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この幻をイエスも見たのだ

イザヤ40:1-5 
 
せっかくイスラエルの中に、支えとなるヒゼキヤ王が現われたのに、そして預言者イザヤがそれに伴っていたのに、イスラエルはやがて、神の名を冠しつつも、捕囚の民となってゆきます。しかしイザヤ書は、ここでガラッと様相を変えます。「慰めよ、慰めよ、私の民を」と神が言う、イザヤはそのように告げます。全く風向きが変わりました。
 
さすがにこの変化は、古来誰の目にも明らかだったのですが、近代の研究者たちは、様々な面から、これは別時代に別人の手になるものであると結論しました。ここからは、「第二イザヤ」と呼ばれる筆者を想定しています。この40章からしばらく、極めて重要な場面を、かつてのイザヤの名の下に遺すこととなりました。
 
そこには、もはや厳しい裁きの言葉はありません。エルサレムに語りかける言葉は、優しく響きます。苦役はもうなくなりますし、過ちすら償われたと知らせよ、と知らせます。罪に対する仕打ちは、これで十分である、とするのです。イエスのことを描く福音書は、このしばらく後にイザヤが描く、主の僕の描写を大きく取り扱っています。
 
イエス自身が、このイザヤ書、特に第二イザヤから、メシア観の土台として読んでいたと思われます。また、洗礼者ヨハネの位置づけも、ここになされています。「荒れ野に主の道を備えよ」と呼びかけられたのが洗礼者ヨハネであったとすると、イエスと福音書記者が、このヨハネを丹念に描き、重視したということも納得できます。
 
「荒れ野に主の道を備えよ」とは、象徴的に洗礼者ヨハネの業となったのですが、元来、捕囚の民が帰還する道を告げていたはずです。それは平らな道として備えられ、イスラエルの民が、堂々と喜びつつ約束の地に戻ることになるでしょう。そこには主の栄光が現われます。肉なる者、世界中の人々が、それを目撃し、主を知ることになるというのです。

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