見出し画像

論文紹介 フォークランド戦争で学ぶ戦闘と後方支援のバランス

フォークランド戦争(1982)でイギリスとアルゼンチンは南大西洋のフォークランド諸島の支配をめぐり戦いました。もともとフォークランド諸島は小規模なイギリス軍の守備隊に守られていましたが、アルゼンチン軍の攻撃で守備隊は降伏に追い込まれました。

不意を突かれたイギリスは本国から遠く離れたフォークランド諸島に戦闘部隊を展開する戦力投射能力の不足に苦しめられました。政府は軍部に早期奪回を求めたので、多くの部隊指揮官は後方支援の限界を乗り越えるために、さまざまな課題を即興的に解決しなければならなかったのです。後方支援部隊は特に危うい決断を強いられていました。

アルゼンチン軍がフォークランド諸島に侵攻した直後、最初に準備命令を受領した部隊の一つがイギリス海兵隊の第3コマンド旅団でした。旅団長のトンプソン(Julian Thompson)准将は、間もなく出動することになることを知らされましたが、秘密を保全するため、この情報を絶対に外部に漏洩させてはいけないとも指示されており、直ちに準備を開始することも許可されませんでした。

このため、部隊を船舶に乗船させ、また物資を積み込む時間がわずか3日しか与えらず、後方支援部隊に混乱が生じました。本来、戦時に部隊を船舶で輸送する場合、1隻の損失で部隊が全滅することを避けるため、部隊の人員と物資をさまざまな船舶に分けて乗船させることが望ましいのですが、トンプソン准将は出発当初、この原則を守って旅団を出発させることができませんでした。

フォークランド諸島で戦闘を行う場合、その部隊の後方支援のためには、上陸した直後から戦闘に必要な糧食や弾薬などを計画的、効率的に揚陸させる準備も必要です。積み込む段階で船内のどこに、どのような物資を積み込むべきかを注意深く検討すべきでしたが、あまりにも時間が限られていたために、適切な品目の表示がない物資を無秩序に積み込み、しかも多くの重要な物資が船倉の奥底に押し込まれてしまいました。

当時のイギリス軍は全体で50隻以上の商船を徴用し、北大西洋条約機構(NATO)を通じて50万トンの物資を集めましたが、その統制は適切に行われていませんでした。一部の船長は陸軍の将校が積荷の所在を確認するための立ち入りを拒んだので、どこに何があるのかを誰も把握できない事態になりました。混乱状況を把握したイギリス軍の首脳部は、南大西洋のアセンション島を中継基地に設定し、そこで部隊の態勢を立て直すことにしました。

戦地に向かう途上で第3コマンド旅団の後方支援は大きな困難に直面しました。この旅団の兵力はおよそ3,000名であり、フォークランド諸島で攻勢作戦を遂行するには、あまりにも小規模であることが懸念されました。この問題を解決するため、イギリス陸軍の第5歩兵旅団から空挺大隊2個が加わることに決まり、地上戦全体を統括するジェレミー・ムーア(Jeremy Moore)少将の指揮下に入りました。これはフォークランド諸島を守るアルゼンチン軍の兵力を踏まえた決定でしたが、後方支援の問題が後回しにされたために、第3コマンド旅団の後方支援連隊だけで、通常の3倍にあたる9,000名の後方支援を行うことを強いられました。

増強された戦闘部隊を輸送するために、船内の空間は不足していました。このため、後方支援連隊の半分に当たる人員と3分の1に当たる装備を残して出発する計画が決まりました。アセンション島に残されるはずだった後方支援部隊は、出港の間際に乗船することができましたが、これは正規の手続きによらず、武器科の将校が担当者を欺き、部隊を船に乗り込ませたためでした。

ここから先は

3,595字

¥ 200

調査研究をサポートして頂ける場合は、ご希望の研究領域をご指定ください。その分野の図書費として使わせて頂きます。