「ファイト!」第2話。

 侑里が、ガスコンロのスイッチを入れた。

ちっちっちっちっち…ぼっ!

 切れかけの電池の入ったコンロは、火のつきが悪かった。火を弱火に調節し、フライパンを乗せる。乗せながら、おかあさんがノートに残してくれたレシピを確認した。レシピも手順も完璧に頭に入っていたが、ちゃんと確認するのがクセになっていた。「料理がおいしくなりますように」という、おまじないのような感覚だった。
 フライパンを温めている間に、冷蔵庫から卵を三つ取り出して殻を割り、ボウルの中に中身を落とす。最後に割った卵の黄身が二つになっていて、「あ、ふたご」と喜んだ。そこに、砂糖小さじ二杯、塩をふたつまみ入れて、かき混ぜた。フライパンに手を近づけて温まっている事を確認すると、火力を少し上げて中にサラダ油を垂らす。フライパンを揺らして油をなじませると、そこに卵液を全部流し込んだ。フライパンから「じゅわ~」という食欲を誘う音が聞こえる。卵の焼き具合を見て、菜箸で端っこを少し剥がし、そのままくるくると上手に巻いた。両面に綺麗に焼き目がついているのを確認したら火を止めて、たまごやきをまな板に移す。そして、包丁で八つに切り分けた。二人分の朝食のお皿とお弁当箱に二切れずつ盛り付けて、父親の朝ごはんにラップをかける。そして、二つのお弁当箱のふたを閉めて巾着袋にしまった。
 お味噌汁とご飯をよそうと、「いただきます」と手を合わせ、朝食を食べ始めた。レシピの書いてあるノートをパラパラとめくり、おかあさんからの手紙を読んだ。

「侑里へ。

 小学生になったんだね、おめでとう。これからの人生、きっと侑里が、悩んだり、迷ったりすることがあると思います。 その時に相談に乗ってあげられなくてごめんね。その事を悔しく、申し訳なく思います。

その代わり、侑里に幸せになる魔法を教えてあげます。
ひとつは、甘いものを食べる事。甘いものを食べると、人は幸せを感じて、笑顔になれます。おかあさんのおすすめは駅前のケーキ屋さんのケーキです。あそこのショートケーキはとってもおいしいよ。食べたくなったら、お父さんに頼んでね。

もう一つは、人に優しくすることです。

人は、人を幸せにした分、幸せになれます。困っている人、泣いている人に優しくして、その人を幸せにしてあげてください。そうすれば、いつか必ず侑里に大きな幸せが返ってきます。これが、幸せになる魔法です。

魔法だなんて、子供じみた事を書くと今の侑里には笑われちゃうかな。でも、おかあさんが見てる侑里は、お腹の中の小さな小さな赤ん坊なの。許してね。
                          おかあさんより」

 侑里がノートを閉じた。そのとき侑里の背後から「ガン!」という大きな音が聞こえ、振り返った。そこには、鴨居に頭をぶつけ、額を抑えて痛がっている父親がいた。
「あ、おはよう」
「おはよう」
目の中に星が飛んでいるのか、父親は大きく瞬きをし、首を横に振っている。侑里は、何年もこの部屋に住んでいるのに、この失敗をよくやる父親の姿を面白く見ていた。
「また、かーちゃんのノートか?」
「うん」
「そんなに何回も読んで飽きねぇのか?」
「そんなに気になるんなら、読んでみる?」
「絶対読むなって言われてるんだよ」
「そんな事言って、本当はこっそり読んでるんじゃないの?」
「読んでねぇよ、本当に」
「本当?おかあさん?」と言って、侑里は居間にある仏壇のおかあさんの写真を見た。写真に写る侑里のおかあさんは、いつも優しく微笑んでいる。
「くだらねぇこと言ってねぇで、もう出る時間だぞ」
父親にそう言われて時計を見ると、いつも家を出る時間の三分前だった。
「あ、ほんとだ。じゃあ、準備して行ってくるね」
そう言って、自分の部屋に入り荷物を手に持った娘に、父親が「なぁ、侑里」と声をかけた。
「なに?」
「…学校、楽しいか?」
唐突な質問に、侑里は笑って「…心配?」と聞いた。
「…まぁな。お前は優しいから、あの学校で上手くやれてるか心配だ」
そう言う父親に、侑里はもう一度「にこっ」と笑った。
「大丈夫、楽しくやってるよ。綾乃もいるし」
「…そうか。なら、いいんだけど」
「うん、そんなに心配しないで。行ってくるね」
「おう、行ってらっしゃい」と、手を振る父親に見送られ、侑里は家を出た。

