見出し画像

【連載小説】息子君へ 180 (37 俺は今からでも君のお父さんになりたいんだよ-4)

 どうして料理するのがさほど好きじゃないひととか、セックスするのがさほど好きじゃないひとたちは、自分を普通だと思って、自分のやる気がなかったり、悪意さえあったりする営みに家族を巻き込んで、相手を微妙な気持ちにさせておいて、喜んでくれないとか、まともに喋ってくれないとか、大切に扱ってくれないと、相手を責めるのだろうと思う。
 楽しくやっていきたいのなら、お互いに相手に喜んでもらおうと思いながらやれることをやっていくしかないのだ。喜んでもらいたいのなら、喜んでもらえることをすればいいだろう。自分のことばかり考えていて、自分の思うようにうまくやれて、いいリアクションが返ってきたらうれしいという、自分主体すぎるものの感じ方でやっているから、うまくいかないことで嫌な気持ちになっていることを逆恨みすることになるのだ。好きじゃないくせに、自分なりに多少頑張ってやったからとほめてもらいたがるなんて、子供が親に甘ったれるようなことと同じだろう。それくらいの気持ちしかないなら、最初からやらなければいいのにと思う。
 そして、実際、喜んでもらえるようなことができないからと、やらないことを選ぶひとたちも増えているのだろう。お見合いさせられることでみんなが結婚させられて、結婚したからには家族ごっこをするしかなくて、うまくやれないこともできるようになるまで嫌々やり続けるしかない時代は終わった。男が嫌いだからとか、ひとりでいたいからと結婚しないようになってきているし、女のひととの会話が楽しくないから結婚しないようになっているし、付き合いたいとも思わないひとが増えてきているのだろう。話が通じなかったり、言葉通りの意味では会話できても、気持ちがなかなか通じないようなひとも増えていて、そういうひとたちは自分がそういうひとだと理解してくれて、自分の思っている通りに反応してくれる相手でないと毎日延々と関わるのなんて苦痛でしかないと思うのだろうし、自分がそういう相手とそういう関係になれる気がしないなら、そもそも誰かと恋愛したいとすら思わなくなっていったりもするのだろう。
 みんな無言のうちにそこから遠ざかっていっているのだろう。けれど、喜んでもらいたいという気持ちもなくて、楽しく楽に生きたいだけで、ちょっと頑張ったらそれをほめてもらいたいだけなら、ずっと親と暮らしていればいいのだ。
 けれど、幸せというのは、どうしたって甘やかしてもらうことではなく、自分のしたことに誰かが喜んでくれることなんだ。それがわからないまま自分の思うようにやれて楽しい気分になるために生きるひともたくさんいるのだろうけれど、それは全て頭の中のことでしかなくて、心も身体も震えてくるような喜びはそこにはないんだ。
 喜んでもらえることはとてもうれしいことなんだよ。料理してくれただけでうれしいようでいて、美味しい料理を食べさせてくれることのうれしさはもっと暴力的にひとを喜ばせてしまう。愛している相手が、そのひとらしいといえばそのひとらしい感じで、自分の頭の中で盛り上がっている自分本位なセックスをしてくるのに付き合わされるのだって幸せを感じられるとしても、好きな相手が気持ちの一体感を途切れさせずに、自分にいっぱい興奮してくれているのを上手に伝えてくれながら、なめらかに上手に気持ちよくさせてくれたなら、そんなにうれしいことはないような気持ちになってしまう。
 相手に喜んでもらえるような気持ちの行き来の中で何かをしてあげられるのかという第一段階がまずはある。けれど、いい雰囲気でやれていれさえすれば、あとは何がどうであっても大差はないというわけにはいかない。そのうえで、相手の肉体に何かをしてあげるときには、人間の肉体はだいたいどんな刺激をどんな組み合わせでどういう与え方をしていくと気持ちよくなるのかというのは決まっているのだから、相手の好みとか癖とかを探りつつで、肉体が気持ちよくなれるような勘所を外さないようにしながらやってあげた方がいいのは当然のことなのだ。
