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【連載小説】息子君へ 223 (43 人生は終わるけれど勃起は続く-11)

 どれだけセックスが飛び抜けてひとを喜ばせるもので、どれくらいほとんどのひとにとって、セックスくらいしかひとに喜んでもらえることがないのかということを君はわかっていないといけない。そうでないと、どうして世の中がこんなにもセックスのことばかりを大事なこととして扱い続けているのかということがわからなくなってしまう。そして、君の生きる時代がまさにそうなるのだろうけれど、セックスが嫌いなひとたちや、セックスはたいしたことがないものだと思っているひとたちが増えていくことの歴史的なインパクトというものもわからなくなってしまう。
 君はセックスが好きじゃないひとたちの憎しみの言葉に取り囲まれながら生きていかなくてはいけない。世の中では今も、間違ったことはいくらでも責めていいかのように思って、ひたすら自分が正しい側にいられるように、正しいことばかり言おうとするひとたちが増え続けているし、そのせいで、非難されないような言い方でしか誰も何も言えないようになってきている。その中で、セックスの喜びから疎外されることで、男であることの喜びや女であることの喜びから疎外されているひとたちが、被害者の立場から、自分がどれほどそれによって嫌な思いをしたかと、セックスのことや性欲のことを邪悪でひとを苦しめるものだと主張して、人々を被害者の気持ちに引きずり込もうと執念を燃やしている姿を君は目にし続けるのだろう。
 不倫なんてクズがやることだと多くの人々が罵っているのを見て君は育たないといけないけれど、君はそうやって不倫というよくないことをしたのだからいくらでも叩いていいと思っているひとたちのことを、生き物を殺さなければ殺さないほど正しいのだからとヴィーガンになって、自分は正しい立場にいるといい気分になっているひとたちと同じような存在なのだとわかっていないといけない。
 正しいとか正しくないということだけを論点にすれば、生き物を殺すこともパートナーを悲しませることをすることもよくないことだというだけで終わってしまう。けれど、人間はそうやって生きたし、現状としても、人間はそういうものなのだ。違う生き方をすることもできるとしても、身体は他の生き物の肉を食べることを拒絶しないし、パートナー以外にも興奮するし、興奮し合った相手とセックスして幸せな気持ちになれてしまう。
 男たちはみんなさせてくれるのならいつでもセックスしたいし、女のひとたちだって、ほとんどのひとが、自分が強く魅力を感じる相手が自分に魅力を感じてくれて、自分に興奮してくれて、自分を持ち上げて大事に扱ってくれるのなら、それをもっと味わいたくてセックスもしてしまうし、それはほぼ素晴らしい体験になって、不倫がばれてまずいことになったことには後悔しても、目が曇っていてクソ男に舞い上がっていたようなひと以外、セックスをしたこと自体を後悔するひとはほとんどいない。
 そういう当たり前の事実を君は当たり前に思っていないといけない。そのうえで、不倫なんてクズがやることだと言っているひとがいたときには、そのひとの顔の中で動いているものがどういうものなのかを確かめていればいい。そのひとが誰かを不愉快な気持ちにさせないように建前で言っているだけなのか、正しい側に立ちたいがために、今まで自分が喋ってきたことも忘れて、言えそうなことは何でも言おうとしているのか、裏切られたときの自分の感情だけを考えて嫌だ嫌だと言っているようだけれど、そのひと自身は機会があればあっさりと不倫するようなひとに見えるとか、もしくは、心底セックスや男の性欲を憎んでいるようだとか、そのひとの顔を眺めていれば、なんとなく感じるものはあるのだと思う。そして、そのひとが被害者意識を通して世界を眺めて、自分の憎しみで他人を嫌な気持ちにさせるために生きているかわいそうなひとなのであれば、それ以降、恋愛とかセックスの話題になったときには、そのひととは適度な距離を取って、ほとんど話が通じないつもりで受け答えをするようにしていればいい。