 「綾乃、おはよう」
アパートの下の休憩スペースのベンチに座る綾乃に声をかけた。「あ、おはよ」と綾乃が立ちあがる。
「じゃ、行こうか」
「うん」

 二人が高校に向かって並んで歩いた。 侑里たちの通う学校への通学路では、駅に向かう人たちとすれ違う。その中に、地域で評判の私立の進学校の制服を着た高校生の姿もあった。その高校生の姿を、侑里は横目で見ていた。
「ゆり、やっぱりあっちの高校行きたかったんじゃないの?」
綾乃の質問に、侑里は「ん?んー…?」と返事に迷った。
「まぁ、ちょっとは考えたけど。でも、成績的にもギリギリだったし。確実に行ける程だったら良かったんだけど、あっち受けるとイチかバチかになっちゃうから」
「やっぱり、家の事を考えて?」
「いや、おとうさんは『受けろ』って言ってくれたよ。『私立でも平気だから』って。でも、私自身が三年間申し訳ない気持ちで過ごすのも嫌だったから」
「そっか」
「まぁ、私の成績と勇気が足りなかったんだよ」
「でも、今のところ楽しくやれてるみたいで良かった」
「まだ始まったばかりだから何とも言えないけど、楽しくやってるよ」
「そっか、よかった」
「綾乃もいてくれるしね」
「ふふふ」

季節は、春。入学式から少しの時間がたち、生徒同士の緊張感も溶け始め、あちらこちらでグループが出来てくるような、そんな時期だった。

 二人が学校に着いた。正門をくぐるとすぐに、大きな花壇がある。レンガ造りの花壇の中には、色とりどりの花がたくさん咲いていた。
「ここのお花、キレイだよね」と綾乃が言う。
「ね。私も好き」
「なんてお花かな?」
「ラナンキュラスだよ」
「よく知ってるね」
ラナンキュラスは、おかあさんがおひめさまの写真で手に持っているお花だ。侑里の一番好きな花だった。

二人は、色とりどりのお花に見送られ、校舎に向かった。

 その日、担当する委員会を決める時間があった。文化祭や体育祭の実行委員や、学級委員などは内申に有利に働くため、すぐに決まった。図書委員も仕事が少なく楽な事から、立候補する生徒も多い。最後まで決まらないのが美化委員だった。美化委員は大変だ。三人一組になって、音楽室や視聴覚室などの特別教室の掃除をしなければならない。加えて、朝と放課後に正門の隣の花壇に水をやる仕事もある。面倒な仕事が多い割に、特に受験にも有利に働かない。手を挙げる者はいなかった。
「誰もいないか?」
担任の男性教師がそう言う。教室中に、「誰かやれよ」という空気が流れている。侑里は、この空気が耐えられない。
「先生」
侑里が、手を挙げた。
「私、やります」
「じゃあ、一人は決定な。他あと二人、いないか?」
しかし、誰も手を挙げなかった。
「じゃあ、しょうがない。残りの二人はクジで決めるぞ」
生徒から「えー!」という抗議の声が上がる。先生は「えー!じゃない!」と一蹴した。
「お前はいいからな」と、先生は侑里に伝えた。「…はい」と返事をしたが、自分だって別にやりたいわけじゃない。「だったら、早くクジを出してくれたら良かったのに」と思ったが、そんな事を言える性格ではなかった。くじを引き、当たりを引いた女子二人が「え~、部活あるのに~!」と嘆いていた。

 「ゆり、ごめんね」
授業が終わると、綾乃が侑里に謝った。
「美化委員だと、部活と被っちゃうのよ」
「ううん、綾乃が謝る事じゃないよ」
「先生も早くクジ出してくれたらよかったのにね」
「ほんとね」と困った顔で笑った。
「まぁでも、掃除は得意だし。花壇のお花も好きだから」
「あんたは本当に優しいわね」
「そんな事ないよ」と侑里が微笑んだ。

