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発達障害的な傾向と共感能力とキモいぶりっ子を好きになれてしまうこと

 君はすでに女のひとを好きになったことがあるんだろうか。あるとして、どんなふうに好きになったのだろう。

 君も視界に入っているだけで、そのひとの感情の動き方のニュアンスが伝わってき続けるような身体で生まれ育ったなら、そばにいて伝わってくる感情がいい感じがするひとのことを、いいひとだったり、かわいいひとだと思っているのだろう。

 そうだったならいいと思う。

 そして、そうだったなら、みんながそんなふうにひとを好きになるわけではないことを早めにわかっておいた方がいい。

 他人の感情が自然と伝わってくるひとは、自分が好きになってしまうようなひとのことは、近くにいるだけで、そういうひとなのかもしれないと気が付いてしまう。

 けれど、ひとの気持ちを感じ取っていないひとは、それぞれのひとがどんなひとなのかを自然と知っていくことがないから、自然と好きにならない代わりに、好きになろうとしたものを好きになれてしまう。

 そして、好きになり方としても、相手の気持ちの動き方や、自分に対しての相手の気持ちをいいものに思って好きになったりするわけではないから、自分でそのひとを好きになれるか見てみて、自分が好きそうな感じだったら好きになったりする。

 だからこそ、そのひとがどんなひとであるかということではなく、相手がどんな見た目や身体つきをしているとか、相手が何かをしてくれたからと好きになったりできてしまうのだ。

 そのひとがそばにいて、そのひとの気持ちの動きを感じ取っているだけで、自分の心と肉体がそのひとを魅力的だと思ってしまうわけではないのだから、そのひととのエピソードとか、容姿や行為によって自分に与えてくれる刺激でしか相手から魅力を感じられないのは仕方がないのだろう。

 君にはわけがわからないかもしれないけれど、そんなふうにして、多くのひとが意味がわからないくらいルッキズムを根深く内面化しているし、当たり前のようにして、自分にとって見た目のいいひとだからと、そのひとを好きになっていくんだ。

 目の前のものを知覚したあとは、ほとんど自分の頭の中だけで生きているひとと、自分の身体を自分で感じて、自分の気持ちを自分で確かめながら生きているひととは、生きていて全く体験しているものが違うというのはそういうことなんだ。

 そして、どうして心がないみたいなひとは、女のひとよりも男に圧倒的に多いのかということも含めて、それはやっぱり共感能力がどれくらい働いているのかという問題が大きいからなのだろう。

 男には共感能力があまり働いていない自閉症スペクトラム障害のグレーゾーンのひとが大量にいるし、男集団というのは、共感をベースにしたような感情が希薄な一部のひとたちのノリに毒されがちだったりするのだと思う。

 女のひとの場合は、ある程度以上他人の気持ちがわからないと、早いうちから多数派から仲間外れにされて、のけものにされているひとたちの集団で過ごしていくことになるのだろうけれど、男の場合は、そもそもひとの気持ちがほとんどわからないようなひとが多いのもあって、特別ノリが悪かったりしなければ、そういうひとも多数は集団の中でやっていくことができてしまう。

 そういう男たちは自分をみんなと大差ない存在に思いながら、そういう男なりの普通の人生を送って、そういう男なりのものの感じ方を当たり前のような顔をして撒き散らしていく。

 男がぶりっ子で性根の曲がっていそうな女に鼻の下を伸ばしているのを、女のひとたちは意味がわからないと思いながらげんなりした気持ちで見ているのだろう。

 そして、それと同じような気持ちで、メンタルヘルスを害している系のひと扱いされているような女のひとたちが、とんでもなくクソな男に引き寄せられていくのにも、意味がわからないと思いながらげんなりしているのだろう。

 けれど、よくもあんなひと目見ただけでヤバそうなやつにとげんなりしている側のひとたちと違って、共感能力がまともに働いていないひとたちは、相手の中で動いている感情の意地汚さや自分本位さやわざとらしさは感じていないから、みんながひと目見て感じているものをいつまでたっても感じ取れないのだ。

 むしろ、わざとらしくかわいくしていることは、わざとらしいことをしていると感じるのではなく、はっきりかわいいことをやってくれていると感じられるのだろう。

 わざとらしく格好つけたことをされるのも同じで、メンヘラのひとたちはそういう気味の悪い格好つけ方をした男たちに、格好いいことをたくさんやってくれていると感じているのだろう。

