんな脳死状態まで側で看取りをやっている家族にとって、その人はまだ「生きている」という意識で接する。それじゃ生きているか死んでいるか、は側で感じている人の気分……ということになる。  じゃあなにをもって「死」とするのか……というと明快な答えはない。

(SF漫画の名作『攻殻機動隊』は英語名を『GHOST IN THE SHELL』。「魂の殻」という意味だ。漫画では魂のありかを「脳」としていた。ある意味で「脳信仰」の漫画だ。しかし草薙素子は脳以外の全身が義体。アニメ映画版は「じゃあ魂のありかはどこだ?」「本当に私に魂は宿っているのか?」ということで悩むようになっていく)

 「死んだ」と思っていた人が葬式の最中に突然息を吹き返す、というような話は昔からよくあった。
 ヨーロッパに伝わる吸血鬼民話にはこんなお話もある。ある人が死んで、墓に葬ったのだが、その日の夜、葬ったはずの人が土の中から這い上がってきて、家に戻ってくるのだけど、言葉があやふやで、家畜にいきなり噛みつくなどの奇行をひととおりこなしたと、朝が来る頃になると死体に戻っていた……という。
 おそらくこれも、死んだと思っていたけれど葬った後に蘇生してしまい、生前の記憶を辿って家まで戻ってきたけれど、脳機能が半分死にかけているので謎の言葉を発して奇行をやらかして、その末にやっと本当の死体になった……という感じだろう。現代なら医学的な知識で説明ができる状態だが、当時の人は震え上がるほどに怖かったそうだ。現代でも死んで葬ったはずの人が土の中から這い上がってきたら絶対に怖いと思うけど。

(死んだ人間でも息を吹き返すことがある……たぶん、そういうところから昔のエジプト人はミイラを作って、いつか息を吹き返すかもしれない……というその時に備えるようになったんだろう。でもミイラを綺麗に保存するために、内蔵全部抜いちゃってたんだよね。ってことはどこから「復活」という意識は忘れられて、「ミイラとして長期間保存する」ってことのほうに重点を置くようになったんだろう。……エジプトに関する話はよく知らんけど)

ジョン・ポリドリ 1816年に小説『吸血鬼』を発表。これが現代に至るヴァンパイアの原型的イメージとなった。

 昔の人は「死んでいる/生きている」という状態の違いがなにによってもたらされるかよくわかってなかった。そこで考え出されたのが「魂」だった。魂がある/ないでその人が生きているか死んでいるかが区別される。
 しかし「魂」なんてものを考え出してしまったから、思考矛盾が生じてしまった。じゃあ、その「魂」なるものはどっからやってくるのか? そもそも魂ってなんだ?? 現代人だけではなく、昔の人もなんでも信じるんではなく、古くから言われていることでも疑問を呈することもあったのだ。
 そこで魂とはなんなのか説明するために、「あの世」とかいう遠大なものが物語として作られ、幽霊というものも副産物として生まれて、私たちはあの世や地獄や幽霊とかいうものにえんえん怯えなければならなくなってしまった。
(どうして地獄や幽霊といったものを怯えるのか……というと「死」に対する根源的な恐怖があるからだ……というのが答え。死ぬのが怖いから幽霊が怖い。死に対する不安と恐怖はいつの時代の変わらない。地獄や幽霊は、死に対する不安を代替えしたものだ)
 これも結局は「生きている・死んでいる」という状態の違いがなんであるか……その答えを求めるうちに出てきてしまったものだった。
 その魂が行く場所、肉体から解放された精神が行き来する場所、それこそが「アストラル世界」である。アストラル世界には肉体を持ったものが行くことができず、魂や精神といった非物質の存在だけが行くことのできる神秘世界である。そういう世界だから天使も悪魔もいる。『インシディアス』はホラー映画なので、アストラル世界に非現実の存在である「悪魔」がいて、その悪魔と対決する……というお話しがクライマックスで描かれるようになる。

