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【連載小説】息子君へ 228 (44 心が止まったあとに何が残るんだろうね-3)

 まだ心が止まっていない君からすれば、老人のことなどどうでもいいだろうけれど、日々の目に映る景色の中で行き来している感情がどういうものなのかイメージするためにも、歳を取るというのはどういうことなのかというのは、早めにわかっておいた方がいい。自分と心が止まっているひとたちは全然違う存在なんだと思っておくことで、すんなりと理解できることがあるし、そういうひとたちを眺めていて感じ取れることも増えるのだと思う。
 君が育つ世界はあまりに視界に老人が多く入ってくる世界なのだろう。学校の外の世界とは、何をしているのかわからない老人たちばかりがうろうろしている場所というような印象になっていたりするのかもしれない。けれど、どれだけ現実的に老人が世界の多数派になろうと、それはもう本当の人生が終わっているひとたちがやっていることだと思って、まだ本当の人生を生きている自分には老人が何をどうしていようと関係ないんだと、積極的に無視していかないといけない。特殊なひとはいるし、そういうひとは特殊な老人になったりもする。けれど、ほとんど老人はそうではなくて、そのひとの表情の揺れや息遣いをじっと見れば見るほど、本当のところで何を思っているのかわからなくなってくるのが普通のそこらにいる老人なのだ。君はただ、人間は老いるとそんなふうになってしまうのだということを感じるためだけに老人たちのことを眺めていれば、それで充分なのだと思う。
 老人を敬えと言われて育っている君からすると、俺は老人を攻撃するようなことを書いているように思うのかもしれない。けれど、俺は老人だからそう思っているわけではなく、老いることでそんなふうに思っておくしかないひとになってしまうということについて君に考えてほしくて、こういうことを書いているんだ。
 何もかもに鈍感になったうえで、自分はどういうつもりなのかということしか考えていないひとたちの言っていることなんて、世の中にはそんなひともいて、そういうひとがたくさんいることで世の中はこういうものになっているという現実をあらわしているという以上に、何かしらの意味を見出しようがないものだろう。そんなものは、まだ心が止まっていなくて、日々自分のことや他人のことに新しく何かを感じようとしているひとたちにとっては全く価値のないものなんだ。君は一部の頑張っているひとたちの言っていることと自分の仲間の言っていることだけを真に受けていればいい。世間で言われていることも、インターネットという世間で言われていることも、老人と老人もどきのようなひとたちのコンテンツ消費の結果でしかない売上や人気のランキングも、自分とは別の種類の人生を生きているひとたちのものだと思って眺めていればいいんだ。
 そんなことはおかしいと思うのだろうか。けれど、君が将来一緒に働く仲間たちはそうではなかったとしても、君の近所のひとたちのほとんどとか、君の小学校の同級生たちのほとんどは、完全に誰からもおじさん扱いとかおじいさん扱いしかされないくらいまで歳を取ったあとには、君がそのひとからまともに何かを感じようとしてみても、気持ちを汲み取ろうとするほどにうんざりさせられるだけの存在になっているんだ。
 俺は人間をよくないものに思っているわけじゃないんだよ。ただ単に、俺は面と向かっていてもまともに話を聞いてくれないひととはなるべく関わりたくないというだけなんだ。そして、そうすると、かなり多くのひとたちは関わりたくないひとになってしまうというだけなんだ。そもそも前提がそんな感じだったことで、俺は自分が歳を取って、自分が関わるひとたちの年齢が上がってきたことで、世界をわざわざ関わりたくないようなひとたちでひしめいている場所だと感じるようになってきているのだと思う。だからこそ、俺はもういいやと思っているんだ。若い頃のような自分と似たようなひとが身近にいる環境を生きられるならともかく、もうおじさんで、これからおじいさんになっていくのに、これから誰かしらと関わるとして、どんなひとたちとどんな関わりがあるんだろうと思っても、日々うんざりし続ける以外の未来をイメージするなんて不可能なことにしか思えなくて、だからもう諦めてしまっていいんじゃないかという気持ちになっているんだ。
 俺はずっと生きているだけで楽しかった。けれど、もうこれからは本当に楽しいことはなくなっていくんだ。誰かと一生懸命話すことはなくなってしまうのだ。ひとに喜んでもらえることはあるかもしれなくても、ひとに喜んでもらえるようにと一生懸命になれることもなくなってしまう。それこそセックスだけなのだろう。そしてセックスだってその場だけのことでしかないし、セックスで喜んでもらったって、自分がまだ完全に無価値になっていないと思えるだけで、次のセックスのために頑張って生きようと思えるようなものではない。どうしたって日々のその場でだけ楽しいことを素通りしていくだけの空っぽ毎日になっていくのだろう。