 それは仕方のないことではあるのだろう。

 共感能力が低い状態で生きてきたひとは、その場の空気から浮いているとバカみたいに見えるという感覚がない状態で、どういうものを格好いいと思うかという感じ方を自分の中に形成していったわけで、共感能力がある程度以上あるひとたちとは、格好いいと思うものが全く違っていって当然なのだ。

 共感能力がある程度あって、常に集団への一体感に引っ張られ続けて生きているひとたちは、格好つけているのは格好悪いとびくびくしながら、みんなで示し合うようにして、それほどでもない感じに控えめにしかアピールしないようにしている。

 そして、そういう範囲での控えめな格好付け方からでも、充分に格好よさを感じ取れる。

 けれど、共感能力が低いひとからすると、そういうような自分で自分の魅力を抑圧しながら、それでも感じ取れるものを感じ取ってもらおうとするようなアピールは、そのニュアンスを自然と感じ取れないから、ただ見ていて地味なひとに思えてしまったりもするのだろう。

 発達障害的な傾向を持つ女のひとは、外見へのこだわりが強くなりがちで、摂食障害になる比率が高かったり、ピアッシングにはまったり、美容整形手術をしようとするひとも多くなるらしいけれど、共感が働きにくいと、そうなってしまうというのは、仕方のないことなんだろうなと思う。

 俺からすれば、顔の作りよりも、顔を見ていて伝わってくるそのひとの気持ちの動き方の方が、そのひとの印象としてはるかに大きい。

 表情が動くときは、表情の動き方の感触だけを感じているようになって、それがどんな作りの顔の上で動いているのかということは、見えてはいてもそこに意識がいかなくなる。ものとしての存在感のようなものを顔からあまり感じていなくて、運動体がその運動によって自分の気持ちにどういう反応を起こすのかということばかりを感じているということなのだろう。

 だから、たまに顔自体を見ようと思って、そういう目で顔の形や肌の感触を確かめてみたときには、こういう顔だったんだなと思ったり、やっぱりきれいなひとだなとか、そういうことを改めて思ったりする。

 逆に、普段話していたり一緒に何かしていたりするときには、相手の感情を表情から感じ取ることに意識がほとんど奪われていて、顔自体に意識がいくことが全くなくなってしまう。

 けれど、共感能力が低いひとであれば、ひとと顔を向け合っているときに、相手の感情を感じ取ることに意識がほとんど奪われてしまうということがないのだろうし、その代わりに、自分が思いたいことを思って、自分が見たいものに目を留めていられるような余裕があるのだろう。

 ひとの気持ちの動きがそこまで強く伝わってこないことで、相手からの気持ちに釣り合う気持ちを返さなくてはいけないという感覚にならないというのもあるのだろう。

 そうなったときに、目の前にあるひとそれぞれに違っている顔というものの細部に対していろんなことを思うのだろうし、それが自分の好きな顔であれば、相手と話していても、相手の感情を感じるのをそっちのけで、その顔を鑑賞していい気分になっていたりするのだろう。

 発達障害的な傾向があるひとが美容整形をしたいと思うようになる率が高いというのも、そういうことなのだろう。

 他人の感情が伝わってきすぎるから、ブサイクであることが辛くて、整形をしたいと思うひともいるのかもしれないけれど、それよりも、共感能力が低いことで、顔を物体と感じている度合いが高くなって、物体としての顔の良し悪しという観点で見ることがあまりにも揺るぎなくなってしまうのだろう。

 そのうえで、自分が不幸だと自分で感じるときに、他人の気持ちがわかっていないから、みんなそれぞれにそうなるべくしてなっている感覚も希薄で、そのぶん知覚できることだけでものを考えるから、きれいなひとが幸せそうで、自分はきれいさが足りないから不幸なのだという考えに引き寄せられてしまいがちになるということなのかもしれない。

 そして、自分の顔にも他人の顔にも、顔と自分らしさの結びつきをさほど感じていないのだろうし、そうすると、顔の形をいい形に変えられるのならそうしたいとすんなり思えてしまったりするのかもしれない。

