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【連載小説】息子君へ 171 (36 君は心が動く速さで生きないといけない-1)

36 君は心が動く速さで生きないといけない

 人間は身体が感じたままを生きることができない。人間は意識しているものを現実だと思ってしまうから、何をするにも、何かを思って満足したら、それ以上はまともに感じようとしなくなってしまう。そして、ひとは意識しないとすぐに楽をしようとしてしまうものだから、ろくに感じないうちに、さっさと何かを頭で思ってしまうことで、感じようとする態勢からさっさと解放されようとしてしまう。
 例えば、口に入れて二秒くらいして味に何かしらの印象を持てたら、もうそれで自分はちゃんと味わって食べているような気になって、そこからはもう食べているものには何も思おうとしない状態になってしまうひとというのがたくさんいる。実際、口に入れさえすれば味はする。自分の好きな味なら、口に入れさえすれば美味しいと感じるのだろう。けれど、口に入れて味がしたあとも、どういう味がしているのか感じていると、感じているものがどんな感じなのかがもっとわかってくるし、感じているうちに、その感じがどうだなと何か思うし、そう思ってまだ感じていると、他のことにも気が付いて、そう思いながら感じていると、また違ったところを意識しながら味わえて、もっと美味しく感じられるようになったりする。
 それはかわいいひとを見て自動的にかわいいなと思って、自動的にいい気分になっているのと同じようなことなのだろう。よく見ていれば、ぱっと見はかわいいっぽいけれど、けっこうわざとらしいし、どうも意地悪そうな感じのするひとだなと思ったり、逆に、目立たなかったから長いことちゃんと意識したことがなかったけれど、よく見ると肌もきれいだし、仕草なんかも気取ってないし、ちょっと子供っぽいけど、誰に対しても縮こまってなかったりとか、いかにも自分がかわいい気がしてしまうタイプのひとだったんだなとか、かわいいと感じたのが、そのひとのどういうところに対して感じたものだったのかどんどん実感できてきて、そうすると、そのひとをもっとかわいく感じるようになってきたりする。
 もっと感じようとして、もっと時間を使えば、もっと感じられるというのは何でもそうで、食べ物であれば、感じているほどに、美味しいものは、どんなふうに美味しいんだなと、どういうところが自分に心地いいのか実感が湧いてくるし、美味しくないものは、どういうところが美味しくないんだなとしみじみと美味しくなく感じてしまうポイントを噛みしめることができる。
 そして、食べ物の場合、そうやって味を感じすぎている状態が続くと、その味が刺激として新鮮さがなくなって、味に飽きてくるような感じがする。美味しい美味しくないではなく、そのものの味がただそこにあるような感覚になってくる。
 普通食べ物に飽きるというのは、それを口に入れたときの刺激に自然と美味しいと思っていたものが、口に入れても自然と美味しいと思わなくなったときに、何も思わないことで、ただそれの味がするという状態になって、それの味が鼻につくような気分になって、飽きたと感じるのだろう。
 けれど、そうだとすれば、むしろ飽きてからがそのものの味を感じている状態なのだろうと思う。例えば、いくつものおかずが少しずつあるのと、ひとつのおかずがたくさんあるのとでは、おかずの美味しさにどっぷり浸れる度合いに大きな違いがある。けれど、美味しいお店なら、いくつかのおかずのセットより、ひとつのおかずをずっと食べ続けている方が、満足感が高かったりする場合もある。複数おかずがある方が、別の刺激を得られるから飽きにくいけれど、飽きられないことで、常に一口目の美味しさに引き戻されてしまう。それは、逆に言えば、同じものを食べ続けて味がわかりすぎて、その味の感触で頭の中までいっぱいになってくるような状態になれないということでもあるのだ。
 それは人間と関わる場合も同じだったりする。人間の場合も、そのひとと一緒にいて、そのひとのパターンに慣れて、そのひとに飽きてきてから感じている面白さが、自分にとってのそのひとの本当の面白さなのだ。
 どんどん面白いことを言ってくれて、話を聞いているだけでも楽しいひとがいたとして、そういうひとは、そういうテンポで話しているには楽しくても、仲良くなるとそういうテンポの会話も飽きてくるし、お互いの思うことを伝え合うような会話をしてみると、全然自分の言っていることをまともに受け取ってくれないし、自分のことを面白いひとだと思ってくれもしなくて、話すほどにげんなりする相手だったと気が付くことになる場合もある。
