「ファイト!」第3話。

 昼休み。お弁当を広げる侑里の元に綾乃が来た。
「ごめんねー、朝、一緒に学校来れなくて」
その日の朝は、綾乃は部活の朝練があり、侑里は一人で登校した。謝る綾乃に侑里は「ううん、いいよ」と答えたが、一人で歩く通学路は少し寂しかった。
「たまごやき、一個頂戴」と綾乃が箸を伸ばす。侑里も「いいよ」とお弁当箱を差し出した。
「侑里のたまごやきは、ほんっといつも美味しいわ」
「そう?ありがとう」と侑里が微笑んだ。

 その時、同級生のちょっと派手めな女の子が二人の近くを横切った。
「え、すごい、可愛い!」
横目に侑里のお弁当を見た女の子が大きい声を出した。あまり話したことのないクラスメイトにまで褒められ、侑里は嬉しくなった。ちょっと派手めな女の子が「ねー!この子のお弁当、すごい可愛いよ!」と言うと友達が集まってきて、女の子たちが「すごい!」「可愛い!」と盛り上がった。侑里は嬉しくなるのと同時に、照れくさくなった。
「そんなに大変じゃないんだよ?豚の生姜焼きなんかも、昨日の残りだし」
「え、自分で作ってるの!?」
「うん。料理は私の担当だから」
「すごいね!私のお母さんのお弁当かわいくないんだよー。茶色一色なの」
ちょっと派手めな女の子が、自分のお弁当を広げて見せた。肉や煮物が多く、確かに茶色かった。
「部活の事を考えて、食べ応えのあるメニューにしてくれてるんじゃない?」
「優しい事言うね、サボってるだけよ。いいなぁー、そんな可愛いの。羨ましい~」
そう言われ、「ありがとね」と笑った。ちょっと派手めな女の子は、綾乃から「だったら自分で作ればいいでしょ」と叱られ、「ごめんなさーい」と舌を出した。それに綾乃が「可愛くないよ」と言い、みんなが笑った。
 侑里が、自分のお弁当を見た。赤や緑や黄色のある鮮やかな彩のお弁当だが、その色は、褪せて見えていた。

 放課後。
「侑里、ごめんね、今日もお願いね」
「ごめんね~!」と謝りながら、美化委員の同じ班の二人は侑里の返事も聞かずに部活に走った。
「…うん」
侑里は、誰も受け取らない返事をして、科学室に向かった。

 科学室はすごく広い。その部屋を、小さな女の子が一人で掃除をしなければならない。
まず、普通教室にある物の二枚分の大きさの黒板に書き残された文字を黒板消しで消す。
「くしゅんっ!」
チョークの粉が舞って侑里の鼻を刺激し、くしゃみが出た。「すすっ」と鼻をすすって、次に雑巾で黒板を乾拭きする。そうしたら、黒板消しをクリーナーにかける。それで、黒板の掃除は終わる。そのあと、はたきを使って実験道具をしまっている棚の埃を落とす。
「くしゅんっ!」
舞った埃が侑里の鼻を刺激し、またくしゃみが出た。「すすっ」と鼻をすすり、パタパタと体をはたいて制服にかかった埃とチョークの粉を落とした。
 次に、床をほうきではいてゴミを一か所に集める。集めたごみを塵取りで回収し、それをゴミ箱に捨てた。ほうきと塵取りをしまったら、生徒四人で使う大きなテーブルを濡らした雑巾で拭く。六台のテーブルを拭き終わる頃には、侑里の手はすっかり冷たくなっていた。冷たくなった手で、もう一度雑巾を濡らし、最後に床全体を水拭きした。
「ふぅ」
一通りの掃除を終えた侑里が立ち上がった。「ん~」と背伸びをし、雑巾がけで曲がった腰を直した。
「つかれちゃったな」
思わず、そうこぼれた。あとは、掃除の後始末をして先生に報告に行けば、家に帰れる。