 共感能力がある程度以上に働いているひとからすると、他人の顔に、そのひとの感情の動き方と切り離して、顔自体として何かの印象を持つことの方が難しかったりするのだと思う。

 共感能力が自動的に相手の感情を感じ取り続けることで、顔を向け合っているだけでそのひとらしさを感じ取れてしまうと、顔だけを取り出してどうのこうのと考えるのは難しくて、そのひとの顔の動きはどうしてもそのひとらしいものに感じられて、そうすると、そのひとはそのひとらしい顔をしているように感じられてしまう。

 みんなたくさんの美容整形の事例をテレビやインターネット上で見ているのだし、ちょっと顔をいじればずいぶん印象は変わるし、ちょっといじったからといって、自分の自分らしさに大きな影響があるわけではないとわかってはいるのだろう。

 それでも、誰の顔もそのひとらしく感じられたり、自分の顔だって、自分らしくはあるのだという実感が揺るぎないと、顔を変えたいという気持ちにはまり込んでいきにくいというのはあるのかもしれない。

 共感能力が低くなっているひとたちというのは、共感能力が定型的に発達しているひとたちからすれば、見た瞬間にあからさまなことが見えていないかのようだったり、明らかにおかしなことになっているのに自覚がなかったりと、同じ人間なんだろうかと思ってしまう感じにわけがわからなかったりする。

 共感能力が比較的まともに働いているひとが多数派で、話がまともに通じる同士での会話に慣れ親しんできた女のひとたちからしたときには、家族や友達の輪の外に出た世の中のいろんなひとたちが、意味不明で恐ろしいものに感じられるのだろう。

 男全般にしたって、そういう対象なのだろうし、特に男集団が内向きに盛り上がっている姿を見ると強烈な嫌悪感が湧くひとというのは多いのだろう。

 俺が昔付き合っていた、ちょっと男性嫌悪があったひとにしても、男の多くが女のひとに対して何かを思うときに、心が消えて、自分の頭の中の別の現実の住人になってしまうような感覚が怖かったりしていたのだと思う。

 そもそもひとの気持ちをあまり感じていない男たちは、その彼女からすれば論外だっただろうけれど、それなりにひとの輪の中で他人に気を遣いながら優しげに振る舞っている男たちであっても、その大半は、そういう状況になるたびに、すぐに自分の心の連続性を停止させて、自分の頭の中のポルノを通して目の前のものを見ることで興奮しようとしてくる。

 そのポルノめいた妄想がお互いに共有されているわけではないのなら、一瞬頭の中でひとりで小さく興奮されること自体が、自分を見ながら自分を無視して、男として女を性的に消費する高揚感で目の中を空っぽにされる様を見せつけられるということで、多くの女のひとはそれに慣れていたり、そういうものなんだろうと受け流せるのだろうけれど、俺が付き合っていたひとのように、それが怖くなってしまうひともいるし、そういうひとからすれば、男のほとんどがふとするたびにグロテスクなもので自分を脅かす存在に思えるのは仕方のないことなのだろう。

 ブサイクなひとから見た世界以前に、女のひとから見た世界というくらいでも、そういうものだったりするのだ。

 女のひとたちの中で、基本的に他人への共感を絶やさないようにしているひとたちからすれば、男は全体的にそういうもので、全体的にそんなものである男たちが牛耳っている場所というのは、どこであれたいてい心といえるようなものをほとんど感じられないように思っていたりするのだろう。

 もちろん、女のひとにしたって、みんながいつでもそれなりにひとの気持ちを感じているわけではないのだろう。

 ブサイクをブサイク扱いするのは女のひとたちも同じだったりはする。

 そして、女のひとであっても、いじめることで気分がよくなっているようなひとは、心がないみたいに相手の気持ちを感じない状態になっているからそういうことができているのだろう。

 女のひとからもブサイク扱いされるくらいのブサイクなひとたちからすれば、男だけではなく、女のひとだって、それなりに多くがまるで心がないかのように思えるのだろう。

 それでも、女のひとたちの場合は、不特定多数に対する悪意というものは希薄なのだと思う。

 ブスだからいじめたり排除している場合は少なくて、いらっとするからそうしていて、いらっとするひとには統計的にブサイクが多いから、ブスだということでもなじっている場合が多いのだろう。

