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映画「生きる LIVING」を観て黒澤明とカズオ・イシグロに学んだ「他者の評価を気にしない」潔い生き方。

カズオ イシグロ meets 黒澤明

そこから生まれる「命の使い方」を私は知りたかった。

【作品概要】

黒澤明監督の名作映画「生きる」を、ノーベル賞作家カズオ・イシグロの脚本によりイギリスでリメイクしたヒューマンドラマ。

時代背景は、1953年、第2次世界大戦後のロンドン。

仕事一筋に生きてきた公務員ウィリアムズは、自分の人生を空虚で無意味なものと感じていた。

そんなある日、彼はガンに冒されていることがわかり、医師から余命半年と宣告される。

手遅れになる前に充実した人生を手に入れたいと考えたウィリアムズは、仕事を放棄し、海辺のリゾート地で酒を飲んで馬鹿騒ぎするも満たされない。

ロンドンへ戻った彼はかつての部下マーガレットと再会し、バイタリティに溢れる彼女と過ごす中で、自分も新しい一歩を踏み出すことを決意する。

彼は、限られた命の中で、いったい何を見出したのだろうか。

「ラブ・アクチュアリー」などの名優ビル・ナイが主演を務めた。

【作品感想】

映画「生きる LIVING」を観て人生を考えてみた~黒澤明とカズオ・イシグロに学んだ「他者の評価を気にしない」生き方。

余命半年の男が、死を強烈に意識し、生の意義を真剣に問う。

これほど明確なコンセプトに言葉を付け加える必要があろうか。

ただ、このコンセプトを心において、劇場に足を運んでほしい。

映画を観ている2時間という時間。

あなたはきっと、その時間、ずっと頭を巡らせて考えることになる。

「もし自身が余命半年ならば、命をどう使うだろうか」

普段は考えることもない、この問いを自身に問い続けられることこそが

この映画の意義でもあり、この映画がくれる贅沢な時間とも言える。

それだけ私たちは普段、生活に、日常に、SNSに、脳と心を占拠され、

雑然と彷徨う思考の中、命の有限性と価値について向き合うのが難しいからだ。

私はこの映画を観ながら、脳が整理されていく不思議な感覚を抱いた。

観ている間ずっと「どうしたら悔い無き人生を送れるのか」頭を巡らした。

映画が終わった。劇場を出た後、外は快晴だった。

映画館が入っているショッピングモールの周囲には広場があり、

家族連れやカップルたちが楽しそうに過ごしていた。

私はなぜかその光景を収めたくなり、写真を1枚撮った。

2023年4月1日に見た映画「生きる LIVING」とこの光景が結びつくように。

私はその光景を見ながら「命の意義」をぼんやり考えていた。

今まで無為に過ごしてきた時間が頭に浮かんだ。

幸せを感じていた家族との時間が頭に浮かんだ。

成功に執着してもしきれなかった過去を思った。

何かに追われている焦燥感があることに気づいた。

人生はそんなに長くないということを切に感じた。

しばらくすると、ひとつの答えに行き当たった。

それは黒澤明とカズオイシグロの共通する人生の指針だった。

この映画は、1952年に公開された黒澤明の「生きる」のリメイクだ。

私は20年前に会社を辞めて、映画の専門学校に入学したのだが自分への入学祝いに「黒澤明全集」(脚本集)と黒澤明監督全30作品のDVDを購入した。

その中で一番、私の人生に影響を与えたのが「生きる」だった。

黒澤明監督がこの映画を世に送り出したのは、彼が42歳の時。

私は当時28歳だった。

その強烈な命へのメッセージ性に心揺さぶられ、映画の人生に与える影響の強さをひしひしと感じた。

それから20年の月日が流れて、私は48歳になった。

気づくと黒澤明が「生きる」を製作した年齢をとうに過ぎていた。

そして、あの時感じた「情熱」のようなものが今は失われていることに気づいた。

ノーベル賞作家のイシグロカズオが脚本まで書くと聴き、当初、私は意外に思った。

小説「日の名残り」や「わたしを離さないで」などで知られるカズオ・イシグロは小説家の中でも「抑制の効いた繊細な物語性」で知られている。