ガラガラッ。

その時、科学室の扉が開き、侑里がそっちを振り返った。科学科の男性教師が入ってきて「ちゃんとやってるか?」と声をかけた。侑里は「そろそろ終わります」と答えた。
「ん?」
男性教師が室内を見回した。
「…他の二人はどうした?」
「あ、部活に行っちゃって…」
侑里が答えた。先生が「じゃあ、ひとりで掃除してたのか?」と聞く。
「…はい」
侑里の声が小さくなる。この先生があの二人を叱りに行ったり、「呼び戻せ」なんて事になったら嫌だなと思った。そうなったことで侑里を責めるような二人ではないが、そういう面倒ごとは避けたかった。
「掃除は三人一組って決まりだろ」
「…はい」
「ひとりでこんな広い部屋掃除するの大変だろ」
「…まぁ」
「だったら、お前、ちゃんと注意しなきゃダメだろう」
「…え?」
侑里は、頭の中が真っ白になった。
「次からちゃんと三人でやれよ」
先生はそう言うと、「終わったら帰っていい」と言い残し、科学室を出て行った。
手が凍え、埃とチョークの粉にまみれた女の子は、しばらくの間その場で立ち尽くしていた。

 ひとりで歩く、帰り道。

「ちゃんと注意しなきゃだめだろう」

先生が言った一言が、頭の中で何度も繰り返し響いた。

「…私が、悪いの?」

そう思う。しかし、相手への返事としてどういう言葉を選んでいいかわからなかった。

「あんたなぁ」

喧嘩の時の、強くて大きな男の言葉を思い出す。

「三対一だ。どっちが悪いか考えろよ」
あんな風に気持ちを主張できない自分が情けなくなった。
「ん?」
カバンの中の侑里のスマホが鳴った。取り出して、確認する。
「…あ、卵安いんだ」
近所のスーパーのお買い得情報メールだった。
「買っておかなきゃ」
父親が働いてくれているお金。それを無駄にすることは出来ない。侑里は、スーパーに向かった。

 夕方のスーパーは、夕食の準備の買い物をする主婦で少し混雑していた。
「…よし」
侑里は、すぐに卵を確保した。
「…ん?」
そこに、幼稚園の制服を着た小さな女の子がやってきて、卵のパックを一つ、両手でそーっと持ちあげた。
「…割っちゃわないかな」
心配になり、侑里は女の子の行方を目で追いかけた。女の子は、カートを押すお母さんの元に卵を届けていた。
「とってきてくれたの?ありがとー」
母親は卵を受け取ってカートに入れると、女の子の頭を優しくなでた。女の子が、「えへへ」と照れくさそうに笑う。
「みくちゃん、いいこ?」
「うん、いいこ」
そう言うと、もう一度頭を撫でた。女の子はまた「えへへ」と嬉しそうにすると、「おかあさん、だっこ」と両手を上げた。
「えー、もう、しょうがないなぁ」
母親は困りながらも微笑んで、女の子を片手で抱き、もう片方の手でカートを押した。
「今日ね、幼稚園で縄跳び十回飛べたんだよ」
「そう、すごいねー」
「いっぱいれんしゅうしたんだよ」  
「えらいねー」
「おべんとうも、ぜんぶたべれたよ」
「お、えらい!」
「みくちゃん、いいこ?」
「うん、とってもいいこ」
母親が、娘をぎゅーっと抱きしめていた。

 侑里が家に帰ると、仏壇の前に座布団を敷いておかあさんの前に座った。鈴を鈴棒で叩くと軽やかな音が部屋に響く。

「おかあさん、ただいま」

返事はない。おかあさんは、写真の中で微笑んでいる。
「今日はね、卵が安く買えたよ。たまごやきは毎日作るし、おとうさん、カツ丼好きだから、喜ぶね」
侑里が頭の中で、今日の出来事をを思い出す。
「今日ね、友達が私のお弁当を『可愛い』って褒めてくれたんだよ。その子のお弁当、茶色くて可愛くないんだって」
「おかあさんのノートのおかげだね」と侑里が小さく笑った。おかあさんも、微笑んでいる。
「あとね、一人で科学室の掃除したんだ。科学室は広いからね、大変だけどがんばったよ」
そう言ったとき、侑里の顔から笑顔が消えてしまった。

