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【連載小説】息子君へ 102 (23 ブサイクなひとたちにとって世界はどんなものなのか-4)

 君はみんなが気にしないことを気にしながら、誰だって同じようなものだとみんなが思っていることについて、ひとそれぞれに違っていることを確かめて、そのひとらしさのそれぞれの成り立ちを感じていかなくてはいけない。
 俺があれこれと書いていることは、君がそういう面でお母さんよりも俺の気質を引き継いでいれば、何を言いたいのかだいたいわかるのだろうけれど、かなり多くの男には、この手紙の内容のかなり多くが、どういうことについて書いているのかさっぱりわからないことなんだと思う。
 はっきりと発達障害的な症状があるようなひとは、さすがに自分はみんなと同じではないと思いながら生きているのだろうけれど、薄いグレーゾーンだったり、成長過程でひとの気持ちをあまり感じないようになっていったくらいの男たちというのは、自分がひとの気持ちを感じる能力が低いことを自分でわかっていない場合がほとんどなのだろう。
 そういうひとたちは、多くのひとがその場にいる全員の気持ちをいつもリアルタイムになんとなく感じ続けているのに、自分は意識して見たり聞いたりしているひとがどういう状態なのかということしか感じていないということをわかっていないのだと思う。飲み会でも、会議の場でも、自分とか自分と同類の鈍感な男たちだけが、自分のことしか感じていなくて、自分が何を言ったかとか、自分が何を言われたかしか覚えていないような、その場全体に対して圧倒的に鈍感な状態で過ごしているということを認識できていないのだ。そして、そういうひとたちは、自分たちが肉体的なレベルで鈍感なのに、むしろ他のひとたちのことを、わざわざいろんなことを気にしようとしすぎている側だと思っていたりするのだ。
 男にはかなり多くそういうひとがいるから、自分だけが鈍感に思えるようなシチュエーションというのがめったになかったりするのだろう。鈍感なひとからすれば、自分とノリが合うような仲間で集まっていれば、その場にいた半分くらいが、自分のことしかほとんど感じていない状態だったことも多いのだろうし、その場で浮いてしまうようなことをしないでおけるくらいに空気が読めていれば、自分のグループには自分と同じような鈍感なひとばかりだし、みんなの気持ちをちゃんとわかっているつもりでいられて、まわりのひとの気持ちをリアルタイムに感じていないことに自覚がないままになるのは自然なことなのだろう。
 けれど、ほとんど何かに気持ちを動かされたりすることなく丸一日を過ごしているようなタイプの男というのは、とてつもなく多いのだと思う。職場に通って他人と多少は喋るような生活をしていても、言うとよさそうなことを言って、いい感じになったら笑って、あとは聞かれたことに答えるだけでやっていけるのだし、何かを思ったりしないまま毎日が過ぎていってしまうのだ。いらいらしているか、バカ笑いしているか、あとは面倒だから何も考えないようにしながらへらへらして、ひとりになればスクリーンを見詰めて無表情になっているだけの毎日を送っている男なんて、どこにでもいくらでもいるのだろう。
 そういう男たちが何に気持ちを動かされないし、何も思っていないというのは、比喩ではなく、本当に何も思っていないんだよ。自分の頭の中の雑念みたいなものをごちゃごちゃやっているだけで、だから、みんなで集まって何かをしたとしても、そういう自分のことしか感じていない男たちだけが、自分のしたこと以外、その場のいろんなことを何も覚えていないし、その場にいるみんなのことをどんなひとたちなのか全然わかっていなかったりするんだ。そして、それはどこにいてもそうなんだ。そうでなければ、生まれてからずっとたくさんの女のひとたちの姿を見て、女のひとたちの発した言葉を耳にしておいて、女のひとたち全般に対していろんなことをあまりにも勘違いしまくっている男があんなに多いわけがないだろう。男たちの多くは、ひとりで好きにしているときと、仲間と関わっているときしかまともに何かを感じようとしていなくて、視界の中に女のひとがいたからって、仲間といるときの自分のノリのまま、自分の思いたいことしか思っていないのだ。
