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【連載小説】息子君へ 103 (23 ブサイクなひとたちにとって世界はどんなものなのか-5)

 心がないみたいだということがどういうことなのかわかってきただろうか。思春期の途中にはすでに心がないみたいになったうえで生きているひとがたくさんいて、そういうひとたちは、集団の力学というか、集団が生み出す磁場のようなものに引っ張られるままに行動して、その行動が相手の顔をどんなふうに歪ませているのかということも全く感じないまま、自分の頭を気持ちよくさせるネタを探す視線しか現実に向けることがなくなっている。
 ブサイクをブサイク扱いするひとたちも、いじめてもよさそうなひとをいじめるひとたちも、本人にとっては、ただそうしてもよさそうだからそうしているというだけで、それは最初から最後まで、徹底的に集団内の序列の問題でしかないのだろう。
 そういうひとたちは、いじめられるひとを探していて、個人的にいじめられそうなひとがいれば個人的にいじめるし、そういう相手がいなければ、集団内でいじめてもいいことになっているひとを探して攻撃しようとするのだろう。自分がむしろいじめられたり軽視されたりする側であるひとや、自分が集団内でいじめる側と認知されていなくて、自分が誰かをいじめようとすると調子に乗るなと攻撃されそうに思っているようなひとたちも、その集団ではおとなしくして、家に帰って奥さんを殴ったり、子供を虐待したりするのかもしれない。家族にあたるのを我慢しているひとたちや、そもそも家族がいないようなひとたちは、店員や水商売の女のひとに攻撃的な態度をとったり、駅で弱そうな女のひとにわざとぶつかったり、インターネット上で誰かが不特定多数に中傷されていたら、叩いていいのなら自分も叩こうとそれに加わったり、それも面倒くさければ、便所の落書きのようにしかひとの目に触れないことをいいことに、インターネットの記事にいらいらした気持ちをぶつけるためだけの文句をコメントとして書き込んだりしているのだろう。
 どうしたところで、人間がいじめる動物だということが根本にあるのだ。ルッキズムは一つの文化というだけで、それがいばったりいじめたりするのに利用可能なものの見方の一つになっているというだけなんだ。集団内での地位を見ていじめられそうな相手をいじめようとしているだけで、見た目が悪いからといっていじめられやすいともかぎらなかったりする。顔が整っていないからといって、バカにしたような気配を出せばすぐにでも殴ってきそうな雰囲気を発しているひとはブサイク扱いされないのだろう。ブサイクならブス扱いされるわけではなく、いじめられるブサイクもいれば、いじめられないブサイクもいる。
 容姿が何かを決定付けたりはしないのだ。人間とはそのひとの存在感と影響力で、それに肉体の見た目が影響するというだけなのだろう。ひとはそのひとの内面の動きの気配を含めた全体をとらえて、不快なもの感じ取ったり、敵意を持ったりする。逆に、そのひとがまわりのひとからしたときに、特にどういうひとでもなくて、容姿くらいしか意識がいくところがないから、容姿だけで判別されて、地味なひととか、ブサイクなひととして扱われるというのもあるのだろう。そして、容姿を含め、そのひとの全体の印象として見ていると腹が立ってくるやつだから、そのひとがブサイクじゃなければ適当な理由をでっちあげていじめるし、そのひとがブサイクならブス扱いして相手を傷付けようとするという感じなのだろう。むしろ、いじめる側からすれば、いじめられそうなひとたちの中で、いじめようという気にさせるものをそのひとが発していたり、そのひとの属性とか、そのひとの置かれた状況がいじめるのにちょうどいいとか、そういうお膳立てがあったから、だったらそうしようかと、そのひとをいじめているような感覚だったりするのかもしれない。
 現実的に、統計的な見方をした場合には、多くのひとから美しいと見なされる容姿をしたひとほど生まれつきの知的能力が高い傾向があるのだし、それは逆に、多くのひとから美しくないバランスだと見なされる容姿をしたひとほど生まれつき知的能力が低い傾向があるということなのだろう。逆に言えば、みんながのろいひとだなとか、言ってもわからないひとだなと思っていらいらしてしまいがちなひとというのは、多くのひとが美しくないと感じる容姿をしたひとであることが多かったりもするのだろう。