 それとは逆に、そのひとと一緒にいることに新鮮さがなくなってきて、同じような話ばかりしている感じになって、退屈といえば退屈な感じになってきてからも、いつでもちゃんと話が噛み合うし、何か思いついたことを言ってみたら、うれしくなれるような反応が返ってきたり、相手の感じ方を面白く感じられることがちょくちょくあったりとか、新鮮味は全くなくなっているけれど、なんだかんだずっと楽しく一緒にいられるひとがいる。
 そういうひとが、ひとりの人間とひとりの人間として一緒にいるとしたときに、君にとって一緒にいてしっくりきているひとなんだ。そのひとに退屈してくるまでは、なかなかそれがわからない。君は退屈を恐れずに、退屈してからものんびりと目の前の相手のことを感じていればいいんだ。
 楽しいとか面白いとか美味しいとかというのはそういうものなんだ。何であれ、飽きるまでは刺激として消費されている。慣れてきて、飽きてくると、刺激として瞬間的に何かしらの印象が浮かぶのは弱まって、そのものの感触だけがじわじわ感じられるようになる。それがそのもの自体の感触で、飽きることで刺激が薄れても、そのものの感触がいつまでも心地よいものや心地よいひとというのはいる。そういうものこそが、君にとって、刺激として使い捨てるようにしか関われないものではなく、作品とか人格として、自分にとって大事なものとして関わっていけるものなんだ。
 君は退屈するのを嫌がるひとにならないようにしないといけない。退屈してきてからも、まだそれをだらだら感じて、だらだら新しく何かに気付いていって、またそのうち面白くなってくるような、そういう楽しみ方を何事に対してもできているひとの方が、刺激を消費しきったら使い捨てて次に行くというのを繰り返しているようなひとたちより、よほど生きていることを楽しめているのだ。
 そのために、心が何かを思うにはそれなりの時間が必要だとか、刺激としてではなくそのもの自体を感じられるためにも、どんな刺激が自分の身体を通り抜けるのかではなく、そのものの感触にしっかりと浸らないと感じられないものがあるということをわかっていないといけない。それが刺激として消費するのではなく、それ自体がどんなふうにそうなのかを感じて、もっとたくさん楽しもうとすることなんだ。
 自分の感じていることを自分で感じようとしないといけないというのはそういうことなんだ。自動的に感じるだけではなく、感じているものをもっと感じることで、それがどんなふうにいいのかもっとわかってくるようになる。音楽もそうだし、食べるものもそうで、感じているものに、どうしたらうまく気持ちよくなれるのか、自分の感じ方を調整しながら、その感触をもっと気持ちよく感じようとしているうちに、もっと気持ちよくなってくる。
 感じようとするほどに、いろんなことを感じて、どんどんそれが気持ちよくて面白いものに感じられるようになるというのは、刺激を楽しんでいるというよりも、そのものから楽しさや心地よさをそのものから教わっているような状態なのだろう。すでに身に付いている感じ方で自動的に気持ちよくなれるぶんだけで満足するのではなく、もっと気持ちよくなれる受け取り方を自分の身体の中に見付けていくというやり方で、もっとそれを楽しめる感じ方を学んでいるような状態なのだ。
 もちろん、だからこそ、ひとはちゃんと味わおうとしないのだろう。何かを学ぶ態勢になるのは億劫だし、その態勢でじっと感じようとし続けるのは疲れることなのだ。感じることに意識を集中させる必要があるし、自分のこれまでの感じ方や思い方を自分で別のものに作り変えなくてはいけないのは、そうしたい気持ちがあったとしても億劫なことだったりするのだろう。
 そんなことをしなくても、世の中にはいろんなひとがいて、いろんな商品があって、自分がぱっと気持ちよくなれるものはすぐに見付かるのだ。頑張って自動的に気持ちよくなれるぶん以上に気持ちよくなろうとしないといけないのはどうしたって面倒で、だからこそ、いろんなことに気付かせてくれる奥深いものが世の中にたくさんあったとしても、それは一部のひとたちからしか手を伸ばしてもらえなくて、多くの人々はちゃんとまともに感じようとしなくても、ぱっと見ればすぐに気持ちよくなれるような、すでに自分が馴染んでいる種類の刺激ばかり消費しているのだろう。