 それは男たちの集団や男たちの文化に毒されているということでもあるけれど、毒されているからそうなっているわけではないんだ。そういう仲間がいて、そういう感じ方を共有しながら時間を過ごすのだから、どうしたってその集団の文化を内面化してしまうところはいろいろと出てくるものだろう。問題は、男たちの集団のノリとか文化の中で形成された自分しか自分がないことなのだろう。女のひとたちや、それまで関わりがなかったひとたちとの関わりの中で、自分が慣れ親しんだ男集団のノリではうまくやれない相手とうまくやれるように、そういう相手と向き合うときにしっくりこれる自分の感じ方を新しく作り出していくという経験をしてこなかったから、女のひとと接するときに、男たちの中で過ごしているときのノリのままでものを考えて振る舞っているのだろう。
 男たちは、よくわからないからいつも通りに振る舞っているというようなつもりなのだろう。けれど、そのいつも通りのノリというのは、女のひとたちからすれば何もかもが勘違いの集まりでしかないような、男たちが自分たちで楽しくやるために積み重ねてきた、女のひとを都合よく利用したり、女のひとをバカにして楽しむ文化を当たり前のことのように思った振る舞いなのだ。そして、女のひとたちが、そういうノリのままで接してくる男たちに慣れていることで、男たちはそのままで放置されてしまうことになって、いつまでも無邪気に勘違いしたことを当たり前のように思ったまま、目の前の女のひとの気持ちをまともに感じないままで生きていくことになるのだ。
 だから俺は、君は自分らしくあろうとするべきだと繰り返しているんだ。誰とでも自分らしく接しようと思ったら、誰にでもいつものノリで接するなんてことはできない。どういうひとが相手であっても、お互いの接点を探りながら関われるようなものの感じ方が必要で、特定の集団の文化にまるっきり染まった状態では、話が通じないときには、開き直って一方的なことをするか、相手の方が立場が強ければおとなしくするしかなくなってしまう。
 人間は集団でしか生きられないし、集団の中でしか自分の価値を確かめられないし、集団の中で、みんながそうしているからと行動しているときは、空気だけを感じるみたいになって、それぞれのひとの気持ちを感じなくなってしまう。楽しければいいというだけなら、それで充分なのだろう。自分らしくありたいと思って、自分がそう感じてそう思うのなら、ちゃんとそうしようという気持ちを抱え続けていないと、楽しければいいというのと、面倒くさいことはしたくないということくらいしか思うことがなくなってしまう。面倒くさくなってしまったのなら、ひとはすぐに自分の心で何か思うのを止めて、さっさとやるべきことをやってすませてしまおうとしてしまうし、そのやるべきことは、男集団の中にいるときには、男たちのいばりたがる文化のうえで、みんなとできるかぎり楽しくやることになってしまう。
 男集団で騒いで遊んでいるには、下品なことを言うのなら、より下品なことを言うほど楽しくなれるのだろうし、ゲスいことを言うのにも、よりゲスいことを言った方が楽しくなれる。そういうときに、ひとの気持ちがわからなくて、自分が何か思いついて、自分が楽しければそれでいいというだけで行動できてしまうひとが、より下品でよりゲスいことを率先して言って、爆笑が起こって、そういうことがその集団のいつものパターンになったというケースがたくさんあるのだろう。そして、そういう集団に馴染んで、その集団で楽しくやって、その集団の中での自分を自分らしい自分だと思いながら成長することで、他人の気持ちを感じないノリの中での経験が自分の人格の中心になっていって、日常的な他人への眼差しにもそれは侵食していくのだろう。そうやって、男集団の中で自分の心をあまり働かない心にしていった男の子たちというのが、とてつもなくたくさんいるのだと思う。そして、そのうちの何割かが、心のある彼女に心を教えてもらって、少しは人間らしい方向に軌道修正できたりするという感じなのだろう。