「でもね、怒られちゃった」

「はぁ」とため息が漏れた。

「私のすることってね、『ごめん』とか『すいません』って言われちゃうの」

「『ありがとう』って言ってもらえないの」

侑里が小さくうつむく。

「おかあさん」

女の子が、おかあさんを呼ぶ。

「ゆりちゃん、いいこ?」

そう言う小さな女の子の頭を撫でる手も、抱きしめる腕も、「とってもいいこ」の返事もなかった。

「…いいこじゃないよね」

侑里が寂しそうに言った。

おかあさんは、写真の中で微笑んでいた。


 朝。侑里が一人で登校し、花壇の花に水を撒いていた。ラナンキュラスは、侑里の撒いた水を浴び、太陽の光に照らされてキラキラと輝いている。「こんな風に綺麗になれたらいいのにな」と花壇に咲く花を羨ましく思っていた。
「…ねぇ、ゆり!」
肩を叩かれて「はっ」と気が付き、振り返る。テニスウェアを着た綾乃がいた。
「あぁ、綾乃。おはよう」
「どうしたの、ぼーっとして。何回も声かけたんだよ?」
「そうなの?ごめんね」
「いや、いいんだけど。大丈夫?」
「うん、大丈夫。ありがとね」
そう答えると、「そう」と綾乃が笑った。スポーツの爽やかな汗に濡れた綾乃の笑顔がキラキラして見えた。思わず、「綺麗だね」とつぶやいていた。
「なによ、急に」
綾乃が照れくさそうな反応をした。「ううん」と笑って返事をすると、「あやのー!」と綾乃を呼ぶ声がした。綾乃が「いま行くー!」と返事を返す。
「じゃあ、教室でね」
「うん」
綾乃は侑里に手を振ると部活の友達の元へと走った。その背中も、侑里には輝いて見えた。

 「ゆり、購買行こう?」
昼休み。綾乃が侑里に声をかけた。「あのココア飲もうよ」と微笑んだ。そのことに、綾乃は元気のない自分を心配して声をかけてくれたんだと分かって嬉しくなった。「やっぱり、優しいな」と思った。そして、確かにあのココアを飲めば少しは回復するかもしれない。自分には、幸せになる魔法があったんだと思い出した。目の前が真っ暗になって気付けていなかった。侑里は、「まっしろ」に少しの希望を見出した。
「うん、行きたいな」
「よし、行こうか」
二人で、購買に向かった。

 「あるかな…」
売り場を見る。「まっしろ」は、いつも数が少ない。「まだ残っていてほしい」と祈るような気持ちで探した。だが、なかなか見つからない。「売れちゃったのかな」と一瞬思った。
「…あ、あった」
他の商品に埋もれていた「まっしろ」を侑里が見つけた。隣の綾乃も、「あった?」と嬉しそうな声を出す。
「うん、よかったぁ」
侑里が「まっしろ」を手に取った。それが最後の一つだった。自分の好物を手に入れた事で、本当に元気が出る気がした。
「よかったね」
その様子を感じたのか、綾乃が微笑みかけた。
「うん」
侑里も微笑みを返した。その笑顔に安心した綾乃は「ちょっと、パン見て来るね」とその場を離れた。
「行ってらっしゃい」
そう言って綾乃を見送り、侑里が財布を出そうとした。
「すいません、ココアありますか?」
侑里の背後から声がした。聞き覚えのある声だった。振り返ると、そこに慎吾がいた。
「ごめ~ん、売り切れ」
購買のおばちゃんが少しおどけて手を合わせて言ったが、慎吾は「…そうですか」とボソッと言い、その場を立ち去ろうとした。そのとき、侑里の目に慎吾の横顔が見えた。その横顔は、辛そうだった。

「あの…」

侑里は、思わず慎吾を呼び止めていた。「はい?」と、慎吾が振り返る。
侑里が自分の手にある「まっしろ」を見た。これを譲った後。そのあと返って来る言葉はきっと、「すいません」だ。「すいません」と暗い顔で頭を下げ、ココアを受け取り、さっさとこの場を去っていく。その姿が想像できた。

「あの、良かったらどうぞ?」

なのに、侑里はそう言った。ガッカリするのはわかっているのに、なぜそうするのか、自分でもわからなくなっていた。
「え、いいんですか?」
慎吾がそう聞く。侑里は、「はい、どうぞ」と答えた。

「すいません」

その言葉に、侑里は慎吾から目をそらした。これから、自分が寂しい気持ちになる。想像した通りの悲しい景色から目を背けるために、視線を売り場に向けた。侑里の好きそうな甘い飲み物は残っていなかった。「もう、なんでもいいや」と思った。しかし、慎吾がなかなか自分の手からココアを受け取らない。「どうせなら早くしてほしい」と、そう思った。