 ほとんど生まれつきのままみたいな子供の感受性のままで、子供が好きなようなものの大人版を消費し続けて生きていける世の中になってしまっているし、一年に一回でも本気で目の前のものをちゃんと感じることもないようなひとはこれからも増え続けるのだろう。さっさと自動的に面白かったり、さっさと口に入れた瞬間に美味しかったりするものが大量に用意されているのだし、じっと感じて気持ちが動くのを待ったりせずに、そういう種類の心地よいものの中から、自分のフェティシズムも刺激してくれそうなものを探して次々に消費していくばかりになっていくのだ。
 みんなとにかく面倒なのだろう。食べたものを味わうことも面倒だし、目の前にいるひとの気持ちを感じるのも面倒だし、音楽を聴きながら自分の身体がどう反応しているのか自分で感じ取るのかも面倒だし、映画を見ながら自分の気持ちや自分の記憶が、目の前のイメージにどんな刺激を受けているのかと寄り添うことも面倒なのだ。自分がぱっと思いたいことを思えたら、あとは心地よい刺激に浸りながら、頭ではぼんやり自分がそのとき思っていたいことを思っているだけでいいのだろう。作品はいらなくて、エンタメだけでよくて、他人とも、楽しい感じで過ごせればよくて、誰の何も感じなくてもいいし、知りたいとも思っていない。
 別に大げさな言い方をしているわけじゃないんだよ。何も面倒くさがっているせいで、自分が何であれほとんどまともに感じていないということを全く自覚していないひとはたくさんいる。そういうひとは、食べているものがどういう味だなと、ゆっくり口の中の感触に浸りながら、どうのこうのと言っているひとを、食べることにこだわりがあって、よくわからないことをああだこうだ言いたがるタイプのひとだと、面倒なひと扱いして、感じているはずのものを素通りして、一口目の美味しい感じをさっと楽しめればそれで満足というような食べ方をしている自分たちを普通だと思っている。食べるのでも、音楽を聴いたり映画を見たりするのでも、ひとと関わるのでも、そういうひとの方が圧倒的に多数派なのだ。
 若者ですら楽しければいいとしか思っていないひとが増えていっているというのも、それとひとつながりの問題なんだ。楽しければいいとか、美味しければいいとか、それだけしか思っていなければ、ちゃんと感じなくても、刺激として消費しているだけですむ。それですむというより、その方がいいということなのだろう。みんなとにかく疲れたくなくて、だから目の前のことをちゃんと感じたくないし、よくわからないことは考えたくなくて、だからルールばっかりで、マニュアルばっかりの、マナーばっかりになってしまうとしても、それによって文句を言われる可能性が減って、コミュニケーションが難しい状況になる可能性を下げられるならと、自分から型にはまった楽しみ方や考え方や喋り方の中に没入していくのだろう。
 世の中全体がそうなっているんだから、君だってそれに付き合わされ続けることになるのだろう。だからこそ、そういう世界の中で、自分がそうしようとしたときには心のスピードで目の前のものを感じられるようになっておくことが大事になるんだ。
 世の中というのは、どうしても基本何もかもが早い者勝ちで、だから人間のすることは何もかもが人間にとって速すぎてしまう。けれど、世の中がそうだとしても、個々人の関わりというのはまた別のものとして守らないといけない。日々の思うようにならない生活のスピードに流されるままになって、ずっと何もかも頭の中で速く考えて速く次にいこうとするばかりで、他人に顔を向けているときにも、速くしか相手の気持ちを感じてあげられなくなってしまっているようなひとは、楽しさでしか他人とつながれなくなってしまって、特別さでは他人とつながれなくなってしまう。
 心の動くスピードで自分に接してくれるひととしか、君はエピソード以外のものを共有することはできない。頭のスピードでしか君のことを見てくれないひとは、一緒に楽しくやれたとしても、あのとき楽しくやれたとか、あの頃一緒に頑張ったとか、何かしらのエピソードを共有した相手としてしか君を見ていないし、それはシチュエーションの構成要素の一つとしてしか君のことを感じていないということで、君の人格に何かを感じてくれていたわけではないのだから、そのひととの間にエピソード以外の何かが残らないのは当然のことだろう。