 ひとの気持ちを感じていたところから、ひとの気持ちを感じないようになっていくというのは、簡単にそうなれてしまうことなのだろうと思う。他のモチベーションでものを見るようになればいいのだし、仲間の真似をするのなら、そんなものは簡単に身に付けられるのだろう。
 変態じゃなくても、変態のポルノで勃起できるし、そういうポルノを一生懸命見ていれば、より変態なものにも興奮できるようになっていく。人間はそもそもそういうように感じ方を学習して発展させていけるし、だからこそ、自分の勃起に執着しながら生活することで、道行く女のひとを性的に消費するような眼差しで見る楽しみにも習熟していけてしまうのだ。
 人間の頭とか心はそんなふうにものを感じることもできるというだけではないんだ。本人はそんなつもりなのかもしれないけれど、そんなふうにものを見て楽しんでいたら、すぐにそのひとはそんなふうにものを見るひとになってしまう。どこかで見知ったゲスいものの見方を自分でも試して、それが簡単に自分を楽しくさせるものだったときには、ひとは次からもそんなふうにものを見たがるようになるし、ゲスい目で見て楽しみたいというモチベーションがあれば、かなり多くのものをゲスいことを思いながら楽しい気分で見ていられて、そのひとは、特に何があるでもなければゲスい目で周囲を見るようになっていく。そうなっていくほどに、そのひとは相手をまともに見るということがなくなっていって、誰かに目が止まったのをそのままにして、そのうちに相手の気持ちが伝わってきて、相手がどういうひとなんだろうなと、だんだんと何かしらの印象が浮かんでくるような、そういうゆっくりとした眼差しでひとを見ていたことが自分にもあったことを忘れていって、何か見たらすぐに頭で何か思うようになっていく。そして、何か思おうとしたときに浮かんでくるのは、日常的に頭に詰め込まれていくゲスいものの見方による下品な観点になってしまう。
 それがゲスいことばかり言ってげらげら笑っている男集団の中で暮らしながら、特に大切に思っているものも夢中になっているものもない男たちの一般的な日常なのだろう。そういう日常が、女のひとが身近にいる環境で育てば、遅くても中学生の間には始まってしまうのだ。

 大学の学生寮にいた頃に、どういう流れだったかは忘れたけれど、仲のよかった先輩の部屋に行って喋っていたら、あとからその部屋に来た別の先輩が自分の人生の展望みたいなことを話し始めて、俺はとにかく仕事で成功して金持ちになりたい、俺はいい女が好きで、きれいでスタイルがいいひとがよくて、自分は将来金持ちになっていい女を奥さんにもらうと言っていて、びっくりしたことがあった。そういう物言い自体は、漫画とかテレビでは何度も見ていただろうけれど、俺はきっと、そういう物言いを時代がかったものというか、女のひとを所有物のように思っていた古い男たちの物言いのように思っていたのだと思う。学生寮に入った時点で、先輩たちが新入生の中から希望者を募って安いフーゾクに連れて行ってあげていて、それなりに多くの一年生が連れて行ってもらっていて、今もそういうものなのかと思ったりはしていた。それでも、フェミニスト的な価値観の母親に育てられて、思春期に一人の同年代の女のひとの名前も覚えないし、一人の同年代の女のひとの顔も認知することがなかった生活を送った十八歳とか十九歳の俺にとっては、目の前の二十一歳とかそれくらいの男が、外見だけで女のひとをいい女認定して、金持ちになればそういうひとを手に入れることができると思っていて、それこそが自分の人生がうまくいった証となるものだと思っているというのは、わけがわからないことだった。
 その頃までに俺が見ていた恋愛の描写を含むコンテンツは、ほぼビバリーヒルズ高校白書とかのいくつかの海外ドラマだけで、それらはどれも、みんないいやつで、みんなかわいくて、ちょっとした出来事があれば寝るし、いいやつ同士なら気軽に寝たからってそんなにひどいことなんて起こらない、という恋愛しか描かれていなかった。当時自分に恋愛観があったとすればそういうものだったのだろう。そして、その恋愛観からしても、二十歳過ぎの男がトロフィーワイフを手に入れることを人生の目標にしているというのはわけがわからないものだった。
