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これだってひとつの死別なのだ。

病院と並行して鍼にも行った。整体にも行った。そして体だけでなく、壊れてしまいそうになっている心もケアする必要が私にはあった。

突発性難聴になってからというもの、片耳の聴力が戻らないかもしれないという不安に押しつぶされそうになったのと、実際に耳鳴りとめまいがひどいのとで、夜ベッドに入っても眠れなくなってしまった。これまでメンタルクリニックに行ったことなかった私が、初めて睡眠薬と抗不安薬を処方されることとなった。

そんな私の目に留まったのが、オンラインのカウンセリングサービスだ。サービスといってももちろん有料なわけだけど、あふれ出しそうな不安感や悲しみ、つらさをとにかく吐き出したい、そしてそれが外に出ずに家でできるというので私は飛びついた。

さっそく登録して、ひとりのカウンセラーの予約をとり、50分のオンラインカウンセリングをその日のうちに受けた。

結論から言うと……あまり大きな満足感は得られなかった。よく言えば傾聴型の人だったということなのかもしれないけれど、ただ聴いてもらうだけでなく、私は何か実になるアドバイスや希望を感じられるメッセージなどが欲しかったのだ。それは私の期待しすぎだったかもしれないけれど。今後またこのカウンセリングサービス自体を利用することはあっても、このカウンセラーを選ぶことはないだろう。

ただ、このカウンセラーが言っていたことでひとつだけハッとさせられたことがある。

「親が死んだとかもっと大変な病気になったとか、そうした人に比べたら私なんか苦しむほどではないかもしれませんが…」と私が言ったら、驚いたように「苦しんでいいんですよ」と言い、

「親を失ったわけではないけれど、これだってあなたにとっては大きな喪失体験です」

というようなことを続けたのだ。

そうか、今までずっと自分と一緒にあった体の感覚を失ったのだから、これだって死別のようなものなのだ。
大事なものをなくした、そしてそれはもう戻ってこないという意味では同じではないか。

私はこの先二度と前のような音色で音楽を聴くことはできない。当たり前なように周りに存在する音をクリアな音では聴けない。
それは「右耳が聞こえてるからよいでしょう」「会話できるから普段の生活には困らないでしょう」という話ではないのだ。父親が死んだ人に「母親は生きてるんだからいいじゃない」なんて声をかける人はいないだろう。

これだって私にとってはひとつの死別なのだ。悲しんだり、落ち込んだり、悔やんだりするのは当然だ。

今もまだ、ふと涙が急にこぼれることがある。でも今はそんな自分にも「受け入れるのに時間がかかっていいんだよ」と言ってあげられる。45歳、人生の後半戦。失う人や物はもっと増えていくだろう。これまであまり身近な人との死別を経験してこなかった私にとって、これはその練習台だと考えるのはどうだろうか。練習台にしてはちょっと失ったものがデカすぎではあるけれど。

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