 女のひとたちだって、集団の中では、集団内の自分の地位をよくしたいという気持ちになってしまうし、そのために自分がどう振る舞えばいいかということばかり気にするようになって、目の前の相手への同調や共感が弱まってしまうひともそれなりにたくさんいるのだろう。

 だから集団内で、自分の方が上位だと思ってしまうと、下位のひとが思うように振る舞わないと、どうにか屈服させようとするし、気に入らないからと、加減を調整しながらいじめ続けたりするのだろう。

 だからといって、男女の差というのはあるのだ。

 バカにしたくてやっているわけではないから、男たちに比べれば、女のひとでブサイクだとみなす範囲も格段に狭いし、女のひとは、男のブサイクに対しても、男が女に対するよりははるかに扱いがマシだったりする。

 女のひとは他の女のひとの容姿にも、自分がそのひとの容姿だったらどうかということを思っていろんな気持ちになっている場合が多いのだろうし、男の容姿に対しても、自分の好きな容姿のひとを見ているのが好きなだけで、他はどうでもよかったりするのだろう。

 ブサイクだったり気味が悪い男には冷たく接するひとが大多数ではあるけれど、みんなが冷淡に接しているのに自分だけ普通に接していると相手から好意を持たれて面倒なことになるから、みんなと同じように冷淡に接している場合も多いのだと思う。

 そして、キモいタイプのブスは男に迷惑をかけることは少ないだろうけれど、キモいタイプの男は大量にいすぎるというのもあって、多くの女性が実際にキモいタイプのブサイクにたくさん嫌な目にあっていて、実感を持ってそういうタイプのブサイクのことを嫌っていて、しかもそれは、ブサイクだからではなく、迷惑だから嫌いだという正当な理由なのだし、女のひとが集まったときにブサイクがこき下ろされるのは仕方がないことなのだろう。

 どうしたって男の方が他人を傷付けるようなことをして楽しみたいという感覚を内面化しているひとが多いし、それはそもそも男たちの方が共感能力が低いひとが多くて、そういう集団として男たちの文化をずっと作り続けてきたからなのだろう。

 男たちが女のひと全般に向けているバカにさせてほしくて、侮辱させてほしくて、自分の思うように行動してほしいという気持ちの醜悪さに比べれば、女のひとが男全般にどうにかして欲しいと思っていることなんて圧倒的に穏やかなものだろう。

 女のひとで男並みに悪意をもってひとに接しているひとというのは、多くの場合は、復讐心でそうしているのだろう。

 もちろん、男だってひどく傷付けられてきたことで攻撃的な行動パターンになっているひとは多いだろう。

 若いうちから非行に走って、反社会的な活動で生きていくことになったようなひとたちだと、大半が幼少期からずっと傷付けられ続けて生きてきたようなひとたちなのだろう。

 けれど、男の場合は、それ以上に、たいして傷付けられてきてもいないのに、いろいろ気に入らないと勝手にいらいらして、他の男たちが徒党を組んで攻撃的な態度を他人に向けて気を大きくしているのを見て、それを楽しそうだと思って仲間に入れてもらって、自分はみんなと同じなんだというつもりで、いばったりひとをバカにしてみんなで笑うために生きるようになったやつがたくさんいるのだ。

 女のひとたちだって、男が牛耳っているような集団にどっぷり入り込んでいるひとほど、他人に対して暴力的なことを気軽にやるのだろうし、集団内で自分より下位のひとをいじめていい気分になっていたりするのだろう。

 別に女のひとであっても、ひとの気持ちをしっかり感じられるひとでも同じで、男たちがいらいらした気持ちを撒き散らしながら、見ているひとが不愉快になるようなことをしている光景を見慣れて何も感じなくなってしまえば、みんながやっていることだからと思って、何でもできるようになる。

 問題は傷付けられすぎたひとたちではなく、そういう普通のひとたちで、そういうひとたちこそが、ブサイクとか、ダサいとか、仕事ができないとか、のろまだからといじめられて排除されているひとたちから、まるで心がないみたいなひとたちだと思われているんだ。


(終わり)

「息子君へ」からの抜粋となります。


息子への手紙形式で、もし一緒に息子と暮らせたのなら、どんなことを一緒に話せたりしたらよかったのだろうと思いながら書いたものです。


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