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忘れたらいけない事~全能感と自信のバランス~



少し遡り、9月末、仕事中の事でした。
つい実家の両親に会いに行く事を考えていて、以前親戚の大叔母から、ご両親を癒してあげて、と言われた気がした事を思い出しました。
その時。
わ...、そうそう、そうだった、私、大叔母に言われていた...! と思い出せた事が嬉しくて、思い出せた自分を一瞬凄いと思い、その瞬間根拠なく、何か今なら何でも出来るような大きな気持ち、そんな感覚を感じました。
何だろう...?と思い、同時に、何か違和感を感じました。


次の瞬間、ふわっ と急に身体が宙に浮いたような感覚になって驚き、足元は平坦な場所なのにふらつきよろけて転びそうになりました。
何?!と思いました。
まわりの他の人は普通に変わりなく立っていました。地面が揺れた訳じゃない、私1人がふらついている、と思いました。
平静にと自分を落ち着けました。ふらつきは感じつつも、すぐに普通に立てるようになりました。
さっき一瞬、自分は何でも出来るような大きな気持ちになったからだと思いました。
いけない、危ない。これは危険な感覚だと思いました。私が幼少期の体験で身に着けていた警戒心が反応しました。
何となく、自分が自分ではなくなる感じ。一瞬のうちに、心が自分の外へ持って行かれてしまうように感じました。
おかしい...いつもの自分と違う... ...この感覚は、気をつける時。思い違いをしたらいけない時。
私は何でも知ってる訳じゃない。むしろ何も知らないし、何でも出来る訳じゃない。私はそんな力は持っていない。そこを間違ったらいけない、と思いました。

考え感じ続けたら、仕事中の事故に繋がると思って振り切りました。
息を吐いて、必死に目の前の仕事に集中しました。
帰宅時も浮いたような体感覚は続いていて、このままでは交通事故をしてしまうと思いました。水分を摂り、気持ちを落ち着けてから運転しました。

感じたのは、全能感(万能感)という感覚と、それを感じた事による高揚感だったのでは...?と思いました。


この頃も自分の内側と向き合っている最中でした。自然治癒力かはわかりませんが、何となくこの頃は心が自浄作用のような動きをしている感覚を感じていました。
全能感は、多くは幼い頃の発達段階に体験するもの、と調べた記事に載っていました。
心と向き合っている時、それまでに作られた心の捻れをとる為に、心が捻れと逆方向へ動いていくのではないかと思いました。
捻ったタオルの巻きをとる時に反対方向へ回すように、瓶の蓋を開ける時に反対方向へ回して蓋が開くように、自分の心も、元に戻ろうとする時、開けようとする時、心が無意識に自動的に過去へ(今ここ現時点から逆方向へ)遡り、自分の幼少期の頃に戻っていくのかもしれない。
その途中で、幼児期に感じる全能感を味わうタイミングがあるのかもしれない、と思いました。
心が無意識に古い記憶を辿って戻って、全能感を感じる地点があって、私は今日はそこを通過した時だったのかもしれないと思いました。
その地点は、自分は何でも知っている、何でも出来る、というような気持ちを感じてしまう、ある種要注意な場所。
その別れ道で、本当の自分ではない方へ行ってしまったらいけないという事だと感じました。
心は一瞬の思い違いで浮き上がり、現実とは逸れて違う所に行ってしまいそうになる。
決して自分を過信したらいけない、という事だと思いました。
(あくまでも私の体験からの推測です。申し訳ありません。)

いい意味での全能感は、自分を信じて歩もうとする時、自分に自信を持って何かに取り組む時、自分には出来るやってみようという前向きな気持ちを持つように適正に感じる場合、大切なものでもあると思います。
でも極端な感じ方をして思い込みをしてしまうと、それは心、自分の軸が傾いてしまうという事なのではないかと思いました。
気持ちを、自分の軸を、しっかり持っていないと、一瞬にして自分以外の何かに持って行かれかけ傾いてしまう。
行きかけた場合、気づいてすぐに戻って修正しないと、バランスを崩してしまう。
この時の出来事で、心はこんなにも簡単に揺さぶられて浮いてしまうんだと思いました。
心は一瞬にして囚われる。
思い込みに気づき解けるのも一瞬ですが、また囚われるのも一瞬なんだと思いました。
気をつけないといけないと実感しました。


私に、何かを信じても、その自分以外の信じる物事に傾き過ぎてはいけないと、身をもって私に教えてくれていたのは実の父親でした。
父親から、自分以外の何物(者)かに傾き過ぎて自分の心を明け渡してしまう事が、他者(私や妹)に影響を及ぼして、悲しく残念な結果を招くというネガティブな一面を学びました。
私はもう心を自分以外の何かに囚われるのは嫌でした。
今、私がそう思えているのは、父親のおかげでした。
この体験から2ヶ月少し経過した最近になり、今まで長い年月出来なかった、もう一面のポジティブな見方が出来るようになりました。
父親からの育てられ方によって、私は慎重で警戒心を持つ事になりました。
その育てられ方の影響による自我(エゴ)によって、本当に今までの半生、大変な生きづらさを感じて苦しみ、苦労もしました。
でも、社会に出てから、私が身に着けていた慎重さや警戒心があったが故に、私は様々な物事や人間関係等から守ってもらってきた側面があるとも言えました。
まだ今現在、この見方は消化している途中のようにも思います。
9月末の体験の時も気をつけなければと気づいた事で、私は自分の心を見失わずに済み、父親に守られたと思いましたし、今も守ってもらっているという事を感じています。

もう、心を何にも囚われない事。
もしも囚われるとしたら、自分を知り続けて自分を信じるという事だけだと。(信じる≠過信)
いつもニュートラルな自分で居て、自分の機嫌は自分でとって、自分を幸せにするのは自分、という事だけだと思いました。

自分に自信を持つ事は、自分の内側、心が静かに落ち着き安定していて、どんな自分でも自分が受け入れるという安心感がある感じ。
根拠のない全能感はそうではない気がします。
難しいですが、そのバランスを適正にとる事がとても大事だと思いました。


自分の中で、大切にして、決して忘れないでいようと思う事です。
いつ、どんな瞬間に心を失いそうになる時が来るかもしれないと思うので、時々読み返せるように、自戒の意味を込めて書きました。
自分を信じる。でも決して過信はしない事。
自分の気質、特性を知って理解して受容して、自分の技量、能力、器を正しく理解して受け入れて、心の声(本音本心)を大切に聴いて、真摯に生きていかなくてはと思いました。


ご縁や導きがあるという事。目に見えない物事や気持ちがあってそれに気づくという事。守ってもらっている事。純粋に信じて、心から感謝する事。
ただ自分が偏る程にその事に支配はされない、囚われないという事。バランスを保つ事。
自分をしっかり持って、地に足をつけて、ただただニュートラルに生きる事を楽しむ事。
まわりの人に優しい気持ちで接する事。
書いていて、私自身そうは出来ていないです。
そんなふうに思えて生きられる日もあれば、そんなふうに思えない日もあります。いろんな日があって、いろんな時があって、どんな日も、どんな時も、それでいいんだと思います。そのまんまでいいんだと思います。
それに、生き方や考え方は個々それぞれ千差万別で、正解も不正解もなくて、良いも悪いもなくて、平等に自由で、すべて大切に尊重されるものですね。
いつか私は、本来の私(生まれた後の元々の私。何も思い込みをしていない状態の私。)の心に戻って、何も無理をしないで、その心に素直に従って生きる事が出来たら...と思います。




最後までお読み頂き、ありがとうございました。






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