集団に埋没して生きると、どんな作品も消費物としてしか楽しめなくなっていく
(こちらの記事の続きとなります)
自分の気持ちにできるだけ寄り添って、自分の気持ちを実際にどうなのか確かめられるように行動しようとしていると、みんなが同じように感じていないことに寂しさを感じ続けることになるし、誰のことも、仲間だとか敵だとか思うのが難しくなっていく。
そうなると、世界が自分に敵対しているように感じられてくる。
音楽でも映画でも小説でも、多くの作品というのは、そういう感覚のもとに作られているのだろう。
自分が孤立しているみたいな気分にさせられることへの腹いせのように、自分は自分がいいと思うことをやろうとして、まわりのひとに見せつけるようにして、自分が思う、こうした方がいいはずなのにということを表現したものとして、作品たちがあるのだろう。
作品を作るひとでなくても、みんながそうしないことでも、自分はそうした方がいいと思うからと、優しくしようとしたり、楽しませようとしたりするひとたちにしても同じで、そういうひとたちのやってあげようとする気持ちは、みんながそうではないことへのある種の攻撃だったりもしているのだ。
それはそうだろう。
自分はむしろ、その優しくしたい気持ちによってみんなから浮いているのだ。
そんなことは求められていなくて、みんなにとってよいことは、むしろ自分がおとなしくして集団内に埋没してその他大勢になることなのだ。
敵も味方もいない孤立感がベースになった優しさというのは、優しくする相手に対しては、身内だから優しくしているわけではない、優しくしたくて優しくしているという意味で本当の優しさではあったりするけれど、同時に世界全体への報復のようなものなのだ。
世界と敵対する気がないとできないことがあるし、世界と敵対しているひとの前に立って、真正面から相手のスタンスを受けて立たないと受け取れないものがあるのだ。
自分が本当にそうだと思うことを何らかの形にするために、どれだけのコストが必要なのかということを考えてみればいいのだろう。
本当を感じ合える状態になっていけるようなコミュニケーションができるところまでいくことがすでにとてつもない労力なのだ。
けれど、そういう状態になったうえで気持ちを感じ合いながら話ができれば、独創的な言葉がそこで生まれなくたって、ありきたりな言い方のありきたりな内容だって、本当にそうなんだなと思えて、その話の流れのうえでそういうことに本当にそうだなと思えたことが、自分にとって大事なことに思えたりする。
それは内容の問題ではないのだ。
いいことが書いてある本を読めばそれで本当のことに触れられるわけじゃないだろう。
何かを本当だと感じられる状態になれていないと、それは自分にとって本当のことを感じられた経験にはならない。
だから、普通の仲のいい楽しくやれる相手ではなく、特別な友達とか、特別な彼女との関係がないと、人生に触れられたような経験をすることができないのだろう。
そして、みんながみんな、そういう剥き出しの感情でつながれるような仲間や友達や恋人ができるわけではないし、だからこそ、映画でしか人生の本当のことに触れたような気になれたことのないひとがたくさんいるのだ。
集団の中では心のスピードでものを感じていられない。
だから、ほとんど一対一でないとそういう時間はないし、ひとりで何かの作品に没頭していたり、ひとりで考え事にのめり込んでいるときにしかそうはならないのだろう。
心はそんなにも遅い。
目の前にいる誰かは、いろんなことがあって、いろんなことを思いながら、自分ではそれについてはそう思っておくことにしていることで、そんな気持ちになっている。
誰だって、自分でもわかっていないくらいたくさんいろいろあって、受け取る側が空っぽでないといけないくらい、そのひとの中にある感情やイメージはとらえきれないくらいに果てしない。
空っぽになるということがどういうことか、もう充分わかっただろう。
それは心が動くのを待つということだし、動いた心の続きを自分が生きるということなのだ。
それができないのなら、ひとは頭の中で自己追認したり、利害調整したり、わかった気になったり、自分や他人をあげたりさげたりしているだけになってしまう。
そして、それ以外の暇な時間を楽しめることを楽しんで過ごすのだろう。
そう考えてみれば、大人になってしまったあと、本当のことが何もない人生を送っているひとがたくさんいるというのもどういうことかわかるだろう。
ずっと頭の中で思いたいことを思うだけで一生を終えるひとがとてもたくさんいるのだ。
そして、そういうひとたちがたくさんいる一方で、好きな相手や信頼できる相手となら、すぐに気持ちと気持ちを感じ合って、お互いの感じ方を面白がり合って時間を過ごせるという生活を送っているひとたちもいる。
そして、日常的に本当のことを思ったり、本当はどうなんだろうと話し合っているひとたちは、気が向いたときには、本当のことに触れられるような作品に触れようとするし、作品にも本当のことに触れられるような向き合い方をしようとするのだろう。
職場でも家庭でも気持ちは感じ合っているけれど、作品に触れるような暇はないという人々なら、料理するときに、ちゃんと頭を空っぽにして、どういう味にしたいか思い浮かべてみたり、子供と遊んだり喋ったりするときに、ちゃんと空っぽになって子供の心の動きをまるごと感じて、一緒になって本気で笑ったりするのだろう。
そして、そのたびに、ちょっとしたことに、やっぱりこういうのって本当にそうなんだよなと思ったりするのだろう。
本当にそうだと思うことをひとに伝えたり、ひとが伝えてくれていることに本当にそうだなと思える時間を過ごせているのかということには、とんでもない格差があるのだ。
ふと顔をあげるたびに、目に映る人々はしきりに何か言いたがっているように見えるけれど、そのうちのかなり多くのひとは、本当にそう思っているわけではないことを言おうとして、うまい言い方を探してそわそわしているだけだったりするのだ。
そして、そういうひとたちは、ひとの気持ちを感じていなくもないひとたちから、死ぬまでずっと、またたいして本当に思ってもいないことを言っているなと思われながら生きていくのだ。
そういうひとたちの心の動きをそんなものに感じるたびに、そう思っていればいいはずなのだ。
そして、ひとからそんなふうに思われないでいられるように、いつでもそう思ってそう言っているのがわかるひとでいるべきだということなのだろう。
頭は心がまともに何かを思う前に、勝手に何もかもを省エネに解決しようとしてしまう。
勝手に物事を楽ちんにすませようという頭の機能が常に暴走している状態で生きているということを忘れないようにするべきなのだろう。
誰もが自然とそういう自分の心と自分がぴったりと一致したような時間を過ごすのが好きなひとになっていけるわけではないのだ。
音楽とか、絵を描いたりとか、どぎつく集中する必要があることをやるようになれば、それをしているときはそうなれるようになったりするのかもしれない。
けれど、友達の大半は自分の心の動きを待ちながら接してくれることはないのだろう。
俺が育った時代や環境では、のんびり漫然と退屈しながらも、相手が喋るのを気長に待ちながら喋ってくれる相手がちらほらいた気がするけれど、今の子供たちのそばにはそんな子供はめったにいないのだろう。
(続き)
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