 不倫を許せないと思うひとの、不倫を許せないという感情は、いろんな思いの入り混じったものなのだろう。ひとそれぞれに、生きてきていろんなことを思うのだから、自分が不倫されたとしたらどんな気持ちになるだろうと思っていても、それはそのひとの勝手だし、他人の不倫の話に、自分だったらと想像して嫌な気持ちになって何かを語るのは好きにすればいいことなのだろう。
 けれど、不倫をするひとに対して、人間として間違っているとか、そういう観点で自分を正義の側において語りだしたなら、またこういうひとかと思って、そこからは、どうでもいい話だと聞き流しておけばいいのだ。特に、自分が嫌な気持ちになるようなことをされるのは許せないというシンプルな気持ちではなく、自分は不倫なんてしないし、家族を大事にする気持ちがあったら不倫なんてできるはずがないというような言い方をするひとの話は、最も聞く価値がないものなのだ。
 ひとによっては、自分は不倫なんて絶対しないと胸を張って言えたりするのだろう。現実的に、自分が強く魅力を感じるひとからは人生で一度もセックスを求められないひとというのはとてつもなくたくさんいるのだと思う。たくさん不倫してきたひとでも、ほとんど魅力を感じない相手としか不倫できそうな機会がなかったなら、一生不倫はしなかったというひとがたくさんいるのだろう。だから、極端に魅力に乏しいひとたちは、安全圏から、自分は浮気なんて絶対にしないと言っていられたりするのだろう。
 もちろん、男は特殊な属性のひと以外ほとんどいないにしても、女のひとだと、浮気や不倫をできる機会があっても、一生しないままでいるひとというのもそれなりにいるのだろう。けれど、それは女のひとのかなり多くがセックス自体をさほど好きじゃないし、そのうえでパートナー以外とのセックスにいい思い出がない場合もかなり多いし、パートナーとの関係性として不倫はリスクが大きすぎると思っている場合も多いからというのはあるのだろう。けれど、そもそもセックスが好きじゃないようなひとのことは、考えるだけ無駄なのだ。
 セックスが好きじゃないひとの中には、生まれつきの問題だったり、障害の問題だったり、事故だったり、PTSDだったり、セックスを楽しみようがない状態のひともいるのだろう。そういうひとたちを前にしたときには、ちゃんとかわいそうにと思ってあげられないといけない。けれど、それよりはるかに多い、異性とのセックスを好きになれなかったし、異性との関わりも好きになれなかったし、同性集団の中でリラックスして生きることもできなかった自分に劣等感や屈辱感でいっぱいになって、自分を同性集団の多数派とは別の存在であるかのような立場において、多数派を攻撃しようとしているひとたちのことは、同じ現実を生きていないひとだと思っておけばいいし、そういうひとには話が通じなくてがっかりする準備をしながら顔を向けるくらいでちょうどいいのだ。
 自分に魅力がないひとたちだけではなく、いろんな事情があるひとたちも含め、自分がせっかく不倫できない立場にいるからと、自分が悪いことをしていない側でいられていることをよいことに思って、不倫という悪いことをしているひとたちに文句を言いたがるようなひとというのは、どうであれ、まともに自分の心を生きられていないひとだろう。
 そもそも、肉体的にも人間的にも多くのひとにとって魅力的なひとがうじゃうじゃしている界隈では、みんながしているといえるくらいに、多くのひとが浮気も不倫もしているのだ。現実がそうなのに、自分が正しいことを自分の頭の中で一生懸命確かめながら、何が間違っているとか、何はおかしいと文句を言っていても、バカなんじゃないかと思われるだけなのは当然だろう。
 自分の心で決められなくて、自分の人生がそうだったからという理由でも決められない、損得とか正しさの奴隷のように生きているひとたちというのが、世の中にはうじゃうじゃしている。そういうひとたちは君の人生にいっぱいつまらない瞬間を運んでくるけれど、君の人生はそういうひとたちの人生とは交わることはないんだ。