 いい関係になれることの方が大切だからって、料理がうまいことやセックスがうまいことにはさほど価値がないということにはならない。いろんなひとにいろんなことをやってあげながら生きていくのだし、そういう勘所みたいなことがだんだんわかっていくようにならないともったいない。そのためには、料理のことにしろ、セックスのことにしろ、少しは真面目になって、どうだともっとよくできるんだろう思ってみたり、思いついたことを試したりしていくことが必要なのだろう。それは何かで勉強するということではないのだ。漠然と自分なりの感覚とか手癖を垂れ流すのではなく、もっと楽しむにはどうすればいいだろうかと思いながら、やってもらっていることに集中したり、やってあげていることの反応を確かめることに集中してみたりすれば、だんだんとは進歩していくものなのだし、それがうまくやれるようになるのではなく、相手にいいことをしてあげられる自分になっていくということなのだ。
 生きていればいろんな食べ物を食べていくことになるけれど、好き嫌いだけで楽しむのではなく、いろんな美味しさがあるのを知って、それぞれの美味しく味わい方を身に付けていけた方がいいだろう。そのためには、ちょっとそういうつもりで食べるだけでいい。そうしているうちに、初めて食べるものでも、それをどういう楽しみ方で食べれば美味しく感じられるのかすぐにわかるようになってくる。それと同じように、繰り返しセックスしたりいろんな相手とセックスするたびに、自分のやりたいようにやるだけでなく、相手に合わせて、相手のセックスをもっと楽しめる受け止め方や抱き合い方を探っていくことが大事で、そうしているうちに、どうしたら今やろうとしていることをこの相手ともっとしっくりやれるか自然とわかるようになってくる。
 俺は料理していても、味がよくなればいいとしか思っていなくて、特に料理中に何か自分が楽しめることをしようという気がなかったし、女のひとと接しているときも、相手にいい反応をしてもらえるようにと思いながら接していて、異性と接しているというシチュエーションを自分の頭の中で楽しもうとするような感覚があったことがなかった。自分がやる側として面倒くさくない範囲で楽しむのではなく、それを受け取ったひとの反応がよくなるようにやろうとしていれば、それだけで自分のやっていることは自然な感じにこなれていくものなのだ。
 そういう向き合い方の問題だけでなく、単純に興味を持って接しているのかというのもある。例えば、仲良くなった女のひとともっと楽しく話せるようにと思ったら、相手の話してくれることをもっと楽しめるようになる必要がある。その女のひとと話していて、あまりぴんとこなかったことを、そのあとでちょっとずつでも知っていけるようにと思うかどうかというのも大きいのだろう。
 俺は男兄弟しかいなかったし、中学高校と男子校で、女のひとの生活が描かれたような作品も海外ドラマくらいしか見ていなかったから、大学生になって女のひとと喋るようになって、女のひとたちの世界について、びっくりするくらい自分が何もわかっていないんだなと思った。だからといって、別に女性誌を読んでみたり、少女漫画を読み漁ったりしたわけではないけれど、女のひとたちの世界のことで自分の知らないことの話に触れるときはちゃんと聞こうとしていたのだろうし、それほど意識してそうなったわけではないと思うけれど、大学時代に読んださほど多くない小説の半分以上は女のひとが書いたものだった。それだけで何ができるようになるわけでなかったけれど、そういう意識もありつつ、付き合っていた女のひとと膨大な時間お喋りして、その他の女のひとともちゃんとした態度で話しているうちに、少しずつ女のひとたちの話をスムーズに理解できるようになれたのだろうし、相手と話をしていることを膨らませられるようになっていけた。女のひとたちの世界のことも知っていこうというモチベーションがあったから、女のひとたちから、このひとは何を話しても多少はわかってくれるし、ちゃんと聞こうとしてくれるひとだと思ってもらえるようになったというのはあるのだと思う。
 自分が楽しくやろうとするだけではそうはならなかったりするのだ。相手がやってくれたことに自分なりに反応するだけではなく、相手に喜んでもらえるように反応したいというモチベーションがあるから、自然とそうなっていくのだ。女のひとと一緒にいるときも、自分がそれなりに楽しくやれていれば相手もそれなりに楽しいものだろうと思って、相手を付き合わせているだけになっていないかということや、相手がしたいことを今できているのかということを気にしないで好き勝手やっていると、そういう男としてしか愛してもらえない。男の半分以上はそんな感じなんだろうし、女のひとたちの多くは、そんなものなんだろうと、自分を楽しませようという気が全くない男が適当にやっているのを一歩引いたところから見守って恋愛しているのだろう。結婚してからだって、そんなままでやっていけるのだ。そういう男だって、いい父親らしいことをできるとうれしいから、それらしいことはするし、それらしいだけで独りよがりだったりすることも多いのだろうけれど、子供はある程度の歳まではそんな独りよがりな父親でもかまってくれるなら喜んでいるし、男のやりたいことに付き合ってあげていれば家族みんなで楽しい雰囲気で過ごせるからと、男たちの好きにやらせているのだろう。
