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明日なおるものではないから。
病気知らずというわけではないけれど、若いころは重篤な病気を経験してこなかった。熱が出ても1日や2日経てば引いたし、それこそインフルエンザだって薬を飲んで寝ていれば回復した。
それが、30代半ばあたりからだんだんと体力の衰えを感じ、40を過ぎたあたりから慢性的な疲労を抱えるようになった。
そして、突発性難聴になって、自分の生活に耳鳴りが加わった。片耳難聴の場合は耳鳴りが解消されることは少ないよう
目に見えない障害を抱えながら生きていく。
うまく言えないのだけれど、自分に比べて周りの人はちゃんとしているという感覚がずっとある。仕事にしても子育てにしても生き方にしても。なんで私は人並みのことができないんだろう。
そんな考え方こそ、自分を責めているほかないと今は思うのだけれど、ずっとそうやって生きてきたんだからしょうがない。
突発性難聴になって体の一部が衰えたことで、私の「自分は人よりまともじゃない」感はより強まった。「こんな自分、
どうにもならないことをどうにかしようとしない力。
世の中には思いもよらなかったことが起きることがある。病気になったり、事故や災害に遭ったり。
こうなるといいなと思っていた願いや希望が叶わないこともある。志望する学校や会社に落ちたり、恋人と別れたり、子どもが欲しくても授からなかったり。
そういうもう自分の力では到底およばないことが起きたときの心の持ちようというのが、私はひどく下手くそなようだ。これも突発性難聴になってあらためて感じたことだと言え
ネガティビティ・バイアスを断ち切りたい。
昔からそうではあるが、私はかなりのネガティブ思考な持ち主。たとえば明るい結果が待っている可能性が高いときであっても、それはそれで万が一ダメだったときに落胆が大きくなるから、あえて悪い結果を想定して臨む、みたいなところがすごくある。
良い結果のときですらそうなのだから、悪い可能性が考えられるときたるや!突発性難聴になったときの私の負の発動力といったらまったくもって尋常ではなかった。
・左耳の聴力
これだってひとつの死別なのだ。
病院と並行して鍼にも行った。整体にも行った。そして体だけでなく、壊れてしまいそうになっている心もケアする必要が私にはあった。
突発性難聴になってからというもの、片耳の聴力が戻らないかもしれないという不安に押しつぶされそうになったのと、実際に耳鳴りとめまいがひどいのとで、夜ベッドに入っても眠れなくなってしまった。これまでメンタルクリニックに行ったことなかった私が、初めて睡眠薬と抗不安薬を処方される
起きたことに意味はあるのか?
突発性難聴になってから、いくつもの鍼や整体にも行ったのだけれど、そうしたところで言われてモヤモヤした言葉がある。
「これは体からのメッセージ(orサイン)だ」「すべてのことには意味がある」「物事は起きるべくして起きている」……うんぬんかんぬん。
そう言われると、もともと考えすぎるタイプの私は「てことは、これまでの自分の思考や行動に問題があったってこと……?」と自分をどんどんと責めることになるの
「自分を大切にする」がわからない。
突発性難聴になった際、近所の耳鼻科から総合病院に紹介状を書かれてすぐ行くように言われたのだけれど、その際に私は一つの判断ミスをしたと思っている。
それは入院をしなかったこと。今も思い出すとギュンッとみぞおちのあたりが痛くなる。入院して点滴治療したほうが服薬よりもステロイド剤の量を増やすことができ、回復する人の割合が多いと説明され、「入院するか今から1時間で決めて」と言われた。今思うと、この病院
45歳で急に体と心が壊れた。
ずっと「なんかしんどいな」という感覚はあった。30代後半ぐらい、40に入ってぐらいだろうか。けれど、2人の子どもに恵まれ、夫との仲も悪くなく、いちおう好きなことを仕事にできて、住む家があって、ひと月に服や美容にかけるお金も少しばかりあって。不満なんて特にないと思っていた。「ない」というより、不満なんて言えない人生だろうという感覚。SNSを見れば自分よりも大変そうな状況の人はたくさんいて、自分ぐらい
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