 「どうだった?」
午後の、音楽の授業。前に行われた小さな筆記テストが返却された。
「まぁまぁかな」
侑里は、八割程度の正解率だった。侑里のテストを覗き込んだ綾乃が「すごいじゃん」と褒める。
「ふふっ」
綾乃が小さく笑い、侑里が「なに?」と聞いた。
「いや、これ懐かしいなと思って」
綾乃がプリントを指さした。そこには、『よくできました』の文字を赤い桜の花が囲っているスタンプが押されていた。
「ほんとだ、懐かしいね」
侑里も笑う。懐かしさと、嬉しい気持ちがあった。
「小学校じゃないんだから。高校でこれはないでしょ」
綾乃がそう言って笑った。その綾乃の元に、係の生徒からテストが返却された。綾乃の正答率は低く、スタンプは『がんばりましょう』の文字を普通の赤い丸が囲っているだけの物だった。
「つまんないの」
『これはないでしょ』と言いつつ残念がっている綾乃がおかしく、侑里が小さく笑った。
 綾乃は、他の友達の所へテストの点数を聞きに行った。一人になった侑里は、意識するでもなく音楽科の松下先生を見た。生徒たちは、スタンプの事や点数の事で騒がしく盛り上がっている。しかし、松下は生徒たちを注意することもなく、ピアノの鍵盤の前で楽譜を見つめ、ポロポロと音を鳴らしたり、楽譜に何かを書き込んだりしている。周りの騒がしい空気にのまれず、自分の世界に浸っているという感じだった。その姿がとても綺麗で、侑里は思わず見とれてしまっていた。

「じゃあ、みんな席について」

松下が生徒たちの前に立つ。立ち上がると、松下の背の高くスラっとした美しいスタイルがより際立った。松下は大きな声を出したわけではないのに、その声は生徒全員にしっかりと伝わり、騒いでいた生徒たちは静かに席についた。侑里は、今まで先生が独りで浸っていた世界に生徒全員が引き込まれたような感覚を覚えた。
「不思議な人だな」
そう思い、侑里は松下に興味が沸いていた。

 昼休み。お弁当をカバンから出そうとしている侑里に、綾乃が「私は購買行ってくるけど、侑里、どうする?」と声をかけた。お弁当持参の侑里は行く必要はなかったが、どんな場所か少し興味が沸いた。
「行ってみようかな」
「そう?じゃ、行こうか」
二人は購買に向かった。

 購買にたどり着いた。売り場を覗き込んだ侑里は、商品のラインナップの意外な多さに驚いていた。
「色々あるんだね」
「わりと豊富だよね」
綾乃は、すでにパンや飲み物を手に確保していた。
「…あ!」
侑里が嬉しそうに売り場の「まっしろ」を手にとった。
「これ、あるんだね!」
「あぁ、あんた好きだったね」
「うん、大好き」
「よかったね」
「うん!これ、どこ行っても売ってなくて、滅多に見ないから嬉しいな」
自販機では缶で売られているが、購買にあったのはストローを刺して飲むカップタイプのものだった。売り場には残り二つしかなく、侑里が「やっぱり、人気なのかなぁ」とつぶやいた。だが、綾乃は「逆だ」と思っていた。「人気がないから、そもそも入荷が少ないんだ」と。以前、侑里のアパートの下で休憩しているときに一口もらったことがあったが、「甘くて飲めたもんじゃない」と思った。その甘さが原因なのか、二人が小さい頃は自販機やコンビニでもよく見たのだが、次第に見なくなり、今では見つけるのが困難なものになっていた。「一口あげるね」と侑里が言うと、綾乃は「そんな、気にしないで」とやんわりと断った。
 