 かといって、君のまわりには、君がどういうひとなのかをまともに感じようとしてくれるひとなんて、ほとんどいなかったりするのだろう。そもそも、君のお母さん自身、俺といちゃいちゃするのを楽しんでいただけで、仲良くなったからといって、俺がどういうひとなのかということには全く興味を持とうとしてくれなかった。君に対しても、いっぱいかわいがってくれるし、大事に扱ってくれるけれど、君がどういう気持ちの動き方をする人間なのかということを知っていきたいというモチベーションで君に顔を向けてくれることはないのだろう。そんなお母さんに慣れた君は、友達が自分のことをそういうキャラのひととしか感じてくれていないことには何も感じないままになるのかもしれない。彼女ができても、彼女が彼氏扱いしかしてくれなくて、君がどういうひとなのかということに興味を持ってくれなくても、それを当たり前のことに感じて、セックスして一緒に眠れるような恋愛ができるようになって何人目かに仲良くなった女のひとと、何をしていなくても一緒にいて何か思ったことを喋りながらお互いの顔を見ているだけでいい気分でいられるような関係を持つことができるようになって、そこでやっとお互いの人格に興味を持ち合うことでつながるというのがどういうことなのかを知るような人生になってしまうのかもしれない。
 俺は君のお父さんになってあげられないし、君のお母さんに育てられることで君がそこまで素直さやマイペースさにあふれた感じの子供になっていかなかったときには、マイペースなタイプの子が君の方に寄ってくることも少なくて、そうするといつまでもゆっくりした時間感覚で一緒に過ごせる友達ができないままになるということだって充分ありえるのだろう。特に君は男の子の集団の中で育つことになる。一部の悪くない意味でナイーブな男の子たちを除いて、粗雑な子たちも、オタク的な子たちも、全然ゆっくりと目の前のものを感じようとしない子たちばかりなのだろう。
 君はどんな友達と思春期を過ごすことになるんだろうね。いつでも条件反射みたいにして、こういうときはこういうふうに言っておくものだろうとすら思わないで、それらしいことを思い浮かぶままに言ってしまって、相手からそうじゃないのになという顔をされても、ちょっと考えようとはするけど、二秒くらいで何も出てこないからと、よくわからないし別にこれでいいじゃないかと思って考えるのをやめてしまうようなひとがとてもたくさんいるのだろう。
 そういうひとたちは、自分を普通だと思っていて、そして、そんなふうに自分を普通だと思っているひとたちで輪になって、こういうときはこういうふうに言うものだからというのをみんなでなぞるようにして、みんなでいつものパターンをうまくやれている一体感を楽しんでいるのだろう。
 そういうひとたちはそういうひとたちで楽しくやっているのだろうし、君から見ても、楽しそうに見えるのだと思う。かといって、その楽しさというのは自分が何を感じているのかとは関係のない楽しさだったりする。むしろ、楽しくやるために自分の感じていることに蓋をして、パターンをなぞることの楽しさだけしか感じないようにすることで楽しくしているようなことだったりする。
 例えば、犬がいたときに、とりあえずいつでも最短で楽しくなりたいひとは、さっさとかわいいと言って、まるで本当にかわいいと思っているかのように気分になろうとする。そういう条件反射的にかわいいと言っている姿は、犬に対してだけではなく、いろんなことについてよく見るものだろう。楽しさのために、感じないようにするというのはそういうことなんだ。犬はかわいいものだけれど、かといって、犬はかわいいのかということだろう。犬がいるのが目に入って、心が何かを感じる前に、頭が喋りたがるままに、即座に犬にかわいいと言うひとは、これは犬だよね、犬ってかわいいんだよね、知ってるよというふうに、それが犬であることを認識して、犬はかわいいということを知っている自分にうれしくなって、かわいいと言っているだけだったりするのだ。
 心とは別のもので生きているというのは、まさにそういうことなんだ。その犬の姿や目つきや息遣いが目に入ったのに、どんな犬っぽいのか一瞬も感じようとせず、犬だ、犬かわいいと思ってすませるひとがとてもたくさんいる。できるだけ何も感じないようにしていて、自然とか建物ならまだしも、動物で、自分と目が合ったりしても、そんなくらいにしか感じていない。目に入った瞬間にそのものにはそのものの存在感みたいなものを感じ取れるはずだろうに、そうはならないのだ。
 ほとんどの犬が強烈にかわいらしさを発しているかもしれなくても、どうしたって犬であるだけではかわいくないはずなのだ。その犬がそのとき何かをしていて、その仕草とか佇まいとかそういうものに、かわいいなぁと思わされるわけで、犬だからかわいいということは、そもそもありえない。病気とかで痛みに耐えていて普段の十分の一も元気がない状態の犬もいるし、しつけで飼い主以外とは目を合わせないようになっている犬もいるし、かわいがってもらっていなくて表情が動かなくなっている犬もいる。けれど、感じる前にかわいいというひとは、とてつもなくたくさんいる。犬にかわいいと言い、赤ん坊や子供にかわいいと言い、服にかわいいと言い、おもちゃにかわいいと言い、女のひとにかわいいと言う。
