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ショートメッセージ

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聖書から日々黙想をしている中で、短いひとまとまりのメッセージを書き留めています。それをおすそわけします。ご面倒ですが、聖書箇所について聖書を開くか、検索してくださると、いっそう身… もっと読む
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#イザヤ書

立ち上がらせたのは幻

立ち上がらせたのは幻

イザヤ6:1-8 
 
私イザヤは、玉座の主を見ました。それは、ウジヤ王の死の年でありました。ウジヤ王は、半世紀ほどの長きに渡り、南ユダ王国を治めました。北イスラエル王国との関係を良くし、国を安定させたといいます。紀元前8世紀のことです。イザヤから見れば、国の繁栄よりも、人間が傲慢になってゆくことが、主の民に相応しくないように見えたようです。
 
だが、今はイザヤはまだそのことに立ち入ってはおりま

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イザヤ書が閉じられる

イザヤ書が閉じられる

イザヤ66:18-23 
 
「私は来る」との預言を以て、大預言書イザヤ書が閉じられます。第三イザヤなどと呼ばれていますが、学説はどうでもよいのです。とにかくイザヤ書がこれで終わるのです。世界中の人々が集められます。神は、人間の行いと考えをご存じです。相応しい人々がそこに集められます。人々は神の栄光を見ます。神はそこにしるしを置くといいます。
 
誰の目にも、それは明らかになるのです。生き残った者

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私が苦しめたのだ

私が苦しめたのだ

イザヤ53:4-8 
 
苦難の僕の歌の一部から聴きます。人々に見捨てられたその人は、私たちの病を担い、痛みを負いました。「私たち」と「人々」とは別人なのでしょうか。「私たち」の中に「私」がいるのだとしたら、ここではいま「私」に限定した形で味わってみたいと思います。私がこの人を軽蔑し、見捨てたのです。
 
しかし私の病と痛み、あるいは悲しみを、この人は背負いました。私はこの人が勝手に神に打たれて病

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呼びかけよとの声

呼びかけよとの声

イザヤ40:9-11 
 
「慰めよ、私の民を」と、40章はそれまでの様相を変えて、イザヤの名で新しいメッセージをもたらします。この民に呼びかけよ。主の言葉が飛びます。誰が誰に向けて呼びかけるのでしょうか。主がまず、預言者に呼びかけています。それから、預言者がイスラエルの民に向けて呼びかけています。神の言葉はこうして私たちに届きます。
 
神の言葉はとこしえに立つ、そんな有名な言葉が聞かれる中、こ

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この幻をイエスも見たのだ

この幻をイエスも見たのだ

イザヤ40:1-5 
 
せっかくイスラエルの中に、支えとなるヒゼキヤ王が現われたのに、そして預言者イザヤがそれに伴っていたのに、イスラエルはやがて、神の名を冠しつつも、捕囚の民となってゆきます。しかしイザヤ書は、ここでガラッと様相を変えます。「慰めよ、慰めよ、私の民を」と神が言う、イザヤはそのように告げます。全く風向きが変わりました。
 
さすがにこの変化は、古来誰の目にも明らかだったのですが、

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人間はどこまでも

人間はどこまでも

イザヤ58:6-11 
 
断食をしても、主は顧みてくださいません。現代のキリスト者は、この断食という習慣を、ふつうもちません。やってみているグループもありますが、ユダヤの規定通りに行えばよい、というふうには思えません。「苦行」とも言い換えられています。自分が何か耐えれば、神はそれを憐れみ、よいことが返ってくるだろう、と期待しているのでしょうか。
 
そうなると「断食」とは、そのような見返り主義を

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イザヤが主の声になる

イザヤが主の声になる

イザヤ50:4-10 
 
イザヤは「私」として、ここに立っています。「我々は共に立とう」と呼びかけてもいますから、単に個人的な告白に終わっているものではありません。しかしまずはイザヤ個人の体験と自覚が大切です。「主なる神は、弟子としての舌を私に与えた」と、預言者としての使命を宣言します。それは「疲れた者を言葉で励ます」ためです。
 
