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地政学は単純な環境決定論ではなく、国家の盛衰は地理だけでは説明できない

あらゆる国家は、それぞれに固有の領域を排他的に支配し、そこに居住する人々の生産物を税として抽出することによって成り立っています。支配した領域の立地、形態、範囲が変われば、国家の政策や戦略もそお影響を受け、大きく変化するものと考えられます。

地政学を広く捉えるならば、地理上の要因が国家の政策や戦略に及ぼす影響を明らかにしようとする研究領域だといえますが、それは必ずしも地理的要因だけで国家の政策や戦略を形成すると見なすものではありません。この記事では、地政学の視点を紹介するため、古典地政学の議論と、現代地政学の議論を一つずつ取り上げ、それが必ずしも環境決定論を前提としていないことを説明します。

19世紀に海軍史に関する著作を書き残しているアメリカ海軍軍人アルフレッド・セイヤー・マハンは、『海上権力史論(The Influence of Sea Power upon History, 1660~1783)』(1890)で17世紀から18世紀の戦争の歴史を記述し、海上交通路を支配できる海軍を保有していたことが、経済的繁栄、軍事的優位にとって重要であると主張しました。ただ、マハンは無条件に海軍が重要だと述べていたわけではありません。このことは、彼が海軍の役割は海上交通路の経済的利益が消滅すると同時になくなると述べていたことからも分かります。

使用する船舶の種類や性能にもよりますが、一般に海上交通は陸上交通よりも効率よく、しかも迅速に貨物を輸送することができます。これは外国や植民地との海上貿易を促進する上で重要な要因であり、比較優位がある産業に生産要素を集中させれば、貿易でますます利益を増加させることが期待できます。このような利益がある限り、大規模な艦隊を編成することにも合理性があるでしょう。

しかし、何らかの理由で海上交通が縮小し、海上貿易が衰退すれば、もはや海軍を維持する必要はなくなってしまうとも考えられます。マハンは狭義の意味での海軍は、「商船が存在してはじめてその必要が生じ、商船の消滅とともに海軍も消滅する」と書いており、海軍が海運と不可分の関係にあると考察していました。

ヤクブ・グリギエルの研究はマハンの議論をさらに前進させました。彼は『大国と地政学的変動(Great Powers and Geopolitical Change)』(2006)で、地理と戦略の関係を考える際に、地理(geography)、地政学(geopolitics)、地政戦略(geostrategy)を厳密に使い分けることが重要だと主張しました。地理は短期で変化しない地形、気候といった要因に対応していますが、地政学は交通網の発達、例えば航海技術の進歩や鉄道路線の開通によって変化する可能性があります。こうした地政学的な変動が起こると、各国はそれぞれの地政戦略を変更しますが、すべての国が同じように変更するとは限らず、各国の国土の立地、形態、あるいは政治、経済の違いに応じた対応をとると考えられます。

グリギエルはヴェネツィア共和国の地政戦略を地政学的変動で対応を誤った例として提示しています(第4章)。7世紀に建国されたヴェネツィアは、イタリア半島の北東部、ヴェネツィアの潟の上に築かれた海上の都市国家であり、当初から製塩業と造船業が発展するなど、海洋国家の素質を持っていました。しかし、グリギエルはこのような初期の立地はヴェネツィアが海洋国家として台頭できた理由の一部でしかないと見なしています。

それよりもはるかに重要だったのは、1000年にイストリア半島に艦隊を派遣し、アドリア海の東岸にあたるダルマチアに兵を送る足掛かりを築いたことでした。この征服が軍事的成功を収めたことで、ヴェネツィアはアドリア海で船を襲っていた海賊を討伐し、自国の港湾から東地中海、黒海に至る海上交通路の安全を確保できるようになりました。

その後、ヴェネツィアは黒海航路(クリミア半島など)、東地中海東岸航路(シリア、パレスチナ)、東地中海南岸航路(エジプト)に向けて通商圏を広げていきました。いずれもアジアとの遠隔地貿易という共通の特性がありましたが、特に重要だったのは東地中海東岸航路で結ばれていたアッコと、東地中海南岸航路で結ばれたアレクサンドリアでした。いずれも中東を経由してインドに至る貿易拠点であり、これらの拠点を通じてヴェネツィアは世界経済と統合を深めることに成功しました。

1000年から1204年までのヴェネツィアの地政戦略を調べると、ヴェネツィアは東方貿易の安全を確保するため、数多くの基地を構築しています。1204年以降になると基地の拡張は落ち着き、同盟関係の整理が行われました。つまり、勢力を拡大する段階から勢力を維持する段階へ移行したのです。これ以降、ヴェネツィアは経済的繁栄を維持しましたが、大西洋航路が発見されたことで情勢は急変しました。

ポルトガルが大西洋で新たな海上交通路を確保したことは、世界の歴史に大きな影響を及ぼしました。アジアとの海上貿易におけるヴェネツィアの競争優位は劇的に低下し、戦略を見直す必要が生じました。時を同じくして、ビザンツ帝国を滅ぼしたオスマン帝国がコンスタンティノープルに首都を移し、黒海航路に対する統制を強め、東地中海で勢力を拡大してきたことも、ヴェネツィアの権益を脅かしました。この地政学の変動を受けて、ヴェネツィアは海上ではなく、陸上に目を向けるようになり、イタリアの内陸部に向けて領地を拡大する戦略に切り替えました。

この戦略の転換に関しては不明な点も残りますが、グリギエルはヴェネツィアが海上都市を建設していたために、建国当初から給水が死活的な問題であったことを指摘し、人口が増加し、給水の手段を確保するために、ブレンタ川の河口部を軍事占領しておく必要が生じたのではないかと考察しています。

それだけでなく、ブレンタ川はイタリア諸国と貿易を行う上で重要な水路だったので、地中海貿易で利益を上げることが難しくなった以上、ブレンタ川を通じて新たな通商圏を確立することを考えた可能性もあります。どのような理由があったにせよ、海軍ではなく陸軍の拡張を推進し、イタリアの内陸部に向けて領土拡大を目指す戦略は成果を上げることができず、ヴェネツィアが衰退へと向かう一因となりました。

マハンとグリギエルはいずれも海上交通の重要性を強調しましたが、ここまで見てきた通り、いずれも環境決定論を主張しているわけではありません。そもそも地理環境と地政学的状況を分け、国家が選択する地政戦略も地理だけで決まると想定しているわけではないのです。

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