 俺は昔から、痴呆老人を見ていて、痴呆老人が本人の人生を全うするために、できるかぎり生かしてあげるべきだとは思っていなかった。自分で生きられなくなって、自分で助けを頼んで助けてもらいながらなんとか自力で生きることもできなくなって、赤ちゃんのように守ってもらわないと生きられなくなっているひとは、世話をするひとが世話をしたいだけして、世話をやめることを選べばそこで終わりでいいだろうと思っていた。痴呆のあり方によるにしろ、痴呆老人というのは、これからもっと目の前のことを感じなくなって、もっと自分でなくなっていくプロセスを絶えず進めていくだけの存在なのだ。あとは見送る側の人生の問題だけなのだから、気がすむまで世話をして、それでお別れする方が明らかに自然だろう。
 けれど、俺がそう思うのは、俺が子供を育てたことがないからなのかもしれないと思ったりもする。自分のことを自分だとも思っていなかった生き物が、だんだんと親のことを親だと思って、自分のことを自分だと思って、どんどん自分らしい人間になっていく姿を見ていたら、人間は自分を生きているわけではなく、人間はただの動物で、成長していくことで心があるかのように何かを思うことができるような機能を発達させていくというだけだと思うようになるのかもしれない。そうすれば、老いて心がないみたいになっていくのも、その機能が弱っていったからというだけだと素直に思えるようになるのかもしれない。
 俺は自分の人生しか知らなくて、そして、俺の祖父母四人は、痴呆状態になって、数年間ほとんどまともに意思疎通できない状態で過ごしたうえで死んでいった。俺が知っている死んでいった老人たちというのは、みんな話の通じないひとたちだった。身体には記憶が残っていて、けれど、我慢の利かない頭は気分に振り回されて、思考の癖を垂れ流すように敵意や被害妄想や好意が吐き出されていた。
 俺の祖父母は、施設に入った方がいい状態になってからは施設に入っていたし、介護者がぼろぼろになっていたというわけではなかった。それでも、俺はずっと、こんなふうになったなら、半年でも一年でも、気がすむところまで世話をして終わりにすればよくて、どうして何年も、下手したら十年以上もこの状態で生きなくてはいけないんだろうと思っていた。
 介護する側も、介護する日々の中で、いろんなことを思い出したり、何かに新しく気が付いたり、改めて考えることがいろいろあったりするのだろう。半年でも一年でも世話して一緒に過ごせばいいのだと思う。けれど、気がすんだからそれで終わりにしておくべきだろう。
 どうしたって、ひとは寝たきりや痴呆で話の通じないひとの世話に多大な労力を費やす日々を送っても幸せを感じられないものなのだと思う。どれだけ世話をしてもほとんどコミュニケーションも成り立たず、関係性もほぼ発展せず、何も成長しなくて、日々もっと痴呆していくだけなのだ。痴呆老人の介護をしているひとで、他にどんな仕事でもできるとしても痴呆老人の介護を仕事にしたいというひとはいないだろうと思う。世話するなら子供や病人の方が、成長したり回復するのを見ることができて、世話をできてよかったと思えるし、人生の最後を穏やかに過ごしてもらえるようにという仕事をしたいとしても、痴呆ではないひとの終末医療の仕事の方が、痴呆のひとの世話をする仕事より常に充実できるのだろう。痴呆老人を世話することで得られるものはあっても、それは全ての人間のお世話の中で最もお世話をしてあげたひとからの感情的な見返りが少ないケアワークなのだと思う。そういう意味で、痴呆老人の介護は、仕事として存在するべきではない仕事なのだ。生きられるだけ生きているのがいいといういかにも正しい建前に安住しながら、年金額で養護施設の費用を賄えてしまえることで、介護施設のひとに痴呆老人の介護を押し付け続けるということが国中で行われていることを、俺はとてつもなくグロテスクなことに思ってきた。
 祖父母が痴呆で施設に入ったのは俺が大学生になってからだったけれど、帰省するたびに複数の施設をはしごして顔を見せに行っていた。うっすらした悪臭だけでなく、人間がたくさんいても全く何かが起こりそうにもない雰囲気が、いつもうっすらと息苦しかった。施設内の光景に、ここでは何も始まらず、何も生み出されていなくて、ただ終わるのを待っているけれど、それなのに時間はこんなにもゆっくりとしか進まないのかと、どうしてこんな仕事があるんだろうかと、年月が経つほどに怒りが湧いてきていた。