だから「用心棒」や「七人の侍」で知られる黒澤明のような「力強く威風堂々とした作風」とは相反するように思えた。

「東京物語」の小津安二郎や「浮雲」の成瀬巳喜男の方がカズオ・イシグロの世界観に近いのではないかと思った。

しかし、これは杞憂に過ぎなかった。

黒澤明の「生きる」の物語の構成はしっかり受け継いで、尚且つ、戦後の日本→イギリスへの舞台転換が驚くほどうまくいってた。

作品としても新鮮さを感じつつ、テーマの力強さは失われていなかった。

また、日本とイギリスの文化性、思想性の近さも改めて感じることになった。

「自身の感情や言動を人前では露骨には出さない」国民性も共通のものだ。

来月に次男が1か月ほど、ロンドンに住んでいる妻の姉夫婦(夫がイギリス人)を訪れるのだけど、両国の近似性も感じてきてほしいと思った。

カズオ・イシグロは1954年に長崎で生まれ、5歳の時に両親とイギリスに移住した。2017年にノーベル文学賞を受賞した小説家だが、黒澤明の名作を英国を舞台に翻案する人間としてこれほどふさわしい人はいなかった、とこの映画を観て感じた。

カズオ・イシグロはインタビューで「この映画が伝える、一生懸命に努力をしたとしても、周りがそれを賞賛したり、認めることをモティベーションにしてはいけないというメッセージに、私は成長過程において影響を受けてきた」と語っている。

そして、彼は黒澤明映画に共通する「他者の目を気にしない潔さ」に強く共鳴したという。

例えば黒澤明の代表作品とも言える「七人の侍」では、最後に生き残った三人の侍は、農民のために命懸けで戦ったのに、彼らから忘れ去られて、あまり感謝されない。だからラストの三人は少し寂しそうに見える。

でも彼らの中には「自分たちは正しいことをしたんだ」という充足感が感じられる。

黒澤明の「生きる」でも同様で、市役所の課長の主人公の渡辺勘治は、余命半年と気づき絶望に明け暮れた末に、ある時目覚め、市役所の課長として漫然と過ごし無視してきた市民念願の公園建設に心血を注いで死んでいくのだけれど(「生きる LIVING」でも同様)彼の動機は「他者からの評価」では全く無かった。

彼は「自分の外側にある世界から褒められたり、賛辞を得たいから」公園をつくったのではなかった。

彼がやったことは素晴らしくても、その業績は認められなかったり、すぐに忘れられていくかもしれない。

でも彼自身は「自分は正しいことを、非常にきちんといい形でやったんだ」
という達成感に満ちながら亡くなっていく。

凍えるような冬の寒い日。

雪降る中で幸せそうに、完成した公園でブランコに乗りながら「♪ いのち短し、恋せよ乙女 赤き唇 褪せぬ間に……(ゴンドラの唄)」と歌い、そして命を閉じる。

自分の中にある、ささやかな、満足感。達成感。充足感。

それはもうまもなく命が終わると知った時、今まで絡めとられてきた「他者の思惑や評価」や「世間の常識」や「雑多な情報」から解き放たれ、

ピュアで、シンプルで、心にそっと寄り添う、自分の心の中だけの充足。

それを感じられた時に、真の幸福感がそこにあるのではないだろうか。

黒澤明とカズオ・イシグロの「他者視点から脱した潔い自己完結感」

これこそが限られた命の中で、心の灯を照らし続ける指針になるのではないだろうか。

黒澤やイシグロにとってそうだったように、私たちにとっても、他人が自分をどう思うかではなく、自分が個人的に何をするかによって、自分の人生が世界に与える影響(たとえそれが本当に小さいものでも)に心を澄ませて、密やかな満足感を得ることの方が、人生にとっては大切なのだと思う。

それこそが「自分にとっての勝利の感覚」を持つ第一歩なのかもしれない。

それこそが命を閉じるその瞬間に「いい人生だった」と思える感覚なのかもしれない。

誰にも賞賛されなくても

誰にも認識されなくても

誰にも認められなくても

「少しだけでも自分を超える」感覚を信じて

これから命の日々を全うしていきたい。

私は心からそう思う。

2023年4月2日






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