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論文紹介 戦争のエスカレーションから抜け出せない指導者の心理を読み解く

研究者は戦争に関する意思決定過程を考えるとき、その戦争を即座に中断したとしても取り戻せない埋没費用(sunk cost)の大きさが重要であることを指摘しています。心理的アプローチで戦争の原因を考察する研究が進展したことによって認識されるようになった知見であり、例えば以下の論文は成功の見込みが乏しいにもかかわらず、指導者が戦争をエスカレートさせる理由を説明したものです。

Taliaferro, J. W. (1998). Quagmires in the periphery: Foreign wars and escalating commitment in international conflict. Security Studies, 7(3), 94–144. https://doi.org/10.1080/09636419808429352

この研究は意思決定理論の一つの立場であるプロスペクト理論(prospect theory)に依拠しており、個人は利用できる選択肢から期待される利得が最大のものを採用するわけではなく、主観的に設定された基準から利得の相対的な変化量に反応して行動を決めると想定します。したがって、客観的な基準で利得を最大化するという意味の合理性から人間が一貫して逸脱するということは十分に予想可能な現象です(Kahneman and Tversky 1979)。

プロスペクト理論の特徴は、利得に対して損失により大きな評価を与える傾向が人間には備わっていると想定することです。新しい利得を手に入れるよりも、すでに手に入れた利得を失うことを恐れており、あるいは、すでに発生した埋没損失を埋め合わせるために、成功の見込みが乏しいリスクの高い投資を選択します。これは客観的に見れば不合理な行動です。

プロスペクト理論それ自体は、対外政策や国際政治の理論ではありません。しかし、著者は国家の指導者も利得を最大化するというよりも、損失の回避や回復に強い関心を示す傾向があることに注目し、このような政治的意思決定の傾向はプロスペクト理論で説明が可能だと考えています。著者が選択した1940年から1941年にかけて日本国内で進められた対米開戦の事例でも、損失の回避、あるいは回復を求める傾向が、戦争の決断に大きな影響を及ぼしていることが指摘されています。

第二次近衛内閣が発足した1940年7月から対米開戦が最終的に決定される1941年12月までの間に、日本国内では政策の選択をめぐってさまざまな議論が起きていました。著者はこの時期を8つの期間に区分し、過程追跡という定性分析の方法論で検討を加えており、各期間で浮上した選択肢と、それらの選択肢から予想される結果が発生する確率、そして、それぞれの結果がもたらす費用と便益がどのように評価されていたのか、その評価に用いられた参照点となる現状はどのようなものであったのかを調べました。プロスペクト理論によれば、損失の回避や回復を図ろうとするほど、リスクが高い選択肢、つまり対米開戦を採用する傾向は強まると考えられます。

著者の調査対象期間の起点となる1940年の時点で日本はすでに中国大陸に部隊を進出させ、事実上の戦争状態にありました。1931 年9月18日、関東軍は独自の判断で奉天の南満州鉄道の線路を爆破し、それを根拠に満州の全域を軍事占領しました(柳条湖事件満州事変)。1937年7月7日に北京の盧溝橋で日中の武力衝突が発生し、当初は平和的な事態の打開に向けた動きが見られたものの、戦争に拡大していきました(盧溝橋事件)。当時の参謀本部は短期戦を想定していましたが、その予想は裏切られ、戦費の支出が国家の財政を圧迫しました。

1936年の日本の国内純生産に対する軍事予算の割合は6%でしたが、1939年には19.3%にまで増加しており、物価の高騰を引き起こす要因となりました。また、戦争を遂行するため、石油、鉄、ゴムなどの資源の需要が高まり、日本は海外、特にアメリカからの輸入を増加させました。1938年だけでアメリカから400 万キロリットルの原油を輸入していましたが、中国問題をめぐって日米関係は悪化し、アメリカの対外政策として日本に段階的な経済制裁を課すことが決められました。

著者は、1937年以降の日中戦争に日本が中国大陸に膨大な資源を投入し、大きな埋没費用を抱えたことが、その後の選択肢を一貫して制限することになったと考えています。また、1938年の時点で確保した支配領域が既存の利得として認識されたため、これを手放すことを回避しようとし、対米交渉でもこの争点に関して妥協を拒みました。日本はその後も中国大陸で国民党と交戦していましたが、国民党がフランス領インドシナ北部から支援の物資を受け取っていることを認識し、1940年8月22日に日本軍はインドシナ北部へ進駐しました。このことはアメリカとの対立をさらに深刻化させました。

この段階で日本の政府、陸軍、海軍の首脳部は、アメリカとの戦争になった場合の選択肢を具体的に検討していますが、9月に開催された御前会議でも戦争になれば物資の不足は必至と認識されていました。アメリカとの貿易が維持できなくなれば、もはや中国との戦争を続けることも困難になるため、そのことが大きな課題として浮上しました。この時点では日本としてアメリカとの衝突は避けるべきという考え方でしたが、衝突を避けるために、中国から一部撤退し、あるいは国民党と交渉するという選択肢は検討から除外されていました。

東南アジア地域の天然資源を獲得する方策が検討されるようになりましたが、著者はヨーロッパにおける第二次世界大戦の進展も関係していたと指摘されています。1940年にオランダ、フランスがドイツの侵攻を受け、イギリスも空襲を受けるようになり、東南アジアの植民地を維持することは軍事的に困難になっていました。また、日本がソ連と日ソ中立条約(1941)を締結することができたことも、日本の対米政策に重要な影響を及ぼしました。ソ連の脅威が軽減されたことで、日本は南方へ部隊を展開することが容易になりました。

1941年以降、日本は東南アジア進出に際してアメリカが参戦することを防ぐ方法を模索するようになり、アメリカとの交渉を活発に行っていますが、アメリカは1941年4月に日本軍がインドシナの南部へ部隊を進駐させたことを受けて、新たな経済制裁を課してきました(仏印進駐)。このときのアメリカの経済制裁で日本は石油の輸入が途絶する事態に直面したため、日本は中国の問題で譲歩するか、あるいは対米戦のリスクをとるのか、厳しい決断を迫られることになりました。

著者は、1941年10月28日の会議で戦争になれば海軍の予算は90億円、陸軍の予算は150億円になるという予想を立て、東条英機首相としても、1942年から1943年を凌ぐことはできても、1944年以降には何が起きてもおかしくないと予想していたことを示しています。対米戦が長期化した場合、日本に勝算がないことは、政策過程で認識されていました。しかし、この段階でもアメリカが求める中国からの日本軍の一方的な撤退は受け入れ難い選択肢とされており、最終的に日米開戦は不可避のものとして受け入れられました。このような評価はプロスペクト理論でなければ説明することが困難です。

プロスペクト理論で日米開戦のすべての側面を説明できるわけではありませんが、その意思決定過程でどのように選択肢が絞り込まれていったのかを考える上で有益な視点を与えてくれます。著者は分析の中で指摘しているのは、1938年の時点で日本が獲得した支配領域が政策決定者の間で「現状」と見なされていたことです。これは日米開戦で大きな意味を持ちました。日本としては、この「現状」を維持するために、大きなリスクを受容する方向で議論が進んだためです。「現状」の認識がいったん形成されてしまうと、アメリカのような大国が圧力を加えても、既得権益を手放させることは外交的に難しくなるという知見は、今日の抑止戦略を考える上でも重要なものだと思います。

参考文献

Kahneman, D., & Tversky, A. (1979). Prospect theory: An analysis of decision under risk. Econometrica, 47(2): 263-292.

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