 君が見た目のいい男の子として生きて、当たり前のように他人と気持ちを感じ合いながらリラックスしていられて、普通に生活していれば定期的にそばにいたひとから好意を持ってもらえる人生を送る場合、君は恋愛やセックスから徹底的に疎外されて生きてきたひとの気持ちを理解することができなくなる。そして、そういうひとたちを恋愛やセックスから排除してしまう社会や人々の価値観を不当なものに思うことは大事なことだけれど、疎外されているからと憎しみの中に沈み込んで、復讐心を満たすために生きるようになってしまったひとたちのことは、ただ社会問題としてそういうひとたちもいると思っているだけでよくて、少しでも理解しようなんて思う必要はないんだ。
 そんなにも生きていて感情的に体験しているものが違っているひとのことを同じ人間だと思って、いろんな感じ方があるし、多数派の感じ方が全てではないなんて思ったりすることは、むしろ君の価値観を陳腐なものにしてしまう。何もかも相対化して、いろんなひとがいるからと、いろんなひとへの配慮を思い浮かべることを何かについて考えることだと勘違いしていると、どこで何をしていても、ひとが目の前にいるだけで、本当は自分はどう思っているのかまともに考えることがなくなってしまうし、自分なりの実感の伴った言葉で相手に伝えたいというモチベーションも見失ってしまうことになる。
 君は君の肉体にとっての現実を生きればいいのだし、そうしたときには、セックスが好きじゃないというのは、何かしらの不自然さのあらわれとなるはずなんだ。もちろん、不自然ではない性的なものへの嫌悪感というのもあるのだろう。俺がセックスした女のひとの中には、性暴力を受けたひともいたし、軽い男性恐怖症的なものがあるようなひともいた。悪意を持って相手を傷付けようとする男によって深い傷を負ってしまったことで、性的なもの全般への嫌悪感がある状態から、恋愛する生活に入っていく場合もたくさんあるのだろう。それでも、ひとの気持ちを感じてそれに同調していけるひとであれば、まともな男と仲良くなって、お互いに優しくしようとする以外に何もしていないみたいなセックスを繰り返していれば、性的に興奮することが汚いことじゃないことはそのうちに実感できるものなのだ。
 どう考えたって、セックス自体には汚いものは含まれていないのだ。頭の中に全く性的妄想がない状態でも、見ていていいなと思っていた相手に近付いて、身体が触れ合うことを相手が受け入れてくれれば、それだけで相手への性的興奮は発生する。性的に興奮されて、それが伝わってくることによって性的に興奮させられて、興奮してくれたことにもっと興奮してと、それを行き来させながら、二人で同じ気分になっていける。その気分が持続している間、相手が優しくしてくれたり、うれしそうにしてくれたりするたびに、うれしい気持ちが伝わってくるし、相手が触れてくる感触から優しさとか興奮が伝わってきて、興奮の中で感じる相手の感触はどうしようもなく心地がよいものになる。肉体を近付けあって、興奮し合っているだけで、ほとんど自動的に、相手のやってくれていることの全てに喜んであげながら時間を過ごすことができてしまうのだ。
 そこには汚いものは何もない。そこに悪意や自分本位さや変態性が混ぜ込まれるかどうかというのは、身体を近付けると興奮できるようになっていることの素晴らしさとは別の話なのだ。人間に性欲と性的に気持ちよくなれる肉体があって、人間に共感能力と自然と同調しようとする習性があることによって、どれほど素晴らしいものが人間にもたらされているのかというのは、まともにひとの気持ちや自分の気持ちを感じながら生きてきたひとなら、誰だって歳を取るほどに深く実感していくことなのだろうと思う。
 君が相手にとって魅力的な人間で、汚くない感情で興奮して、うれしい気持ちで相手を見詰めるのなら、相手はそれをうれしく思ってくれる。そのあとは、何を言うでもなく、何をするでもなく、特にエロい雰囲気があるわけでなくても、そばにいるだけでいい時間になっていく。うれしい気持ちを引き延ばそうとしてキスをして、キスの感触が心地いいことにまたうれしい気持ちを交換して、もっとそれを引き伸ばすために、身体を触れ合わせて、もっとしっかりとくっつき合うために抱き合って身体を押し付け合って、そうなったなら、あとは射精して終わってしまうのをタイムリミットということにして、終わってしまうまで存分にくっつき合って、ずっとお互いのうれしい気持ちを確かめ合って腰を押し付け合っていられる。
