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戦間期に米国が検討していた南西諸島の攻略方法とは

日露戦争(1904~1905)で日本がロシアに辛勝を収め、東アジアにおける勢力を大きく拡大したことを受けて、アメリカでは日本が将来的に敵となる可能性があると認識され、オレンジ・プランと呼ばれる戦争計画の検討が進められました(戦間期における米国の対日戦構想の変遷を辿る『オレンジ計画』の紹介)。1906年に検討作業が開始されてから1945年に至るまで、南西諸島が対日戦で最大の激戦地になることはアメリカ海軍で共通の見解となり、攻略の具体的な方法について議論が交わされていました。

まず、南西諸島の中で最も有力な目標と考えられていたのは奄美大島でした。軍事地理的な観点で見れば、奄美大島は九州の鹿児島市までは300km、沖縄本島までは240kmの距離に位置しており、ちょうど中間的な位置にあるだけでなく、港湾施設も整備されていました。そのため、1911年にアメリカ海軍軍人アルフレッド・セイヤー・マハン(Alfred T. Mahan)はアリューシャン列島から出撃し、日本の沖合で艦隊に燃料を補給し、その上で奄美大島を強襲する作戦構想を提案しました(邦訳、ミラー『オレンジ計画』158頁)。

フレデリック・オリバー(Frederick L. Oliver)は、アリューシャン列島から艦隊を支援する補給艦を南下させようとしても、補給艦が日本艦隊に撃破されるリスクが大きいこと、また奄美大島を強襲する前にアメリカ艦隊の存在が日本に察知されることで、奇襲の効果がなくなるといった問題を指摘し、マハンの作戦案に批判を加えています(同上)。奄美大島の防衛態勢は堅固であったこと、九州方面から防衛を支援しやすいこともアメリカ海軍にとっては気がかりでした。

そのため、九州から遠く離れた沖縄本島が攻略目標として検討されることになりました。例えばアメリカ海軍の海軍大学校で校長を務めたウィリアム・シムズ(William S. Sims)は1921年に沖縄を中間的な攻略目標とすることを支持した一人でした(同上)。彼の考えでは、沖縄本島を先に攻略しておけば、その次に奄美大島を攻略するための根拠地となりました。そのため、南西諸島の攻略において沖縄本島の攻略が中心的な課題として位置づけられることになりました。沖縄本島を攻略するために必要な戦力の具体的な規模は3個師団、兵員の数としては4万3191名と見積られました(同上、160頁)。ただ、アメリカ海軍の海上輸送の能力では1個師団を輸送するのが限界であったことから、沖縄本島を攻略するためには、アメリカだけでなく、外国の船舶を多数徴用することが不可欠でした(同上)。このような後方支援能力を確保するためには時間が必要でしたが、開戦から1年以上が経過すると沖縄は日本軍によって要塞化されることが予想され、ますます攻略が困難になることが問題になりました。さらに検討が進むにつれて、次第に開戦直後に南西諸島に対して攻勢作戦を仕掛けることの限界が浮き彫りになりましたが、短期戦の発想から長期戦の発想に切り替えるまでに時間がかかりました。

アメリカ海軍で1924年から1933年までの9年間はオレンジ計画の検討作業がひどく停滞していた時期とされています。その理由はさまざまですが、この業務を担当する戦争計画課長に就任した将官がいずれも職務に積極的ではなかったことが主な要因として指摘されています(同上、139頁)。また日本に対して短期戦を構想していた陸軍との対立を避ける必要があり、そのことが長期戦の検討を妨げていたという可能性も指摘されています(同上)。特に1923年から1925年にかけてアメリカ陸軍は熱心に日本からフィリピンを防衛することの重要性を主張しており、アメリカ海軍は後方支援能力の制約から太平洋を渡って部隊を送ることができないという軍事的な現実について論じることは困難な状況でした。

1925年以降になるとアメリカ海軍は対日戦が数年にわたる長期戦になることは避けがたいことをしぶしぶ認めるようになり、1928年の計画では沖縄本島の前に先島諸島を攻略することが盛り込まれました。この案ではより長い時間がかかりますが、確実に南西諸島を攻略することが重視されました。作戦の大まかな流れとしては、まず西太平洋の基地を確保し、次いで先島諸島の攻略に着手することが構想されました。先島諸島の攻略は動員開始から120日目と見積っており、その150日後には沖縄諸島の攻略、さらに150日後には奄美大島の攻略、90日後には大隅諸島の攻略、そして30日後に五島列島の攻略というように作戦を進めることが見積もられていました(同上、159頁)。実際には、さらに多くの時間を要することになりましたが、沖縄本島の攻略には大規模な部隊を割り当てており、アメリカ海軍が南西諸島方面の作戦で沖縄本島の占領が必須であると考えていたことが分かります。

ちなみに、大隅諸島五島列島については九州の海岸からわずか60kmの位置であるため、爆撃機を発進させる飛行場を建設する上で有利であると考えられていました(同上、167頁)。これは日本に対する経済封鎖を意図した行動でした。アメリカ軍としては日本列島に上陸することに慎重な姿勢であり、アメリカ陸軍の研究では、日本に上陸してもまったく成功の見通しが立たないと考えられていました。その理由も軍事地理的なものであり、山がちで険しい地形、水田が敷き詰められた谷間、交通インフラの貧弱さから、アメリカ陸軍が仮に部隊を上陸させたとしても、多数の重装備を放棄せざるを得なくなるだろうと予想されていました(同上、169頁)。相対的に攻略が容易な南西諸島を占領し、そこに航空部隊を進駐させて、日本の海上交通路を遮断することは、アメリカが陸上戦によらずに日本を屈服させる戦略において重要なメカニズムだと捉えられていました。

オレンジ・プランは、第二次世界大戦が勃発する直前にアメリカで放棄されているため、その内容がそのまま対日戦の計画になったと理解すべきではありません。しかし、オレンジ・プランの成果は、アメリカ海軍の関係者の間で対日戦の構想を練り上げるためのたたき台となりました。当時の軍事情勢は現代とまったく異なっていますが、このような議論があったことを知っておけば南西諸島の軍事地理的な価値を考える上で参考になると思います。

見出し画像:Wikimedia Commons: Topographic15deg N20E120

参考文献

Miller, Edward S. (1991), War Plan Orange: The U.S. Strategy to Defeat Japan, 1897–1945, Annapolis: Naval Institute Press.(邦訳、エドワード・ミラー著、沢田博訳『オレンジ計画:アメリカの対日侵攻50年戦略』新潮社、1994年)
Vlahos, Michael. (1980). The Blue Sword: Naval War College and the American Mission, 1919-1941. U.S. Naval War College Press.(外部リンク

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