イエス・キリストが、イザヤ書から多くをメシアとしての役割のため

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希望が導く道

希望が導く道

イザヤ40:1-5 
 
ヒゼキヤ王がバビロン捕囚の当事者となることを明らかにしたイザヤは、次に、イスラエルの民のユダヤへの帰還の幻を告げます。どうしてもそこには、時代的なギャップが走るとも見られますが、かの地での捕囚生活が数十年続こうとも、うたかたの幻のようなものとして、消え去ることを示しているようにも思えます。
 
たとえそれが実現しない中での夢であるにしても、そこには声が呼ばわっていました。

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主を証しする者

主を証しする者

イザヤ44:6-8 
 
イスラエルへ向けて神が告げます。それをイザヤが代弁します。熱心に、強く畳みかけます。祝福の言葉は、多くの困難を超えてきた民への報いなのでしょうか。そのためには、主なる神のアイデンティティをはっきり示しておかなくてはならないでしょう。主は「イスラエルの王」です。イスラエルのトップに君臨するお方です。
 
それは、イスラエルを支配する、ということでしょう。イスラエルを守る、と

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主の業であることを知る

主の業であることを知る

イザヤ45:1-8 
 
ペルシアの王キュロスが、イスラエルの捕囚民を解放する、という預言。希望の礎です。歴史上の解放の出来事を記録したものですから、これは予言などと思うことなかれ。そう冷たく言い放つ学者がいます。でも、問題はそういうことではないのだと思います。大切なのは、これが神の言葉であり、神の出来事だ、ということです。
 
この世界での事件は、神の手によるものです。民族の命運も、神が決めるも

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あなたを贖い、あなたと共にいる

あなたを贖い、あなたと共にいる

イザヤ43:1-7 
 
「恐れるな。私があなたを贖った。」イスラエルを創造した主が、直接呼びかけます。イスラエルの名を呼ぶのです。全能者が呼ぶのです。人もまた呼びます。愛していた猫の眠る土に手を当て、悲痛な声で猫の名を呼ぶ人がいます。幾度も呼びます。その声は、ある意味では無力ですが、届くものと信じます。これが神であれば、なおさらでしょう。
 
必ず共にいる。その言葉が無意味に放たれているはずがあ

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インマヌエル預言

インマヌエル預言

イザヤ7:10-17 
 
時の南ユダ国の王はアハズでした。紀元前8世紀後半のことです。アッシリア帝国寄りの政策をとりました。弱小イスラエル民族は、絶えず周辺に勃興する大帝国の顔色を窺うような政策をとらねばなりません。しかしそれらの帝国や王国が争っていたら、どうしましょう。どちらにつくのが得策でしょうか。生き残る道はどちらなのか、決断が必要です。
 
アハズがアッシリア帝国に近づいたということは、

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主が担う

主が担う

イザヤ46:1-4 
 
「担う」とはどういうことでしょうか。背負うという身体的行為から始まる言葉だと思いますが、そこから抽象化して、いろいろな情況を表すことができるようになりました。というより、何かそうしたことを表すために、「担う」という言葉を利用するべきだ、と多くの人が感じ、あるいは共感して使うようになったのでしょう。
 
イスラエルは、主がずっと責任を負ってきたではないか。このことを、イザヤ

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救いの光という結末

救いの光という結末

イザヤ60:14-16 
 
荒れ果てた現状しかいま目に見えないのに、それが鮮やかな光の中で回復し栄えている様子を預言者は描きます。勇気ある幻です。私たちもできればそういう目で、この荒廃した魂の時代に、理想の姿を重ねて見たいものです。一つの前提は、このイスラエル、特にエルサレムが、これまで痛めつけられたということ。十分過ぎるほど苦しめられたのです。
 
侮られ、捨てられ、憎まれました。私たちはどう

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