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アジア太平洋の戦争史で兵站の意義を考えるMilitary Logistics and Strategic Performance(2001)の紹介

その国の軍隊が与えられた任務を達成できるかどうかは、産業動員や兵站支援の成否によって大きく左右されることが分かっています。マーティン・ファン・クレフェルトの代表的な業績である『補給戦(Supplying War)』(1977)は、戦争遂行における兵站の意義を事例研究に基づいて示した著作ですが、研究の対象となった事例はヨーロッパ地域の戦争に偏っていました。トーマス・ケイン(Thomas Kane)の『軍事兵站と戦略効果(Military Logistics and Strategic Performance)』(2001)はアジア太平洋地域の戦争の事例研究に基づいて兵站の意義を再確認した著作であり、兵站支援の限界が国家の戦略的選択を規定することが具体的に論じられています。

Kane, Thomas M. (2001). Military Logistics and Strategic Performance. Routledge. 

軍事学の研究では、兵站(logistics)がさまざまな意味を持つ概念として使われています。これは兵站という概念に包括される活動が補給、輸送、衛生、整備など、多岐にわたっているためです。そのため、兵站の理論を構築する方法も研究者の立場によって異なります。

著者は、経済学の研究者であり、同時に平和学の研究でも業績を残したケネス・ボールディングという学者の議論を紹介しています。ボールディングは、ある国家が別の国家に対して武力を行使する状況をモデル化するとき、兵站支援が可能な距離の限界に注目することが重要だと考えました。兵站支援の能力は本国の中心部で最大となりますが、そこから遠ざかるにつれて低下し、最終的にはゼロとなります。本国の中心部からの距離が大きくなるとき、その兵站支援の能力が低下する幅を小さくできれば、それだけ遠隔地で軍隊を運用することが容易になることを意味します。

著者はこのような抽象的なモデルで兵站を研究することの意義を認めていますが、そのような単純化は兵站それ自体の研究において適切ではないという立場をとり、より具体的な史実に基づいて兵站を理解する必要があるとも述べています。この点で著者はファン・クレフェルトの『補給戦』の意義を評価しているのですが、そこで展開されている分析は一面的であると批判しています。例えば、ファン・クレフェルトの議論の対象は作戦に限定されており、また兵站支援に関連する管理行政の側面には深入りしていないという問題もあります。

この著作では、第二次世界大戦におけるビルマ戦役におけるイギリス軍の事例、太平洋におけるアメリカ軍の事例、ベトナム戦争における北ベトナムの事例、冷戦期のヨーロッパにおけるアメリカ軍とソ連軍の事例が取り扱われていますが、ここでは太平洋におけるアメリカ軍の事例で著者がどのような分析を展開しているのかを部分的に紹介してみたいと思います。

アメリカでは、戦間期から対日戦を想定した戦争計画、「オレンジ計画」の研究が進められていましたが、関係者の間では太平洋における兵站支援の難しさが大きな課題として認識されていました。初期のオレンジ計画ではフィリピンのマニラに基地を置くことが考えられていましたが、日本が対米開戦を決意し、軍事侵攻を開始すれば、アメリカの本土から遠く離れたフィリピンは真っ先に攻略される恐れがあると判断されるようになりました。そこで、日本が委任統治領としていたマーシャル諸島を攻略し、そこに新たな基地を開設することが構想されましたが、ハワイからマーシャル諸島まで離れていたため、これも兵站の視点で見れば十分に考慮された計画とはいえませんでした。事実、アメリカ海兵隊がマーシャル諸島に部隊を上陸させることに成功したのは1944年のことです。海上部隊の作戦行動を支援するためには多数の補給艦を用意し、段階的に前進基地を建設することがが必要と考えられましたが、その備えは十分とはいえませんでした。

アメリカ海軍は1939年10月に太平洋艦隊の司令部をハワイに置くため、16隻の駆逐艦、8隻の巡洋艦、1隻の航空母艦を向かわせました。しかし、これだけの部隊が配備された時点で基地の支援能力は限界に達したために、アメリカの本土からハワイに海上輸送で物資を運ぶための部隊が必要となりました。多くの海軍士官はこの輸送作戦で多くの教訓を学ぶことになったのですが、それは戦略の立案に携わる人々に十分に認識されておらず、また軍種を超えた知見の共有も行われていませんでした。そのため、同じような問題が繰り返されることになりました。

著者が注目している事件は1941年12月の日米開戦の直後にアメリカ海軍がボラボラ島における補給基地の建設です。ボラボラ島は、フランス領ポリネシアソシエテ諸島を構成する島嶼であり、アメリカは長らく関心を失っていた地域でしたが、急遽そこに補給基地を建設することが決まりました。1942年2月に部隊を上陸させましたが、海岸に輸送艦が十分接近できる水深がないことが分かり、物資を予定通り揚陸することができませんでした。当時のアメリカ海軍が利用していたボラボラ島の地図は100年近く前に製図されたものであり、また更新の努力を怠っていたため、部隊が上陸してからも、給養に必要な水が不足していることが判明するなど、工事の計画に遅延が発生しています。

アメリカ海兵隊は1942年8月に始まったガダルカナル島をめぐる戦いで深刻な兵站の問題に直面しました。ガダルカナル島の戦いの詳細については省略しますが、このときも兵站に関する実質的な計画はないも同然のまま部隊行動が開始されました。現地に展開した部隊が日本軍の物資を奪取することができたために、大きな損耗を出さずに済みましたが、それは幸運によるものであったと著者は述べています。

1942年9月、アメリカ海軍はバージニア州に本社を置くコンサルティング会社であるブーズ・アレン・ハミルトンと契約を結び、専門家に兵站支援の合理化を進めるための助言を求めることにしました。調査の結果、アメリカ海軍で兵站に関連する部署で責任の対立があり、長期計画の立案が妨げられていることが報告されました。報告書では、「これは下級の部署が即興的に、そして調整することがないまま作戦を計画しなければならないことを意味する」と問題点が指摘されていました(p. 58)。この改革案に沿って、1943年4月には陸海軍の兵站計画を調整する統合兵站会議(Joint Logistical Boards)が立ち上げられ、さらに、1944年4月には兵站の業務要領を継続して分析する兵站組織計画部(Logistics Organization and Planning Unit)が創設されています(pp. 58-9)。経験から組織的学習のサイクルを回すメカニズムが組織の内部に整備されたことによって、アメリカ海軍の兵站支援の効率は次第に改善していきました。

ファン・クレフェルトの研究でも兵站計画の問題は取り上げられていますが、その検討範囲は狭く、事前にどのような準備を行っていたのかに関心が集中しています。しかし、著者は兵站計画はより長期的な管理プロセスの一部として分析する必要があり、その合理化のために、どのような制度の組み合わせが必要であったのかを明らかにすることも重要な研究課題であることを示しています。

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