 幸い、俺には家族がいないから、誰にも自分の老人介護をさせずにすむかもしれない。けれど、もうすでに今の生活というのが、心が死んでいる人間を、これまでに身に付けた仕事とか家事の行動パターンが延命させているだけのものだともいえるのだろう。そして、俺は痴呆老人の介護は本人の問題ではなく、世話をする側の問題だと思っていて、そもそも世話をしたくなければそれで終わりでいいし、世話をするにしても、世話をする側が満足したらそれで終わってもらう方が自然だと思ってきた。同じように、もう俺は別に気がすんでいて、別にこの先をこの死んでしまった心にわざわざ体験させてあげる必要もないだろうと思っている。
 俺はさっさと死ねたらいいのになと思っているし、その思いはずっと切れ目なく続いている。そして、おじさんたちの多くは、そういう言葉で思っていないだけで、俺と大差のない気分で自分や自分の未来にうんざりしているのだろうと感じてきた。
 それはありきたりな思いなんだよ。この先の人生にやりたいことがあるおじさんやおじいさんなんて、五分の一もいないのだろう。誰かが自分に懐いてくれていればかわいいと思うし、大切にしてあげたい気にはなるけれど、子供がいたとしても、子供のいる生活の中でエピソードとして子供とのイベントを楽しんでいるのがせいぜいで、子供の成長を見守っている時間全体に充実感や幸福感を感じたりしているわけではない。人間自体に興味がなければ、ゆっくりとしか賢くならないペットのかわいい犬の世話をするのと大差がないのだ。放っておいても成長するし、放っておいても自分が親だし、そのうち放っておいても孫ができるというだけなのだ。自分としてどうしたいというわけでもないし、自分の目の前にやってきたらかわいいと思うだろうし、何かやれることがあるのならやってあげるのはいいけれど、かといって、別にたいして何をしてあげられるわけでもないし、それが自分にとって何になるわけでもないというのが実際のところなのだ。そんなふうに、誰のことも自分のことも別にどうだっていいといえばどうだっていいというくらいの感じ方が、おじさんやおじいさんの多数派の自分の未来への感じ方なんだ。
 生きることがサバイバルであるようなひとは、そこでそれなりに充実できるのだから、それなりの歳までそれなりにやってこれた達成感を抱えながら生きていけばいいのだろう。生きていることが簡単で退屈なひとは、そういうひとたちとはそもそも生きていることのモチベーションのあり方が違っているのだ。
 苦しみがあるひとは、むしろ、その苦しみを生きることができる。生きるまでもないという感覚にうんざりとしているのは、苦しみに耐えて生きているからこそ自分を自分で認められるような感覚の真逆のことなのだ。
 もちろん、俺は困りごとがいつでも生きる力になると思っているわけではないんだよ。障害とか病気とか家族の問題とか、困りごとに苦しめられ続けるひとたちの中には鬱病になって自殺したり、自殺未遂するひとがたくさんいるのだろう。困りごとがあるなりに生きようとしても、世界が自分の努力をあざ笑うように、頑張るほどバカにされたり、利用されたり、ひどい目にあわされてもっと悪い状況になるようなことが続けば、世界から拒絶されているような気持ちになって、生きる気力もずたずたにされていってしまうのだろう。
 それは自分の生まれ持った運命を自分の力ではどうにもできないという無力感なのであって、たいした困りごともなく生きたひとが、自分がよくないことをしたり、うまくやれなかったことによって苦しい状況に置かれたり、孤立することになって苦しむのとは比較にならないほどの、もっと強烈な無力感になってしまうのだろう。
 困りごとがあるひとが、悲劇の主人公的なムードを発して、自分には声高に嘆く権利があるかのようにあれこれ苦しみを吐露しているのを、そういうひとは堂々と嘆いていられていいなと冷笑していてはいけないのだ。そういうひとたちは、確かに困りごとのないひとたちよりはるかに苦しい気持ちで生きているのだ。
 とはいえ、生きるまでもないという感覚というのは、生きているうえでどうにかしたい困難すらないことで、そんなふうに思ってしまうというのが大きいのだ。単純に、困難に立ち向かえている間は、困難に負けていない自分を負けていない人間だと思える。そう思えるためには、特別な苦難が必要なわけでもないのだ。他人からしたときにまともな困難でなくても、本人として苦労しているつもりなら、苦労に耐えて生き延びている自分に対しての満足感というのがあったりするのだろう。仕事を探す気にもならずに、テレビを見て酒を飲んで、働かないといけないけれど、やる気が出ないというような、本人にとっては辛くて仕方ない気持ちに耐えているようなひとも、酒やインターネットの力を借りたりしながら辛さを耐え忍んで、なんとか今日も人生に負けてしまわずに自分を生き延びさせたことに、誇らしいような気持ちになっていたりするのかもしれない。
 けれど、世の中は生きづらさを抱えているひとたちばかりではないのだ。自分の力で生き延びているのではなく、自動的に生かされているようにしか思えないひとたちの方が多いくらいだったりするのだろう。もう生きてなくていいという気持ちは、自動で生かされてしまってはいるけれど、もうずっと、どうでもよさすぎて自分でうんざりするようなことしか毎日していなくて、この自動で生きている範囲の自分にこれ以上何も思えないから、もうこの自動で生きている状態は終わってくれていいと思うような感覚のことなのだ。