 そのひとはそんなに嫌な感じのするひとではなかったけれど、身体が小さくて細くて、顔は取り立てて目立つわけではなくて、喋ってすぐにこのひとは頭の回転は早いなと感じるようなタイプではなかったけれど、自分では自分をそこそこ賢いと思っていそうな、猜疑心は多少強そうなひとではあった。今の時点では身近にいるいい女には相手にしてもらえないけれど、金持ちになれば、そういう女のひとと結婚できると思っていたということなのだろう。今の時点では相手にしてもらえないような、自分とは噛み合うところのないような女のひとのことを、きれいだからとか、いい身体をしているからと、いい女だと思っていて、今は手に入らないけれど、いつか社会的に成功した側になれたら、そういうひとたちも自分になびいてくれるはずだし、自分はその中から一番いい女を選ぶんだとか、そういうことを堂々と後輩に語って聞かせようとできるくらいに、何の恥ずかしげもなく思っていたのだ。むしろ、男らしい野心みたいなものが自分にはあるんだと、そういう思いを持っていることに自分でうれしく思っていたりしたのかもしれない。
 俺はその頃はまだ恋愛をしたことがない状態だったのだと思う。けれど、話していて楽しいひとはいたし、それが好きという気持ちなのかはわからないなりに、かわいいなと思って、できるならもうちょっとそばにいたいような気持ちになったりもしていたけれど、そこにはいい女だとかさほどでもないとか、そういう観点は全くなかった。現実に女のひとと関わりながら、どうしたらそんなことを思っていられるんだろうと思ったし、逆に、だったら今はどんなつもりで今のところ付き合える女のひとと付き合ったりしているんだろうかと思った。
 当時はただただわけがわからないなと思っていたけれど、今から考えれば、その先輩というのは、現実の女のひととの関係の中では、ほとんど感情の行き来を感じ取れていないようなひとだったのだろう。ひととひとが同じ場所にいて、お互いの気持ちを感じ合いながらお喋りしたり、一緒に何かをしていれば、自然と相手のそのひとらしさを感じ取れるようになってくるし、そのひとらしさがどうにも魅力的に思えるひとも出てくるものだろう。そういうことが、そのひとには起こっていなかったのだと思う。
 そのひとはぱっと見てキモいひとではなかったけれど、格好いいという感じではなかったし、モテない男にありがちな現実の見えていない自己評価をしていて、自分に釣り合わないと勝手に認定した相手をブス扱いしていて、けれど、自分が妥協半分でちょっといいかなと思うような女のひとでも自分を選んでくれることはなくて、思春期以降、女のひとに対して素直な気持ちを向けられた瞬間なんて一切なかったのかもしれない。そんなふうにひねくれて半分心を閉ざしながら間違った現実認識に固執している状態だったから、一緒にいていい感じになれるからという普通の好きになり方でひとを好きになろうとすることができないままになっていて、その腹いせも兼ねるようにして、世の中の格好よくないけれど、金はあってきれいな奥さんを連れているひとたちを見て、自分もああなるんだと、社会的に成功するまで自分のことを認めてくれない女のひとたちを憎んだり、社会的に成功したら自分のものになってくれる未来の奥さん候補のことを妄想の中で蔑んだりして過ごしていたのかもしれない。
 その先輩が生まれつき共感能力が低いようなひとだったのかはわからない。モテないことに自分でストレスを感じすぎて、感じ方が歪んでしまった感じだったなら、その後社会に出て、仕事ができるようになって、自分に自信がついて、他人に対して防御的なところが減ってリラックスできるようになって、後輩の面倒もまともに見られるようになったりして、自分の気持ちに相手が気持ちで反応してくれることに喜びを感じられるようになって、自分と似たちびで貧弱な身体をしたちょっとひねくれた気の合う女のひとと付き合って結婚したのかもしれない。けれど、その先輩が俺に話してくれたときの人生観のままで、それなりの給料がもらえるようになって、そういうことをアピールしながら女のひとにアプローチを繰り返して、それなり程度の給料だから、びっくりするような相手からは相手にしてもらえないけれど、顔はそこそこで、身体はけっこう好みだと思えるような結婚を焦っているひとと結婚できて、けれど、まともに会話が成り立っていないし、二年もすればほとんどセックスレスになるし、夫婦ともに太りだして、子供が生まれてからは生活も余裕がなくて、いまいち奥さんのためにも子供のためにも生きる気になれなくて、金をごまかしながら、とにかくスタイルのいい女の子を求めて各種風俗サービスをたまに利用するのを楽しみに生きているとか、そういう未来の方がよりありえそうに思ってしまう。