「すいません…」

慎吾が、もう一度そう言った。「その言葉は、もう、うんざりだ」と思ったが、その声に反応し、思わず慎吾に目を向ける。
「…え?」
侑里の口から、そう声が漏れた。目の前の大きな男は、甘いココアを目の前にして、大粒の涙を流していた。
「え、大丈夫ですか?」
心配になって、侑里がそう声をかけた。慎吾は「ずずっ」と鼻をすすって、首を横にぶんぶんと振った。
「え、大丈夫じゃないんですか?」
もっと心配になってそう聞くと、慎吾がまた首を大きく横に振って、こう言った。
「全然大丈夫じゃなかったんです。全然大丈夫じゃなくて…」
慎吾が、傷だらけの大きな手で目を覆った。
「でも、いま、大丈夫になったんです。あなたのお陰で大丈夫にしてもらえたんです」
そう言うと、涙をぐしゃぐしゃと拭った。

「はーーーーー、良かったーーーーーーーー」

慎吾が心の底から安心した顔で天を仰いだ。その目からは、再び涙が溢れてきている。
「いただいて、いいですか?」
改めて確認する大きな男に、「…はい、どうぞ」と答えた。すると、慎吾はまた「うぅっ」と涙を流した。

「あじがどうごじゃいまず」

涙声でそう言って、大きな男が侑里の手にあるココアを、両手で丁寧に受け取った。

「いえ…」と言うと、慎吾が慌てた様子で、「あ、すいません、泣かないで」と謝った。

「え?」

侑里が、自分の頬を涙がつたうのを感じた。

「あれ、私、なんでだろう、ごめんなさい」

自分でも、なぜ涙が流れたのかはわからなかった。侑里が涙を拭う。しかし、涙は次々に溢れてきて止まらなかった。
「あぁあ、どうしよう、すいません!」と慎吾が謝るが、侑里も「あ、違うんです、ごめんなさい」と謝った。

 「ゆり、どうしたの!?」
戻ってきた綾乃が、泣いている侑里に驚いて大きな声を出した。
「あの、すいません、俺が…」と慎吾が言うと、侑里も「いや、違うの」と否定し、綾乃が、「え、なに?」と戸惑った。
「いや、本当、すいません」
「わたしこそ、泣いちゃってごめんなさい」
「いやいや、すいません」
「そんな、ごめんなさい」
二人が謝り合う横で、綾乃の「なにこれ、どうなってんの?」というつぶやきが響いた。

 その日の、放課後の美化委員の仕事は音楽室の掃除だった。いつもの通り、同じ班の二人は「ごめんねー」と部活へ行ってしまう。侑里も、その事には慣れた様子で掃除にとりかかった。

ガラガラッ。

音楽室のドアが開く音がして侑里が振り返る。そこには松下がいた。相変わらず、不思議な雰囲気をまとっている。
「あ、そろそろ掃除終わります」
侑里がそう言いながら、ちりとりに集めたゴミをゴミ箱に流した。松下が「お疲れ様」と微笑む。その笑顔の美しさに、思わずドキッとしてしまう。
「ん…?」
松下が音楽室をぐるっと見回した。
「侑里ちゃん、もしかして一人で掃除してたの?」
松下が、まっすぐに侑里を見る。侑里の胸が、さっきとは違う気持ちでドキッとした。
「…はい」
侑里が、小さい声で答えた。松下はまた「へぇ…」と言い、音楽室をぐるっと見回した。
「すごいね。掃除上手なんだねぇ」
松下がそうつぶやいた。その言葉に「え?」と声が漏れる。
「この広い部屋を一人でここまで綺麗にできるって、凄いね」
「いえ…」
侑里が一人で掃除をしていた事ではなく、侑里の掃除の技術の話をした事に少し安心すると同時に、「やっぱり不思議な人だ」と思った。
「私は掃除苦手でさぁ、ちょっと見てよ」
そう、笑いながら手招きをして、侑里を音楽室の端っこにある扉まで連れて行った。その扉は隣の音楽準備室に繋がっている。
「ほら」
松下が扉を開けた。その部屋には、中央に音楽室のものよりは小さめのピアノがあり、その隣のテーブルには鉢植えの綺麗な花が飾られていた。その横に衣紋掛けがあって、真っ白な春物のコートが掛けられている。ピアノ、花、コート以外のものは、机やイスや書類などの学校らしいアイテムばかりなのに、その三つの存在がその部屋を学校の中だとは思わせない雰囲気を醸し出していた。
「素敵な部屋ですね」
侑里からそんな感想が出る。松下は「ありがとね」と微笑んだ。
「ここはほとんど、私の部屋みたいなもんだからね」
「学校じゃないみたいです」
「でも、散らかってるでしょう?」と松下は笑った。確かに少し散らかっている印象は受けた。しかし、そのことがこの部屋を彼女のプライベートな空間であるという雰囲気をより強く演出していた。
「いい大人なのに、だめでしょう?」
そう言って、また笑った。「どうも、片づけは苦手なんだよねぇ…」とつぶやく。
「あの、もしよければ、掃除しましょうか?」
侑里が、そう申し出た。迷いなく、そう言えていた。
「え、いいの!?」
松下が喜んでいる。それを見て、「言ってよかった」と思った。
「はい。今日は、時間に余裕もありますし」
「えー、じゃあ、お願いしていいかな?」
「はい、もちろん」