 グロテスクではない感情から発生する欲情というものがあって、一緒にいて心地よい相手から至近距離でそういう感情を向けられると、それに応えて欲情し返すように肉体はできている。そして、欲情を受け入れてもらえたなら、そのグロテスクではない感情で欲情しているだけで勃起できるし、セックスできてしまうのだ。
 もちろん、現実的にグロテスクな男からしか欲情を向けられることのないひともいるし、そういうひとには別の現実しかなかったりはするのだろう。というより、女のひとからすれば、思春期以降は、自分のことを好きで、自分に喜んでもらいたくて優しくしてくれる男の眼差し以外は、男たちの自分の身体の上に停止して何かを探る視線の全てがグロテスクなものにしか感じられないのだろう。自分の身体や顔を確かめてうれしそうにしたり蔑んだりしてくる表情や、身体の一部に停止した視線からじっとりと伝わってくる欲情の全ては、はっきりと醜かったり、意味不明だったり、暴力的な雰囲気の立ち込めた自分を不安にさせる迷惑なものばかりなのだろうと思う。
 そういう醜い感情を、まだ本当には誰かを好きになったことのない思春期が始まってすぐから押し付けられ続けるのだ。全ての女のひとは、男たちの欲情をグロテスクなものだと感じているところから女の身体を生きる人生をスタートするしかなくて、そのうえで、グロテスクではない欲情を向けてくれる相手がいたひとだけが、グロテスクではない欲情もあるのだということを知ったうえで、その後の人生を生きることができるということなのだ。
 そういう経験もなく、使い捨てるように自分の身体に汚く欲情されたり、欲情できそうかと試されたあとで役に立たない汚いものを見る目を向けられたり、身体にしつこく欲情した視線をなすりつけられたあとで顔を見てバカにするような目をされたりするばかりの日々を送るひとたちが、男の性欲のせいで生きていること全体を不快なものにされているような気持ちになるのは当然のことだったりするのだろう。
 仲良くなった相手は、仲のいいひとを見る顔をしながら、楽しくお喋りしてくれるようにはなるのだろう。けれど、そういう相手も、ふとするたびに、自分の顔や身体に目を止めて、欲情できないことや、身体の一部にだけなら欲情できることを確かめてきたりするし、付き合うようになった相手ですら、他の女にいつもグロテスクな視線を向けているし、セックスが始まって興奮すると、顔全体がグロテスクになって、射精して別のグロテスクな顔になるまでずっとその顔のままで自分の上で動いているのだ。
 そもそも男たち全般によって幻滅させられていることでセックスを憎んでいて、けれど、経験できないままなのは嫌だからと、魅力を感じないだけでなく、好きもなれていない相手を受け入れて、たいして好きでもない自分にグロテスクな興奮の仕方をしてくる男とセックスして、実体験としてもやっぱりセックスはたいしたものではなかったからと、その後もずっと男の性欲を憎んで、セックスを軽視して生きるひとというのもたくさんいるのだろう。
 もちろん、だからといってセックスに幻滅することにして、それですませるというわけにもいかなかったひとたちもいるのだろう。同性の友達集団の中でうまくやれないひとたちは、同性の多数派とは別の価値観を必要とするし、多数派とは心の動き方が違っている自分にしっくりくる世界を探して、結果として、倒錯的なものや変態的なものに引き寄せられていくというのもあるのかもしれない。
 発達障害傾向のあるひとはオタク的なコンテンツ消費に慣れ親しむようになる比率が高いらしいし、ポルノ消費でも、より刺激が強かったり倒錯しているようなものに慣れ親しむ比率が高かったりするのだろう。自閉症スペクトラム障害の傾向があるひとたちは、そもそもセクシュアリティや性自認がはっきりしなかったり、トランスジェンダーを自認するひとの比率が高かったりするらしいし、そういう問題も大きいのだろうけれど、ボーイズラブのコンテンツを好む女のひとたちも明らかに発達障害的傾向のあるのひとが多いらしい。