 その先輩だったひとの人生の展望は、大学生だったときに大学生に素面で真面目に大事なことを話すみたいにして言われたからびっくりしただけで、先輩の世代では、さほど特殊な価値観ではなかったのだろう。多くの男たちが、さほどゲスいところがあるわけでなくても、心底からあっけらかんとゲスが思うようなことを思っていたりするのだ。女のひとは控えめでおしとやかであってほしいとか、男を立てられるひとがいいとか、料理もできないなんて女のひととしておかしいんじゃないかとか、俺と同世代でもそんなことを思っているひとはたくさんいた。もちろん、女のひとだって、男は強くなくてはダメで、いつでも体を張って家族を守って、奥さんにはいつも恋人気分でいさせてくれて、ちゃんと稼げておしゃれでお喋りも面白くないと嫌だというひともいるのだろうし、実際にそういう条件を満たしているひとがいるといいなと思ったりするのだろう。
 そういうひとたちというのは、現実よりも自分の頭の中の方が好きなのだろうし、自分の頭の中にあるものを現実の中に手に入れたいという感じ方なんだろうなと思う。そして、それにしたって、ひとの気持ちをまともに感じ取っていないからなんだろう。視界に入っているひとたちのひとそれぞれを感じながら、それぞれのひとに何かを思って、自然と誰かを好きになってしまわないから、自分はどういう女のひとが好きなのだという自己イメージに固執していられるのだ。
 目の前にいる相手をまともに感じていれば、そんなふうにはならないはずなのだ。日々いろんなひとにいろんなことを感じていたり、いろんなひとといろんな人間関係を持つ中で、自分自身の感じ方はだんだんと変わっていく。そして、視界の中にいるひとをただ感じていれば、自分が経験してきた感情の深まりや広がりによって、それぞれのひとのそのひとらしさをより相手の気持ちに寄り添える形で感じ取れるようになっていく。それによって、いいなと思うようなひとが変わっていったり、いいなと思う思い方が変わっていったりする。自分はどういうひとが好きで、そういうひととどんなふうに楽しくやりたいという自己イメージがなくても、ただ視界に入っているひとのそれぞれの気持ちをなんとなく感じ取っているだけで、そのときの自分が好きになるようなひとをちゃんといいなと思うようになっているはずなのだ。
 自分の好きになる異性はどういうひとであってほしいというイメージがあること自体が、何かしらグロテスクなことなんだろう。自分が好きになるひとであれ、自分が好きにならないひとであれ、みんな自分の好きにすればいいというだけで、好きになって一緒にいたくなったら、そのひとと自分なりの関係を作っていけばいいというだけだろう。そういう当たり前の人間と人間の対等さをすっ飛ばして、誰かがそのひとなりに生きている姿に対して、女としてどうだとか、男としてどうだということで誰かを価値のないものとしてこき下ろすというのは、どういうことなんだろうなと思う。
 相手を見ていたり、相手と一緒にいるとどんな気持ちになるのかということが、自分にとってのそのひとの価値そのものだろう。けれど、そんなふうには感じないひとたちがいて、そういうひとたちは、どうしようもなく、何の悪気もなく、ひとの気持ちはあまり感じないで、自分の見たいものだけを見て、自分の思いたいことを思っているのだ。どうしたってそういうひとはたくさんいて、男はそういうひとだらけなくらいだったりする。それが世界だとして、しかも、その世界には外見至上主義的文化が広く共有されているとしたら、ブサイク扱いされるひとたちにとって世界がどういう場所になるのかということなんだ。




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