見出し画像

夕陽が太平洋に沈む時  【第6話】

 夕陽が太平洋に沈む時 【第1話】

 ベッドは乱れ、招かれざる客の匂いが染み付いている。

 麻衣はひたすら、叶の存在、声、匂い、手の感触、窪んだ瞳、麻衣の下半身で繰り広げられた行為を、拭って、洗い流して、擦り取って、記憶の中から抹消したかった。

 叶を訴えるべきか。

 答えは簡単には出ない。

 外に立っているのが誰かを確認せずにドアを開けたことが、再度悔やまれる。
 
 麻衣はベッドからシーツを剥がし、丸めてクローゼットの奥に押し込み、ベッドには香水を多少過剰に振り撒いた。そして、手首をぬるま湯で温める。

 叶が残していったフィルムは、黒いストッキングの中に押し込み、その丸めたストッキングはスーツケースの奥に入れた。
 
「もし、縛られた跡が消えたとしても、コニーに待ってたわ、会いたかったなんて、自然に笑って彼を迎えられるわけがない」

 あれは悪夢だったんだ、あんなことが新婚初夜の私に起こるわけはない。

 しかし、シーツの剥ぎ取られたベッドは、おぞましい行為が実際にこの部屋で行われたことを赤裸々に証明している。 

 麻衣の注意力は頻繁にドアのほうに向けられる。

 ショーはそろそろ終わるはずなので、コニーは何時に現れても不思議ではない。
 
「しっかりするのよ。私が罪悪感を感じる必要なんて、どこにも無いはず。私は、コニーに対して何一つ不誠実なことはしていない」
 
 再び時計に視線を投げる。

 11時50分。

 麻衣は震える足をシャワー室に引きずり、お湯の蛇口を捻る。

 ノックの音が聞こえるように、麻衣はバスルームのドアを開けてシャワーを浴び始めた。

 本来なら長い時間を掛けて体中の穢れを剥ぎ落したかったが、シャワーは5分ほで済ませた。ノックの音を聞き逃したくない。

 その晩は、何時間も掛けてシャワーに入っていても一向に支障は無かったのだ。呪われたこの夜、さらなる悪夢が待っているなどとは、その時の麻衣には想像も出来なかった。

 髪を乾かしてアイシャドウを塗り、口に紅を注す。

 時計の短針は真夜中を示している。

「ハワイの夜は更けるのが遅いものね。彼もそうそう簡単に抜けられないはずよね」

 廊下で話し声や足音が響いて来るつど、ドアまで行って耳を澄ます。しかし話し声と足音は、そのつど、麻衣の部屋を素通りして行く。
 
 時計の短針が午前1時に差し掛かった時、麻衣は初めて懐疑的になった。

 もしかしたらコニーは既にここに来たのかもしれない。そして叶さんの呻き声を聞いて、引き返したのかもしれない。その可能性も多分にある。

「もしそうだとしたら、とにかく彼に説明しなくてはならない。私は決して不誠実ではなかったことを。それで彼が去ってしまうのであれば仕方がない。でも、せめて釈明をさせて欲しい。そうだわ、彼に電話をしてみよう」

 と、思い立ったが、考えてみたら彼の電話番号も知らない。

 麻衣は途方にくれた。

「そうだ、彼が踊る予定であった隣のホテル、そこに電話をしてみれば何かわかるかも」

 麻衣はフロントに電話を掛けて隣接するホテルの番号を訊ねた。そのホテルに電話を掛けた時、多少眠たげなレセプションの英語が受話器の向こうから聞こえて来た。

「今晩は、あの、今晩そちらで行われたハワイアンショーにお伺いしたいのですが」

「はい、どうぞ」

「何時頃に終わったのでしょう?」

「担当に変わりますから少々お待ち下さい」

 そう言うなりその声は消え、代わりにハワイアンソングが流れて来る。 麻衣は辛抱強くそのハワイアンソングを聴いていた。3曲目が終わった時に担当と思われる男性が出た。

「ショーは午後10時には終わって、ダンサー達は遅くとも11時半にはここを出たと思いますが」

 午後11時半?

