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お子様舌みたいな、楽しみ方を習得しなくてもすぐ楽しくなれるコンテンツしか楽しめない人たち(味わってないから倍速視聴できる)

(こちらの記事の続きとなります)

何を消費していても、それは自分の人生にはなってくれない。

自分がどういう消費者として何を楽しんできたのかということでしか自分の人生を振り返れなかったとしたら、そういう人こそ、自分の人生を生きられなかった空っぽな人だろう。

今の世の中で、自分の所属している集団内で下位に押しやられているわけでもなく、嫌な目にあっているわけでもなく、それなりにみんなと同じくらいに楽しくやれているように思っているひとたちは、現代の社会の問題についてあれこれ考えて行動しているひとたちの話に全く興味も持っていないように思う。

なるべく楽しくやろうと思いながら、そのためにも考えてもしょうがないことは考えないようにしているのだろうけれど、むしろ、政治とか社会問題についてある程度の労力をかけて知ろうとしたり、何かの活動に参加するようなことには、はっきりと意識して背を向けているところもあるのだろう。

そういうことは楽しくやることの邪魔としか思っていないし、そういうことに関わっても、ひとから面倒くさいと思われる人間になってしまうだけだと思っているのだろう。

コンテンツ消費に対してのモチベーションだって同じなのだろう。

パターンだけではなく、どのような人間性がどのような社会状況や運命によって形成されていくのかということを理解していこうとしないと楽しめないようなフィクションなりノンフィクションの作品は、読むにしろ見るにしろ、集中力と体力を消費させられてしまう。

自分が理解できるまで、知ろうとすることを続ける我慢をしないといけないし、みんな疲れることをとにかく我慢したくない。

だから、ぱっとわからなくて、我慢しないとわかってこないものは、徹底的に拒否されるようになってきているのだろう。

昔から、そういうものは一部のひとしかある程度でも理解できなかったのは同じなのだろうけれど、それでも、わからないけれどいろいろ考えているひとにはいろいろあるのだろうと、よくわからないごちゃごちゃしたことを言っているひとをわざわざ苦労してくれているひととして多少は尊重しつつスルーしていた。

けれど、近年になって、よくわからないごちゃごちゃしたことを目の前に差し出されると、ぱっとわからないことがぱっとわからないことに不愉快な気持ちになって、そんなものを差し出してくることに対して、不愉快なことをされたと相手を責めようとするひとが若いひとを中心にずいぶん増えたのだろう。

もうみんなえらそうにされることを我慢するのが本当に嫌になってしまったのだ。

それはそうなんだろうなと思う。

みんな世の中に何も思っていなくて、苦痛が多すぎるから減らしてほしいというだけで、自分で楽しめることを楽しむからなるべく放っておいてくれとしか思っていないのだろう。

ややこしいことを言われて、それをちゃんと考えないといけないかのような雰囲気を出されるのは本当に苦痛で、こっちはこっちで楽しくやろうと、自分が楽しめるもので自分のまわりを固めようとしているのに邪魔をするなというような気持ちなのだろう。

世界的にそういう生活の画一化による社会への意識の希薄化は進んでいるのだろうけれど、特に日本では、人種や貧富の差でのグループ分けが大きな形では発生しないから、日常的なお喋りの場で社会のことが話されることがほとんどなかったし、近年はさらにそうなっているのだろう。

身の回りの嫌なやつの話と、あとはレジャーとエンタメと仕事と子供と金の話が、庶民の会話のほぼ全てなのだろう。

若者集団の中では、あまりにも多くのひとが同じようなコンテンツを消費していて、その圧倒的多数派集団に収まっているつもりでいるひとたちからすると、自分たちだけが存在して、社会なんて存在していないのと同じなのだろう。

それもあって、日本の若年層では圧倒的多数が社会的な問題を扱った作品に全く興味を持たないし、子供の頃からのコンテンツ消費で慣れ親しんだタイプの気持ちよさの体系にいつまでも留まって、いつまでも同じようなもので気持ちよくなろうとし続けていて、エンタメ消費として今気持ちがいいものはどういうものかというトレンドも世界から乖離してしまっている。

ひとが自分たちの心を自分で感じようとしなくなっているとか、そんなことは人間にとってたいしたことじゃないのかもしれないとは思う。

人間は猿もどきとして集団で生きていくのに適した肉体をもっていたはずなのに、文化によって猿もどきらしくない生活をするようになって、猿もどきの群れとしてしか生きられないのに、集団でいるときの自分や他の人間たちに、思っても仕方のないことを思うようになったというだけのことではあるのだろう。

文明によって、サバイバルに勝ち残る必要がなくなって、ほとんど自動的に生きられるようになって、暇になりすぎて、もっと何かないんだろうかと、延々と考えても仕方のないことを考えるようになっていったということでしかないのかもしれない。