 「おばちゃん、甘いのどれ?」
ココアの話で盛り上がっていると、後ろから声が聞こえ、二人が振り返った。やたらと背の高い男子生徒が、売り場を覗き込みながら購買のおばちゃんに話しかけている。男子生徒は、左手でクリームパンとあんパンとメロンパンとチョココロネとまるごとバナナを掴んでいた。その甘いパンの多さと、その量を片手で掴んでいる事に驚いている侑里に、おばちゃんが「どれ?」と聞いた。
「え、あ。これ、甘いですよ」
そう言って、侑里が売り場に一つだけ残っている「まっしろ」を指さした。
「これ、美味しいですか?」
そう聞かれ、侑里は「私は、大好きです」と答えた。その答えに、綾乃が小さく笑う。
「美味しいんだ、飲んでみようかな」
そう言って男子生徒は笑顔になった。しかし、その男子生徒の持ってるパンの甘さ全開のラインナップを見て「…でも、本当に甘いですよ?」と付け足した。甘いパンには苦めのコーヒーが合うんじゃないかと思った。
「そんなにですか?」
「はい、かなり」
「甘さしかないですよ」と綾乃が付け足した。
「やったぁ」
その男子生徒はより笑顔になって、「じゃあ、これにしよう」と右手を伸ばした。手に取ったココアが最後の一個なのを見て「人気なんだな」とつぶやいていた。男子生徒のココアを取る右手には絆創膏がたくさん貼られていて、治りかけの切り傷がたくさんついていた。その手が、侑里の目に妙に焼き付いた。
「ご丁寧に、ありがとうございました。優しいですね」
そう言うと、その男子生徒は部屋を出て行った。出ていくとき、ドアの鴨居に「ガン!」と頭をぶつけ、「いでっ!」と声を上げた。ぶつけた額を手でさすりながら、クスクスと笑う周りの生徒に「すいません…」と顔を赤くし、逃げるようにその場を立ち去った。
「どんだけ甘いの好きなんだろうね、慎吾君」
「おっちょこちょいだし」と付け足して綾乃が笑った。
「…しんご君っていうの?知り合い?」
「知り合いではないけど、あの体じゃ目立つじゃん。割と有名人だよ?」
「あっそう…」
侑里が慎吾の大きな背中を見送った。身長の高い父親のいる侑里の目には、特殊に映らなかったのかもしれない。
「けっこう苦労してるみたいよ?お父さんがいなくて、彼が家を支えてるんだって」
「…そうなの?」
「うん。なんか、体の弱いお母さんと小さい弟さんもいるみたいだし。けっこう大変なんじゃないかな」
「そうなんだ…」
自分の父親のような大きな体。そして、自分と同じ片親。その二つの事実に侑里は、慎吾と自分に通ずるものがあるような気がしていた。
「優しいですね」
慎吾の言った一言が、侑里の耳に残っていた。

 放課後の美化委員の仕事。その週は科学室の掃除だった。美化委員の仕事は三人一組で行う。ほかの二人より早く着いた侑里は先に掃除を始めていた。

ガラガラッ。

ドアが開いて、他の二人が入って来た。「掃除、先に始めてるよ」と侑里が言うより早く、二人は「ゆり、ごめ~ん」と両手を合わせた。
「え?」
「私達、部活があって、もう行かなくちゃいけなくて…」
「あぁ、そうなの…」
侑里が二人の姿を見る。二人は部活のユニフォームを来て、テニスのラケット型のリュックを背負っていた。
「そっか、わかった。いいよ」
その準備万端な姿を見て「行くな」とは言えず、そう答えた。
「やった!ゆり、やさしい~!」
「ごめんね~!」
そう言って、二人は足早に部活へ向かってしまった。
「はぁ」
侑里が科学室を見渡す。この広い教室を一人で掃除するのかと思うと、うんざりした。

 「はぁ…やっと終わった」
初めて掃除をする場所は段取りがわからず、時間がかかった。家事で掃除に慣れてはいても疲労感が強かった。

 「先生」
職員室に行き、科学科の先生に掃除の終了を報告する。
「掃除終わりました」
「お、遅かったな」
小柄の若い男性教師が一人で報告に来た侑里を見る。
「…他の二人はどうした?」
「部活に行っちゃって…」
侑里がそう言うと、男性教師は「早いな」とつぶやき、「ごくろうさん」とだけ言い、視線を机に戻した。
「…失礼します」
小さく頭を下げ、侑里は職員室を後にした。
「…はぁ」
侑里の口から、ため息がこぼれた。