 「まだ仕事が残ってるから」と言い残し、松下は職員室へ戻っていった。
「さてと」
侑里が腕まくりをして、部屋の掃除にとりかかった。
「…あ、これ」
片づけている最中、侑里があの「よくできました」のスタンプを見つけた。同じ箱に「よくがんばりました」や「たいへんよくできました」なども入っていた。
「あら、こんなものまで」
壁際の棚に、ティーカップなどのティーセットと、電気ケトルのそばにインスタントのコーヒーや紅茶のティーパックがそろっていた。
「本当に自分の部屋みたいだなぁ」
その部屋の雰囲気がおかしくなり、侑里が微笑んだ。

 「ゆりちゃん」
三十分程すると、松下が部屋を覗きにきた。侑里が片づけた部屋を見て、「わ、こんな短時間でよくここまでやってくれたね」と笑顔になった。その笑顔を見て、侑里も笑顔になる。
「今日は、この辺でいいよ」
「そうですか?」
「それより、まだ時間ある?」
「ありますけど…?」と、部屋の時計を見つつ答えた。「良かった」と松下は壁際の棚に近づき、電気ケトルを手に取った。
「ちょっと、お茶しない?」
「…いいんですか?」
「もちろん。お礼って程でもないけどさ」
「じゃあ、いただきます」
「やった」
松下が、空いている席に両手で「どうぞ」という仕草をした。侑里が「おじゃまします」とその席に座った。
「あったかいの、どんなのが好き?」
松下が、電気ケトルにミネラルウォーターを注ぎながら聞いた。
「家ではココアをよく飲むんですけど…」
「ココア…がないな。甘いのがいいかな?」
「カフェラテでいい?」と聞かれたので「はい、好きです」と答えた。
「どうぞ」
松下が淹れたカフェラテを侑里に差し出した。
「美味しいです」
カフェラテを一口飲んだ侑里がそう言うと、「そう?良かった」と松下も笑い、ティーポットから紅茶をカップに注いだ。
松下がカップを手に持ち、紅茶をすする。そして、カップを丁寧に皿の上に置いた。その何気ない一連の仕草が美しく、侑里は思わず見とれてしまう。

「はーーーーーー!」

急に松下が大声を出して、スラッとした長い手足を思いっきり伸ばした。その様子に、侑里が戸惑いつつ笑った。
「どうしたんですか?」
「いやね、職員室って肩凝るんだよ、息詰まるし。だから、私はこの部屋はリラックスするようにしてるんだ」
「この人らしいな」と思い、侑里が小さく笑った。
「侑里ちゃんもリラックスしな。ここは学校じゃないから」
「え?」
「治外法権ってやつだね」
「…じゃあ、ここは大使館ですか?」
「私の国のね」といい、二人で笑った。
「だから、ここでは私と君は教師でも生徒でもないよ」
その言葉に、ケンカをしていた慎吾に言った台詞を思い出した。
「ただ、この部屋を一歩外に出たら、この部屋での法律は通用しないからね」
「はい」
「うん、よろしい」
侑里は、「こんな素敵な国なら、ずっといたいです」と笑った。