 日本の場合、見た目が整っていることと知能の高さはそこまで比例していない気はするけれど、見た目のバランスのよくなさと知的能力の高くなさは、全体の平均ではなく、特に見た目や知能がよくないひとたちのグループで見たときには、相関関係が認められてしまうんだろうなと思う。そして、その傾向というのが、ルッキズムを強く後押ししているのだろう。いじめる側からすれば、ブスだからいじめているわけではなくて、何をするにものろいとか、言ってもわからないとか、みんなのノリについてこないとか、空気が読めてなくて自分勝手なことばかりするとか、そういうことでいらいらするから攻撃的に応対してしまうことがあって、そのときに見た目がブスだから、ブスだということも攻撃材料になってしまっているだけだとか、そんないいわけが頭の中で成り立つことで、気を楽にしていじめられていたりもしているのだろう。
 多数派のひとからして、自分の思ったような反応が返ってこなさすぎて一緒にいるといらいらするひとというのはいて、そういうひとはいじめられたり、冷たく応対されたりしがちになるのだろう。それはほとんどの場合ブサイクだからというわけではなく、ブサイクでもみんなにとって面白いひとなら輪の中心にいるのだろうし、集団内でいらいらされて、いじめられるひとがいて、そこに容姿の問題が絡んだときに、容姿でも攻撃されるという感じなのだ。
 実際には、ブスとかブサイクとして冷たく扱われてきたことで、心が閉じかけていたり、心身の機能が低下していることで、他人からするとのろまに感じられているというのもあるのだろうし、いじめるせいでのろいのに、のろいからいじめるというのはあまりにひどすぎるのだろう。けれど、いじめる側は自分たちの方が迷惑をかけられているというつもりだし、そんなふうに思えるわけもないのだ。
 俺もそうだけれど、みんなのろまなひとを好きになるのがどうしても難しいのだろう。みんなが共通のノリや共通のネタで楽しんでいるところで、その一体感を乱すひとというのは、どうしたところで邪魔なひとになる。邪魔なひとがいてはいけないわけではないし、いつものノリではやれなくても、そういうひとも混じっているときのノリでやればいいはずだけれど、そのひとがいない方がもっと楽しいのになと思うのも、それはそれで本当のことなのだから仕方がないことではあるのだろう。
 多くの場合、一体感を乱さないというのは、マナーというよりも、お互いを集団の一員として認め合う上での、ほとんどルールのようなものになっている。そもそも、見た目も喋ることもやろうとすることもみんなと同じなら、いじめの対象になる可能性は低いのだろうし、だからこそ、多くのひとは、まわりのひとに自分を寄せていこうとするのだろう。みんなと同じになろうとしてもなれないようなひとがいじめられやすいのだろうし、みんなと同じでなさとして目に付きやすいものが、体型の違いとか、顔の違いなのだろうし、みんながわかることがひとりだけわからないとか、みんなが持っているものをひとりだけ持っていないとか、みんながしていることをひとりだけしたことがないとか、そのあたりになってくるのだろう。そして、みんなのノリを乱しがちな傾向というのは、生まれつきの知的能力と相関関係にあるのだろうけれど、知的能力が低いことは容姿が美しいと見なされにくいことに統計的なレベルでは相関関係があるのだろうし、それだけではなく、肥満度ともゆるい相関関係があるのだろうし、家庭の貧しさともゆるい相関関係があるのだろう。
 みんなから浮いてしまうことで、仲間に入れてもらえなかったり、無視されたり、軽く扱われたり、いじめられる経験をする可能性というのは、みんなに均等に振り分けられているわけではないのだ。生まれつきのそのひとの性質によって、初めから悪意的な行動を向けられやすいひとがいて、いじめたいひとがいる集団に所属しなくてはいけなくなるたびに、そういうひとが高い確率でいじめのターゲットになっているのだろう。
 君はどれくらいいじめに巻き込まれてきたのだろう。必要があって仕方なくやっていることはいじめではないのだ。気に入らないひとがいて、一緒にいたくないから、なるべく無視して、寄ってきても毎回はっきり拒否して、仲間に入れるのを嫌だと断り続けるのはいじめではないだろう。いじめというのは相手を傷付けて楽しむためにやっていることで、自分が集団内で圧倒的に権力を持っていれば、自分の気分次第で誰をいじめていてもいいのだろうけれど、そういうことはありえないから、いじめても自分に不利益なことが起こるリスクが低そうな相手を、自分が相手を攻撃する正当性があるかのような態度でいじめるのだろう。気に入らないひとを選んで攻撃するというより、暇だからおちょくってもよさそうなひとをおちょくっておこうとするような動機でいじめている場合も多いのだろう。その延長で、なるべく楽しくおちょくろうとしたら暴力的になったりとか、なるべくまわりのひとが面白がってくれるようにおちょくったら侮辱的になったりとか、そんな楽しさを動機にしたいじめもあるのだろう。