 「おはよ」
「おはよう」
侑里と綾乃の朝が始まった。二人で学校に向かう。
「あぁ、ごめん、侑里。これから時々、朝一緒に学校行けなくなるかも」
「…そっか、朝練あるもんね」
「うん、ごめんね」
「そんな、謝らないでよ。部活ならしょうがないよ」
「寂しくても泣いちゃだめよ?」と綾乃が冗談っぽく言うと、「泣かないよ」と侑里が笑った。
「でもやっぱ、侑里と組みたかったな」
綾乃がそうこぼした。中学校は部活は強制参加だったため、侑里は綾乃に誘われるままテニス部に所属していた。前に攻める綾乃と、その綾乃のサポートに徹底する侑里のコンビネーションは、なかなかの成績を残すコンビだった。
「まぁでも、家の事があるから仕方ないよね」
「綾乃なら誰と組んでも勝てるから大丈夫だよ」
「私は侑里のサポートがあるから最強になれるのに~」
「ふふふ、ありがとう。ごめんね」
親友の綾乃がそう言ってくれた事が侑里は嬉しかった。しかし、綾乃が他の誰かと組む事を想像すると、少し寂しい気持ちもしていた。

 そんな会話をするうち、学校に着いた。二人で正門を抜ける。
「…ねぇ、何か荒れてない?」
「え?」
花壇を見ると、昨日までキレイだった花壇が荒れていた。規則正しく並んでいた花の列が乱れ、何輪かの花が潰れてしまっている。
「うそ…」
「イタズラかな」
侑里が花に手をかけようとしたが、綾乃に「遅れちゃうから、今は行こう」と引っ張られ、校舎に向かった。
「ひどい事する人がいるもんだね」
「うん…」
悲しい気持ちで校舎の玄関に向かう。
「…ん?」
綾乃が声を上げた。侑里も「なに?」と反応する。
「なんか、騒がしくない?」
綾乃が指を差した。これから自分たちが向かう先。校舎の玄関の下駄箱がある少し開けた空間に人だかりができていた。
「困ったな、上履き取れないね」
「今日は朝からなんなの」と思いながら侑里がつぶやくと、「なんだろうね」と綾乃は人だかりをかき分けて中に入って行き、侑里もそれに続いた。
「わ!」
そこでは、複数の男子生徒が殴り合いのケンカをしていた。しかし、正々堂々とした勝負ではなく、三対一の、いじめともとれる状況だった。
「あ、あの人。こないだの…」
「あ、慎吾君」
その一人の方は、あの日、購買で甘いパンと甘いココアを買っていった背の高い男子生徒だった。慎吾が、三人の男に襲われていたのだった。三人のうちの一人だけ二年生である事が、上履きの色の違いで分かった。
「え、大丈夫かなぁ?」
侑里が心配そうな目で綾乃を見たが、綾乃は「いや、大丈夫でしょ」と笑った。確かに、人数で有利なはずの三人組の方が、一人の慎吾に押されている。その不利な人間が勝っている様子に、ヤジウマたちは盛り上がっていた。

「おぉ~」

ヤジウマから歓声のような声が上がった。慎吾が二年生の体を持ち上げ、頭上に高々と上げている。百八十はある慎吾の頭上は、かなりの高さになる。持ち上げられた二年生は、「降ろせ!」と暴れていた。
「いいよ」
慎吾はそう返事をすると、二年生を二人の一年生に向かって投げ飛ばした。
「うわ!」
「あぶねっ!」
二人の一年生がそれを避け、二年生の体が下駄箱に激突し、「ぐっ…」とうめき声をあげた。
「お前ら、よけてんじゃねえよ…」
その二年生の言葉に、周りから少しの笑い声が起きていた。綾乃も「あいつら弱いなぁ」と笑っていた。二年生が「この、バケモンが…」とつぶやきながら二人の一年生に肩を持たれて立ち上がる。その無様な姿を、慎吾が鼻で笑った。

「てめー、殺すぞ!」

二年生が怒鳴った。口から血しぶきをまき散らしている。

「殺せるんなら、殺してくれよ」

慎吾のその一言は、相手の声よりも低く小さい声だったはずだが、その場にいた全員の耳に重たく響いた。ヤジウマが「しん」と静かになり、侑里も購買で見たときの雰囲気と大きく違う様子に、少し戸惑った。

「で、出来ねぇと思ってんじゃねぇ!」

そう叫ぶと、二年生は一年生に「いけ!」と指示した。指示された一年生が慎吾を殴り、それを合図に三対一の乱闘が再び始まり、ヤジウマが盛り上がった。
「あぁ、また…」
不安そうな声を出す侑里を綾乃が「大丈夫だって」となだめた。
「でも、慎吾君、やられ…」と、侑里が言いかけたところで、綾乃が「あ!」と声を出した。侑里が慎吾の方を見ると、一年生二人はぐったりとその場に倒れ、二年生は慎吾に胸倉をつかまれ、顔面に拳を何発も入れられていた。
「え、なんで?」
一瞬のうちに真逆に変わった景色を信じられないでいると、綾乃が「慎吾君が、一撃で二人をぶっとばしたんだよ」と、右手で大振りのパンチを打つ仕草をして楽しそうに話した。侑里が再び慎吾に目を向ける。戦う背中が大きく見えた。
「…強いね」
思わず、そう呟いていた。

