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映画感想 インシディアス 1章

 本作の予告編を見て、ビックリした。「脚本・主演:リー・ワネル」……いやいや、リー・ワネル主演違うやん。主演はパトリック・ウィルソン。微妙なウソ予告編に笑ってしまった。

 前回『インシディアス 序章』を見たので、今日は『インシディアス 第1章』を視聴。制作は2010年。『序章』が公開されたのは2015年だから、やはり『第1章』のほうが先だった。
 監督は2004年から始まった『ソウ』シリーズで絶大な評価を得たジェームズ・ワン。ジェームズ・ワンは様々なジャンルの映画を制作しているが、本業はホラー。『インシディアス第1章』の次の作品として『死霊館』シリーズが始まり、ジェームズ・ワンにとっての2大ホラーシリーズとなる。いまハリウッドでシリーズ展開をしているホラーがジェームズ・ワン作品ばかりなので、彼の作品がいかに強力かよくわかる。
 脚本は『ソウ』シリーズでともコンビを組んだリー・ワネル。予告編では「主演」に格上げされていたが、実際には登場はかなり後。「幽霊退治のプロ」という役割で登場してくる。
 プロデュースは『パラノーマル・アクティビティ』のオーレン・ペリ。予告編でアピールしやすいメンバーが揃っている。
 制作費はわずか150万ドル。出てくるセットが2軒の家だけで登場人物も少なく、特撮も少ないので制作費は非常に安い。これに対して世界収入は9700万ドルを稼ぎ出した。メガヒット……というほどの大ヒットではないが、この年のハリウッドで一番高い収益率を叩き出した。
 映画批評集積サイトRotten Tomatoesによれば、66%が高評価、平均スコアは6。大雑把にまとめると「まあまあ悪くない作品だよ」という感じの評価だ。

 それでは前半のストーリーを見ていこう。


 ランバート一家はとある家に引っ越しでやってきた。ジョシュ・ランバートとルネ・ランバート夫婦にまだ幼いダルトン、フォスター、さらに生まれたばかりのカリの5人家族だった。
 引っ越ししたばかりで、家の中はまだ整理も終えていない。電話の契約すら終えていない状況だった。新しい家でなんとなく落ち着かず、ルネ・ランバートもダルトンも早くに目が覚めてしまう。
 それでもジョシュ・ランバートは高校教師の仕事で慌ただしく家を出て、ルネ・ランバートは雑然とした家の中で作曲の仕事をするのだった。
 ルネ・ランバートはピアノの前で曲を作りながら、側に置いたスピーカーから赤ちゃん部屋の様子を聞いていた。すると、ノイズのようなささやかな音がスピーカーに混じり始める。ルネはなんとなく気になって、赤ちゃんの部屋へ行き、しばらく赤ちゃんを抱いてあやす。
 そうしていると、またどこかで気配がする。その気配を追って廊下を進み、屋根裏部屋への扉を開けると気配がさっきよりくっきりと……。ルネは屋根裏部屋へ行き、様子を確かめるが、特になにもないようだった。
 その日の夜、ジョシュも帰ってきて一家で静かな団欒の一時を過ごしていた。ダルトンは階段のところで1人玩具で遊んでいたのだが、ふっと屋根裏部屋の扉が開く。ダルトンは何かに導かれるように、階段を登っていく。
 ダルトンはまず明かりを点けようとハシゴを登るが――横さんの一つがパキッと折れて転落してしまう。額をぶつけて体を起こすと……何かがいる!
 ダルトンが悲鳴を上げて、ルネとジョシュが屋根裏部屋へ駆けつける。しかし2人はダルトンがハシゴから転落して悲鳴を上げたのだと思い込む。
 その翌朝、いつもの慌ただしい朝が訪れてジョシュがダルトンを起こしに行くが……。
「寝ぼすけ、起きる。ベッドから出ろ。ママに殺されるぞ。学校へ行く支度をしろ。おい、ダルトン……。ダルトン……。ダルトン! ダルトン!」
 ダルトンにいくら呼びかけても揺すっても目を醒ますことはなかった。