 そういう男たちと一緒にいる女のひとたちというのは、そもそも自分の気持ちをわかってくれて、自分を支えてくれる相手だと思って一緒にいない場合も多いのだろう。お世話していて楽しい相手として選ばれている男というのもたくさんいるのだ。
 それはそれとしてバランスの取れた関係になるのなら、それでもいいんだろうなとは思う。サービスを受け取るだけのひとを相手にするのだと、かわいがりすぎて増長している子供を甘やかすのを楽しむような関わり方しかできなかったりはするのだろう。実際、旦那を子供より手のかかる子供のような存在だと表現しているのはよく目にする。男の側が、そういう子供の感覚のまま、それが当たり前だと思ったままで、当たり前のような顔をして誰かと付き合ったり結婚したりしていくというのもすごいなとは思うけれど、かといって、女のひとの方も、他人と対等な関係を形成するのは苦手で、親に一方的に世話されているか、親として一方的に世話しているかという、一方的な関係が一番楽だからそうしているというのもあるのだろう。
 喜ばせてあげられるようなことができなくても、相手のわがままに付き合っていれば、相手はいい気になって楽しそうにしているのだろうし、本人もそれで喜ばせられている気になって幸せを感じていたりすることだってあるのだろう。それで何が足りないということはないのだ。
 それでも、自分が誰かを喜ばせることができたなら、誰かを一緒にいるうえでの何もかもは変質して、自分が自分であることと結びついた地に足のついたうれしさでひとと一緒にいられるようになる。そして、当たり前だけれど、そういうことと無縁に生きていた方がいいことなんてひとつもないんだ。

 話が脱線してしまったけれど、俺が何を言いたいのかわかるだろう。俺は他人に喜んでもらいたいという気持ちが希薄で、あとになっていろいろどうでもいいことに付き合わされただけだったし、結婚なんてしなければよかったと思うようなひとたちとは真逆なんだ。
 俺はずっと、相手の反応が全てだと思って、何かをするとき自分がどういうつもりでやったのかというのはどうでもいいと思ってきた。自分のやってあげたいことを相手にうまく伝えられるようにと思って、相手の反応を確かめながら、相手に合わせてやろうとするのが、恋人でも同居人でも友達でも会社でも基本になっているようなひととしてやってきた。ひとに喜んでもらえる毎日を過ごせるといいなと思ってきたし、いろんなことをしてあげられる相手と一緒に暮らしていけるといいな思ってきた。そして、俺にとっては、女のひと以上に、子供にしてあげられることに、喜ばせてあげられることがいろいろあるんだろうなと思っているということなんだ。
 子供ならちょっとしたことでも喜んでくれるからということではないんだよ。子供が喜ぶことなら自分でもしてあげられるはずだからと、たくさん喜んでくれるはずの子供に、子供が喜びそうなことをいろいろやってあげたいとか、そんな自分本位な夢想をしていたわけではないんだ。一緒に遊んだり、美味しいご飯を作ってあげたりということもしてあげるけれど、それだけでもない。ずっとこの手紙のようなもので書いてきたみたいに、俺が君のお父さんになれたとして何よりもやってあげたいのは、君を見守って、君が何か思って、何か言ってくれたときに、それをちゃんと受け取って、感じたことで反応してあげるということなんだ。君のことをちゃんと見て、君の話もちゃんと聞いて、ちゃんと反応してあげられることで、自分のしたことにはっきりとしたリアクションが返ってくることで君を喜ばせてあげられるんだろうし、それこそが他人に喜んでもらおうとするときに必要な相手への向き合い方だということもわかっていってもらえるんじゃないかと思っていたんだ。君が楽しませようとしてくれたときにそれを真正面から楽しんで、君が何かを教えてくれたときに真正面からそれに何かを感じて反応するというのは、君が俺に何かをしてくれることに喜んであげるということでもあるだろう。そうやって、何かを思って何かを伝えるたびに相手に喜んでもらえる状態を、二歳とか三歳までじゃなくて、十歳とか十五歳まで君に提供できるのかもしれないとしたら、それは君がひとが自分に何かをしてくれることを当たり前に喜んであげられるひとになっていく多少の助けにはなるだろうし、そんなことができたらどんなにいいだろうと俺は思っているということなんだ。