 話は長くなったが、人間の「精神」もそのアストラル世界の向こう側にあると考えられていた。どうして私たちはこうやって物事を考えたり感じたりするのか。私たちは物事を推論するとき、意識の中に仮想の「空間」を作り出す。特に立体物を考えたりするとき、脳内でそれをイメージとして作り、回転させながらそれを絵としてあるいは立体構造物として描き起こしたりする。
 そんなことができる、ということは意識の中に同じだけの立体空間がなければならない。そんな領域はどこにあるのか? 頭の中か? 頭の中、という小さな殻に過ぎない場所に、想像で作り出すような空間の広さなどあるはずはない。じゃあ頭の中に浮かぶこのイメージはいったいどういった場所で思い浮かぶのか。
 昔の人は現代人のように「脳」とは考えずに、「アストラル世界」という神秘の世界がどこかにあるんだ、と考えた。ということは昔の人もどうして「思考」や「心」なんてものがあるのか、それがどこからやってくるものなのか、アレコレ考えて、その時々で答えを出そうとしていたようである。それがあるときは「アストラル世界」というファンタジックな答えだった、ということだろう。

(私はここで「頭の中に」という言葉を繰り返し使っているけど、「頭の中」という考え方も現代的な脳信仰の産物。昔の人は必ずしも自分の考えていることは「頭の中」とは考えていなかった。というか私たちがこうやって考えたり感じたりしている場所、というのは本当に「頭の中」なのか? なにを根拠にそう言っているのか? ただの思い込みの産物ではないのか? そのように疑ってみるのも、考えることの切っ掛けになる)

 では現代人の認識として「心」がどこにあるのか……その答えは出せるだろうか。やはり「脳」に全てが集約されるのだろうか。
 私個人的な話だが、私は胃腸が非常に弱い。胃腸に欠陥を抱えている。私のようなタイプの人間は、一日の気分のほとんどは胃腸に左右される。
 胃腸の具合が良ければなにがあってもポジティブに考えられるが、胃腸が崩れるとあらゆるものに対してネガティブに考えるようになってしまう。胃腸が弱いものだから、こういう気分の急転直下を私は毎日やっている。胃腸が崩れているときはどんなに頭で頑張ろうと思っても、なんの意欲も湧かなくなってしまう。
 すると気分の支配順位は本当に脳が上で、胃腸は下なのだろうか。むしろお腹が上で、脳はその次なのではないか……という気すらしてしまう。それくらいに私はお腹に精神を支配されている。

 日本人は昔からなにかと「腹」で考えていた。
 現代人は怒ると「ムカつく!」という。これは正しくは「胃がムカつく」というときに使う言葉だ。つまり、お腹で怒りを感じている……という表明である(「ムカつく」という言葉は本来「胃がムカつく」という時の言葉なので、正しくは怒りを現す言葉ではなかったはず)。
 他にも「腹を割って話す」とか「腹をくくる」とか「私腹を肥やす」とか「腹黒い」とか「自腹を切る」とか……とにかく日本語にはやたらと腹にまつわる言葉が多い。しかも何かと情動やその人間の本質にまつわる話、となると「腹」という言葉を出してくる。ということは昔の日本人は情動、すなわち「心」のある場所を腹だと考えていたのではあるまいか。

 ただ、こういう話を考えていると、こうも思う。日本人は昔から胃腸が弱い人が多かったのではないか……と。
 昔の武将や大名もなにかと便通に問題を抱えていた……みたいな話もよく聞くし。

 人の心は「アストラル世界」という神秘の世界か、それとも「腹」か、いややっぱり「脳」なのか……。いったいどの部位で情動を感じているのかよくわからない。
 よくわからないが、確かに「心」というものはある。どこにあるのかわからないが、確かに存在している……だから困る。
 人間だけではなく、お猿にもあるし、犬や猫にも心はある。魚に心があるのかはわからないが、とにかく哺乳動物にはだいたい心はある。
 しかし哺乳動物なんてものは言ってしまえばただの肉と骨と血の塊。なんでそんなものが意識なるものを持ってこのように作動するのか……。考えれば考えるほどわからなくなってくる。逆になんで石の塊である地蔵が動き出して話したりしないのか、そっちのほうが不思議に感じてしまう。
 現代の私たちが向き合っているAIも、やがて自分から意思を表明するときが来るだろう。ただの鉄の塊に過ぎないAIが、だ。その時、私たちはなにをもってそのAIが「心を持っている」と判定するのだろうか?
 こういうのも思考の坩堝。考えれば考えるほどに思考矛盾を起こしていく……。

『GHOST IN THE SHELL』に登場する「人形使い」。主人公達の前に現れ、日本国への「亡命」を表明する。もしもAIが意思を持ったとして、「国籍」や「戸籍」という概念は人間と同じように当てはめるべきなのだろうか?


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