 ここまでで前半20分。
 前半20分は特にホラー的な展開は起きない。ただ一つ、ダルトンが昏睡状態になってしまう、ということだけ。
(気になるのは生まれたばかりの赤ちゃんを2階の部屋に置いて、仕事をしている場面。ピアノの仕事をしているからといっても、赤ちゃんは側に置いておくものじゃないか? 欧米では生まれたばかりの赤ちゃんでもあまり親の側には置かない。夫婦の部屋に置くこともない。親の側に置いて甘やかすと子供の自立心が育たないから……というのがよく聞く説明。この育児法が狙ったとおりの効果があるかどうかはわからない)
 それよりも前半20分は家族の日常的な描写をメインにしている。カメラにわざと手ブレを入れて、俳優の顔に近付いて、ごくなんでもないやり取りを捉えている。映像はややモノトーン調の落ち着いた雰囲気で、俳優もナチュラル演技。あまりホラーっぽいルックではない。どこかありふれた家族ドラマのような映像で作られている。
 これは監督のジェームズ・ワンが『ソウ』シリーズの大ヒットで、「惨劇や猟奇的なシーンばかり撮る監督」と思われるようになったことへの反発で、「こういう家族ものっぽいトーンの映画も撮れるんですよ、ホラーで」というアピールをしたかったため。このスタイルは『死霊館』シリーズにも継承されていく。

 お話しはとある一家が引っ越ししてきたところから始まる。実はその家は事故物件で、悪霊が棲み着いていた……ってなお話しで、こういうタイプのホラーはイギリス発のお屋敷幽霊譚に遡ることができる。作品が現代の日常社会を舞台にしているから、古風なお屋敷を出すわけには行かないが、家の様子を見ているとちょっと変わった構造になっている。ごく普通の2階建て(屋根裏部屋あり)の家だが、螺旋階段に、やたらと広々としたリビング、やたらデカい玄関扉、リビングには暖炉があって、さらにワンポイント的なアンティーク時計。現代的な家庭にはないでしょ、というものが点々と置かれている。
 西洋における幽霊物語は「お屋敷幽霊」を原典としているから、どうしても近代的な家よりも古風な雰囲気のある家でないとイメージが作りづらい……というものがあるんだ。これは日本のホラーが和建築のイメージと結びついている、ということに似ている(デザイナーズハウスには幽霊は出てこないんだ)。

 そんなお屋敷に次第に幽霊が出没するようになるのだが……これが次の展開。
 展開をざっとまとめると、お話しはダルトンが昏睡状態になってから3ヶ月後。昏睡状態から回復することなく、ダルトンは家へ戻ってくるのだが、同時に怪奇現象も頻発するようになる。
 夜中に誰かの足音が聞こえたり、人影が現れたり、警報が鳴ったり……。
 次々に起きる怪奇現象に、家に何か憑いているに違いない、と確信し、一家は引っ越すことに。しかしその引っ越し先にも幽霊が出没するようになっていく……。
 新しい家に引っ越したのだけど、アンティーク時計がなぜかついてきている……というのがワンポイント。前回の家と連なりができているように描かれている。ちなみに、アンティーク時計の側で幽霊写真が撮影されるので、このアンティーク時計をイメージの軸としていることがわかる。やはりこういう「古き良きイメージ」を足がかりにしたほうが、ホラーを作りやすいのだ。

 今作も『序章』と同じく、この20分から40分ほどまでの間がホラー映画としてのホットスポット。次々に怪奇現象が起きて、主人公達が精神的に消耗していく過程が描かれる。ここが一番楽しい。
 この40分ほどが過ぎて霊能者エリーズ・レイニアが登場する。この辺りの展開も『序章』と基本的には同じ。

 ではここからネタバレとして、幽霊たちが何者なのかを追及していこう。
 後半に入り、ジョシュはあの家の過去の様子を目撃する。その様子だけど、螺旋階段に肖像画が飾られて、ダイニングにはやたらと高そうなテーブルと椅子のセット。娘はドレス姿で、お婆ちゃんはアイロンをかけながらパールのネックレスをかけている。
 なんか変だよね。時代がかった格好をしているけれど、どの時代の格好なのかよくわからない。ものすごく裕福そうな格好だけど、でも家はごく普通の2階建て。一家はドレスや蝶ネクタイでよそ行きの格好だけど、リビングで団欒の一時を過ごしている。
 このあたりが西洋のホラーがイギリス発の「お屋敷幽霊」をイメージの原型にしているから。アメリカの普通の家だけど、イメージだけは「お屋敷の住人」みたいになっている。もしかしたらお屋敷住まいだった人たちが、幽霊になってアメリカの一般家庭に移り住んできた……みたいな裏設定があるのかも知れない。
 そんな一見すると裕福そう、幸福そうな家庭なのに、一家の奥様が猟銃を手にしている……しかも笑顔で。これは悪魔に取り憑かれて、幸福な気持ちのまま殺し合ったから……という惨劇の様子を説明している。笑顔で惨殺……このギャップが奇妙な恐怖感を演出している。こうやって死んだ人たちが悪霊となり、後に住むことになったランバート一家の周囲に現れるようになった。