 性自認的な問題でなくても、発達障害もあって女性の集団でうまくやれなくて、いつでも徹底的に排除されてきて、自分からしても多数派の女のひとたちに全く親近感がなかったりする場合は、多数派女性に向けての女性嫌悪が強いひとになっていくのだろう。多数派女性が男たちの垂れ流しの欲情と結託したうえで、どういう女がいい女であるのかというイメージを作り上げて、それが世界の当たり前の感覚になっているけれど、多数派から排除されているひとたちは、その常識としてのいい女というイメージから逃避できる楽しみを自分たちのために探すのだろう。ボーイズラブとかバンギャ的世界とかメンヘラ的世界のようなものは、見るからに特殊な集団として先鋭化しているけれど、それはそういうひとたちのための集まりであり続けられるように、そういうひとたちの気持ちを満たすためだけに集団内のあれこれがサイクルしていることで、ずっとそういうひとたちの逃避先としての機能を確保できているということなのかもしれない。
 今は小学生でもひとりで自分の好きになれそうなコンテンツをインターネット上で探し回れてしまうのだろうし、そうすると、倒錯しているものの方が興奮できる自分に早くから気付いたり、男たちが好きな女なんて嫌いだし、男たちが好きな女に欲情するような男たちなんて嫌いだと早くから思いながら育つひとは、俺が育った頃よりはるかに多くなっているのだろう。
 性自認なんかにしたって、同じような問題はあるのだろう。昔は自分の性別とか性嗜好に疑問があっても、自分がちょっと変わっているだけだと思ってやりすごしてきたひとがたくさんいたのだろう。異性にも心ひかれず、付き合ってもときめきはなく、けれど、セックスもできたし、性器への刺激自体は気持ちよかったり、そのうち子供もできたりして、そんなものなのかなと思いながら、けれど、それでも長く生きていろんなものを目にする中で、どこかで本当は自分はどうなのかわかってしまっていて、けれど、死ぬまで自分で気付かないふりをし続けてきたというひとがたくさんいたのだろう。そして、それとは逆に、自分が性的なものを定型的に自分の中に発達させられない生まれや育ちをしたことに無自覚なまま、自分はみんなと同じように性的なものに興味を持てなかったのに、みんなと同じように性的に消費されて、みんなと並べられて性的な魅力で蔑まれたりして、たくさん傷付けられたと思ってきたひとたちというのも、男女ともにとてつもなくたくさんいたのだろう。
 今から育つ子供は、性自認にまつわるフィクションにも幼少期から触れることになるし、そういうニュースや言説にも当たり前に触れ続けることになる。違和感があった場合に、うやむやにしたまま大人になるなんていうのは、親や宗教に洗脳されているケースなんかを除くと、知的能力に問題がなければ不可能なことになるのだろう。少なくても、自分を普通だと思っている定型発達の多数派のひとたちと自分が同じではないということはわかったうえで思春期に入るのだろうし、そういうつもりで若者時代を過ごすことにはなるのだろう。自分がヘテロセクシュアルとして定型発達的に異性の身体や存在に欲情できていないことは、どうしたってさっさと自覚されてしまうことになる。そうなるのなら、今の子供が社会の中心になっていく頃には、そういうひとたちの恨みというのも、社会の不当さや自分の運命に対しての恨みというよりは、多数派のひとたちから少数派に配慮しなくてはいけないことに面倒くさそうにされてきたことへの恨みというように変質していくのかもしれない。
 今は過渡期なのだろう。性自認のことはセックスの軽視とは別の問題なのだし、多数派的な性意識に違和感があったひとたちが、いろんな情報に触れることで自分の違和感を説明できる枠組みを見付けられるようになったというのは、ただただいいことなのだ。
 フェミニズム的に社会の不平等を訴えるという一線を踏み越えて、セックスを軽視したり、男の性欲を邪悪なものだとする言説を発信するというのは、その大半が、発達障害や虐待や性暴力やPTSDなんかによる生きづらさのひとつとして、恋愛やセックスの喜びを享受できない存在として他人から嫌われたり蔑まれたりしてきたひとたちによって行われているものなのだろう。そして、発達障害と性自認の揺らぎが相関してしまっていることで、生きづらいひとたちの中に、恋愛的なものや性的なもので心地よく他者と結びついて、そういう他者との結びつきを自分の人生の軸にしていけなかったひとが大量に含まれてしまうことで、問題が混合してしまっているところもあるのだと思う。