 感じているものをほとんどまともに感じていないひとたちの世界とはそういうもので、そう言っているからって、実際は何も感じていなかったりするんだ。何を感じようとしなくても、そういうときに言うとよさそうなことは頭に浮かぶから、何も感じていないままそれを言うひとたちがとてもたくさんいる。
 俺は君には、何にでもうーんと十秒くらい考えれば、その時点での自分なりの感想とか意見とかが言えなくもないひとになってほしい。もちろん、知らないことは知らないし、わからないことはわからないとして、わからないなりのことを話すということなんだよ。いつだって、自分がどう感じているのかということについては話せるだろう。わからなくても、自分の経験の中から照らし合わせられなくもないものを選んで、それくらいしかイメージできていないなりに思うことを話せるはずなのだ。けれど、多くのひとは、職場で仕事のことについてだったとしても、びっくりするほど意見を言わないし、求められたとしても何も浮かんでこないし、感想を話すにしても子供の作文みたいなものしか出てこなかったりする。
 きっと、うーんと十秒くらい考えるということこそ、多くのひとができないことなのだろう。けれど、君は自分が何かを思いそうな気がするたびに、立ち止まってうーんと考えておこうとしておいた方がいい。別に考えてみるだけでよくて、それについて何か話せなくてもいいんだ。何も知らないなりに、何もとってつけずに、自分が今感じたのはどういうものだったのか話すことができるようになれればそれでいい。そうやって話せたなら、君は他人の感じ方に興味があるひとから面白がってもらえる。そして、面白がってくれるひとと話しているうちに、君は自分がひとに一生懸命話そうとしたことから、自分はそうなんだなといろんなことに気が付いていける。
 そういう時間が生活の中にあるひととないひとでは、感情生活はまるっきり違ってしまう。ほとんど何もまともに感じていない状態でああだこうだ言っている大人がたくさんいるけれど、君はそういうひとたちのことは、本当にそう思っているわけではないもので生きるひとだと思っていればいい。そういうひとたちは、何もかもちゃんと感じなくても見ればわかると思っている。けれど、君は見ればわかるものも、わかっているからって、じっくりそのまま感じていればもっと何かを感じられると思っているべきだし、いつでも自分は感じ足りていないのだということを忘れないでいられるひとでいるべきなんだ。
 ゆっくりと感じて、心にずっしりとそれの質感をいっぱいにしていると、何かしらは思うし、それはけっこう自分で本当にそうだなと思えることだったりする。ひとと向き合っているときもそうで、相手のことをゆっくりと感じ続けていれば、相手が何を苦痛に思っているとか、どんな気分でいるということの背景とか文脈を感じ取りやすくなるし、自分がそのひとに思いたいことを思っているだけではなく、そのひとにとってはどういうことなのかも自然と感じ取れるようになる。
 何を言ってあげられるわけでなくても、それだけで充分だったりするのだ。ちゃんと聞いていて、ちゃんと感じているだけでも、お互いにとって話している実感はずいぶん変わってくる。ちゃんと通じているのをお互いが感じていれば、それだけでいい気分が発生する。
 そういうような、ちゃんと話を聞いてもらっていることに相手が満足しているのが伝わってくる感覚というのは、感じたことがないひとは、一生に一度も感じることがないものなのだろう。話しているひとがひとの気持ちを感じ取れるひとで、一生懸命伝わってほしいと思って喋っているときであれば、ちゃんと聞いてくれていて、自分の気分を感じ取ってくれていて、リアルタイムに自分の言葉に気持ちを動かされながら何か思ってくれているかどうかというのはわかる。相手の気持ちのスピードで話を聞く態勢になったことがないひとというのは、普通に聞いているようで、言われている内容を受け取りたいように受け取ってくるし、相手の気分に同調しようとしてもうまく噛み合わないから、ちゃんと気持ちで聞いてくれているひとに話しているときとは、全く話していて感覚が違うものなのだ。