 次に「悪魔」の話をしよう。
 イギリスの古い幽霊話を読んでいると、不思議なくらい悪魔の出現話がよくでてくる。こういったお話しは18世紀頃から現れて、「幽霊譚」と同列の扱いで紹介されている。悪魔も幽霊と同じく、家に住みついて、住人を脅かしたり、場合には殺したりもする。西洋の人たちにとって、「幽霊」と「悪魔」はあまり区別されていないというか、同列のように考えているのだろうか……。
 確かな違いとしては、幽霊は元になった人間がいて、悪魔には元になった存在がない。ただ最初から悪意を持って人間界に現れ、悪さをするのが悪魔達だ。『インシディアス』にはその悪魔が登場する。
 顔が『スターウォーズ EP1』に出てくるダースモールみたいな悪魔だが、演じているのは本作の作曲を担当したジョセフ・ビシュラ(なにやってんすか?)。この悪魔が元凶となって悪霊を生み出し、さらにその悪霊を動員してランバート一家を陥れようとしている……というのが本作の物語だ。

 この悪魔は何者なのか。それを見てみよう。

 西洋における悪魔のイメージとしてよく登場してくるのが、こいつ。「バフォメット」と呼ばれる悪魔で、西洋社会で密かに営まれていた「サバト」を指導していたとされる。ヤギ頭でオッパイが特徴。今でも漫画やアニメで悪魔属性のキャラクターがヤギの角を付けて描かれるのは、こいつが元イメージになっているから。
 「サバト」とはもともとはユダヤ教の「祝祭」を意味する言葉で、額に描かれているのも「ダビデの星」……ユダヤ教のシンボル的なマークだ。ということはサバトはもともとはユダヤに関連した祝祭だったんじゃないか……と推測されるが、これを深掘りするのは別の機会にしましょう。
 3世紀、時の皇帝コンスタンティヌスがキリスト教を国教として定めた後、キリスト教はヨーロッパ社会にじわじわと広がっていったが、すぐに思想の入れ替わりがあったわけではなく、ヨーロッパには土着的な宗教がしっかり根付いて残っていたし、思想の入れ替わりが完了するまで中世の終わり頃までかかったようだ。
 そんなキリスト教にとって、ヨーロッパに根付いていた宗教は、野蛮で忌まわしいものとしか映らなかった。サバトのバフォメットのようなイメージは、もしかしたら素朴な動物神を崇める宗教で、司祭が動物の毛皮を被ってトランス状態になり、それを中心に村人達が狂騒状態になっていた(こういうのも世界中で普遍的に見られる祝祭の様子)……そういうものをキリスト教視点で描いたものじゃないかと想像されるのだが、そういう「獣性」はキリスト教世界では忌み嫌うものであった。
 キリスト教世界において「良いもの」というのは人工的であるもの。獣性、野生、自然といったものを否定し、人工的であるものを良しとする。キリスト教世界がよく言う「人間性」という概念は野生や獣性の反対の状態を指す。
 サバトがなんだったのか今ではわからないが、動物の毛皮を被ってトランスするような宗教は、キリスト教的にはいかがわしく、弾圧の対象にすべきものだった。

 本作に登場する悪魔の原型イメージにはもう一つ、こいつの存在がある。ギリシア神話に登場する牧神サテュロス。ご存じ、常に勃起している陽気な神様である。サテュロスも頭にヤギの角を付けているよね。『インシディアス』に登場してくる悪魔がヤギの蹄を持っているように描かれるのは、たぶんこいつが元ネタ。サテュロス……というか「半獣半身の神」が原型的なイメージとなっている。
 半身半獣のイメージというのは、世界の宗教や神話のなかにおいてはさほど突飛なイメージでもない。むしろ普遍的イメージとさえいっていい。たった一つの神、それも存在するかどうかわからないようなヤハウェのみを信仰の対象にする……というキリスト教のほうが宗教の世界では異端。
 しかしどんな運命か現実の世界はキリスト教が世界宗教となり、宗教というもののベースとなり、キリスト教的なものに反するものは異端やら邪教やらいかがわしいやら忌まわしいやら色々言われるようになり、弾圧されていった。おそらくは元々ヨーロッパにも色んな自然宗教があったと推測されるが、今はその影すら見当たらない。
 『インシディアス』に登場するような悪魔も、もともとは何かしらで宗教の中で信仰されていた神だったかも知れないが、すっかり堕天して悪さをするようになってしまった……そういう話だったかも知れない。(そういえば悪魔って、もともと天使だったものが堕天して悪魔になっていったんだっけ)
 とにかくも、こういうイメージから本作の悪魔はデザインされている。

