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『パパのママレード』(超短編小説)


   今でもはっきり覚えている。

   病気で母が入院していたあの日、父がつくってくれたおやつのこと。私がまだ8歳で、父が30代後半だった頃の話だ。

   母が入院している間は、父が家のことを全部やっていた。食事の用意も、洗濯も、掃除も、私の世話も。父は、小学校の下校時間あたりに、会社を早退して急いで家に帰ってくる毎日を送っていた。今思えばかなり大変だったに違いない。

   母が入院してから3日ほど経った日の夜。皿洗いをしている父の前で、私は急に泣き出した。母がいないことが寂しかったし、いつも当たり前にある景色が目の前にない現実に耐えられなくなったのだ。驚いた父は、泣きじゃくる私に、「母さん、元気になって、すぐに家に帰ってくるからな」と優しく慰めようとした。涙は流しても流しても止まらなかった。泣いてすっきりしたのかもしれない。翌日はケロッとした顔で学校に行った。

   あの日、ソファで仕事か何かの書類とにらめっこしている父に、私は遊んでくれとせがんだ。父は嫌な顔もせずに人形遊びをしてくれた。私はかわいいお姫さま役で、父は王子さま役。父は母に比べて、王子さまになりきるのが下手だった。

   あの日、忘れ物をした私のために、父は小学校まで上履きを届けてくれた。私はそっけなかった。体中が汗でびしょびしょになった父を恥ずかしいと思ってしまった。

   あの日、学校から帰ってくるなり「おなかすいた。おやつちょうだい」と私が言ったら、家にお菓子が何もないことに気づいた父は、毎朝食べているヨーグルトにマーマレードをのせて出してくれた。「どうだ、うまいか?」と聞く父に、私は口をとがらせて「チョコレートとかクッキーが食べたい」と言った。

   母がいないことに少しだけ慣れた頃、母は元気になって退院してうちに帰ってきた。退院日はみんなで出前の寿司を食べた。



   菜の花が咲き始める季節、私と父は大衆居酒屋にいた。二人っきりで過ごすのは8歳の時以来だ。私は27になった。父は今年定年を迎える。

   白髪が増えて顔もすっかり丸くなった父は、口癖のように「あっという間だったなあ」と繰り返す。「お父さん、今日そればっかり」と私が答えると、父は思いだしたように言った。

「サキは、母さんが入院してた時のこと、覚えているか?」
「えっ・・・覚えてない」
「そうか・・・。お前まだちっちゃかったもんなあ」
「うん」

   私は嘘をついた。照れくさかったから。

   本当は鮮明に覚えているのに。下手な王子さま役も、ママレードをのせたヨーグルトの味も、頑張っていたその背中も。

「思い出すよ。あの時、家のこと全部俺がやったんだよ。母さんいつもこんなに大変なことやってたんだって気づいたよ。料理もうまく作れなくて、サキが食べてくれなかったらどうしようってな」

   父はそう言って笑った。目尻の皺がずいぶん深くなったことに気づいた。

「ママレードおいしかったなあ」

   私は天井を見ながら独り言みたいに呟いた。

   父の方に目をやると、かつて見たこともないような、きらきらとした表情でこちらを見ていた。

   明日、27年間一緒だった私の苗字は変わる。お父さん、離れても私はもう泣かないよ。

(了)

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