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オタクにならずにすんだ幸せ

(こちらの記事の続きとなります)

頭は心がまともに何かを思う前に、勝手に何もかもを省エネに解決しようとしてしまう。

勝手に物事を楽ちんにすませようという頭の機能が常に暴走している状態で生きているということを忘れないようにするべきなのだろう。

誰もが自然とそういう自分の心と自分がぴったりと一致したような時間を過ごすのが好きなひとになっていけるわけではないのだ。

音楽とか、絵を描いたりとか、どぎつく集中する必要があることをやるようになれば、それをしているときはそうなれるようになったりするのかもしれない。

けれど、多くの場合、友達の大半は自分の心の動きを待ちながら接してくれることはないのだろう。

俺が育った時代や環境では、のんびり漫然と退屈しながらも、相手が喋るのを気長に待ちながら喋ってくれる相手がちらほらいた気がするけれど、今の子供たちのそばにはそんな子供はめったにいないのだろう。

俺が育ったの頃は、あまり頭がよくないひとたちで集まって何かをしている普通っぽい雰囲気の界隈では、みんながみんな何もかもよくわかっていないから、みんなが無知な自分を恥とも思わずに、適当なことを気分任せに言い合っていられた。

もう今は子供だって、ひとにほめられたり、羨まれたりしてもらえそうなことをしないと意味がないと思って行動しているのだろうし、いつでもやるといい正解の行動を選びたいと思っているのだろう。

そして、その正しさというのは、何よりも楽しいことということになるのだろう。

そして、楽しくないことをしないようにということで、おちょくられ慣れてないし、当たり散らされ慣れていないひとたちが増えたことで、急速にデリケートになった人付き合いのマナーを守ることも強く要求されているのだろう。

普通そんなふうにはしないだろうという不文律的なマナーでいつもお互いを縛り合って、それを踏み外しがちなひとたちは、すぐに叩かれて当然という雰囲気で嫌な顔をされるのだろう。

生徒数は減り続けているのに、不登校やいじめは増え続けていたりするのだし、みんなストレスまみれなんだろうなと思う。

別に昔から、世の中の大半の場所では、面白いことと楽しいことだけが素晴らしいこととして扱われてきたのだろうと思う。

みんな楽しいことしか話したくないし、楽しくやってくれるひとのことをありがたく思ってきたのだろう。

ただ、その楽しさとか面白さというのが、近年になって、どんどんと今楽しいことになっていることをなぞることの楽しさばかりになってきているというのはあるのだろう。

いきあたりばったりに、その場の思いつきで遊んで楽しくやるというのが、今の子供たちや若いひとたちにはかなり難しくなっていたりするんだろうなと思う。

そして、一緒に同じことをなぞることでつながっているから、みんなの一体感を乱してくる存在はさっさと排除されることになるのだろう。

みんながそれぞれ好き勝手できるのがいいと思わずに、楽しいことをみんなでなぞっている方がいいと思っているというのは、どういう心理なのかなとは思うけれど、それは単純にひとりで何かするときでも、どうしたら楽しくなれるか考えながら何かをやってみる時間なんてほとんどなくて、やると楽しいことをやって、見ると楽しいものを見てということばかりいるからなんだろうなと思う。

ただそれをするだけで楽しくなれるものがあるんだからそれでいいだろうということなのだろう。

そして、そういうものを話題にして話していれば楽しくいられるし、みんなでいるときも、みんなで楽しいことをやるか、みんなで同じように楽しいノリをなぞることでみんなともいつでも楽しい状態にしておきたいということなのだろう。

けれど、他にしたいことがないのなら、やると楽しくなれることがあるのなら、延々とそれをやって時間を過ごしてしまうというのは、自然なことだったりもするのだろう。

俺もゲームをたくさんするようになってからは、ゲームができるのなら、とりあえず延々とゲームをしてた。

高校生になっても、学校ではクラスメイトと毎日げらげら渡って楽しく過ごしていたけれど、帰ってきたら、ゲームばかりして、漫然と受験勉強をして、それだけで平気だった。

楽しいだけでいいと思ってしまうのは、楽しいことより大事なことがないからなのだろう。

俺の場合も、実家を出てから、自分が楽しいことをできていればいいという気持ちはなくなって、他人から面白いやつだと思ってもらいたかったり、何か自分はもっとできたり、何かについてもっと喋れたりできるようになれるんじゃないかというような気持ちの方がずっと強い状態になって、そうすると、あれだけずっとゲームばかりしたがっていたのに、ゲームをしたいとは全く思わなくなった。

クラスメイトにしても、中学高校はひたすらいつもの感じで楽しいというばかりで、自分はそこに混ぜてもらっていたという感じだったし、ひたすら楽しませてもらっていたという感じだった。