 「なんでそんなに掃除が上手なの?」
松下が紅茶をすすりながら話題を振った。侑里は「私、おとうさんと二人で暮らしてて。毎日やってるからだと思います」と、悲しげもなく言った。すると松下も憐れむ様子もなく、「そうなんだ。偉いね」と笑った。「ありがとうございまず」と、侑里もカフェラテをすする。
「この部屋は、本当に居心地いいですね」
「そう?なら良かった」
「素敵なものもいっぱいありますし」
「これとか」と、侑里が「よくがんばりました」のスタンプを取り出した。松下が「あぁ」と受け取る。
「懐かしいです、このスタンプ」
「ここに来る前は、小学校にいてね。高校生に押しちゃいけない決まりはないからね」
「私は、嬉しいです」
侑里が微笑むと、「じゃあ…」と松下が一つ、スタンプを手に取った。そして、侑里の右手をとると、手の平にスタンプを押した。侑里の手の平に、赤い桜の花で囲まれた「よくできました」の文字がきざまれる。
「ありがとうございます」
侑里が微笑んで、手を「ぎゅっ」と握った。

 「お花、キレイですね」
侑里が、部屋に飾られている鉢植えの花を見た。
「お花はいいよねぇ。部屋が華やかになる」
「はい」
「それで、季節ごとに、その季節のお花を飾る事にしてるんだ」
「カッコイイ」という印象の松下の、女性らしい部分が可愛らしく感じられた。
「花壇のお花もキレイですよね」
「いいよね。私も好きだな、ラナンキュラス」
その一言に、おかあさんの写真が頭に浮かんだ。そして、「美しい人格」は松下にもピッタリな花言葉だなと思った。
「これはパンジーですか?」と、侑里が鉢植えの花を指さした。
「これは、どっちかって言うとビオラだね」
「…どっちかって言うと?」
「パンジーとビオラは花の大きさで決まるんだよ。大き目なのがパンジーで、小さいのがビオラなんだ」
「へぇ、そうなんですか」
「って、私も花屋で教えてもらったんだけどね」と松下が笑った。侑里も「面白いです」と微笑んだ。
「お花はね、面白いんだよ。それぞれで花が開くスピードが違うんだよ」
「そうですね」
「私は、幸せもそうだと思うんだ」
「幸せ?」
「幸せというか、人生というかさ。その人の人生の花が開くのは、その人それぞれのスピードやタイミングがあると思うんだ」
「…なるほど」
「だからね、侑里ちゃんは今の若いうちに、種を一杯撒くといいと思うよ」
「はい」と、侑里が笑顔で頷いた。

 二杯のカフェラテを飲むと、侑里は帰る事にした。松下が、「またお茶しようね」と言ってくれたので、侑里は「じゃあ、また掃除しますね」と返した。松下は「よろしくね」と笑った。
「気を付けて帰るんだよ」
松下はそう言って見送ってくれた。

 「おかあさん」

家に帰り、侑里がおかあさんの前に座る。
「おかあさん、今日はね、すごくいい日だったよ」
侑里が、その日にあった幸せな出来事を全部、おかあさんに報告した。大きな男にココアを譲ったこと。綺麗な女性とお茶をしたこと。
「『ありがとう』って言ってもらえてね、『よくできました』って言ってもらえたの」
おかあさんの前で、娘が笑顔になる。おかあさんも、娘の話をやさしく微笑んで聞いていた。

 「ただいま」
侑里の父親が家に帰ると、キッチンからカレーのいい匂いがすると同時に、娘の鼻歌が聞こえてきた。もう一度、「ただいま」と声をかける。
「あ、お帰りなさい」
「いい匂いするな」
「でしょ?」と笑顔を見せる娘に、「なんかいい事あったのか?」と声をかけた。
「内緒だよねー、おかあさん」
侑里が、居間のおかあさんと目を合わせた。父親は「なんだ、そりゃ」と笑いながら、娘の幸せそうな様子に嬉しくなった。
「すぐご飯にできるから、着替えてきて」
娘にそう言われ、「おう」と部屋に入ろうとする。「ガン!」と鴨居に頭をぶつけ、「いでっ!」と声を上げていた。その様子に、娘が小さく笑った。

 父親がスウェットに着替えて出てくると、すでにテーブルにはカレーとサラダとスープが並んでいた。「うまそうだな」と冷蔵庫から麦茶を取り出してグラスに注ぎ、テレビをつけた。
「ロクな番組やってねぇな」
そう言いながら、父親がテレビのチャンネルをガチャガチャと変え、最終的には「ま、これでいいか」とB級のバイオレンス映画に合わせた。
「おとうさん、本当こういうの好きだね」
そう言って娘が笑い、父親は「うるせぇ」と照れた。