 俺がここまで書いてきたことは、感情がないみたいに思われるような、まともに目の前のことを感じていないようなひとになるのはもったいないことだとか、ちゃんと感じてちゃんと反応するというのはどういうことかというようなことだった。そういうことの全ては、ひとがやってくれたことをどうやったら喜んであげられるのかということにつながっている。ひとのやっていることを、自分を楽しませる刺激として受け取ったり、相手を何かしらのサービスを自分に提供してくれる装置のようなものに思ってはいけないというのもそういうことだった。
 相手のやっていることから、相手の気持ちや相手の人格を感じ取ろうとしながら生きていくことで、相手のやってくれていることが相手の中ではどれほどのことでそうなっているのかを感じ取れるようになっていけるのだ。そうすることで、もっと相手のやっていることを楽しめるようになるし、敬意を持てるようにもなるし、それほどのことをしてくれたことにも感謝できるようになっていける。
 他人のやってくれていることを、自分がどう楽しめるかということでしか受け止められないのは、とてもみっともないことだろう。他人がいろんな経緯があったうえで、いろんなこと思って、いろいろあったうえでそうしてくれているのに、問題ないかとか、気に入ったか、気に入らないかでしか反応してあげないのでは、相手は人格を無視されているように感じてしまうだろう。もちろん、人格の無視というのは毎日いたるところで当たり前のように行われていることだし、世の中の職場では自分という人間がここに存在しているのかもよくわからなくなるような気持ちで働いているひとたちがとてつもなくたくさんいるし、毎日親からあれこれがみがみ言われるたびに心が死んでしまうひとたちもたくさんいるのだろうし、家族のために毎日くたくたになっているけれど、何の感謝も感じられないし、文句しか言われないし、家事をするロボットでしかないような気持ちになって、こんなふうになるのなら母親になんてならなければよかったと思っているようなひとたちもたくさんいるのだろう。
 そういう苦痛の全ては、その相手が目の前の相手の感情を感じていなくても平気なひとになってしまっているからなんだ。相手がどういう気持ちでやってくれたのかを受け取っていれば、相手の気持ちにはリアクションせずに、気に入ったとか気に入らないというリアクションだけを返すようなことはできなくなる。感じていたのなら、少なくても、相手が自分に喜んでもらいたくて何かをしてくれたときには、よい感触を受け取ることができるはずなのだ。いい気持ちになってしまうようなことをしてもらって喜べるのかはまた別だとしても、善意を向けてもらえたことに感謝はできる。みんな何事もたいしてうまくやれないものだけれど、多くの場合、少なくてもよかれと思ってそうしてくれているのだ。自分勝手なひとだなとは感じてしまいつつも、相手もよかれと思ってそうしてくれているということには反応してあげていないと、どんどん人間全般を疎ましく感じるようになっていってしまう。だからちゃんと感じないといけないし、ちゃんと感じようとするというのはどれほどのことなのかというのを俺がそばにいることで教えてあげたかったということなんだ。
 気持ちを動かされるくらいにしっかり感じないと、まともに喜んであげられないし、まともに感謝もできないものなのだ。相手の気持ちを感じていないひとは、自分の側に何か思いたいことがなければ、何かをしてもらっても、マナーとして感謝したポーズを返すことしかできない。世の中で数え切れないほど発声されているありがとうの言葉だって、半分以上は感謝のポーズでしかないのだろう。