 時代によってやっていいいじめが変わっていくだけで、集団内の序列に基づいて気に入らないやつを屈服させたいという気持ちが人間から消えることはないのだ。何かしらのいじめ方が廃れても、現状いじめと言われるものが全てなくなっても、いじめとはみなされないことで他人に圧力をかけることはこれからもずっと続くのだろう。それでも、時代が下るほどに、世の中で許されているいじめの暴力性がだんだんと下がっているのだから、世の中はマシになっているのだし、人類は進歩しているということなのだろう。けれど、その進歩には限界があるのだろうし、どうしたって人類は、ドラッグでみんながいつでもいい気分をキープできるようになったりでもしないかぎり、いばりたいという気持ちを捨てることはないのだろう。
 どれくらいいばらずにいられたかということで自分の人生を評価できたりするくらい、いばりたがるかどうかは、君がどんな人間だったのかということに直結することなのだ。君が君らしくあるということだって、ある意味では、いばれそうだからといっていばろうとしないことだったりする。いばると気持ちいいからといって、いばるというのは集団のみんなが認めている権威に自分を合わせていくことだし、いばりたがるほどに、みんなから内心でバカにされるだけじゃなくて、君は自分らしくなくなっていくんだ。

 俺が多くのひとが自分の気持ちをまともに感じていないし、多くのひとはちっとも自分らしさなんて持っていないと書いてきたのがどういうことかわかってきただろう。
 人間はそういうもので、世の中の多くのひとは、集団内での序列がそうだからと、見た目のよくないひとをバカにしていいと思っているし、ダサいひとをバカにしていいと思っているし、言ってもわからないひとをバカにしてもいいと思っているし、見た目がよくないひとやダサいひとを傷付けるようなことをして楽しんでもいいと思っている。世の中がそんなふうであることで、顔が整っているかどうかというような、そのひとがいい顔をしているのかとは関係のないことが、そのひとがいい顔をして生きていられるのかということに大きく関わってくるようになってしまう。みんな顔の作りを見てかわいいと思っているわけじゃないのに、顔の作りのいいひとばかりがかわいい顔で笑えているかのような世の中になっている。
 もちろん、俺だってそういう世の中の存続に加担してきたのだろうと思う。俺は確かに顔がどうだろうとわけへだてなく接してきた。けれど、俺は傷付きすぎて元気が出なくなっていて、いい顔で笑うのも難しくなっているようなひとたちのことを、つまらないひとだなと思ってきたし、関わりを避けはしないけれど、自分から関わろうとはしてこなかった。そこにいるだけの、自分とは関係のないひとのように思ってきたのだろうし、関わるたびに、やっぱり面倒だし、結局徒労に終わるんだよなと思ってきた。みんながブスを軽く扱って笑おうとしているときに、全くそのトーンに付き合わないようにして、空気を乱すようなことはしていたけど、それだって、別に非難がましくはやっていなかったし、単にノリが悪いと思われていただけだったのだろう。
 けれど、君はそういう面でノリの悪いひとになることすら難しいのかもしれないとも思う。俺がわけへだてがないのは、集団内の価値観にあまり同調する気がなかったからなのだろう。中学高校は女のひとがまわりにいなかったから、ブスをバカにする機会もなかったし、大学に入るとみんな普通にブスをバカにしていたけれど、俺は誰のことも特にブスだと思っていなかったし、そういう話には乗らなかった。ギャグ漫画なんかで面白いブスのいじり方を見て爆笑はしてはいたし、ブスだと思っているわけではなく、純粋に冗談として思いついたときにそれを言ったりはしていたけれど、それは男だけでいるときだったと思うし、相手が傷付くような状況ではそういうことは言わなかった。
 俺の場合、親より友達の影響が大きい時期に、女のひとに関連することを全く友達と話さなくて、そして、女のひとがまわりにいる状況になった頃には、友達がどう言おうと自分の感じ方の方を優先するようになっていた。男集団で何年も女のひとをバカにする話をしてきたひとたちが、女のひとの容姿についてどうのこうのと話しているのを聞いていても、そういう語り方に馴染みがなかった俺からすると、どうしてそんなに女のひとをバカにしたようなことを言うのか、よくわからないというばかりだった。
 君の場合、小学生の頃には恋愛をテーマにしたコンテンツも見るのだろうし、ポルノも見るのだろうし、そういう話を友達ともするし、女のひとについての話もするのだろう。そして、そういうことの話し方というのも、インターネット動画とかインターネットの投稿で見たような、口に出すと気分が上がるようなゲスい物言いをたくさん使いながらみんなで喋ることになるのだ。