「殺せるんなら、殺してみろよ!」

テレビからそんな言葉が聞こえてきた。闇組織のアジトに乗り込んだはずの刑事の男が、逆に捕らえられて椅子に縛り付けられている。血だらけになりながらも周りを取り囲むチンピラたちにそう叫んでいた。

「殺せるんなら、殺してくれよ」

侑里が慎吾の言葉を思い出した。叫び声などではなく、冷静に、静かに放たれた言葉だったが、侑里の耳にこびりついていた。
「…ねぇ、おとうさん?」
「ん?」
「『殺せるんなら、殺してくれ』ってどういう意味?」
娘から飛び出した物騒な質問に、父親は「ぶっ」と飲みかけていた麦茶を噴き出した。
「なんだ、急に!」
そう言って慌てる父親に、「ごめんごめん」と布巾を手渡した。
「なんでそんな事聞くんだよ」
父親が自分の体とテーブルにこぼした麦茶を拭き取った。
「同じ学年の男の子が言ってたの。その男の子、すごく体が大きくてね、三人を相手にケンカしても勝っちゃうぐらい強い人なんだけど」
「『殺せるんなら、殺してみろよ』とか、『やれるもんなら、やってみろ』じゃなくて?」
「うん。『殺してくれ』って」
「…ふ~ん」
「だから、その一言がすごく意外で…。『死にたい』なんてことを思ってるようには見えなかったから」
「うん…」と相槌を打ちながら、父親がさっき飲みそびれた麦茶を飲み込んだ。
「その男の子は、何か、苦労を抱えて生きてんじゃないのか?」
父親のその一言に、今度は侑里が驚いた。「なんで、わかったの?」と言ってから続けた。
「確かにその人、お父さんがいなくて。彼がバイトして家を支えてるんだって。体の弱いお母さんと、小さい弟さんもいるみたいで…」
「なるほどなぁ」
もうひと口麦茶を飲むと、大事な話をするように話し出した。
「侑里の言う通り、その男の子は『死にたい』なんて事は思っちゃいない」
「うん」
「でも、そいつの毎日は生きていられるのが当たり前じゃないんだ。毎日を生きていくためには、戦わなきゃいけない。戦って、勝たなきゃいけない」
侑里の頭に、慎吾の傷だらけの両手が浮かんだ。
「『生きていたい』と思うからこそ、その戦いに挑まなきゃいけない。でも、その戦いはすごく辛いし、すごくしんどい」
次に侑里の頭に浮かんだのは、大粒の涙を流す慎吾の姿だった。
「だから、そいつの中に『いっそのこと、全力で戦っても勝てないぐらいの敵が一思いに殺してくれたら楽なのに』っていう気持ちがあるのかもしれない」
「そっか…」
侑里が、心配そうな顔をした。
「でも、自分で死んじゃうなんて事を選ばずに戦ってるんだから、立派だね」
「ま、『クソガキにしては』ってレベルでだけどな」
「でも、すごく体も大きくて、がっしりしてて、『クソガキ』って見た目じゃなかったよ」
「俺よりか?」
「いや、お父さんは大きすぎるもん」
そう言った後、侑里が「…ふふっ」と小さく笑った。
「なんだ?」
「でもね、ココア譲ってあげたら泣いちゃったの」
「やっぱクソガキじゃねぇか!」
父親の一言で、二人が笑った。
「しかもココアって。高校生にもなったらブラックを飲め、ブラックを」
「だめ?私もココア好きだけど」
「女の子はいいんだよ。男子高校生ならブラックだろ」
「ほら」と、父親がテレビを指さした。さっきの血だらけの刑事は、いつの間にか先輩刑事によって助け出されていた。先輩の「おつかれさん」という言葉と共に差し出されたブラックコーヒーの缶を「ありがとうございます」と爽やかな笑顔で受け取り、額から流れた血をぬぐっていた。

「あじがとうごじゃいます」

あの時、慎吾は泣き顔で甘いココアを受け取り、目から溢れる涙を拭っていた。テレビの中の男と、あまりにも正反対だった。

「今も戦ってるのかなぁ」

侑里は、慎吾は今も、誰から助け出されることもなく戦ってるのだろうかと、慎吾の身を思いやっていた。

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?