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無駄を愛せ、自分を生きろ 《転》6日目

おはよう。

そう、noteを始めて1か月半、初めてまっとうな挨拶をしてみた。

それはなぜか。

本日はどうもネタがない。
だから少しでも、読んでくれるあなたの機嫌を取るために。

挨拶だけで、と思われるかもしれないが、挨拶ってそれくらい大事。

初対面の人ならなおさら。
第一印象は7割ほどを占めるらしい。
何のかは覚えていないが。

仲のいい友人でも大切なのには変わりない。
挨拶にはその日の体調や気分が現れる。
親しき中にもなんとやらだ。
礼儀ありもなんとやらも文字数もテンポもテンションも変わらない。
なのになぜ、こんな言い方をするか。
大差ないからだ。大差ないのなら、その選択は自由。
気分次第だ。
自分以外は関係ない。

気分次第、自分以外 Yo.

ラッパーの道は諦めよう。

ネタがないとは言っても、全くないというわけではない。
とはいえ、友達と話すような、小話くらいしかない。
わざわざこういう公共の場に出すほどでもない物ばかり。

これまでも公共の場に出せるほどの文章なんて書いたことがないくせに、
一丁前のことを言ってみた。

でYouTubeデビューしようか迷っています。すけおです。

過去一長いあいさつで幕を上げました。15:00過ぎ。

ここで、おはようが真っ当ではなくなる。
どんでん返し。

よくこれまでつらつらと日記のように続けてこれたなあ、と今になってしみじみ思い始めました。

ネタが余る日もあれば、今日のように全く思い浮かばない日もある。
ここにはどんな差があるのかってとこを、
そろそろ深堀する必要がありそうです。
考察ですね。
目的、実験方法、結果、考察、参考文献の考察。
なんか抜けている気もするし、余計わかりづらくなった気もする。

差がどうこうというより、すらすらかけるときって何で書けるのかって何かきっかけとか出来事があるからなんですよね。

自分の体験だったり、考え事だったり。

インプットなんでしょうね。

何かあれば、それについて書くことは昔からあまり苦手ではないので。
読書感想文とか、作文とか、やり始めたら結構書くのは好きでした。
というのも、無駄話が大半を占めていたことは否めません。

先日、部屋を整理していたら、高2の時、修学旅行でオーストラリアへ行った後に書いた作文が出てきたんです。

あ、もう無駄話入ってますね。お先に。

当然修学旅行の思い出みたいな、修学とつくからには何か学んだことをテーマとして書くべきであろう作文だったんですけど、

なぜか僕のは、小説調で9割がフィクション。

多分、ノンフィクションなのはオーストラリアに行ったというのと海に入れなかったという部分だけ。

というのも、学校側から海に入ることが禁止されおり、
作文を読み直すと、ただそれに対して苦言を呈すために書かれた物語でした。

そのために、
紙という資源を使い、
脳という器官を動かし、
知識という財産を無駄遣いしてました。

ここにおいても上の一文なんて何の意味もない。でも書く。

僕にとっては、無駄って自分なんですよね。

必要不可欠な部分とか、誰にでも求められるノルマみたいなのってアイデンテティーを含むのが難しいと思うんです。

無駄が自分ていうのは言い過ぎたって少し後悔しているんですけど、無駄がその人を作るといっても過言ではないと思います。

考え方によっては生きていることって無駄じゃないですか。

誰にとってかにもよりますけど、地球規模では人間が施していることってどんなに忖度してもマイナスな部分のほうが大きいと思うし、僕個人としても、街行く人が人生の中でなすことの多くは関係ないと思うんです。

「バタフライエフェクト」とか、
「風が吹けば桶屋が儲かる」という言葉がある様に、

君にいいことがあるように。
今日は赤いストローさしてあげる。
君にいいことがあるように、あるように、あるように。

知らない人が生きていることが、もっと言えば、一歩歩くことがまわりまわってメリーゴーランドになることもあるかもしれません。

はて。

でも、僕にとって、
僕が生きていることが無駄なので、
僕がやっていることが無駄だと思っているので、僕にどんな影響を及ぼそうが、
その影響も無駄です。
つまり、影響を差し出した方がおこなっていることも無駄です。

だから、すべて無駄だし、それでいいと思います。

むず。

生きているだけで丸儲けなんて言っていた人間がこんなこと言うのもなんですが、生きていても無駄だから一銭たりとも儲けられません。

でも、儲ける必要なんてないし、何かしなくてはいけないという使命だってない。
誰かの利益のために作られたロボットじゃないんだから。

だって、これだけ地球に不利益をもたらしているんだから。

それが証明している。

一つ考えられるとすれば、地球を滅ぼすことで利益を得るものが人類を創造したということ。
であれば、その者たちによるロボットである可能性は大きいかもしれない。

でも、一つ考えているのも、僕の頭の中。
組み込まれたシステムのなかで考え得ることなんて、これっぽっち。

だからもう考えるのなんてやめ。

僕らは自由なんだから、無駄なことしかやってないんだから、何だってできる。何やっても一緒。自分にとって楽しいか苦しいか。
違いはそれだけ。

だから、

ちょっとだけ無理なことに挑戦してこーぜ

ってことです。

某冒険漫画の主人公が言うように。

言いたいことはわかります。でも、ムッタは壮大な人生を冒険しているように僕には見えるので、冒険漫画で異議なしです。

何にもなかったところから、無駄であれこれだけの文字を生み出せた。
たまに思うんですけど、ひょんなことからなぜか哲学的な、答えもなければ道しるべもない、なんなら道もない方向へいつも歩きだしちゃうんですよね。

これを哲学っていうんでしょうか。

もしかして、僕の前世はマルクス・ガブリエルかもしれません。
まだ生きてるけど。20歳くらいしか変わらんけど。
レベル違いすぎるけど。

レベルって何でしょう。

同時期に生きているのが別人だとどうしていえるのでしょう。

こうやって哲学の渦に飲み込まれ、哲学の押力によるタイムスリップで少し時間を巻き戻しますが、
9割無駄で完成させたという作文のおかげで、当時の担任から目覚まし時計をもらったので、結果無駄ではなかったことになります。

一人暮らしで愛用中。

ただ、僕は朝に強いので、比較的無駄ではあります。

ちなみに、相対性理論、無知なので少し調べたらブラックホールによるタイムスリップは強い引力による時間の流れの速度低下により、未来への移動は可能であるというところのみわかりました。

今回は過去なので、可能かどうかという議論はあり得ますが、未来へ行けるなら位置関係を反対にすれば過去へ行けるでしょう。という単純な思考によるタイムスリップです。

で、強い引力への抵抗力という意味での押力を突然出現させたいう単純な思考による単純に無駄な一文でした。

No more 映画泥棒.

じゃなかった。

No waste No life,


《転》6日目
・インプット量が極小なのかもしれない
・いろんなnote読んで、
・太田伯山、太田上田、制覇して、
・今日のしゃべくりで芦田愛菜ちゃんを見て、
・たくさん学ぼう
・人生は学びの連続

では。

インプットの量、すなわち感情が動く幅や回数が他人より少ないように思うのは、恋愛をしていないのが大きいのかもしれない。

恋愛とは、それだけで七色の色を持つように見える。

という話を広げてしていこうと思っていたのだったと今になって思いだす。

夕暮れの金曜日。

ではなく、秋晴れの月曜日。

では。

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