 今はまだ、あとになってからそういう自分を自覚できたひとが多かったり、いまだに自分が生きづらい系のひとだと認識できていないひとも多かったりしていることで、自分が定型発達のひとたちと同じようにひとを好きになったり、同じように他人と肉体的に愛し合えない人間だという自覚がないまま、セックスを憎んでいるひとがたくさんいるという状態になっていたりするのだろう。
 そういうひとたちが傷付いてきたことはどうしたって本当のことなのだから、そういうひとたちが無駄に傷付けられずにすむように、世の中の共通感覚をみんなで変えていく必要はあるのだろう。けれど、生きづらいひとから見る世界は、特に生きづらいというほどのものも感じずに生きているひとが感じている世界とは全く違ったものなのだ。必要なのは、生きづらいひとたちの生きづらさに配慮することであって、生きづらいひとたちの感じ方に同調してあげることではない。むしろ、そこを混同しないためにも、性自認のことに理解を深めること以上に、発達障害やその他の精神障害がある場合に、どれほど物事の感じ方が定型発達的な感じ方から離れていってしまうのかということへの理解を深めていく必要があるのだろう。それによって、障害があることに無自覚なままみんなと同じように楽しいことをやろうとして、うまくやれなくて生きづらさばかりを感じて、そのうちに世の中を恨むようになるというというケースを減らさなくてはないのだと思う。
 インターネット上では、男たちの作った社会や文化を非難する言葉が日々膨大に投稿されている。そして、庶民によって投稿されているもののほとんどは、生きづらいことへのストレスのはけ口として、敵対勢力を攻撃して、相手を引きずり下ろすために、言えることは何でも言おうとしているものなのだろう。
 多数派の男たちによって作られてきた社会や文化には、とてつもなく不平等で不適切で不潔で変態的なものが塗り込められているのだろう。けれど、それは人間の作ってきた社会や文化の全体がよくないものであるということを意味しないし、そんなふうに社会や文化を作ってきた人間の生き物としての性質や習性がよくないものであるということを意味しない。
 ひとの気持ちがわからなかったり、愛されなかったり、自分のことしか考えられなかったり、防御的にしかひとと関われなかったり、いろんなふうにして、たくさんのひとが他人と愛し合う喜びから阻害された人生を送っているのだろう。けれど、君は生きづらいひとたちが、生きづらいことへの恨みにかられて、正義や平等の名のもとに、汚れた多数派の男の文化と一緒くたにして、男の性欲を汚れたものだと主張するのを見ながら、ちゃんと男の大半がクソなだけで人間の欲望が汚いわけではないと思い続けないといけない。生きづらいひとたちにとってはそうじゃないとしても、自分と自分と似たような女のひととの間では、セックスはいつも無邪気にうれしくてただただ素晴らしいものなのになと思って、そんなふうに思えないひとたちをかわいそうに思っていないといけない。
 不当なことは是正される必要があるけれど、生きづらいひとたちの生きづらさの中には、社会の問題ではなく、そのひとたちが肉体的にそういう感じ方をしてしてしまうから生きづらいという要素もあるのだ。そういうひとたちが被害者だからといって、そういうひとたちの傷付き方を通して何かをよくないことに感じるのでは、間違ったことを思い込んでしまう場合だってあるのだと思う。
 クレーマーやモンスターペアレントに共感しても仕方がなくて、やばいやつなのだから、みんなではっきりやばいやつとして扱って、自分が間違っているとわからせておとなしくしてもらうというのが正しい対処だろう。それと同じで、生きづらさを恨みに反転させて、自分の悪意を形にするためだけに語られている言葉は、一線を越えてしまっている、共感してはいけない拒絶するべき言葉なのだ。