 そう考えると、君に友達がいたとして、君が女のひとをバカにする物言いをして楽しくなることに馴れ親しまない可能性はあるんだろうかという気もしてくる。君に友達がいたら、そんなことは不可能なのかもしれない。
 そもそも、友達がいるということがそういうことなのだ。人間は集団で過ごしているときに、同調し合って一体感がある状態をキープしようとする性質がある。世界を自分が一体感を感じている集団とほとんど同一視してしまう心理状態に人間は簡単に陥ってしまうものだし、友達がいる子供にとっては友達が世界そのものなのだろう。君だって、集団の中で過ごしているときには、そういう方向性に気持ちは引っ張られてしまう。そして、引っ張られるままに、集団の中でうまくやろうとして、集団の中でそれなりにやれている自分にいい気になってしまえば、集団の中での自分のことしか考えられなくなってしまうのだ。
 そうならないためにも、君はうまくやることよりも、自分が感じていることをちゃんと自分で確かめながら、自分がそうしたいと思うことをしようとし続けないといけない。君が集団の中で、そのとき中心になって振る舞っているひとのことが気に入らなかったり、そのひとの言動に対して不信感や不快感があるのなら、その集団にいる間ずっと、その集団がそういうノリに引っ張られていることを不快に思い続けているべきなんだ。その集団は、たまたまそういうメンバーで構成されて、たまたまそういうひとが中心になってできたノリで動いている。自分が毎日何時間もそこで過ごして、自分の人間関係の中心がその集団での人間関係だったとしても、それでも、君はその集団を世界そのもののように思って、そこで行われている不愉快なあれこれを、そうするしかないことのように思って自分でもやってしまわない方がいいんだ。気に入らないやつがいたら、集団内でそのひとの方が自分より集団の中心的な場所にいたからって、ずっと気に入らないなという顔をしていればいい。そうすれば、その集団の中心から外れたところで少人数であれこれ話しているときに、集団に対して気に入らないと思っている気持ちのままで誰かと話すこともできる。君はそういうひとと友達になれていればよくて、君が嫌な感じだと思ったなら、そいつは本当に嫌なところがあるはずだから、そのひとが嫌な感じを発し続けているかぎり、ずっと嫌だなと思っておいて、嫌な感じの言い方で何か言ってこられたら、しらけた感じで返事をしていればいいんだ。
 もちろん、それは簡単なことじゃないのだろう。けれど、君が自分の友達集団みんなのことを仲間だと思って、みんなでああだこうだと楽しんでいることに、楽しいんだからこれでいいんだとしか思っていないのなら、君は自分の自分らしさを守ることができなくなる。そして、自分らしさのことなんて思いもしないひとたちが、いじめたくなったからといって、いじめても大丈夫そうな誰かをいじめているんだ。
 君が自分らしくいれば、いつの日か、このひとたちといる自分を自分らしく思えて、一緒にいるそれぞれが自分のしたいことをしようとできて、それぞれのそのひとらしさを面白がれるような、そういう小集団がいつか自分のまわりにできていたり、そういうひとたちといつの間にか仲良くなっていたりする。君はそういう場所で楽しくやればいいのだし、そうじゃない場所では、嫌な感じがするたびに嫌そうにしていればいいんだ。
 君はいつも何かしらの集団の中で生きることになるけれど、君はみんなと楽しくやろうとしなくていいんだ。みんなの中に埋没した君にはまるで心がなくて、君はただ自分の気分をよくすることしか考えられなくなってしまう。君はみんなの中にいて、みんなを眺めたり、その中のひとりひとりを見詰めたりしながら、いつでも自分が何を感じているのか、自分でちゃんと感じていればいいんだ。
 俺は君がたくさん楽しいことをしながら大きくなってくれればいいなと思っている。けれど、それは君の友達次第だし、自分のことしか感じていないひとしかまわりにいなくて、君らしさを楽しんでくれて、君に向けて自分らしさを伝えてくれる友達ができないのなら、いつかのんびり一緒にいられる友達ができるまで、君はみんなのことを眺めながら、ずっとなんとなくつまらない気持ちで過ごせばいいと思っている。
 自分の好きにできるようになってからが本当の人生なんだ。それまでの子供時代に、楽しければいいとしか思っていない自分らしさの希薄なつまらない子供になって、そのまま人生まるごとをつまらないやつで過ごすなんてもったいなさすぎるんだ。
 俺はそんなふうに君の幸せを願っている。けれど、君にはそれがどう幸せなのかわからないかもしれないと思って、だから、それを説明しようとして、こんなにこの手紙は長くなっているんだ。




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