 まずは感じないといけない。そして、感じたとしても、感謝したり喜ぶためには、それをうれしいものに感じられる観点や感じ方が必要になる。文化とか社会について興味を持つということは、世の中のいろんなことをやっているひとのやっていることのすごさに反応できるようになろうとすることなんだ。感謝する観点として、相手のやってくれていることのすごさとか、相手がどれほどの手間暇をかけてくれているとか、どれくらいの技術を習得して、それを使って自分にこれを提供してくれているのかということを感じ取れるほど、相手にもっと具体的に感謝できるようになれるのだし、それによって、もっと喜ぶことができて、もっとうれしくなれるし、もっとうれしい気持ちをひとと行き来させられるようになるのだ。
 けれど、多くのひとにとっては誰かとか、誰かのやっていることにまともに興味を持つこと自体がとても難しいことだというのもここまで書いてきたことだった。相手のことを好きなようでいても、お互いの人格を面白がっているのではなく、一緒に楽しげなことをしているのが心地よいだけなのだから仕方がないのだろう。楽しいことを楽しげにやるのと、自分のやったことを面白がってもらうのは全く別のことなのだ。
 結局、人格と人格として関わっていないから、恋愛の初期と仲間内でいつものノリで楽しんでいる以外には、相手を喜ばせられるようなことをすることが難しかったりしてしまうということなのだろう。そして、それが仕方のないことだとして、肉体的に気持ちのいいことをしてあげることで、人格に何か感じているわけじゃなくても喜べるというのが大切になってくるということでもあるんだ。
 俺はこの手紙のようなものの中で、食べ物とかセックスのことを何度も書いてきたけれど、それは、美味しいものを作って食べさせてあげることや、気持ちよくセックスしてあげることというのは、簡単に相手を喜ばせてあげられて、簡単にお互いの間に感謝の気持ちを呼び起すことができるもので、しかも、それは食欲や性欲として、生活しているだけで何度も肉体的に満たされたいと欲求されるものだからなんだ。
 お互いの人格に興味を持ち合って、お互いの日々感じていることを面白がり合っているひとたちは、一緒にいて話しているだけで一緒にいることを喜んでいられるから、それだけでよかったりするのだろう。けれど、そうではない場合の方がはるかに多いのだろうし、お喋りの楽しさの熱量だって、関係の新鮮さの影響を受けるし、毎日とても充実した会話が発生する状態がずっと続くなんてことは、過半数のひとたちには誰が相手でも起こりえないことなのだろう。
 だからこそ、日々の生活や人付き合いの中にいかに喜んでもらえる時間を確保できるのかというのはとても大事で、そうしたときに、美味しいものを作ってあげて食べさせてあげることの価値は、世の中で明らかに過小評価されているのだと思ってしまうのだ。
 お喋りで楽しませてあげるとか、美味しいものを食べさせてあげるとか、マッサージしてあげたり、セックスで気持ちよくさせてあげるとか、快適な環境や雰囲気を作ってくれているとか、ひとを喜ばせてあげるやり方には、他にどういうものがあるのだろう。どうしたって、できることはそんなにたくさんないのだ。それなのに、あまりにも多くのひとが、料理やセックスを簡単に諦めてしまっていて、そのせいで、そもそも喜んでもらえることなんてあまりないのに、一気にその数を減らしてしまうことになっている。
 そういうひとたちはどういうつもりなのだろうと思う。一緒にいてあげているだけで喜んでくれてもいいじゃないかと思ったりしているんだろうか。きっと世の中には、ひとりで寂しくないように、一緒にいて話し相手になってくれていたら、それで充分だと思っているひともいるのだろう。自己満足ベースで生きていて、自分は寂しいひとじゃないと思っていられればそれでよくて、あとはできるだけ放っておいてほしいのなら、それでいいのかもしれない。
 けれど、自分の肉体でいろんなことを感じながら、ひとと向き合って、お互いにお世話し合いながら相手の気持ちを感じているひとたちからすれば、そういうわけにはいかないのだ。
 喜ばせようとして何かをして、それに相手がうれしそうにしてくれたから、そこに喜びがあるのだ。ひとりじゃないと思えることで、自分は寂しくないことにできるという役にしか立っていないのなら、それは寂しい関係だろう。




次回

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?