 君はただ、ゆっくり相手の言っていることを自分なりに感じているだけでいいんだ。そして、もし相手がないものねだりを通り越して、自分を被害者にすることで誰かを加害者であることにして攻撃しようとしているのを感じたら、不当なことは是正されるべきだと思ったあとに、かといって、どうしたって人間とか人間の集団というのはそういうものなのだから、そこまで恨みをつのらせて、人間という存在自体を非難するのは醜悪だなと思っていないといけない。君はなるべく被害者の主張する不当さを理解しようと努めることで、それとは別のこととして、被害者が被害者面していることにはいつでも嫌な気持ちになっているべきなんだ。
 俺は被害者の視線を通して世界を見ようとすることを大事なことだと思っているんだよ。けれど、どうしたところで世界は自分を普通だと思っている多数派のひとたちのものなのだ。そして、障害とは普通ではないという一線のことだろう。それが障害である場合には、それを踏まえて物事を受け取るべきで、そして、この手紙の中で、発達障害のことについてあれこれ書いているのは、当事者に自覚がない場合が多すぎるとはいえ、それが個性のようなものではなく、脳の機能の働き方に違いが生まれて、重度の自閉症であれば言葉を喋れないままになってしまうような、障害としか言えないもので、君のお母さんがどうしてあんなふうなのかをイメージするためにはそういう観点が必要になるし、君が生きる世界の中では、発達障害の傾向を一定以上に持ったひとの濃度が高まっているだけではなく、世界全体の空気やノリにも、発達障害的なものの濃度がどんどんと高まっているからなんだ。
 君はひとの話を聞くときに、生きづらいひとの話なのかもしれないと思って聞かないといけないし、生きづらいひとが話しているのだとして、生きづらいひとたちの生きづらさについての話でしかないんじゃないかと思いながら聞かないといけない。多くのひとがいろんなことについて憎しみの言葉を発信しているけれど、君は生きづらいひとにはならないのだし、その大半について、自分や自分の好きなひとたちはそんなふうではないのになと思い続けているのがむしろ自然なことだというのをわかっていないといけない。
 世の中には嫌なやつがたくさんいて、生きづらいひとたちは、嫌なやつらから、一生ずっと嫌な目に合わされるのだろう。そして、生きづらいひとたちの界隈では、性的なあれこれは、ひたすらに自分本位さと暴力性と変態性とで汚されきっているのだろう。
 けれど、性欲は邪悪なものではないのだ。君はそれを忘れないようにしないといけない。多くのひとがセックスしなくなっていって、セックスしているひともさほどセックスが好きじゃないひとが増えていって、男たちは幼い頃からポルノに慣れ親しんだままで、恋愛をしたいとすら思わないひとが増えていく社会を見ながら、男の性欲を汚れたものだと非難する言説にばかり触れていると、君は性欲があって性的興奮ができることがどれほど素晴らしいことなのかというのを当たり前のことに思えなくなってしまうかもしれないんだ。
 定型発達でも発達障害でも、ヘテロでもゲイでもレズビアンでもトランスジェンダーでも、どんなひとの欲情でもいいけれど、優しく振る舞える人間に育ったひと同士の自然な欲情というのは、人間の本質であって、生きづらい系のひとたちが何を思おうと、相対化して捉える必要のない営みなのだ。そういう自然な欲情による自然なセックスが人生の中で飛び抜けて素晴らしい体験になるという当たり前のことを、君は当たり前に思っていないといけない。それが当たり前という顔で誰かと見詰め合って、それが当たり前だと思いながら言ってあげたい言葉を言い合って愛し合えないなんて、あまりにもったいないことなんだ。そのためにも、そういう自分の肉体にとって自然なことを当たり前だと思っていられるように、自分の肉体にとって自然には思えないことを言っているひとのことは、自分とは自然な心の動きが違うひとたちなのだと判別して、そういうひとたちの言っていることからはっきりと自分の感じ方を守らないといけないんだ。




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