大学生になって、いきなり親しいひとが一人もいない状態になって、いろんなひととたくさん知り合いはしても、特に誰かに強く興味を持ってもらえたわけでもなかったし、このままじゃ嫌だと思っていたのだろうし、楽しいことなんかしなくていいから、誰かといい感じで話ができるようになりたいと思っていたのだろう。

俺の場合、その時点で、楽しければそれでいいというところから、自分を楽しんでもらえているのかということに、生きていることの実感の持ちどころが変化したということなのだろう。

他者といえるような距離感で関われる相手ができて、その相手に反応してもらいたくて、反応してもらえるように一生懸命楽しくなれるようにお喋りするようになって、世界の見え方が変わっていったのだ。

ひとに対してだけではなく、何かを知ったときや何かをするときにも感じ方が変わっていった。

料理とか、いろんなことがそうだったけれど、普通そんなふうにするのだろうからそうすればいいというくらいの感覚でやっていたことも、そのものについて自分なりの感じ方のようなものを楽しもうとするようになった。

それが刺激として心地よいかだけではなく、何がどうなっているからこういう感触が伝わってきているというのをもっとちゃんと感じようとするようになった。

俺の場合は、自然とそうなっていった感じだった。

俺は何も考えていない子供だったし、中高生の頃だって、異性のことも考えず、自分のしょぼさについても考えず、それこそ、毎日楽しければそれでいいという感じで、学校でけたけた笑い続けて、部活もせずに家でゲームばかりしていた。

本も読まず、あまり漫画も読まず、テレビはお笑いと音楽と格闘技と海外ドラマを見てはいたけれど、ゴールデンタイムの番組は食事中に流れている以外には、ほとんど見ないで思春期を過ごした。

クラスの友達とは、ゲームの話をする友達とか、格闘技の話をする友達とかもいたけれど、クラスのひとたちはほとんどクラス内のことでずっとあれこれ面白いことを言おうとしていて、みんなでずっと笑っていた。

もちろん、高校のクラスでは、オタクっぽいひとたちはそういうひとで固まっていたし、今思うとトランスジェンダーだったのかなと思うようなひとや、そうでなくても発達障害のグレーゾーンだったんだろうなという感じのひとたちは、ちょっと毛色が違うグループとして固まっていた。

そういうひとたちと、他の学校の女子と積極的に遊ぼうとしているようなグループが離れていった、その他大勢の多数派グループに俺はいた。

オタクコンテンツの話をするとか、モテについての話をするとか、みんなの乱暴なノリには合わないと思っているひとで集まっているとか、各グループを作っている中心的な価値観みたいなものがあったのだろうし、そういうグループにいたひとたちは、そのグループ内で、みんなで同じコンテンツを見ておくように努めながら、いつものパターンをなぞっている度合いが高いお喋りをしていたのかもしれない。

俺がいた多数派の集団というのが、自分たちの話をする以外には、特に何の話題で盛り上がるのが定番というわけでもない集団だったから、みんながばらばらのままで楽しくやれていたということだったのかもしれない。

今の子供が思春期になって、友達らしい友達ができるようになる頃にはどうなっているのだろう。

コンテンツ消費があまりにも日々の楽しみの中で比重が大きすぎる状態にはなっているのだろう。

そのうえで、ずっと携帯電話でメッセージをやりとりしていて、みんなが何かの真似をしているのなら、それと同じ真似をしないと、会話のノリも合わないし、仲間に入りにくいというのが、どこにいてもどうしようもないことだったりしているのかもしれない。

俺は小さい頃から、みんなが持っているものを持っていなくても、みんなが見ているものを見ていなくても、みんなの話に入りにくいなんて感じたことはなかった。

むしろ、社会人になってから、ゴルフもしないし、株もしないし、キャバクラやフーゾクもいかないし、子供の話もしないのなら、話すことが全然なかったりするんだなと思うようになったくらいだった。

どうしたって、時代の違いというのはあるのだろう。

みんながいつでも何でもインターネットで調べるようになってしまったことで、今はどういう振る舞いをするのが正解なのかというのがインターネットを調べればわかるかのような状態になってしまった。

正解が明白であるかのようになったし、正解を知るのが簡単になってしまったことで、大多数のひとが正解をなぞるようになって、まわりがそうしていると、自分もそうしないといけないと思ったり、そうしたくないひとも悪目立ちしたくないから同じことをするしかなくなっていく。

一定以上の割合のひとたちが同じことをすると、そこからは自動的に大多数がそうするようになってしまうものだけれど、子供から学生くらいまでは、大多数が同じような価値観で作られた同じようなコンテンツを消費していて、しかもそれがほとんど生活の中の楽しみの全部であるかのようになっているから、ほとんどルールとかマナーのようにして、それを追っていないと面倒なことになる状態になってしまっているのだろう。


(続き)

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