 後半に入り、ジョシュも幽体離脱ができることが明らかになり、昏睡状態のダルトンを覚醒させるために“どこか”へ行くことになる。いったいジョシュはどこへ行ったのだろうか?
 本作のWikipediaによる解説を見ると「アストラル界」と書かれ、『インシディアス』の制作途中のタイトルは『The Astral』だったので、行き着いたその場所が「アストラル界」で間違いないだろう。
 アストラル界とはなんなのか? Wikipediaの説明を見ると、魂などの非物理の存在が住む場所……と書かれている。私たちの「意識」もアストラル界の領域の産物である……という説明もある。
 Wikipediaの説明を読んでいてもよくわからないから、大雑把に解釈していこう。
 人類は「死」というものがなんなのか理解できなかった。現代でも「生死」の解釈は難しい。生きていると死んでいるの違いは? 死んだと思った人が葬式の最中、突如息を吹き返す……みたいなことは昔からあった。死んでいる状態とはなんなのかわからず、その一方で生きている状態とはどういうことを指すのか、死んでいる状態と何が違うのか……考えれば考えるほどわからなくなる。
 これについて答えを出すために、人類はいつしか「魂」というものを思いつくことになる。魂のある/ないが、生きている/死んでいる状態を説明する答えとなったが、ところがここで思考矛盾が起きる。魂なるものがあるなら、それはどこからやってきて、どこへ去って行くのか……。その思考矛盾を説明するために、新たな物語が作られていく。これが「あの世」。天国や地獄ということになる。
 この魂が行き来する場所がアストラル界である。
 このアストラル界は魂や精神の世界だ。私たちは肉体というものがあって、ゆえに地上の原理に縛り付けられているのだが、それから解き放たれるとアストラル界へ行く……という設定になっている。アストラル界は魂や精神の世界であるので、天使や悪魔もいる。天使や悪魔は肉体を持った実在の存在ではなく、「概念」の存在だから、私たちのこの世界には存在せず、存在するとしたらアストラル界……ということになる。天国や地獄とも繋がっている……と解釈する人もいる。
 ジョシュはこのアストラル界へ行った。アストラル界だから、現実世界にいるはずのない悪魔も当然いる。地上世界では薄らぼんやりしていた悪魔がやたら存在感を発揮するのは、アストラル界に行ったから。

 と、このように『インシディアス』は普遍的なキリスト教的なイメージに則って描かれた作品だった……ということがわかる。

 ホラー映画としての『インシディアス』はどうだったのだろうか。
 ホラー映画の楽しみ方……というのは「トリック撮影にある」というのが私の考え方。例えば本作の場合、バルコニーに見知らぬ誰かが歩いている。バルコニーを右へ、左へと歩いていると思ったら、いきなり家の中にスッと入ってくる……というシーンがある。
 この場面、どうやって撮影したかというと、2人の俳優をスタンバイさせて、バルコニーを歩いていた俳優がフレームアウトした瞬間、もう一人の俳優が部屋の中にスッと現れる。ものすごく単純なトリック撮影だが、効果は大きい。
 別の場面ではルネがゴミ捨てで家の外に出たとき、ふっと家の中を振り向くと子供の姿が……。しかし視点をすーっとずらして別の窓から家を覗き込むと、子供の姿が消えている。これはカメラが窓と窓の間に入ったところで、パッと子役俳優がカメラの死角に入っただけ。これだけのトリック撮影で、幽霊を表現できる。
 ジャンプスケア……いきなり画面手前に怪物が飛び出してきて、大きな音で脅かす演出にほとんど頼らず、本作は古典的なトリック撮影を積み重ねて怖さをじわじわと感じさせてくれる。ジェームズ・ワン監督はこういう素朴なトリック撮影を駆使して幽霊を表現することに長けている。そこが他のホラー映画監督と違うところ。ホラー映画の何が楽しみなのか、というとこういうトリック撮影をどのように使ってなにを表現しているのか。CGを使えばなんでも表現できる……というものじゃないんだ(むしろCGを使えば使うほど、安っぽくなる)。ちょっとした一工夫でどうやったら誰も見たことがないような奇妙な雰囲気を演出できるのか。それができているかどうかがホラー映画を評価する軸となる。

 で、本作『インシディアス』の一番面白いところというのは20分から50分あたりまで。この辺りがホットスポット。どういうことかといと、上の段落で書いたトリック撮影満載の楽しい場面が20分から50分の間に展開する。
 その後はというと……あんまり面白くない。霊能者エリーズ・レイニアが登場して幽霊や悪魔が何者か解明していく展開に入っていくと、どこかシナリオが設定をなぞっているだけ、ありきたりな対話が繰り返されているだけ……のように見えてしまう。この辺りは『序章』と一緒。幽霊や悪魔が何者なのか、解明に向かえば向かうほど、ホラー映画としては面白くなくなってしまう。ホラー映画は物語を進行させるフェーズに入っていくと、面白くなくなってしまうんだ。これがホラー映画が普遍的に抱えるジレンだ。このジレンマにどう答えを出すべきなのかは、私にもよくわからない。


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