世界の正常な部品としての私
村田沙耶香さんの「コンビニ人間」を読んだ。この作品は大学で同じ学科の学生が、おすすめの本紹介の中で挙げていた作品だった。2016年に第155回芥川賞を受賞し、2018年に文庫版が刊行された作品である。
【あらすじ】
主人公・古倉恵子は、30代半ばにも関わらず、正規の就職をせずに大学時代に始めたコンビニのアルバイトを続けていた。古倉は子どもの頃から変わり者で人間関係は希薄、恋愛経験も皆無だったが、コンビニで出会う人間の真似をしたり、妹の助言を聞いたりすることで大学生になってようやく普通の人間らしく振る舞う方法を身につけた。古倉は私生活のほとんどを「コンビニでの仕事を円滑に行うため」という基準に従って過ごしつつ、なんとか常人を演じ続けてきた。しかし自身の加齢と、それによる新たな世代の人間との干渉が増えたことにより、そのような生き方は徐々に限界に達しつつあった。そんな時、古倉はかつてのバイト仲間である白羽という男と再会する。白羽の頼みにより、二人は奇妙な同居生活を始める。周囲はその状況を勝手に「同棲」と解釈し、古倉を囃し立てる。やがて古倉は白羽の要求によりコンビニを辞めて就活を始めることになるが、面接に向かう途中でたまたま立ち寄ったコンビニで、自身の経験から図らずも店の窮地を救った彼女は、コンビニ店員こそが自分の唯一の生きる道であることを強く再認識し、就職との天秤にかけていた白羽との関係を解消しコンビニに復職することを心に誓うのであった。
(↑↑あらすじ終了↑↑)
この小説を読んだ感想として2パターン存在するという。
一つはハッピーエンドと感じる、もう一つは逆でバッドエンドと感じるという2つの読後感が読者によって異なるというものだ。
「普通」とは何なのかという問いは難しい。しかし生きていく中で、「常識」や「偏見」といったものが存在する以上、この問いについて考える機会に遭遇することが多いと思う。感情論としての「○○じゃなければならない」「○○が確実に正しい」ということはこの世の中に存在しない。むしろそういった何が正しくて何が間違っているのかなんて、自分自身が決めることであって、周りや相手が決めることではないのだと僕は思う。
という部分が本文の中で登場する。僕自身の読後感としては「複雑な感情になった」というのが一番適切かもしれない。主人公にとっては「コンビニ人間」として生きていくことがベストな決断であり、そこに対しては理解できる。ただやっぱりしっくりこない所があった。「普通」という「型」にはめてしまっているのが今の社会であり、この考え方や押しつけのようなものは消えることがないと思う。だからこそ今の時代に「生きづらさ」を感じている若者が増えているのだと思う。主人公のように生きたとしたら、変な目で見られることになるだろうし、変人扱いされてしまうのである。「普通」の対義語と調べると「希少」、「奇抜」、「異常」、「特別」と出てくる。僕自身「キミ、変わってるよね」と言われた経験は何度かある。それはつまり「普通」ではなく「異常」なのだろうか。そういったことも考えさせられる機会になった。「コンビニ人間」に戻ったことでまた、主人公は振り出し状態に戻っていると解釈するのであれば、ある意味でバッドエンド?とも捉えられるかもしれない。自分の価値基準が相手にあるのが大多数の世の中だと思う。自分自身のために生きているのか、それとも他人のために生きているのか……。「多様性」と提唱される今だからこそ、改めて自分自身の生き方について考えることができる作品だった。
作品を手掛けた村田沙耶香さんは、実際にコンビニでのアルバイト経験があるという。2016年のインタビューでは、
と語っている。僕自身も日常において何度も利用するコンビニが舞台となっているこの物語。
自分が社会の中でどんな立場なのか、何のために生きているのか、「普通」とはいったい何なのか、それらの問いの答えに正解がないからこそ非常に難しいのだと思う。
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