もちろん、それは猿のように快適でいい気分で生きていければそれ以上何も求めないというくらいしかモチベーションを持たずに生きている場合の話ではあるのだろう。

人間はどうしたって、何かを思うことをやめてしまうまでは、何かを見れば、何かを思ってしまう。

世の中のほとんど全てのことが、どうせ闘争や謀略によって邪魔なやつを排除することで全てが決まるのだし、庶民が何を思ってもしょうがないことではあるのだろう。

けれど、世界を変えることができなくても、世界で生きていく人間としては、考えてもしょうがないことを考えることで、世界の中で世界がこんなふうであることに、前よりもしっくりくるようになれる。

そういう意味では、世界がこんな世界であることにしっくりこないひとが、しっくりくるために考えて、何かに自分なりにしっくりくることができた形跡として、芸術や文学や各種研究とか、文化を構成する一つ一つの断片があるのだろう。

今から大人になっていくひとたちというのは、その子の親もそうだろうし、友達にしても、まわりにいるひとたちのほとんど全員がそういう文化を構成するような作品に全くと言えるほど触れないのだろうけれど、そうだったとして、その子は自分がいる場所や、世界や、人間というものに、もうちょっとしっくりきたいと思うようになるのだろうか。

まわりのみんなが、世界がこんな世界であることにしっくりきたいとも思っていないし、自分が自分であることにしっくりきたいとも思っていなくて、楽しければいいとしか思っていないのなら、その子の身体は自動でみんなに同調するから、その子だって、楽しければそれだけでいいんだと思っていられる気分がどういうものか自分の身体でわかってしまうのだろう。

そして、いつの間にか、楽しければいいんだと流されてばかりの日々を送るしかなくなっていったりするのかもしれない。

その子がみんなの中にすっぽりと埋没するのなら、その子は自然と自分がどう感じているのかに興味を失っていくし、損得のことと、なるべく楽しいことをすることだけを考えて生きるようになれば、世界はその子にとって何かを思う対象ではなくなっていく。

これから育つひとたちにとっては、集団というのはどうしたってみんなをそういう場所に引っ張っていくものになるのだろう。

一部のそうじゃないひとたちが集まった集団だけがお互いがどういう人間であるのかを面白がり合って過ごしていられる場所になる。

そういう集団に仲間に入れてもらえるかどうかで、その人の人生はまるっきり違ったものになる。

そういう集団の中に入れてもらって、そこで自分らしさを他人に喜んでもらえるひとになって、自分のやれていることに自分で手応えを感じながら、そのうち、ずっと一緒にいたいと思えるようなひとと、お互いにそう思い会えるような関係になっていくというのが、今から育っていく人たちが人生の基本的なモチベーションとか、人生の目標とするのに建設的なものになるんじゃないかと思う。

もちろん、それは苦痛の多い生き方なのだろう。

結局のところ、身内感覚で一緒にいられるひとたちと一緒にいるときしか、本当には安心できないのものなのだろう。

誰に対しても、どういう集団に対しても、身内と思えるほどの帰属意識を持てないひとは、ひとの輪の中にいて一緒に笑えていても、孤立感は感じなくても、深くつながれている感覚がなければ、ずっと寂しさを感じていたりもするのだろう。

集団に埋没しないということは、寂しいままでいるということを選ぶことだったりする。

自分の気持ちではなく、集団がどうだからとか、自分はこの集団でどういう存在だからとか、そういうことを理由にして行動しているからこそ、自分を仲間の一員だと思っていられるし、その行動の結果も、自分ではなく、自分たちの問題に思えて、孤立感を感じないですむ。

そして、それと引き換えのようにして、集団の一員として何をしていても、それは自分がやったことではなくなっていくし、自分が思ったことですらなくなっていくのだ。

集団の力学で行動させられてしまうものではなく、そういう日々の中で自分がどうしてもそう感じてしまうことが、自分にとっての本当のことだというのはそういうことなのだ。

集団の中でのことは、集団内のことが少し変われば、自分の思うことも言うことも変わってしまうのだし、何であれ本当もクソもないだろう。

けれど、自分の気持ちだけで行動しようとすると、誰のことも仲間だとか敵だとか思うことも難しくなる。

そして、みんなが同じように感じていないことに、また寂しさを感じる。

世界が自分に敵対しているように感じたりもする。

音楽でも映画でも小説でも、多くの作品というのは、そういう感覚のもとに作られている。

自分が孤立しているみたいな気分にさせられることへの腹いせのように、自分は自分がいいと思うことをやろうとして、まわりのひとに見せつけるようにして、自分が思う、こうした方がいいはずなのにということを表現したものとして、作品たちがあるのだろう。

作品を作るひとでなくても、みんながそうしないことでも、自分はそうした方がいいと思うからと、優しくしようとしたり、楽しませようとしたりするひとたちにしても同じで、そういうひとたちのやってあげようとする気持ちは、みんながそうではないことへのある種の攻撃だったりもしているのだ。


(続き)


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