「そうですか、夜遅くどうも有難う御座います。ところでもう一件、その中にコニーというダンサーはいましたか?」

 担当男性の溜息から、おそらく色よい返事ではないであろうことを、麻衣は推察した。

「申し訳ありませんが、ダンサー達の名前までは判りかねますねえ。ここには毎週異なるアーティストが来てますし、メンバーも頻繁に変わっていますから」

「わかりました、それなら結構です。有難うございます」

 麻衣は受話器をゆっくりと下ろした。

 午後11時半、その時間にはもう叶は居なかった。したがって、叶の喘ぎ声が聞こえた可能性は少ない。

 かりにコニーが、午後11時半にその足で直接麻衣のホテルに来たとして、車なら5分もかからない。歩いて来るとしてもせいぜい30分程度であろう。

 それでも既に一時間以上は経っている。遅すぎる

 麻衣の記憶からは、つい先程の忌々しい経験など遠い記憶のように押しやられてしまった。今の彼女にとって唯一意味を成すことは、今晩、というよりは夜明けまでに果たしてコニ-が現れるかどうか、ということのみである。

 通常の麻衣であったら、その日の仕事を振り返り、改善点等をノートに書きつけたりしているのだが、この晩は、仕事のことなど脳細胞のどこにも刻まれていない。

 叶との関係が最悪になってしまった今、モデル業界からは干されてしまう危惧もある。しかしそのようなことは今の麻衣にとって憂事ではない。

 麻衣が希求しているものは、コニ-の訪問のみである。

 ハワイの夜はなかなか沈静せず、廊下を歩く話し声や足音は相変わらず止まない。足音が近付いて来る度に麻衣は息を潜める。そのような無意味な動作を頻繁に繰り返しているうちに鼓動が不規則になり、ついには心臓が痛くさえなってくる。

「彼も仲間と打ち上げでもやっているの?遅くなるのなら、せめて遅くなる来れないと電話をくれればいいのに。電話さえ出来ないところにいるの?」

 麻衣の中では、からかわれたのではないかという猜疑心が再び頭を持ち上げる。あるいは、全ては彼女の白昼夢であったのか。

 麻衣は、スーツケースに走り寄る。

 スーツケースを開くと、その中からはウェディングドレスが、ところ狭しと膨らみ出して来る。すなわち、ドレスは彼女の白昼夢の中にだけ存在するものではなく、実際に存在していたのだ。

 さらに、そのドレスの素材は一目で上質のシルクだとわかる。珍しい中世風のデザイン、金糸をふんだんにあしらってある。かなり値が張っているはずである。

「女をからかうためにこれほど散財して、あれほど大掛かりな大道具を用意するわけがない。それに彼は、神父様の御前で、私を妻に迎えると誓ったじゃないの」

 その時、部屋の電話が鳴り響く。
 
 心臓が止まりそうになる、とはまさにこのような瞬間のことを描写するのであろう。麻衣は電話に走った。シグナルが止んでしまったら、コニーへの連絡をする手立てはない。

「もう、全く、心配かけて、もう少し早く連絡をくれても良かったのに」

 麻衣は表情を綻ばせながら、受話器を持ち上げる。

「ハロ-、麻衣ですが」

「ハロー」

 果たして受話器の向こうからは若い女の声が響いて来る。

「ごめんなさい、まだパーティーが終らないの、あと一時間くらいベビーシッターお願いしてもいいかしら。もちろん、貴方の帰りのタクシー代も持たせてもらうから」

 間違い電話である。

 麻衣がそれを理解するためには数秒間を要した。

「貴方、きっと部屋番号を間違えているわ」

 と、言い捨てて乱暴に受話器を置いた自分の声に、かなり不機嫌なトーンが含まれていたことを自覚した。

「なんというタイミングの悪さ」

 麻衣にとって、大切な電話を待っている時の間違い電話ほど癪に障るものはない。

「間違い電話」

 すなわち、充分に番号を確認せずに番号を回した、ってこと。そうね、電話をすることなんてそんな難しいことではない。最近では、個人で携帯電話を所有している人もそれほど珍しくはない。コニ-のような職業の人なら、電話は必ず携帯しているはずだわ。つまり電話をしようと思ったら、どこでもいつでも出来るはず。