 「お前ら、何やってんだ!」
そこに、科学科の男性教師が現れた。すると、喧嘩を見ていたヤジウマたちが「うわっ」「やべっ」などと口々に言いながら、蜘蛛の子を散らすように解散し、残ったのは侑里と綾乃だけになった。
「おい、何やってんだよ」
男性教師が慎吾の前に立つ。その時、慎吾が胸倉を掴んでいた二年生を乱暴に放り捨てた。二年生は地面をゴロゴロと転がり、一年生二人とぶつかった。
「おい!」
男性教師が慎吾の腕をつかんで睨みつけた。しかし慎吾の方が背が高く、教師が生徒を見上げる絵面はみっともなかった。
「お前、三人もこんな目に合わせて何とも思わねえのか!」
男性教師が三人を指さした。三人は、ぼろ雑巾のように血だらけでぐったりと倒れている。慎吾が、その指さした方向は見ずに「あんたなぁ…」と返すと、「あんた!?」と男性教師が怒った様子を見せた。そして「おまえ…」と何かを言い出しかけたが、それを慎吾が遮った。
「まず、三対一だって事を考えろよ」
「なに!?」
「どっちが悪いんだよ?」
そう言われた教師は、「ぐっ…」と悔しそうにした。
「流石。言うね、慎吾くん」
綾乃は慎吾のその態度に感心していた。侑里も「そうだね」と同意する。
「ちっ…」
男性教師の舌打ちが聞こえる。そして「はぁ…」とため息をついてから返事をした。
「お前な、俺だって教師の前に人間だ。反抗的な態度ばっかりとってると終いにゃ怒るぞ」
男性教師がそう言ったとき、突然、「ふふっ」という女性の声が聞こえ、全員がそっちを振り返った。
「君が教師の前に人間なら、彼だって生徒の前に人間だろう」
笑い声の主がそう言った。音楽科の松下だった。侑里が「いつの間に現れたんだ」と驚いていると、綾乃は「いつのまに!?」と声に出していた。
「それじゃあ、君は彼と人間対人間で向き合うの?」
「いや…」
「それならそれでもいいと思うけど、でもそれなら、彼が君の注意や指導に従う理由はなくなるね。人間と人間に、上も下のないのだから」
「そうですけど…」
「それに、彼が力で向き合おうとしたら、どうする?」
松下にそう言われた男性教師は、三枚のぼろ雑巾を見て黙ってしまった。松下が「君も」と慎吾を指さす。
「教師として、生徒の君に言うけど、朝の早くからこんな所でケンカしたら周りに迷惑だろう。ちゃんとその辺考えなさい」
「ほら、あの子たちも上履き取れなくて困ってるよ」と、松下が侑里と綾乃を指さした。慎吾と侑里の目が合った時、慎吾が自分に気づいたのが侑里にもわかった。
「…俺が売ったケンカじゃないです」
松下に目を戻した慎吾が言った。
「関係ないよ。周りの迷惑にならないようにしなさいと言ったんだ」
「…だったら、今度は一瞬で終わらせます」
その一言には、明らかな反抗が見てとれた。少し挑発的にすら思える。
「うん、そうしなさい」
松下はそう答えた。その返事に、大きな男が「へ?」と間の抜けた声を出し、侑里も驚いていた。
「いいね」
そう言って、松下はその場を去って行った。大きな男は、その背中をしばらく見送ったあと「ふっ」と少し笑い、「負けたわ」とつぶやいて、その場を去って行った。侑里も「相変わらず、不思議な人だな」と思っていた。

 放課後、侑里がシャベルとバケツを持って花壇にやってきた。荒れた花壇を見ると、やはり悲しい気持ちになる。
「さてと」
荒らされた花壇を侑里は一人でキレイに直した。

「…よし」

手も泥だらけになり、体も疲れた。しかし、キレイに並んだラナンキュラスを見て、満足感があった。

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