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恐れの気持ちに向き合う事③~生きてても迷惑掛けない。生きててもいい~



そう考えながら、感じた時、不意に自分の中から何かが込み上げて、涙が溢れてきました。
急に自分の中から込み上げたものと、涙が溢れた事に自分で驚きました。
...え?... ...どうして?.......
そう思いながら、
...私、生きてていいんだ...
...私、ここで、生きてていいんだ... ...と、泣きながら言っていました。
ありがとうございます... と、そう感じて手を合わせ、繰り返し、感謝の言葉しかありませんでした。
はらはらと涙が流れて心が震えました。
実際に自分の心臓が、鼓動と共に大きく震え続けた感覚がしました。


マイペースでですが、自分と向き合い、自分の色々な思い込みに気づく事が出来て、1つ1つ偏りを修正し、大切な事に、気づき直し、捉え直して来ていました。
人は、誰もがありのままの自分で生きていい。
無力な人、無価値な人なんて、誰1人居ない。
誰もが、存在しているだけで素晴らしい。
だから私もそう。ありのままの私で生きてていい。
そのままで、無力でも、無価値でもない。
ありのままの私で、私は私のままで、生きていい。
今まで続けてきた自分との向き合いで、もうこの事が、腑に落ちていました。


私にとって、死活問題だった体調不良になってしまう事。それはお互い様。
迷惑を掛けると思い過ぎなくていい、と理解が出来たら、
→頼ってもいい
→助けてもらったらいい
→感謝したらいい
→私もお返ししたらいい
→私も誰かの力になれるし、もう力になれている
→私は無力でも無価値でもない
→ここに居て、ここの一員として生きてていい
→私は生きていてもいいんだ... ... と。
私は今までの思い込み、捉え方すべてが反転して、
繋がって理解出来、再度腑に落ちて、心に深く響きました。
理屈で理解するよりも先に、私の内側で気づきが起きて涙が溢れたようでした。


心の奥に、まだ深い部分があったんだと思いました。
色々な思い込みは、細かな気持ちと共に密接に繋がり合って、作用し合っているんだと思いました。
私の心の奥の深く重い闇のような気持ちは、長い年月の間に、もう私の一部になっていて、目に見えなくて、すぐには気づけない、当たり前の事のようになっていました。
流した涙と共に、その闇のような思い込みが溶けだしていくようでした。


私が両親から受けた育て方や、与えられた生育環境は、残念ながら、
ありのままの私で生きるなと、
ありのままの私で生きたらダメだと、私に強く思い込ませるものでした。
せっかく命を繋いでもらい、生まれて来て、そんな不条理な事はないと思いました。出来てしまった心の傷は、丁寧に、丁寧に、治す必要がありました。


私が心の中に作った傷、思い込みは、いつも極端で、とても強いものだったように思います。
感情の層が薄い玉ねぎの皮に例えられるように、私の思い込みを書き換えるには、本当に1枚1枚、薄い皮を優しく扱うように、1つ1つ細かく自分に伝える必要がありました。
体調不良は、
→もう、怖がらなくていい、迷惑掛けない
→出来ない事は、出来ないと言っていい
→いつも完璧に出来なくたっていい。補い合い
→何かが出来なくても、無力でも無価値でもない
→人にはそれぞれ出来る事、出来ない事がある
→得手不得手だってある
→私は私のままで生きていていい
→生きてても、迷惑掛けない
→私は私のままで、ありのままで、生きてていい
→私は、頑張らなくても、生きていていい
→自己犠牲しなくても、生きてていい
→私は無条件に、生きていてもいい
→私はここで、私に出来るやり方で、私が好きな生き方で、生きていい。そうしていい。
→そう出来る事に感謝しよう
そう思い、優しくそう伝えました。



途中で、生きてても迷惑掛けない、と自分に言い聞かせたという事は、私は「生きていたら迷惑を掛ける」とも思い込んでいたという事でした。

「生きていたら迷惑を掛ける。
私の存在が迷惑を掛ける。
私が動いたら迷惑を掛ける。
私が自由に動いたら、家族やまわりの人に迷惑を掛ける。
体調不良になるから、私は自由に動いたらいけない。
もう、体調不良にならないように、迷惑を掛けないように、私は自由に動く事をやめよう。
動きを制限しよう。」

これは、過去に作った思い込みの上に、前職退職後、動けなくなった時、家族の為に何も出来なくなった時、その状態から回復していく時、強く思い込んだと思います。
それが、その後少しずつ回復して動けるようになって、そして自分と向き合い、心が回復するに伴って、その思い込みは徐々に解かれていき、
今回の気づき(この記事の①~③)で深く腑に落ちて、解けていったと思いました。
その時・その後の体験と、その時・その後の感情の変遷、それぞれを経て、捉え方が、前向きなものになりました。


その後、気持ちは軽くなっていきました。
まわりを信じて、そう信じる自分を信じて、気持ちを楽に、気負わずに、動いてみたらいいのでは...?やってみたらいいのでは...?と思いました。
私の場合は、慣れた場所(職場)で、安心感を感じながら、慣れない事(新しい働き方)にトライしてみる事。
もしもまた失敗しても、体調を治して、復帰したらいい。もう、気にし過ぎる事をやめよう。
再度の面談時には、上司と前向きな話しをしてみようと。
提示された事があるなら、可能な範囲でその働き方を受け入れてみよう。と思いました。
もちろん無理はしない範囲で。適正なバランスで。


心持ちが少し変わると、動く為に可能な方法を探そうと、出来る工夫をしてみようという思いになりました。
自分の天井を自分で決めつけない。
年齢は関係ない。誰でも、いつからでも同じ。そう思いました。
がむしゃらに動くとか、無茶をするという事ではなくて、心持ちの、紙一重の違い。
無理はしないけど、今まで出来ないと思って最初から諦めていた事を、やってみよう、と思っただけです。
私に出来るのは、この位の些細な違い、小さな変化。小さなステップかもしれませんが、まずはそこから、と思いました。
そう思って、もしもその機会が本当に目の前に訪れたら、実際にやってみるだけ。そうしよう。
それが、素直な気持ちでした。
心の中が、静かに熱くなりました。ずっと忘れていたような、情熱を感じました。


私は以前と同じ展開を思い描き、また、自分が生きる事を自分で否定する気持ちになる事を怖がっていました。築いた人間関係が、また、失われる事を怖がっていました。
でも、当たり前の事と言われている事に気づき直して来て、今後は心のバランスを保つように努めて、正直に、素直に表現すれば、もう怖くない。大丈夫だと、そう思えて、今までとは少し変化した展開がイメージ出来ました。
そのイメージを信じさせてくれたのは今ある人間関係、まわりの環境。向き合いを続けて取り戻して来た私の心。
目に見えても、見えなくても、今の私を支えてくれた、くれている、全ての繋がりのお陰でした。



幾億光年/Omoinotake




最後までお読み頂き、ありがとうございました。






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