 麻衣は落ち着いて論理を立てようと、シーツの無いベッドに寝転がったが、白い天井が今にも落ちてきそうな圧迫感を受け、ベッドの端に座りなおした。

 それでも居たたまれなくなり、部屋の中を歩き回ってみる。

 いっその事、外に出て行って海岸でも歩いてみれば気晴らしになるかもしれない、とも考えたが、そうしたらコニ-と出会ったあの海岸の一角に必然的に足が向いてしまうであろう。

 そこにも彼の不在を認めた時、どこまで自分の精神状態が保てるかわからなかった。


 あの呪われた夜を、麻衣はどのようにして乗り切ったのか、忘れたことはなかったが、忘れようと今でも努力をしている。

 あの夜から11年の年月が経ったのだ。

 モデルの仕事はそれから一回受けたが、その後、きっぱりと止めた。

 最後の仕事も水着モデルであったが、ハワイロケのチームとは全く関連のない会社であった。しかし、カメラマンやスタッフが麻衣を想像で裸にしているのではないか、と一旦訝り始めたら、耐え難い屈辱感に苛まれてしまった。

 叶との出来事は、麻衣にとってはかなりトラウマになっていたが、結局、叶から乱暴を受けたことは誰にも告げなかった。当時の社会には、それほど#Metooの風潮が浸透していなかった。しかし、麻衣は晒し物になることを怖れていたわけでもなく、叶を庇おうとしていたわけでもない。

 麻衣にとっては、それどころではなかったのである。コニーが最後まで現れなかったこと、彼女にとって何らかの意味を成したことはそのことだけであった。


 麻衣は、英語が出来たので派遣の仕事には不自由しなかった。

 派遣社員として働いている間、麻衣は、目立たないように地味な装いにて勤務先に通っていた。履歴書にも、モデル業に従事していたことは曖昧に記載していた。それでも男性社員からの誘いや、女性社員から嫉妬を受けることは時々あった。

 各勤務先での派遣期間は比較的短く、社員たちとは深入りする必要もなく、煩雑な人間関係に巻き込まれることも無かった。面倒は回避出来たが、親しい友人も無く、自分から積極的に人と交わろうともしなかった。

 
 剛史と出逢ったのも、そのような派遣先の一つであった。

 そこは大手のコンピュータ会社であり、剛史は35歳にして隣の部署の部長であった。

 隣の部署といっても大部屋に多くの部署が押し込まれているので、麻衣は、毎朝彼の前を通り過ぎて挨拶はしていた。麻衣が「お早うございます」と言うと剛史は、資料から目を離さずに「お早うございます」と返すだけであった。

 また、麻衣が通訳として同席する会議にて、剛史がプレゼンテーションをしている時も多々あった。

 剛史が他部署の部長達と異なり腰が低いところに、麻衣は好感を持っていたが、それは勤務先の同僚としての感情以上でもそれ以下でもなかった。


 昨年のクリスマスイブのことであった。

 帰り仕度をしていた麻衣のところに正社員の翻訳担当の女性が来た。

「笠島さん、ちょっとお願いがあるんだけど」

 麻衣は一瞬、簡単な用事を推測した。

「何でしょう」

「この翻訳、明日までにお願い出来るかしら、A4の文書、5枚」

「5枚だったらいいですよ」

「ああ助かった。今晩はどうしても断れないよう用事が出来ちゃって、有難う」

 正社員の女性は、麻衣に向かって両手を合わせてそう言い放つと、そそくさと帰っていった。

 麻衣はコンピュータの前に座って原文を見た。

「5枚くらいだったら、なんとかなるわ」

 長い一日の後、麻衣はかなり疲労していた。しかし、技術文書であったら類似した翻訳資料から切り貼りできるのでそれほど時間は掛からないであろうと推測していた。

 しかし文書を訳してゆくうちに気が付いた。

「これは技術文書じゃない、特許明細書だわ」

 麻衣は溜め息をついた。特許は麻衣の専門ではない。特許明細書は特殊な文体なので通常は特許専門の翻訳者が担当することになっていた。

「失敗したわ。でも受けてしまったし、あの社員はもう帰ってしまったし、どうしよう」

 麻衣は特許明細書を睨みながら考え込んだ。



この記事が参加している募集

恋愛小説が好き

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?