 旦那が自分の話を本当にちゃんと聞いてくれたことなんて、出会ってから一度もないと思っている女のひとはとてもたくさんいるのだと思う。昔は優しくしようとして、とにかく聞いてくれて慰めようとしてくれたりしていたけれど、当時ですら、全然何が言いたいかわかってくれてなかったし、どういう気持ちなのか真面目に受け止めようともしていなかったと思われていて、そして、そういう時期が過ぎたあとは、言葉に言葉が返ってくるというくらいにしか会話が成り立っていなかったし、話すほどに虚しかったなと思われていたりする旦那がとてつもなくたくさんいるのだろう。
 世の中には、一生のうちに誰からも一回も、ちゃんと話を聞いてくれてありがとうと思ってもらえないひとというのがとてつもなくたくさんいるのだろう。男は特にそうなのだろう。自分ではひとの悩みとか愚痴くらい聞いてあげたことくらいあるつもりだけれど、実際にはそのひとに一生懸命長々と何かを話したことがあるひとはいないし、ちゃんと聞いてくれるなとうれしい気持ちになったひともいなかったというひとが、下手すると男の過半数だったりするんじゃないかと思う。
 男の大半がそうだし、そうでなくても多くのひとが、他人の気持ちをほとんど感じていない状態で生活している。そして、そういうひとたちからすると、ひとの気持ちを理解しようとしながら話を聞くなんて面倒くさすぎるし、無理をしてもいらいらするばかりだし、そんなことできるわけがないだろうというのが本音だったりもするのだろう。
 気持ちでそのひとの話を聞いていないのなら、そう思うのも仕方のないことなのだろう。相手が自分の気持ちを確かめながら話してくれているときには、相手の心が動くスピードに合わせてそのひとが話すのを聞いていないと、相手の話は遅くて散漫でたるく感じられてしまう。頭で相手の話している内容の要点だけ聞いているのなら、相手はいつも喋り終わるのが遅いひとになる。
 身体が気持ちに気持ちで反応する状態になっていないのなら、頭は自分が快適なように好き勝手なことを思い続ける。頭はいつも、すぐにわかった気になろうとするし、前にも聞いたような話だったり、なんとなくでも知っているものには、すぐにこれはあれと同じだと思ってしまう。そして、同じだなと思うと即座に頭も心もだらけてしまう。
 少しでも楽をしたくて、自分がそれに対して自分なりに何かを思う前に、こういうものにはこんなふうに思っていればいいというパターンを思い浮かべて、それを自分の思ったことにしてしまうということなのだろう。それは自分で何か思うよりもはるかに楽だから、自分の日々の生活や人間関係に慣れてきて、いつも通りではないようなこともめったに起こらない生活を送っていると、ひとはどんどん自分では何も思わないようになっていく。
 できるだけ楽をしようとするのは人間の習性のようなものなのだろうし、自然とそうなってしまうものなのだろう。だからこそ、自分が楽をしたいという以上に、相手に喜んでもらいたいという気持ちの方が強い状態を維持することで、相手を前にしたときに、楽をしようとする気持ちを自分で落ち着かせていられるようになることが大事なのだ。君は知っているつもりのものを、知っているとはいえ、まともに感じようとしてみるというのが、ひとと接したり、ひとが伝えようとしているものを受け取るときに、自分が誠意を示せるところだと思っていた方がいい。ちゃんと受け取って、ちゃんと反応するということ以上に、相手に喜んでもらえることはないのだ。
 何かを思いながら、自分の考えていることで半分埋まっている頭と心で受け取ろうとしても、自分が思っているほどは、相手がどんなふうに語りかけてくれているのかということを受け取れていないのだ。相手からしてもちゃんと受け取ってくれている感覚がするくらいに受け取るには、自分のことを考えたがる頭を黙らせて、しっかり相手に身体ごと心を向けて、相手の身体から伝わってくるものをできるだけそのまま受け取って、受け取った相手の気持ちの動きをいったん自分の中にまるごと入れてしまう必要がある。自分がどう思うとか、自分はどういうつもりだとかいうことはおいておいて、自分を空にして、ただ相手は今そうなのだということだけを確かめるようにして相手に身体を向ける必要があるのだ。そのためにも、知っていることを思い出して受け取ったふりをする自動的な意識の働きを止めて、知っていることを語りかけてくる相手の何かを思うスピードの遅さを当然のものだと受け入れて、頭で何か思おうとするのをやめて、頭を空っぽにして寄り添っていられるようにならないといけないんだ。




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