 生きていたくないからって、どうだっていいとしか思えないのはそういうことなんだ。したいことはないし、欲しいものはない。別に何も体験したいことなどないから、早く終わってくれていいのになと思っている。それでも、毎日ちゃんとご飯は食べるし、しんどくなるからと眠る。しんどくなりたくないとは思っていて、そのために毎日いろんなことをせっせとやっている。それなのに、別に生きていなくていいのになと思っているのは、おかしいことに思えるのかもしれない。けれど、どうだっていいからこそ、やりたいこととか、やりたいことのために必要なことをやるのではなく、しんどくないことを選んで、面倒なことにならなさそうなことを選んで、嫌な気持ちにあまりならなくていいようにしているだけなのだ。どうだっていいからこそ、ひとからあれこれ言われないように、何事も問題ないレベルにせっせとこなして、人並み以上に仕事ができている状態をキープしているひとたちというのもたくさんいるのだ。
 自分にとってやらなくていいことをやっているという感覚が、多くのひとの生活をすっぽりと包んでいるんだ。仕事でも何でもそうで、だからこそ、それなりに上手くやれて、それなりに楽しくやれていても、そもそもやらなくていいことだと思ってやっているから、楽しくやれたとしても、だからどうしたと思っているし、別にその楽しかった思いができなくてもよかったなと思ってしまうのだ。
 そして、未来の自分がやるかもしれないことの全てに対しても、そんなふうに思っているのだろう。俺の場合は、そもそも昔から未来のことをまともに考えないところがあった。何にも憧れなかったし、誰かを羨ましくも思っていなかったから、何をできたらいいのにとか、いつか何をしようとか、そういうことを考えることがめったになかった。どこかに行くのだとしたらどこがいいんだろうというくらいのイメージでしか、旅行で行きたいところがあったこともないし、彼女ができても、機会があれば彼女としたいこととか、彼女と行きたいところがあったこともなかった。将来の自分の仕事についてもまともに考えることがなくて、大学生になってからは、むしろ全く想像もつかなくなって、大学卒業時点では将来自分が何をするというイメージも全くなくて、結局大学の友達の紹介で友達の勤め先でバイトをして、その会社に就職することになった。
 それは、逆に言えば、したいことがなくても、適当に気が向いたことをしていれば充分に楽しかったということでもあるのだろう。何をしたいとか、どうなりたいという気持ちが希薄だということでは、根本的には無気力だったということなのだろうけれど、昔は何をしても自動的に充実できていた。今のこの気分というのは、その自動的に自分のやっていることを充実させる機能みたいなものが止まってしまったときに、俺の無気力さとか、生きている目的のなさが剥き出しになってしまったものなのだろう。
 俺は会社でえらくなりたいと思ったことがなかったし、関わるひとの役に立てたり、親切にできたりすればそれでいいとしか思っていなくて、自分がみんなにちやほやされたいとかすごいと思われたいという気持ちもなかった。やることがあればやっていたし、関わるひとがいれば楽しくやれていたけれど、それはそのときそのときに向き合っているものに気持ちを動かしてもらえていたから楽しくやれていたからというだけだった。それだけでずっとやってきたから、心が動かなくなってきたときに、ひたすらいまいち何をどうしたいとも思えないというだけの、自分でもびっくりするくらいの空っぽな状態になってしまったのだろう。自分の集団内でのポジションを気にしたり、自分のちっぽけなプライドに固執したりして、自分の頭の中で自己完結的にせっせとあれこれ考えて自己満足しようとする習慣があったなら、そういうことをずっと自分の頭の中であれこれ考えていられたのだ。そうすれば、心が止まってきてからも、そういうネタに目が止まるたびに、いい気になれそうなことはやっておこうとあくせくすることができたのだろう。もともといばりたい気持ちがなかったことで、こんなにも空っぽになってしまったというのはあるのだ。
 実際、もうこれから自分は何をやるにしても、別にやりたいと思っているわけでもないことを漫然とやるだけになるのだろうと思ってしまっているのだと思う。だから、楽しいことくらいは、これからもいくらでもあるのだろうなと思っていても、全くそれを体験したいという気持ちにもならないのだろう。わざわざ生きていなくてもいいなという気持ちというのは、そういうものなんだ。




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